大鏡 第4章
陽成院・光孝天皇
陽成天皇は清和天皇の第一皇子で、九歳で即位し、在位八年で退位したのち六十五年も長生きした。母の二条后高子は、若いころ業平に連れ出されて兄たちに取り返されたという伊勢物語の話の主人公である。次の光孝天皇は仁明天皇の第三皇子で、親王として官位を重ね、五十四歳で即位した。
- 1五十七代五十七代ごじゅうしちだい 陽成院陽成院ようぜいいん
- 2つぎのみかどつぎのみかどつぎのみかど陽成天皇陽成天皇ようぜいてんのうととと申申もうききき。。。御御おんいみなさだあきらいみなさだあきらいみなさだあきら。。。清和天皇清和天皇せいわてんのう第一第一だいいちののの皇子皇子みこなりなりなり。。。御母御母みわわははは皇太后宮皇太后宮こうたいごうぐうととと申申もうききき。。。贈太政大臣贈太政大臣ぞうだいじょうだいじんのおとゞののおとゞののおとどの御御おんむすめなりむすめなりむすめなり。。。
- 3このみかどこのみかどこのみかど貞觀貞觀じょうがん十年十年じゅうねんつちのつちのつちのへねへねへね十二月十二月じゅうにがつ十六日十六日じゅうろくにちにてにてにて生生うまれれれ給給たまへりへりえり。。。同同おなじ十一年十一年じゅういちねんつちのとのつちのとのつちのとのうしうしうし二月二月にがつ一日一日ついたち二歲二歲にさいにてにてにて東宮東宮とうぐうにたゝせにたゝせにたたせ給給たまててて。。。同同おなじ十八年十八年じゅうはちねん丙申丙申ひのえさる十一月十一月じゅういちがつ廿九日廿九日にじゅうくにちににに位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たまふふう。。。
- 4御歲御歲おおんとし九歲九歲くさい。。。元慶元慶がんぎょう六年六年ろくねん壬刁壬刁みずのえとら正月正月しょうがつ二日二日ふつか御元服御元服ごげんぷく。。。御歲御歲おおんとし十五十五じゅうご。。。世世よをををしらせしらせしらせ給給たまふふう事事こと八年八年はちねん。。。のかせのかせのかせ給給たまふてふてうて六十五年六十五年ろくじゅうごねんなればなればなれば。。。八十一八十一はちじゅういちにてにてにて天曆天曆てんりゃく三年三年さんねん九月九月くがつ廿九日廿九日にじゅうくにちにかくれさせたまふにかくれさせたまふにかくれさせたまう。。。
- 5御御おん法事法事ほうじのののににに。。。釋迦釋迦しゃか如如ごと來來らいののの一年一年いちねんはははつくられたるなりつくられたるなりつくられたるなり。。。ちゑちゑちえふかくふかくふかく思思おもひよりけんひよりけんいよりけんほどいとけうあれどほどいとけうあれどほどいときょうあれど。。。佛佛ほとけののの御歲御歲おおんとしよりよりよりははは御歲御歲おおんとしたかしといふたかしといふたかしという心心こころののの。。。後世後世ごせのせめとなんなれるとこそのせめとなんなれるとこそのせめとなんなれるとこそ人人ひとののの夢夢ゆめにみえけれにみえけれにみえけれ。。。
- 6御母御母みわわ后后きさき清清きよ和和とののの御門御門みかどよりよりよりははは九年九年くねんののの御御おんあねなりあねなりあねなり。。。廿七廿七にじゅうしちととと申申もうしとししとししとし。。。このこのこの陽成院陽成院ようぜいいんをばをばをばうみうみうみ奉奉たてまつりたまへるなりりたまへるなりりたまえるなり。。。元慶元慶がんぎょう元年元年がんねん正月正月しょうがつににに后后きさきにたゝせにたゝせにたたせ給給たまひてひていて中宮中宮ちゅうぐうととと申申もう。。。
- 7御御おおんとしとしとし卅六卅六さんじゅうろく。。。同同おなじ六年六年ろくねん壬寅壬寅みずのえとら正月正月しょうがつ七日七日なぬか皇太后宮皇太后宮こうたいごうぐうにあがりゐにあがりゐにあがりい給給たまふふう。。。御御おおんとしとしとし四十一四十一しじゅういち。。。このこのこの后后きさきのみやづかへしそめのみやづかへしそめのみやずかえしそめ給給たまけんやうこそおぼつかなけれけんやうこそおぼつかなけれけんようこそおぼつかなけれ。。。
