大鏡 第5章
宇多天皇
宇多天皇は光孝天皇の第三皇子で、いったん臣籍に下って源定省と名のり、殿上人として仕えたのち、二十一歳で即位した。即位前、賀茂の明神が現れて冬の祭りを望んだことから、賀茂の臨時祭が始まる。退位後は出家し、熊野に詣でるなどした。即位前に仕えた陽成院から「今の帝は自分の家来ではないか」と言われた話も添えられる。
- 1五十九代五十九代ごじゅうくだい 宇多天皇宇多天皇うだてんのう
- 2つぎのみかどつぎのみかどつぎのみかどのみかどゝのみかどゝのみかどと申申もうききき。。。小松小松こまつのみかどののみかどののみかどの第三第三だいさんののの王子王子おうじなりなりなり。。。御御おんいみなさだみいみなさだみいみなさだみ。。。御母御母みわわ皇太后宮皇太后宮こうたいごうぐういみないみないみなととと申申もうききき。。。二品二品におん式部卿式部卿しきぶきょう贈贈ぞう一品一品いっぽん太政大臣太政大臣だいじょうだいじん野野の親王親王しんのうノノノ御女御女おおんむすめ也也なり。。。
- 3このみかどこのみかどこのみかど貞觀貞觀じょうがん九年九年くねん丁亥丁亥ひのとい五月五月ごがつ五日五日いつか生生うまれれれ給給たま。。。元慶元慶がんぎょう八年八年はちねん甲辰甲辰きのえたつ四月四月しがつ十三日十三日じゅうさんにち給給たまふふう。。。御歲御歲おおんとし十八十八じゅうはち。。。じゞうなどきこえてじゞうなどきこえてじじゅうなどきこえて。。。殿上人殿上人てんじょうびとにておはしましけるにておはしましけるにておわしましける時時とき。。。
- 4殿上殿上てんじょう。。。なりひらなりひらなりひらののの中將中將ちゅうじょうとすまひとらせとすまひとらせとすまいとらせ給給たまけるけるけるほどにほどにほどに。。。ごいしにごいしにごいしに打打う。。。そのおれめいまにそのおれめいまにそのおれめいまに侍侍はべるるる也也なり。。。
- 5仁和仁和にんな三年三年さんねん丁未丁未ひのとひつじ八月八月はちがつ廿六日廿六日にじゅうろくにち東宮東宮とうぐうにたゝせにたゝせにたたせ給給たまててて。。。同同おなじじじ日日ひ位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たま。。。御歲御歲おおんとし廿一廿一にじゅういち。。。よよよをををしらせしらせしらせ給給たまふふう事事こと十年十年じゅうねん。。。寬平寬平かんぴょう元年元年がんねんつちのとのとりつちのとのとりつちのとのとり十一月十一月じゅういちがつ廿一日廿一日にじゅういちにちつちのとのつちのとのつちのとのうのうのうの日日ひ。。。
- 6かものかものかもの祭祭まつりはははじまるじまるじまる事事こと。。。このこのこの御御おおんときよりなりときよりなりときよりなり。。。右近衞中將右近衞中將うこんえのちゅうじょう時平時平ときいら。。。昌泰昌泰しょうたい元年元年がんねんつちのえむまつちのえむまつちのえむま四月四月しがつ十日十日とおか出家出家しゅっけせさせせさせせさせ給給たまふふう。。。
- 7此此この御門御門みかどいまだいまだいまだ位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たまはざりけるはざりけるわざりける時時とき。。。十一月十一月じゅういちがつ廿日廿日はつかののの程程ほどにかものみやしろのにかものみやしろのにかものみやしろの。。。給給たまひけるやうひけるやういけるよう。。。
- 8此此このへんにへんにへんに侍侍はべるおきなどもなりるおきなどもなりるおきなどもなり。。。はるはるはるはははまつりまつりまつり多多おお侍侍はべりりり。。。ふゆのいみじくふゆのいみじくふゆのいみじくつれ〴〵つれ〴〵つれづれなるになるになるに。。。まつりまつりまつり給給たまはははらむとらむとらむと申給申給もうしたまへばへばえば。。。そのときにかものみやうじんのおほせらるゝとおぼえさせそのときにかものみやうじんのおほせらるゝとおぼえさせそのときにかものみょうじんのおおせらるるとおぼえさせ給給たまててて。。。
- 9をのれをのれおのれはははちからおよびちからおよびちからおよび候候そうらはずはずわず。。。おほやけにおほやけにおおやけに申申もうさせさせさせ給給たまふべきふべきうべき事事ことにこそさぶらふなれとにこそさぶらふなれとにこそさぶらうなれと申申もうさせさせさせ給給たまへばへばえば。。。ちからちからちからをををよばせよばせよばせ給給たまぬべきなればこそぬべきなればこそぬべきなればこそ申申もうせせせ。。。
