大鏡 第3章
文徳天皇・清和天皇
帝紀の始まり。文徳天皇は仁明天皇の第一皇子で、母は冬嗣の娘の五条后順子。恒貞親王を退けて東宮に立った。次の清和天皇は文徳天皇の第四皇子で、母は良房の娘の染殿后明子。生後まもなく東宮に立ち、九歳で即位した。世継は、業平が五条后の邸に通った伊勢物語の歌や、染殿后を悩ませた物の怪の話にも触れる。
- 1五十五代五十五代ごじゅうごだい 文德天皇文德天皇もんとくてんのう
- 2文德天皇文德天皇もんとくてんのうととと申申もうけるけるける御門御門みかどははは。。。ののの御御おん第一第一だいいちののの皇子皇子みこなりなりなり。。。御御おんはははみちやすみちやすみちやす。。。御母御母みわわははは太皇大后宮太皇大后宮たいこうたいごうぐう藤原藤原ふじわらととと申申もうききき。。。そのそのその后后きさきははは左大臣左大臣さだいじん贈正一位贈正一位ぞうしょういちい太政大臣太政大臣だいじょうだいじんのおとゞののおとゞののおとどの御御おんむすめなりむすめなりむすめなり。。。
- 3このみかどこのみかどこのみかど天長天長てんちょう四年四年よねん丁未丁未ひのとひつじ八月八月はちがつにむまれにむまれにむまれ給給たまててて。。。みこゝろあきらかにみこゝろあきらかにみこころあきらかに能人能人よきひとをををしろしめせりしろしめせりしろしめせり。。。承和承和じょうわ九年九年くねん壬戌壬戌みずのえいぬ二月二月にがつ廿六日廿六日にじゅうろくにち御元服御元服ごげんぷく。。。同同おなじ年年とし八月八月はちがつ四日四日よっかにたゝせにたゝせにたたせ給給たまふふう。。。
- 4御年御年おおんとし十六十六じゅうろく。。。仁明天皇仁明天皇にんみょうてんのうもとおはするもとおはするもとおわする東宮東宮とうぐうをををとりてとりてとりて。。。このみかどこのみかどこのみかどををを承和承和じょうわ九年九年くねん八月八月はちがつ四日四日よっか東宮東宮とうぐうににに奉奉たてまつらせらせらせ給給たまへるなりへるなりえるなり。。。いかにやすからずおぼしけんとこそおぼえいかにやすからずおぼしけんとこそおぼえいかにやすからずおぼしけんとこそおぼえ侍侍はべれれれ。。。
- 5嘉祥嘉祥かしょう三年三年さんねん庚午庚午かのえうま三月三月さんがつ廿一日廿一日にじゅういちにち位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たま。。。御年御年おおんとし廿四廿四にじゅうし。。。さてさてさて世世よをををたもたせたもたせたもたせ給事給事たまうこと九年九年くねん。。。天安天安てんあん二二に戊刁戊刁つちのえとらののの歲歲とし八月八月はちがつ廿七日廿七日にじゅうしちにちにににうせさせうせさせうせさせ給給たまぬぬぬ。。。御歲御歲おおんとし卅二卅二さんじゅうに。。。
- 6みさゝぎみさゝぎみささぎといふところにありといふところにありというところにあり。。。御母御母みわわののの后后きさき十九十九じゅうくにてぞこのみかどにてぞこのみかどにてぞこのみかどをををうみうみうみ奉奉たてまつりりり給給たまふふう。。。嘉祥嘉祥かしょう三年三年さんねん庚午庚午かのえうま歲歲とし四月四月しがつににに后后きさきにたゝせにたゝせにたたせ給給たまふふう。。。御歲御歲おおんとし四十三四十三しじゅうさん。。。
- 7齊衡齊衡さいこう元年元年がんねん甲戌甲戌きのえいぬ皇太后宮皇太后宮こうたいごうぐうにあがりゐにあがりゐにあがりい給給たまふふう。。。貞觀貞觀じょうがん三年三年さんねん辛巳辛巳かのとみ二月二月にがつ廿九日廿九日にじゅうくにち御出家御出家ごしゅっけ。。。同同おなじ八年八年はちねん丙戌丙戌ひのえいぬ正月正月しょうがつ七日七日なぬか太皇太后宮太皇太后宮たいこうたいごうぐうにあがりゐにあがりゐにあがりい給給たまふふう。。。是是これををを五條五條ごじょう后后きさきととと申申もうすすす。。。
