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大鏡 第4章

陽成院・光孝天皇

陽成天皇は清和天皇の第一皇子で、九歳で即位し、在位八年で退位したのち六十五年も長生きした。母の二条后高子は、若いころ業平に連れ出されて兄たちに取り返されたという伊勢物語の話の主人公である。次の光孝天皇は仁明天皇の第三皇子で、親王として官位を重ね、五十四歳で即位した。

  1. 1五十七代ごじふしちだい五十七代ごじふしちだいごじゅうしちだい   陽成院やうぜいゐん陽成院やうぜいゐんようぜいいん
  2. 2つぎのみかどつぎのみかどつぎのみかど陽成天皇やうぜいてんわう陽成天皇やうぜいてんわうようぜいてんのうととと申まう申まうもうききき。。。御おん御おんおんいみなさだあきらいみなさだあきらいみなさだあきら。。。清和天皇せいわてんわう清和天皇せいわてんわうせいわてんのう第一だいいち第一だいいちだいいちののの皇子みこ皇子みこみこなりなりなり。。。御母みはは御母みははみわわははは皇太后宮くわうたいこうぐう皇太后宮くわうたいこうぐうこうたいごうぐうととと申まう申まうもうききき。。。贈太政大臣ぞうだいじやうだいじん贈太政大臣ぞうだいじやうだいじんぞうだいじょうだいじんのおとゞののおとゞののおとどの御おん御おんおんむすめなりむすめなりむすめなり。。。
  3. 3このみかどこのみかどこのみかど貞觀ぢやうぐわん貞觀ぢやうぐわんじょうがん十年じふねん十年じふねんじゅうねんつちのつちのつちのへねへねへね十二月じふにぐわつ十二月じふにぐわつじゅうにがつ十六日じふろくにち十六日じふろくにちじゅうろくにちにてにてにて生うま生うまうまれれれ給たま給たまたまへりへりえり。。。同おなじ同おなじおなじ十一年じふいちねん十一年じふいちねんじゅういちねんつちのとのつちのとのつちのとのうしうしうし二月にぐわつ二月にぐわつにがつ一日ついたち一日ついたちついたち二歲にさい二歲にさいにさいにてにてにて東宮とうぐう東宮とうぐうとうぐうにたゝせにたゝせにたたせ給たま給たまたまててて。。。同おなじ同おなじおなじ十八年じふはちねん十八年じふはちねんじゅうはちねん丙申ひのえさる丙申ひのえさるひのえさる十一月じふいちぐわつ十一月じふいちぐわつじゅういちがつ廿九日にじふくにち廿九日にじふくにちにじゅうくにちににに位くらゐ位くらゐくらいにつかせにつかせにつかせ給たま給たまたまふふう。。。
  4. 4御歲おほんとし御歲おほんとしおおんとし九歲くさい九歲くさいくさい。。。元慶ぐわんぎやう元慶ぐわんぎやうがんぎょう六年ろくねん六年ろくねんろくねん壬刁みづのえとら壬刁みづのえとらみずのえとら正月しやうぐわつ正月しやうぐわつしょうがつ二日ふつか二日ふつかふつか御元服ごげんぷく御元服ごげんぷくごげんぷく。。。御歲おほんとし御歲おほんとしおおんとし十五じふご十五じふごじゅうご。。。世よ世よよをををしらせしらせしらせ給たま給たまたまふふう事こと事ことこと八年はちねん八年はちねんはちねん。。。のかせのかせのかせ給たま給たまたまふてふてうて六十五年ろくじふごねん六十五年ろくじふごねんろくじゅうごねんなればなればなれば。。。八十一はちじふいち八十一はちじふいちはちじゅういちにてにてにて天曆てんりやく天曆てんりやくてんりゃく三年さんねん三年さんねんさんねん九月くぐわつ九月くぐわつくがつ廿九日にじふくにち廿九日にじふくにちにじゅうくにちにかくれさせたまふにかくれさせたまふにかくれさせたまう。。。