- 8。。。中將中將ちゅうじょうのしのびてゐてかくしのしのびてゐてかくしのしのびていてかくし奉奉たてまつりたりけるりたりけるりたりけるををを。。。御御おんせうとのせうとのしょうとの君君きみだちだちだち。。。大臣大臣だいじん。。。經經へ大納言大納言だいなごんなんどのわかくおはしけんなんどのわかくおはしけんなんどのわかくおわしけんほどのほどのほどの事事ことなりけんかしなりけんかしなりけんかし。。。
- 9とりかへしにおはしたりけるとりかへしにおはしたりけるとりかえしにおわしたりけるをををりりり。。。我我わもこもれりとよみもこもれりとよみもこもれりとよみ給給たまたるたるたるはははこのこのこの御御おん事事ことなればなればなれば。。。すゑのよにすゑのよにすえのよによのよのよの事事こともともともとははは申申もういでいでいで給給たまひけるぞかしひけるぞかしいけるぞかし。。。
- 10さればよのつねのさればよのつねのさればよのつねの御御おんかしづきにてかしづきにてかしずきにてははは御御ごらんじそめられらんじそめられらんじそめられ給給たまはずやおはしましけんとおぼえはずやおはしましけんとおぼえわずやおわしましけんとおぼえ侍侍はべるるる。。。もしもしもしはははなれぬなれぬなれぬ御御おん中中なかにてにてにて染殿染殿そめどののみやにまいりかよひなどしのみやにまいりかよひなどしのみやにまいりかよいなどし給給たまけむけむけむほどのほどのほどの事事ことにやとぞおしにやとぞおしにやとぞおしはははからるゝからるゝからるる。。。
- 11およばぬおよばぬおよばぬ身身みにかやうのにかやうのにかようの事事ことをををさへさへさへ申申もうすすすははは。。。いとかたじけなきいとかたじけなきいとかたじけなき事事ことなれどなれどなれど。。。これこれこれはははみなみなみな人人ひとのしろしめしたることなりのしろしめしたることなりのしろしめしたることなり。。。いかなるいかなるいかなる人人ひとかかかははは。。。このごろこのごろこのごろ古今古今こきん伊勢物語伊勢物語いせものがたりなどおぼえさせなどおぼえさせなどおぼえさせ給給たまはぬはぬわぬはははあらんずるあらんずるあらんずる。。。
- 12もせぬもせぬもせぬ人人ひとののの戀戀こいしきしきしきはははなどなどなど申事申事もうすことももも。。。このこのこの御御おんなからひのなからひのなからいのほどとこそほどとこそほどとこそはははうけうけうけ給給たまはれはれわれ。。。すゑのすゑのすえの世世よまでかきまでかきまでかきをををききき給給たまけむおそろしきすきけむおそろしきすきけむおそろしきすき物物ものなりかしななりかしななりかしな。。。
- 13いかにいかにいかにむかしむかしむかしははは中〳〵中〳〵なかなかにけしきあるにけしきあるにけしきある事事こともおかしきこともありけるものとてともおかしきこともありけるものとてともおかしきこともありけるものとてと。。。うちわらふけしきことになりていとやさしげなめりうちわらふけしきことになりていとやさしげなめりうちわらうけしきことになりていとやさしげなめり。。。二條二條にじょうののの后后きさきととと申申もうはははこのこのこの御御おん事事ことなりなりなり。。。
- 14業平業平なりひら中將中將ちゅうじょうのののよひ〳〵よひ〳〵よいよいごとにごとにごとにうちもねなゝんとよみうちもねなゝんとよみうちもねななんとよみ給給たまたるもたるもたるも。。。春春はるやむかしのなどもこのやむかしのなどもこのやむかしのなどもこの御御おん事事ことなめりなめりなめり。。。
- 15五十八代五十八代ごじゅうはちだい