- 10いたくいたくいたくきやう〳〵きやう〳〵きょうきょうなるなるなるふるまひなさせふるまひなさせふるまいなさせ給給たまひそひそいそ。。。さささ御御おん中中なかやうありとてやうありとてようありとて。。。ちかくちかくちかく也也なり侍侍はべうせうせうせ給給たまぬぬぬ。。。いかなるいかなるいかなる事事ことにかとにかとにかと心心こころえずおぼしめすえずおぼしめすえずおぼしめす程程ほどににに。。。
- 11かくかくかく位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たまわりければりければりければ。。。りんじのまつりせさせりんじのまつりせさせりんじのまつりせさせ給給たまるぞかしるぞかしるぞかし。。。かものかものかもの明神明神みょうじんのたくせんしてまつりせさせのたくせんしてまつりせさせのたくせんしてまつりせさせ給給たまへとへとえと申申もうさせさせさせ給給たまふふう日日ひ。。。とりのとりのとりの日日ひにてにてにて侍侍はべりければりければりければ。。。
- 12やがてしもやがてしもやがてしも月月つきのののはははてのとりのてのとりのてのとりの日日ひ臨時臨時りんじののの祭祭まつりははは侍侍はべるぞかしるぞかしるぞかし。。。うたうたうたははは。。。朝臣朝臣あそんのよみけるぞかしのよみけるぞかしのよみけるぞかし。。。
- 13ちちちはやはやはやぶるかものやしろのぶるかものやしろのぶるかものやしろの世世よふともいろふともいろふともいろはははかはらじかはらじかわらじ
- 14これこれこれははは古今古今こきんにいりてにいりてにいりて侍侍はべりりり。。。人人ひとみなしらせみなしらせみなしらせ給給たまへるへるえる事事ことなれどもなれどもなれども。。。いみじくよみいみじくよみいみじくよみ給給たまへるぬしかなへるぬしかなえるぬしかな。。。いまにたえずいまにたえずいまにたえずひろごらせひろごらせひろごらせ給給たまへるへるえる御御おんすゑすゑすえ。。。みかどゝみかどゝみかどと申申もうすともすともすとも。。。
- 15いとかくやいとかくやいとかくやはははおはしますおはしますおわします。。。位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たまててて二年二年にねんといふにといふにというにはじまれりはじまれりはじまれり。。。つかひつかひつかい右近中將右近中將うこんのちゅうじょう時平時平ときいら朝臣朝臣あそんこそこそこそはしはしはし給給たまけれけれけれ。。。寬平寬平かんぴょう九年九年くねん七月七月しちがつ五日五日いつかおりさせおりさせおりさせ給給たまふふう。。。
- 16昌泰昌泰しょうたい二年二年にねんつちのとのつちのとのつちのとのひつじひつじひつじ十月十月じゅうがつ十四日十四日じゅうよっか出家出家しゅっけせさせせさせせさせ給給たまふふう。。。御名御名みなうかくとうかくとうかくと申申もうききき。。。承平承平しょうへい元年元年がんねん七月七月しちがつ十九日十九日じゅうくにちうせさせうせさせうせさせ給給たまぬぬぬ。。。御歲御歲おおんとし六十五六十五ろくじゅうご。。。肥前肥前ひぜんのぞのぞのぞ殿上殿上てんじょうにさぶらひけるにさぶらひけるにさぶらいける。。。
- 17入道入道にゅうどうしてすけのしてすけのしてすけの御御おおんともにこれのみつかまつりけるともにこれのみつかまつりけるともにこれのみつかまつりける。。。さればくまのにてもさればくまのにてもさればくまのにても所所ところにてにてにて。。。たびねのたびねのたびねの夢夢ゆめににに見見みえつるえつるえつるはははともよむぞかしともよむぞかしともよむぞかし。。。人〳〵人〳〵ひとびとなみだおとすもことはりにあはれなるなみだおとすもことはりにあはれなるなみだおとすもことわりにあわれなる事事ことかなかなかな。。。
- 18このみかどのたゞこのみかどのたゞこのみかどのただ人人ひとになりになりになり給給たまほどなむどおぼつかなしほどなむどおぼつかなしおどなむどおぼつかなし。。。よくもおぼえよくもおぼえよくもおぼえ侍侍はべらずらずらず。。。御母御母みわわうゐんのうゐんのういんの后后きさきととと申申もう。。。仲仲なか野野のののの親王親王しんのうははは桓武天皇桓武天皇かんむてんのうののの御孫御孫みまごなりなりなり。。。