  5. 5御おん御おんおん法事ほふじ法事ほふじほうじのののににに。。。釋迦しやか釋迦しやかしゃか如ごと如ごとごと來らい來らいらいののの一年いちねん一年いちねんいちねんはははつくられたるなりつくられたるなりつくられたるなり。。。ちゑちゑちえふかくふかくふかく思おも思おもおもひよりけんひよりけんいよりけんほどいとけうあれどほどいとけうあれどほどいときょうあれど。。。佛ほとけ佛ほとけほとけののの御歲おほんとし御歲おほんとしおおんとしよりよりよりははは御歲おほんとし御歲おほんとしおおんとしたかしといふたかしといふたかしという心こころ心こころこころののの。。。後世ごせ後世ごせごせのせめとなんなれるとこそのせめとなんなれるとこそのせめとなんなれるとこそ人ひと人ひとひとののの夢ゆめ夢ゆめゆめにみえけれにみえけれにみえけれ。。。
  6. 6御母みはは御母みははみわわ后きさき后きさききさき清きよ清きよきよ和と和ととののの御門みかど御門みかどみかどよりよりよりははは九年くねん九年くねんくねんののの御おん御おんおんあねなりあねなりあねなり。。。廿七にじふしち廿七にじふしちにじゅうしちととと申まう申まうもうしとししとししとし。。。このこのこの陽成院やうぜいゐん陽成院やうぜいゐんようぜいいんをばをばをばうみうみうみ奉たてまつ奉たてまつたてまつりたまへるなりりたまへるなりりたまえるなり。。。元慶ぐわんぎやう元慶ぐわんぎやうがんぎょう元年ぐわんねん元年ぐわんねんがんねん正月しやうぐわつ正月しやうぐわつしょうがつににに后きさき后きさききさきにたゝせにたゝせにたたせ給たま給たまたまひてひていて中宮ちゆうぐう中宮ちゆうぐうちゅうぐうととと申まう申まうもう。。。
  7. 7御おほん御おほんおおんとしとしとし卅六さんじふろく卅六さんじふろくさんじゅうろく。。。同おなじ同おなじおなじ六年ろくねん六年ろくねんろくねん壬寅みづのえとら壬寅みづのえとらみずのえとら正月しやうぐわつ正月しやうぐわつしょうがつ七日なぬか七日なぬかなぬか皇太后宮くわうたいこうぐう皇太后宮くわうたいこうぐうこうたいごうぐうにあがりゐにあがりゐにあがりい給たま給たまたまふふう。。。御おほん御おほんおおんとしとしとし四十一しじふいち四十一しじふいちしじゅういち。。。このこのこの后きさき后きさききさきのみやづかへしそめのみやづかへしそめのみやずかえしそめ給たま給たまたまけんやうこそおぼつかなけれけんやうこそおぼつかなけれけんようこそおぼつかなけれ。。。
  8. 8。。。中將ちゆうじやう中將ちゆうじやうちゅうじょうのしのびてゐてかくしのしのびてゐてかくしのしのびていてかくし奉たてまつ奉たてまつたてまつりたりけるりたりけるりたりけるををを。。。御おん御おんおんせうとのせうとのしょうとの君きみ君きみきみだちだちだち。。。大臣だいじん大臣だいじんだいじん。。。經へ經へへ大納言だいなごん大納言だいなごんだいなごんなんどのわかくおはしけんなんどのわかくおはしけんなんどのわかくおわしけんほどのほどのほどの事こと事ことことなりけんかしなりけんかしなりけんかし。。。
  9. 9とりかへしにおはしたりけるとりかへしにおはしたりけるとりかえしにおわしたりけるをををりりり。。。我わ我わわもこもれりとよみもこもれりとよみもこもれりとよみ給たま給たまたまたるたるたるはははこのこのこの御おん御おんおん事こと事ことことなればなればなれば。。。すゑのよにすゑのよにすえのよによのよのよの事こと事ことこともともともとははは申まう申まうもういでいでいで給たま給たまたまひけるぞかしひけるぞかしいけるぞかし。。。