- 16つぎのみかどつぎのみかどつぎのみかど光孝天皇光孝天皇こうこうてんのうととと申申もうききき。。。御御おんいみないみないみなはははときやすときやすときやす。。。仁明天皇仁明天皇にんみょうてんのうののの第三第三だいさんののの王子王子おうじなりなりなり。。。御母御母みわわぞぞぞううう皇太后宮皇太后宮こうたいごうぐうととと申申もうききき。。。贈太政大臣贈太政大臣ぞうだいじょうだいじん總繼總繼ふさつぐ大臣大臣だいじんののの御御おんむすめなりむすめなりむすめなり。。。
- 17此此この御門御門みかど淳和天皇淳和天皇じゅんなてんのうノノノ御時御時おおんとき。。。天長天長てんちょう八年八年はちねん辛亥辛亥かのとい東東とう六條六條ろくじょう家家いえにてむまれにてむまれにてむまれ給給たま。。。御御おんおやのおやのおやの草草くさのみかどののみかどののみかどの御時御時おおんとき。。。承和承和じょうわ十三年十三年じゅうさんねん丙寅丙寅ひのえとら正月正月しょうがつ七日七日なぬかししし給給たま。。。御歲御歲おおんとし十六十六じゅうろく。。。
- 18嘉祥嘉祥かしょう三年三年さんねん庚午庚午かのえうま五月五月ごがつ中務卿中務卿なかつかさきょうににに成成なり給給たま。。。御歲御歲おおんとし廿廿にじゅう。。。仁壽仁壽にんじゅ元年元年がんねん辛未辛未かのとひつじ十一月十一月じゅういちがつ十一日十一日じゅういちにち三品三品さんぼんにのぼりにのぼりにのぼり給給たま。。。御歲御歲おおんとし廿二廿二にじゅうに。。。貞觀貞觀じょうがん六年六年ろくねん甲申甲申きのえさる正月正月しょうがつ十六日十六日じゅうろくにちかけさせかけさせかけさせ給給たま。。。
- 19御歲御歲おおんとし卅四卅四さんじゅうし。。。同同おなじ八年八年はちねん丙戌丙戌ひのえいぬ正月正月しょうがつ十三日十三日じゅうさんにち太宰帥太宰帥だざいのそつににに遷遷うつ給給たますすす。。。御歲御歲おおんとし卅六卅六さんじゅうろく。。。同同おなじ十二年十二年じゅうにねん庚寅庚寅かのえとら二月二月にがつ七日七日なぬか二品二品におんにのぼりにのぼりにのぼり給給たま。。。御歲御歲おおんとし四十四十しじゅう。。。同同おなじ年年とし上野大守上野大守こうずけのたいしゅ。。。同同おなじ十八年十八年じゅうはちねん丙申丙申ひのえさる十二月十二月じゅうにがつ廿六日廿六日にじゅうろくにち式部卿式部卿しきぶきょうにならせにならせにならせ給給たま。。。
- 20御歲御歲おおんとし四十六四十六しじゅうろく。。。元慶元慶がんぎょう六年六年ろくねん壬刁壬刁みずのえとら正月正月しょうがつ七日七日なぬか一品一品いっぽんにのぼらせにのぼらせにのぼらせ給給たま。。。御歲御歲おおんとし五十二五十二ごじゅうに。。。同同おなじ八年八年はちねん甲辰甲辰きのえたつ二月二月にがつ四日四日よっか位位くらいにつきにつきにつき給給たまふふう。。。御歲御歲おおんとし五十四五十四ごじゅうし。。。世世よをををしらせしらせしらせ給給たまふふう事事こと四年四年よねん。。。
- 21のみかどゝのみかどゝのみかどと申申もうすすす。。。このこのこの御御おおんときにときにときにふぢつぼのふぢつぼのふじつぼのうへのうへのうえの御御おんはははあきたるときゝあきたるときゝあきたるときき侍侍はべるるるはははまことにやまことにやまことにや。。。
現代語訳
五十七代 陽成院
次の帝を陽成天皇と申し上げた。御諱は貞明。清和天皇の第一皇子である。御母は皇太后宮高子と申し上げた。贈太政大臣長良公の御娘である。この帝は貞観十年戊子の十二月十六日に染殿院でお生まれになった。同十一年己丑の二月一日、二歳で東宮にお立ちになって、同十八年丙申十一月二十九日に位にお即きになる。御年九歳。元慶六年壬寅正月二日にご元服。御年十五。世をお治めになること八年。退位なさってから六十五年たったので、八十一歳で、天暦三年九月二十九日にお亡くなりになる。ご法事の願文に「釈迦如来より一歳の年長」と作られたのである。知恵深く思いついたところはたいへんおもしろいけれど、仏のお年よりもお年が上だという気持ちが、来世での責めとなったと、人の夢に見えたということです。