- 8伊勢物語伊勢物語いせものがたりににに業平業平なりひらののの中將中將ちゅうじょうごとにごとにごとに打打うもねなゝんとよみもねなゝんとよみもねななんとよみ給給たまひたるひたるいたるははは。。。此此この宮宮みやののの御御おん事事ことのやうにさぶらふめるのやうにさぶらふめるのようにさぶらうめる。。。いかなるいかなるいかなる事事ことにかにかにかののの后后きさきにかよひにかよひにかよい申申もうされけるあひだのされけるあひだのされけるあいだの事事こととぞとぞとぞうけうけうけ給給たまわりおよぶりおよぶりおよぶ也也なり。。。
- 9五條五條ごじょうののの后后きさきののの御御おんいへといへといえと侍侍はべるるるははは。。。わかぬわかぬわかぬ御御おん中中なかにてにてにて。。。そのみやにやしなはれそのみやにやしなはれそのみやにやしなわれ給給たまへればへればえれば。。。おなじところにおはしけるにやおなじところにおはしけるにやおなじところにおわしけるにや。。。
- 10五十六代五十六代ごじゅうろくだい 清和天皇清和天皇せいわてんのう
- 11つぎのみかどつぎのみかどつぎのみかど清和天皇清和天皇せいわてんのうととと申申もうけるけるける。。。御御おんいみないみないみな惟仁惟仁これいと。。。文德天皇文德天皇もんとくてんのうののの第第だい四四しののの御子御子みこ也也なり。。。御母御母みわわはははととと申申もうききき。。。太政大臣太政大臣だいじょうだいじんおとゞのおとゞのおとどの御御おんむすめむすめむすめ也也なり。。。このみかどこのみかどこのみかどははは嘉祥嘉祥かしょう三年三年さんねん庚午庚午かのえうま三月三月さんがつ廿五日廿五日にじゅうごにち。。。
- 12母母ははがたのがたのがたの御御おんおほぢおほぢおおじ。。。おほきおとゞのおほきおとゞのおおきおとどののいへにてのいへにてのいえにて。。。ちゝみかどのちゝみかどのちちみかどの位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たまててて五日五日いつかといふといふという日日ひ生生うまれれれ給給たまへりけんこそへりけんこそえりけんこそ。。。いかにおりさへいかにおりさへいかにおりさえはははなやかにめでたかりけんとおぼえなやかにめでたかりけんとおぼえなやかにめでたかりけんとおぼえ侍侍はべれれれ。。。
- 13御子御子みこののの。。。東宮東宮とうぐうあらそひしあらそひしあらそいし給給たまへりけんもへりけんもえりけんも。。。このこのこの御御おん事事こととこそおぼゆれとこそおぼゆれとこそおぼゆれ。。。やがてやがてやがて生生うまれたまへるれたまへるれたまえる歲歲としののの十一月十一月じゅういちがつ廿五日廿五日にじゅうごにち。。。東宮東宮とうぐうにたちにたちにたち給給たまててて。。。
- 14天安天安てんあん二年二年にねん戊刁戊刁つちのえとら八月八月はちがつ廿七日廿七日にじゅうしちにち御歲御歲おおんとし九歲九歲くさいにてにてにて位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たま也也なり。。。貞觀貞觀じょうがん六年六年ろくねん正月正月しょうがつ七日七日なぬか御元服御元服ごげんぷく。。。御歲御歲おおんとし十五十五じゅうごなりなりなり。。。世世よをををしらせたまふしらせたまふしらせたまう事事こと十八年十八年じゅうはちねん。。。元慶元慶がんぎょう三年三年さんねん五月五月ごがつ八日八日ようか御出家御出家ごしゅっけなりなりなり。。。
- 15をををののの御門御門みかどととと申申もう。。。このこのこの御御おんすゑぞかしすゑぞかしすえぞかし。。。いまのいまのいまの世世よにににののの武者武者むしゃのぞのぞのぞうううははは。。。それもおほやけのそれもおほやけのそれもおおやけの御御おんかためとこそかためとこそかためとこそはははなるめれなるめれなるめれ。。。御母御母みわわ廿三廿三にじゅうさんにてこのみかどにてこのみかどにてこのみかどをををうみうみうみ奉奉たてまつりりり給給たまへりへりえり。。。