- 19このみかどのこのみかどのこのみかどの陽成院陽成院ようぜいいんののの御時御時おおんとき殿上人殿上人てんじょうびとにてにてにて。。。神社神社もりののの行幸行幸ぎょうこうにににはははまひまひまい人人ひとなどせさせなどせさせなどせさせ給給たまへりへりえり。。。位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たまててて後後のち。。。やうぜいゐんやうぜいゐんようぜいいんをををとととをををりてりてりて行幸行幸ぎょうこうありけるにありけるにありけるにははは。。。
- 20たうだいたうだいとうだいはははにににはははあらずやあらずやあらずや。。。あしくもとあしくもとあしくもとをををるかなとこそおほせられけれるかなとこそおほせられけれるかなとこそおおせられけれ。。。
現代語訳
五十九代 宇多天皇
次の帝を亭子の帝と申し上げた。小松の帝(光孝天皇)の第三の皇子である。御諱は定省。御母は皇太后宮、御諱を班子と申し上げた。二品式部卿で贈一品太政大臣の仲野親王の御娘である。この帝は貞観九年丁亥五月五日にお生まれになる。元慶八年甲辰四月十三日、源氏におなりになる。御年十八。王侍従などと呼ばれて殿上人でいらしたとき、殿上の御倚子(ごいし)の前で、業平の中将と相撲をおとりになったはずみに、御倚子に打ちつけられて高欄が折れてしまった。その折れ目が今も残っております。仁和三年丁未八月二十六日に東宮にお立ちになって、同じ日に位にお即きになる。御年二十一。世をお治めになること十年。寛平元年己酉の十一月二十一日己卯の日に、賀茂の臨時祭が始まったのは、この御時からである。勅使は右近衛中将時平。昌泰元年戊午四月十日にご出家なさる。
この帝がまだ位にお即きにならなかったとき、十一月二十日ごろに賀茂の社のあたりで鷹狩りをしてお歩きになっていたところ、賀茂の明神がお告げをなさったことには、「この辺りにおります翁どもです。春は祭りがたくさんございます。冬がたいへん退屈なので、祭りをいただきたい」と申されたので、そのとき(帝は)賀茂の明神がおっしゃるのだとお分かりになって、「私には力が及びません。朝廷に申し上げなさるべきことでございましょう」と申し上げなさると、「力がお及びになるはずだからこそ申すのです。ひどく軽はずみなふるまいはなさいますな。そうなる御仲(縁)があるのだ。近いうちのことです」と言って、かき消すようにいなくなってしまわれた。どういうことかと合点がいかずにお思いになっているうちに、こうして位にお即きになったので、臨時の祭りをおさせになったのですよ。賀茂の明神がお告げをして祭りをせよと申しなさった日が酉の日でしたので、そのまま十一月の最後の酉の日が臨時の祭りなのです。東遊びの歌は、敏行朝臣が詠んだものですよ。
ちはやぶる賀茂の社の姫小松よろづ世ふとも色は変はらじ
これは古今集に入っております。みなさんご存じのことですが、見事にお詠みになった方ですなあ。今まで絶えずお広げになっているご子孫は、帝と申し上げても、これほどまでにいらっしゃるでしょうか。(臨時の祭りは)位にお即きになって二年目に始まったのです。勅使は右近中将時平朝臣こそがお務めになったのでした。寛平九年七月五日に退位なさる。昌泰二年己未十月十四日にご出家なさる。御法名を金剛覚と申し上げた。承平元年七月十九日にお亡くなりになった。御年六十五。肥前の掾、橘良利が殿上に仕えていた。(帝の出家ののち)入道して、(熊野詣での)お供にこの人だけがお仕えしたのでした。それで熊野の「日根」という所で、「旅寝の夢に見えつるは」とも詠んだのですよ。人々が涙を落とすのも、もっともな、しみじみとしたことですなあ。
この帝が臣下になっていらしたころのことなどは、はっきりしません。よくも覚えておりません。御母を東院の后と申し上げる。仲野親王は桓武天皇の御孫である。この帝は、陽成院の御時には殿上人で、神社の行幸には舞人などをお務めになった。位にお即きになってのち、陽成院の前を通って行幸があったときには、(陽成院は)「今の帝は、私の家来ではないか。無礼にも前を通ることよ」とおっしゃったということです。
意訳
宇多天皇は、父の光孝天皇が即位すると、ほかの多くの皇子とともに臣籍に下り、源定省として陽成天皇に仕えていた。殿上で業平と相撲をとって高欄を折ったという話は、皇族でありながら臣下として気楽に宮中で過ごしていたころを伝える。その人が、父の病床で急に親王に戻され、皇太子となったその日に即位した。臣下から天皇となった異例の人である。