御母后(高子)は、清和の帝よりは九歳の年上である。二十七と申した年に、この陽成院をお産み申し上げなさったのである。元慶元年正月に后にお立ちになって中宮と申し上げる。御年三十六。同六年壬寅正月七日に皇太后宮にお上がりになる。御年四十一。この后が宮仕えをお始めになったいきさつは、はっきりしないことです。まだ独り身でいらしたとき、在中将(業平)がひそかに連れ出して隠し申し上げていたのを、御兄の君たち、基経大臣・国経大納言などがお若かったころのことだったのでしょう、取り返しにいらしたとき、「つまもこもれり我もこもれり」とお詠みになったのは、このお方のことなので、のちに神代のことも(「神代のことも思ひ出づらめ」と)口にお出しになったのですよ。ですから、世間並みの大切なお扱いで(帝に)お見初められなさったのではなかったのではないかと思われます。あるいは、縁の深いお仲で染殿の宮(明子)のところに参り通いなどなさっていたころのことであろうかと推察されます。及びもつかない身でこんなことまで申し上げるのは、たいへん恐れ多いことですが、これはみな人々がご存じのことです。どんな人が、近ごろ古今集や伊勢物語などを覚えていらっしゃらないことがありましょうか。「見もせぬ人の恋しきは」などと申し上げることも、この方々のおつきあいのころのことと承っております。後の世まで書き残しなさったとは、恐ろしい色好みでしたなあ。昔は、かえって風情のあることもおもしろいこともあったものだと思って」と、笑う様子がいつもと違って、たいへん優雅な感じです。二条の后と申し上げるのはこのお方のことである。業平中将が「宵々ごとにうちも寝ななむ」とお詠みになったのも、「春や昔の」なども、このお方のことであるらしい。
五十八代 光孝天皇
次の帝を光孝天皇と申し上げた。御諱は時康。仁明天皇の第三の皇子である。御母は贈皇太后宮沢子と申し上げた。贈太政大臣総継大臣の御娘である。この帝は淳和天皇の御時、天長八年辛亥に東六条の家でお生まれになった。御父の深草の帝(仁明天皇)の御時、承和十三年丙寅正月七日に四品におなりになる。御年十六。嘉祥三年庚午五月に中務卿におなりになる。御年二十。仁寿元年辛未十一月十一日、三品にお上りになる。御年二十二。貞観六年甲申正月十六日、上野太守をお兼ねになる。御年三十四。同八年丙戌正月十三日、大宰帥にお移りになる。御年三十六。同十二年庚寅二月七日、二品にお上りになる。御年四十。同年、上野太守。同十八年丙申十二月二十六日、式部卿におなりになる。御年四十六。元慶六年壬寅正月七日、一品にお上りになる。御年五十二。同八年甲辰二月四日、位にお即きになる。御年五十四。世をお治めになること四年。小松の帝と申し上げる。この御時に、藤壺の上の御局の黒戸は開いたと聞いておりますが、本当でしょうか。
意訳
陽成天皇は九歳で即位し、十七歳で退位した。退位してから六十五年も生きて、八十一歳で亡くなる。その法事の願文に「釈迦より一つ年上」と書いたのは機知に富んでいるが、仏より年上だと誇る心が来世の罪になったと、人の夢に現れたという。陽成天皇の退位の事情(宮中での乱行と、基経による廃位)には、世継はここではまったく触れない。
話はすぐに母の二条后高子に移る。高子は入内する前、在原業平に連れ出されて武蔵野に隠れ、兄の基経・国経に取り返されたという。『伊勢物語』第十二段の「武蔵野は今日はな焼きそ若草のつまもこもれり我もこもれり」の歌、第七十六段で年老いた業平が后の行啓に供奉して「大原や小塩の山も今日こそは神代のことも思ひ出づらめ」と詠んだ歌などを、世継は高子と業平の恋の名残と見る。そして「後の世まで書き残したとは、恐ろしい色好みだ」と笑ってみせる。
光孝天皇は、親王として四品から一品へ、中務卿・上野太守・大宰帥・式部卿と、官位を一つずつ重ねた経歴が淡々と記される。五十四歳という異例の高齢での即位は、陽成天皇の退位を受けたものだった。その事情は次の大臣列伝(基経の章)で語られる。