  10. 10さればよのつねのさればよのつねのさればよのつねの御おん御おんおんかしづきにてかしづきにてかしずきにてははは御ご御ごごらんじそめられらんじそめられらんじそめられ給たま給たまたまはずやおはしましけんとおぼえはずやおはしましけんとおぼえわずやおわしましけんとおぼえ侍はべ侍はべはべるるる。。。もしもしもしはははなれぬなれぬなれぬ御おん御おんおん中なか中なかなかにてにてにて染殿そめどの染殿そめどのそめどののみやにまいりかよひなどしのみやにまいりかよひなどしのみやにまいりかよいなどし給たま給たまたまけむけむけむほどのほどのほどの事こと事ことことにやとぞおしにやとぞおしにやとぞおしはははからるゝからるゝからるる。。。
  11. 11およばぬおよばぬおよばぬ身み身みみにかやうのにかやうのにかようの事こと事ことことをををさへさへさへ申まう申まうもうすすすははは。。。いとかたじけなきいとかたじけなきいとかたじけなき事こと事ことことなれどなれどなれど。。。これこれこれはははみなみなみな人ひと人ひとひとのしろしめしたることなりのしろしめしたることなりのしろしめしたることなり。。。いかなるいかなるいかなる人ひと人ひとひとかかかははは。。。このごろこのごろこのごろ古今こきん古今こきんこきん伊勢物語いせものがたり伊勢物語いせものがたりいせものがたりなどおぼえさせなどおぼえさせなどおぼえさせ給たま給たまたまはぬはぬわぬはははあらんずるあらんずるあらんずる。。。
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  14. 14業平なりひら業平なりひらなりひら中將ちゆうじやう中將ちゆうじやうちゅうじょうのののよひ〳〵よひ〳〵よいよいごとにごとにごとにうちもねなゝんとよみうちもねなゝんとよみうちもねななんとよみ給たま給たまたまたるもたるもたるも。。。春はる春はるはるやむかしのなどもこのやむかしのなどもこのやむかしのなどもこの御おん御おんおん事こと事ことことなめりなめりなめり。。。
  15. 15五十八代ごじふはちだい五十八代ごじふはちだいごじゅうはちだい   
  16. 16つぎのみかどつぎのみかどつぎのみかど光孝天皇くわうかうてんわう光孝天皇くわうかうてんわうこうこうてんのうととと申まう申まうもうききき。。。御おん御おんおんいみないみないみなはははときやすときやすときやす。。。仁明天皇にんみやうてんわう仁明天皇にんみやうてんわうにんみょうてんのうののの第三だいさん第三だいさんだいさんののの王子わうじ王子わうじおうじなりなりなり。。。御母みはは御母みははみわわぞぞぞううう皇太后宮くわうたいこうぐう皇太后宮くわうたいこうぐうこうたいごうぐうととと申まう申まうもうききき。。。贈太政大臣ぞうだいじやうだいじん贈太政大臣ぞうだいじやうだいじんぞうだいじょうだいじん總繼ふさつぐ總繼ふさつぐふさつぐ大臣だいじん大臣だいじんだいじんののの御おん御おんおんむすめなりむすめなりむすめなり。。。
  17. 17此この此このこの御門みかど御門みかどみかど淳和天皇じゆんなてんわう淳和天皇じゆんなてんわうじゅんなてんのうノノノ御時おほんとき御時おほんときおおんとき。。。天長てんちやう天長てんちやうてんちょう八年はちねん八年はちねんはちねん辛亥かのとゐ辛亥かのとゐかのとい東とう東とうとう六條ろくでう六條ろくでうろくじょう家いへ家いへいえにてむまれにてむまれにてむまれ給たま給たまたま。。。御おん御おんおんおやのおやのおやの草くさ草くさくさのみかどののみかどののみかどの御時おほんとき御時おほんときおおんとき。。。承和じようわ承和じようわじょうわ十三年じふさんねん十三年じふさんねんじゅうさんねん丙寅ひのえとら丙寅ひのえとらひのえとら正月しやうぐわつ正月しやうぐわつしょうがつ七日なぬか七日なぬかなぬかししし給たま給たまたま。。。御歲おほんとし御歲おほんとしおおんとし十六じふろく十六じふろくじゅうろく。。。