賀茂の臨時祭の起こりの話は、のちに天皇となる運命を明神が予言したという形で語られる。「冬は祭りがなくて退屈だ」という神のことばは人間くさく、しかし「力が及ぶからこそ頼むのだ」と即位を予告するところに霊験がある。東遊びの歌として藤原敏行の「ちはやぶる賀茂の社の姫小松」が引かれ、臨時祭がこのときから毎年十一月の最後の酉の日に行われるようになったことが説明される。
最後の、陽成院が「今の帝は自分の家来ではないか」と言った話は、かつての主従が帝と上皇として逆転したことを、短いことばで鮮やかに伝えている。
語釈・文法注
- 亭子のみかど
- 亭子の帝。宇多天皇。退位後に住んだ亭子院(七条坊門の南にあった邸)から。
- 班子
- 班子女王(833〜900)。仲野親王の娘で、光孝天皇の女御、宇多天皇の母。
- 中野親王
- 仲野親王(792〜867)。桓武天皇の皇子。
- げんじになり給ふ
- 臣籍に下って源氏の姓を賜ったこと。宇多天皇は源定省と名のった。
- 王じゞう
- 王侍従。皇族出身の侍従の呼び名。
- ごいし
- 御倚子。清涼殿の殿上の間に置かれた、天皇の腰掛け。
- かうらん
- 高欄。御倚子の手すり。
- 臨時祭
- 賀茂の臨時祭。四月の例祭(葵祭)とは別に、十一月の下の酉の日に行われた。
- つかひ
- 勅使。天皇の使いとして奉幣する者。
- たかつがひ
- 鷹狩り。鷹を使って鳥を捕る狩り。
- たくせん
- 託宣。神が人に乗り移ったり姿を現したりして告げること。
- かいけつやうに
- 掻き消すように。ふっと消えるように。
- あづまあそび
- 東遊び。東国の歌舞から出た舞楽で、神社の祭りで奉納された。
- としゆきの朝臣
- 藤原敏行(?〜901または907)。歌人・能書家。三十六歌仙の一人。
- ひめこまつ
- 姫小松。小さな松。神の社の松をたたえ、いつまでも色を変えない、つまり永遠に栄えると祝う。
- こむがうかく
- 金剛覚。宇多法皇の法名。
- たちばなのよしとし
- 橘良利。肥前掾。宇多法皇の出家に従って出家し、寛蓮と名のった。囲碁の名手としても知られる。
- ひね
- 日根。和泉国日根郡(大阪府泉佐野市付近)。熊野詣での途中の地。
- とうゐんの后
- 東院の后。班子女王。
- 家人
- 家来。臣下。
文法
- すまひとらせ給ける
- 「すまひ(相撲)とる」に尊敬の「せ給ふ」。相撲をおとりになった。
- なさせ給ひそ
- 「な〜そ」の禁止に「そ」が付いた形。なさいますな。
- ちからをよばせ給ぬべきなればこそ申せ
- 「ぬべき」は強意+推量。「こそ申せ」は係り結び(已然形)。
- おぼつかなし
- はっきりしない、よくわからない。
- あらずや
- 「や」は反語・詰問。〜ではないか。
和歌・漢詩
ちはやぶるかものやしろのひめこまつよろづ世ふともいろはかはらじ
- 作者
- 藤原敏行
- 状況
- 賀茂の臨時祭の東遊びのために詠まれた歌。『古今集』巻二十・東歌に収める。賀茂の社の小松がいつまでも色を変えないように、神の御代も帝の御代も永遠に変わらないと祝う。
修辞
- 枕詞
- 「ちはやぶる」は「神」「賀茂」にかかる。
- 寓意
- 色の変わらない松に、変わらぬ繁栄を託す。
解説
宇多天皇(867〜931)は、光孝天皇の死の直前、仁和三年(887)八月二十六日に親王に復して皇太子となり、同日に践祚した。即位に際して関白基経との間に起こった「阿衡の紛議」はよく知られる。退位後は出家して仁和寺に入り、法皇として醍醐天皇の時代にも影響力を持った。
賀茂の臨時祭は、寛平元年(889)十一月二十一日に始まった。以後、十一月の下の酉の日に行われる恒例の祭りとなった。最初の勅使は藤原時平である。
世継は熊野で詠まれたという「旅寝の夢に見えつるは」の歌の上の句を挙げていない。この歌は『後撰集』などに見える「ふるさとの旅寝の夢に見えつるは恨みやすらむまたと問はねば」とされ、宇多法皇の熊野御幸に従った寛蓮(橘良利)の作と伝える。
関連
出典
- 底本
- 経済雑誌社編『国史大系』第17巻(大鏡) 経済雑誌社、明治34年(1901)、469〜471頁(コマ250–251)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日