語釈・文法注
- 高子
- 藤原高子(842〜910)。長良の娘で、基経の妹。清和天皇の女御となり、陽成天皇を産んだ。二条后と呼ばれる。
- 長良
- 藤原長良(802〜856)。冬嗣の長男。娘高子が陽成天皇の母となったので、太政大臣を贈られた。
- 染殿院
- 藤原良房の邸。染殿后明子が住んだ。
- 願文
- 法会の趣旨を述べて仏に願う文。
- このかみ
- 兄。年長者。「一年のこのかみ」で一歳年上。
- よごもりて
- 世籠る。まだ結婚せず、親の家にいる。
- ざい中將
- 在中将。在原業平(825〜880)のこと。右近衛権中将であった。
- 基經大臣
- 藤原基経(836〜891)。長良の三男で、良房の養子となった。高子の兄。
- 國經大納言
- 藤原国経(828〜908)。長良の長男。高子の兄。
- つまもこもれり我もこもれり
- 『伊勢物語』第十二段の歌「武蔵野は今日はな焼きそ若草のつまもこもれり我もこもれり」の下の句。
- 神よの事
- 『伊勢物語』第七十六段の歌「大原や小塩の山も今日こそは神代のことも思ひ出づらめ」による。年老いた業平が、后の大原野神社参詣の供をして詠んだとされる。
- 見もせぬ人の戀しきは
- 『古今集』恋一、業平の歌「見ずもあらず見もせぬ人の恋しくはあやなく今日やながめ暮らさむ」によるか。
- 光孝天皇
- 第五十八代の天皇(830〜887)。在位884〜887。
- 澤子
- 藤原沢子(?〜839)。総継の娘で、仁明天皇の女御。
- ふか草のみかど
- 深草の帝。仁明天皇。陵が深草にあることから。
- 四品
- 親王の位階。一品から四品まであった。
- 上野大守
- 上野国の太守。上野・上総・常陸の三国は親王が守(太守)に任じられる親王任国だった。
- 小松のみかど
- 小松の帝。光孝天皇。陵が小松山にあることから。
- くろど
- 黒戸の御所。清涼殿の北にあった細長い部屋。光孝天皇が親王時代に自ら炊事をして煤で戸が黒くなったという伝えがある。
文法
- のかせ給ふて
- 「退(の)く」の未然形に尊敬の「せ給ふ」。位をお退きになって。
- なれるとこそ人の夢にみえけれ
- 「こそ〜けれ」は係り結び。なったと人の夢に見えたということだ。
- しそめ給けんやう
- 「そむ(初む)」は〜し始める。「けん」は過去推量の連体形。お始めになったいきさつ。
- 御らんじそめられ給はずや
- 「られ」は受身。帝にお見初められなさったのではないのではないか。
- あらんずる
- 「んずる」は推量の助動詞「んず」の連体形。上の「かは」と呼応して反語。
- 四品し給
- 「四品に叙せられ給ふ」の意。
解説
陽成天皇(868〜949)は九歳で即位したが、乳母子の源益を殴殺するなど宮中で乱行があったとされ、元慶八年(884)、基経によって退位させられた。退位後は冷泉院・陽成院に住み、八十二歳(数え)まで生きた。世継が帝紀でこの事情に触れないのは、帝の悪行を語ることをはばかったためとも考えられる。
底本は「世をしらせ給ふ事八年」のあとに、小字の注で「元慶八年二月四日おりさせ給ふ。御歳十七。二條院におはしましけるとぞ」と退位のことを記し、本文は「のかせ給ふて六十五年なれば」と続く。このページでは本文だけを翻刻した。
光孝天皇は仁明天皇の皇子で、陽成天皇から見ると祖父の弟にあたる。皇統が文徳・清和・陽成の系統から光孝の系統に移ったこの即位は、のちの宇多・醍醐天皇へとつながる、平安時代の皇統の大きな転換点だった。
関連
出典
- 底本
- 経済雑誌社編『国史大系』第17巻(大鏡) 経済雑誌社、明治34年(1901)、466〜468頁(コマ249–250)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日