  18. 18嘉祥かしやう嘉祥かしやうかしょう三年さんねん三年さんねんさんねん庚午かのえうま庚午かのえうまかのえうま五月ごぐわつ五月ごぐわつごがつ中務卿なかつかさきやう中務卿なかつかさきやうなかつかさきょうににに成なり成なりなり給たま給たまたま。。。御歲おほんとし御歲おほんとしおおんとし廿にじふ廿にじふにじゅう。。。仁壽にんじゆ仁壽にんじゆにんじゅ元年ぐわんねん元年ぐわんねんがんねん辛未かのとひつじ辛未かのとひつじかのとひつじ十一月じふいちぐわつ十一月じふいちぐわつじゅういちがつ十一日じふいちにち十一日じふいちにちじゅういちにち三品さんぼん三品さんぼんさんぼんにのぼりにのぼりにのぼり給たま給たまたま。。。御歲おほんとし御歲おほんとしおおんとし廿二にじふに廿二にじふににじゅうに。。。貞觀ぢやうぐわん貞觀ぢやうぐわんじょうがん六年ろくねん六年ろくねんろくねん甲申きのえさる甲申きのえさるきのえさる正月しやうぐわつ正月しやうぐわつしょうがつ十六日じふろくにち十六日じふろくにちじゅうろくにちかけさせかけさせかけさせ給たま給たまたま。。。
  19. 19御歲おほんとし御歲おほんとしおおんとし卅四さんじふし卅四さんじふしさんじゅうし。。。同おなじ同おなじおなじ八年はちねん八年はちねんはちねん丙戌ひのえいぬ丙戌ひのえいぬひのえいぬ正月しやうぐわつ正月しやうぐわつしょうがつ十三日じふさんにち十三日じふさんにちじゅうさんにち太宰帥だざいのそつ太宰帥だざいのそつだざいのそつににに遷うつ遷うつうつ給たま給たまたますすす。。。御歲おほんとし御歲おほんとしおおんとし卅六さんじふろく卅六さんじふろくさんじゅうろく。。。同おなじ同おなじおなじ十二年じふにねん十二年じふにねんじゅうにねん庚寅かのえとら庚寅かのえとらかのえとら二月にぐわつ二月にぐわつにがつ七日なぬか七日なぬかなぬか二品にほん二品にほんにおんにのぼりにのぼりにのぼり給たま給たまたま。。。御歲おほんとし御歲おほんとしおおんとし四十しじふ四十しじふしじゅう。。。同おなじ同おなじおなじ年とし年としとし上野大守かうづけのたいしゆ上野大守かうづけのたいしゆこうずけのたいしゅ。。。同おなじ同おなじおなじ十八年じふはちねん十八年じふはちねんじゅうはちねん丙申ひのえさる丙申ひのえさるひのえさる十二月じふにぐわつ十二月じふにぐわつじゅうにがつ廿六日にじふろくにち廿六日にじふろくにちにじゅうろくにち式部卿しきぶきやう式部卿しきぶきやうしきぶきょうにならせにならせにならせ給たま給たまたま。。。
  20. 20御歲おほんとし御歲おほんとしおおんとし四十六しじふろく四十六しじふろくしじゅうろく。。。元慶ぐわんぎやう元慶ぐわんぎやうがんぎょう六年ろくねん六年ろくねんろくねん壬刁みづのえとら壬刁みづのえとらみずのえとら正月しやうぐわつ正月しやうぐわつしょうがつ七日なぬか七日なぬかなぬか一品いつぽん一品いつぽんいっぽんにのぼらせにのぼらせにのぼらせ給たま給たまたま。。。御歲おほんとし御歲おほんとしおおんとし五十二ごじふに五十二ごじふにごじゅうに。。。同おなじ同おなじおなじ八年はちねん八年はちねんはちねん甲辰きのえたつ甲辰きのえたつきのえたつ二月にぐわつ二月にぐわつにがつ四日よつか四日よつかよっか位くらゐ位くらゐくらいにつきにつきにつき給たま給たまたまふふう。。。御歲おほんとし御歲おほんとしおおんとし五十四ごじふし五十四ごじふしごじゅうし。。。世よ世よよをををしらせしらせしらせ給たま給たまたまふふう事こと事ことこと四年よねん四年よねんよねん。。。
  21. 21のみかどゝのみかどゝのみかどと申まう申まうもうすすす。。。このこのこの御おほん御おほんおおんときにときにときにふぢつぼのふぢつぼのふじつぼのうへのうへのうえの御おん御おんおんはははあきたるときゝあきたるときゝあきたるときき侍はべ侍はべはべるるるはははまことにやまことにやまことにや。。。

引用の仕方

レポート・論文で引用する場合の表記例です。行番号を選んでから開くと、その行へのリンクになります。

現代語訳

五十七代 陽成院

次の帝を陽成天皇と申し上げた。御諱は貞明。清和天皇の第一皇子である。御母は皇太后宮高子と申し上げた。贈太政大臣長良公の御娘である。この帝は貞観十年戊子の十二月十六日に染殿院でお生まれになった。同十一年己丑の二月一日、二歳で東宮にお立ちになって、同十八年丙申十一月二十九日に位にお即きになる。御年九歳。元慶六年壬寅正月二日にご元服。御年十五。世をお治めになること八年。退位なさってから六十五年たったので、八十一歳で、天暦三年九月二十九日にお亡くなりになる。ご法事の願文に「釈迦如来より一歳の年長」と作られたのである。知恵深く思いついたところはたいへんおもしろいけれど、仏のお年よりもお年が上だという気持ちが、来世での責めとなったと、人の夢に見えたということです。

御母后(高子)は、清和の帝よりは九歳の年上である。二十七と申した年に、この陽成院をお産み申し上げなさったのである。元慶元年正月に后にお立ちになって中宮と申し上げる。御年三十六。同六年壬寅正月七日に皇太后宮にお上がりになる。御年四十一。この后が宮仕えをお始めになったいきさつは、はっきりしないことです。まだ独り身でいらしたとき、在中将(業平)がひそかに連れ出して隠し申し上げていたのを、御兄の君たち、基経大臣・国経大納言などがお若かったころのことだったのでしょう、取り返しにいらしたとき、「つまもこもれり我もこもれり」とお詠みになったのは、このお方のことなので、のちに神代のことも(「神代のことも思ひ出づらめ」と)口にお出しになったのですよ。ですから、世間並みの大切なお扱いで(帝に)お見初められなさったのではなかったのではないかと思われます。あるいは、縁の深いお仲で染殿の宮(明子)のところに参り通いなどなさっていたころのことであろうかと推察されます。及びもつかない身でこんなことまで申し上げるのは、たいへん恐れ多いことですが、これはみな人々がご存じのことです。どんな人が、近ごろ古今集や伊勢物語などを覚えていらっしゃらないことがありましょうか。「見もせぬ人の恋しきは」などと申し上げることも、この方々のおつきあいのころのことと承っております。後の世まで書き残しなさったとは、恐ろしい色好みでしたなあ。昔は、かえって風情のあることもおもしろいこともあったものだと思って」と、笑う様子がいつもと違って、たいへん優雅な感じです。二条の后と申し上げるのはこのお方のことである。業平中将が「宵々ごとにうちも寝ななむ」とお詠みになったのも、「春や昔の」なども、このお方のことであるらしい。

五十八代 光孝天皇

次の帝を光孝天皇と申し上げた。御諱は時康。仁明天皇の第三の皇子である。御母は贈皇太后宮沢子と申し上げた。贈太政大臣総継大臣の御娘である。この帝は淳和天皇の御時、天長八年辛亥に東六条の家でお生まれになった。御父の深草の帝(仁明天皇)の御時、承和十三年丙寅正月七日に四品におなりになる。御年十六。嘉祥三年庚午五月に中務卿におなりになる。御年二十。仁寿元年辛未十一月十一日、三品にお上りになる。御年二十二。貞観六年甲申正月十六日、上野太守をお兼ねになる。御年三十四。同八年丙戌正月十三日、大宰帥にお移りになる。御年三十六。同十二年庚寅二月七日、二品にお上りになる。御年四十。同年、上野太守。同十八年丙申十二月二十六日、式部卿におなりになる。御年四十六。元慶六年壬寅正月七日、一品にお上りになる。御年五十二。同八年甲辰二月四日、位にお即きになる。御年五十四。世をお治めになること四年。小松の帝と申し上げる。この御時に、藤壺の上の御局の黒戸は開いたと聞いておりますが、本当でしょうか。

意訳

陽成天皇は九歳で即位し、十七歳で退位した。退位してから六十五年も生きて、八十一歳で亡くなる。その法事の願文に「釈迦より一つ年上」と書いたのは機知に富んでいるが、仏より年上だと誇る心が来世の罪になったと、人の夢に現れたという。陽成天皇の退位の事情(宮中での乱行と、基経による廃位)には、世継はここではまったく触れない。

話はすぐに母の二条后高子に移る。高子は入内する前、在原業平に連れ出されて武蔵野に隠れ、兄の基経・国経に取り返されたという。『伊勢物語』第十二段の「武蔵野は今日はな焼きそ若草のつまもこもれり我もこもれり」の歌、第七十六段で年老いた業平が后の行啓に供奉して「大原や小塩の山も今日こそは神代のことも思ひ出づらめ」と詠んだ歌などを、世継は高子と業平の恋の名残と見る。そして「後の世まで書き残したとは、恐ろしい色好みだ」と笑ってみせる。

光孝天皇は、親王として四品から一品へ、中務卿・上野太守・大宰帥・式部卿と、官位を一つずつ重ねた経歴が淡々と記される。五十四歳という異例の高齢での即位は、陽成天皇の退位を受けたものだった。その事情は次の大臣列伝(基経の章)で語られる。

語釈・文法注

高子
藤原高子(842〜910)。長良の娘で、基経の妹。清和天皇の女御となり、陽成天皇を産んだ。二条后と呼ばれる。
長良
藤原長良(802〜856)。冬嗣の長男。娘高子が陽成天皇の母となったので、太政大臣を贈られた。
染殿院
藤原良房の邸。染殿后明子が住んだ。
願文
法会の趣旨を述べて仏に願う文。
このかみ
兄。年長者。「一年のこのかみ」で一歳年上。
よごもりて
世籠る。まだ結婚せず、親の家にいる。
ざい中將
在中将。在原業平(825〜880)のこと。右近衛権中将であった。
基經大臣
藤原基経(836〜891)。長良の三男で、良房の養子となった。高子の兄。
國經大納言
藤原国経(828〜908)。長良の長男。高子の兄。
つまもこもれり我もこもれり
『伊勢物語』第十二段の歌「武蔵野は今日はな焼きそ若草のつまもこもれり我もこもれり」の下の句。
神よの事
『伊勢物語』第七十六段の歌「大原や小塩の山も今日こそは神代のことも思ひ出づらめ」による。年老いた業平が、后の大原野神社参詣の供をして詠んだとされる。
見もせぬ人の戀しきは
『古今集』恋一、業平の歌「見ずもあらず見もせぬ人の恋しくはあやなく今日やながめ暮らさむ」によるか。
光孝天皇
第五十八代の天皇(830〜887)。在位884〜887。
澤子
藤原沢子(?〜839)。総継の娘で、仁明天皇の女御。
ふか草のみかど
深草の帝。仁明天皇。陵が深草にあることから。
四品
親王の位階。一品から四品まであった。
上野大守
上野国の太守。上野・上総・常陸の三国は親王が守(太守)に任じられる親王任国だった。
小松のみかど
小松の帝。光孝天皇。陵が小松山にあることから。
くろど
黒戸の御所。清涼殿の北にあった細長い部屋。光孝天皇が親王時代に自ら炊事をして煤で戸が黒くなったという伝えがある。

文法

のかせ給ふて
「退(の)く」の未然形に尊敬の「せ給ふ」。位をお退きになって。
なれるとこそ人の夢にみえけれ
「こそ〜けれ」は係り結び。なったと人の夢に見えたということだ。
しそめ給けんやう
「そむ(初む)」は〜し始める。「けん」は過去推量の連体形。お始めになったいきさつ。
御らんじそめられ給はずや
「られ」は受身。帝にお見初められなさったのではないのではないか。
あらんずる
「んずる」は推量の助動詞「んず」の連体形。上の「かは」と呼応して反語。
四品し給
「四品に叙せられ給ふ」の意。

解説

陽成天皇(868〜949)は九歳で即位したが、乳母子の源益を殴殺するなど宮中で乱行があったとされ、元慶八年(884)、基経によって退位させられた。退位後は冷泉院・陽成院に住み、八十二歳(数え)まで生きた。世継が帝紀でこの事情に触れないのは、帝の悪行を語ることをはばかったためとも考えられる。

底本は「世をしらせ給ふ事八年」のあとに、小字の注で「元慶八年二月四日おりさせ給ふ。御歳十七。二條院におはしましけるとぞ」と退位のことを記し、本文は「のかせ給ふて六十五年なれば」と続く。このページでは本文だけを翻刻した。

光孝天皇は仁明天皇の皇子で、陽成天皇から見ると祖父の弟にあたる。皇統が文徳・清和・陽成の系統から光孝の系統に移ったこの即位は、のちの宇多・醍醐天皇へとつながる、平安時代の皇統の大きな転換点だった。

関連

出典

底本
経済雑誌社編『国史大系』第17巻(大鏡) 経済雑誌社、明治34年(1901)、466〜468頁(コマ249–250)。国立国会図書館デジタルコレクション
校訂・訳・注
古典ライブラリー編集部
更新日