- 16貞觀貞觀じょうがん六年六年ろくねん甲申甲申きのえさる正月正月しょうがつ七日七日なぬか皇后宮皇后宮こうごうぐうにあがりゐにあがりゐにあがりい給給たま。。。きさいのきさいのきさいの位位くらいにてにてにて四十一年四十一年しじゅういちねんおはしますおはしますおわします。。。染殿染殿そめどのののの后后きさきととと申申もう。。。そのそのその御時御時おおんときののの御御おんはははにおはしますにおはしますにおわします。。。
- 17御御おんものゝけのかなはざりけるこそものゝけのかなはざりけるこそもののけのかなわざりけるこそ。。。心心こころうくうくうくははは今生今生こんじょう寇寇あたなりなりなり。。。天安天安てんあん二年二年にねんににに唐唐からよりかへりよりかへりよりかえり給給たまへりへりえり。。。
現代語訳
五十五代 文徳天皇
文徳天皇と申し上げた帝は、仁明天皇の第一皇子である。御諱(いみな)は道康。御母は太皇太后宮藤原順子と申し上げた。その后は、左大臣で贈正一位太政大臣の冬嗣公の御娘である。この帝は天長四年丁未の八月にお生まれになって、ご聡明で、すぐれた人をよくお見分けになった。承和九年壬戌二月二十六日にご元服。同年八月四日、東宮にお立ちになる。御年十六。仁明天皇は、もとからいらっしゃった東宮(恒貞親王)を廃して、この帝を承和九年八月四日に東宮にお立て申し上げなさったのである。(廃された東宮は)どんなに心穏やかでなくお思いになったことだろうと思われます。嘉祥三年庚午三月二十一日、位にお即きになる。御年二十四。そうして世をお治めになること九年。天安二年戊寅の年の八月二十七日にお亡くなりになった。御年三十二。御陵は田村というところにある。
御母の后は十九歳でこの帝をお産み申し上げなさる。嘉祥三年庚午の年の四月に后にお立ちになる。御年四十三。斉衡元年甲戌に皇太后宮にお上がりになる。貞観三年辛巳二月二十九日にご出家。同八年丙戌正月七日に太皇太后宮にお上がりになる。この方を五条后と申し上げる。伊勢物語に、業平の中将が「宵々ごとにうちも寝ななむ」とお詠みになったのは、この宮のことのようでございます。どういうことか、二条の后(高子)のもとにお通い申し上げていたあいだのことと、承り及んでおります。「春や昔の」の歌なども、五条の后のお屋敷でのことと伝えられているのは、(二条の后が)縁の深いお仲で、その宮に養われていらしたので、同じところにお住まいだったのでしょうか。
五十六代 清和天皇
次の帝を清和天皇と申し上げた。御諱は惟仁。文徳天皇の第四の皇子である。御母は明子と申し上げた。太政大臣良房公の御娘である。この帝は、嘉祥三年庚午三月二十五日、母方の祖父である太政大臣(良房)の小一条の邸で、父帝が位にお即きになって五日目という日にお生まれになったとは、なんとまあ折までも華やかでめでたかったことだろうと思われます。惟喬親王が東宮の位を争いなさったというのも、このお方とのことであったと思われます。すぐに、お生まれになった年の十一月二十五日に東宮にお立ちになって、天安二年戊寅八月二十七日、御年九歳で位にお即きになったのである。貞観六年正月七日にご元服。御年十五である。世をお治めになること十八年。元慶三年五月八日にご出家である。水尾の帝と申し上げる。この帝の御末裔なのですよ、今の世の源氏の武者の一族は。それもまた朝廷のお守りとなっているようです。
御母(明子)は二十三歳でこの帝をお産み申し上げなさった。貞観六年甲申正月七日、皇后宮にお上がりになる。后の位に四十一年いらっしゃる。染殿の后と申し上げる。その御時の護持僧は智証大師でいらっしゃる。(その大師でも后の)物の怪を調伏できなかったのは、情けなくも現世での仇(前世からの因縁)なのである。(智証大師は)天安二年に唐から帰っていらっしゃったのである。
意訳
ここから「帝紀」が始まる。世継は帝ごとに、父母・生年・立太子・即位・在位年数・崩御を、年号と干支を添えて正確に記していく。その記録の合間に、ときどき「〜とこそおぼえ侍れ」と自分の感想や逸話をはさむのが、この部分の語り口である。
文徳天皇の立太子の裏には、仁明天皇がもとの東宮恒貞親王を廃した「承和の変」(842年)があった。世継は「いかにやすからずおぼしけん」と、廃された東宮の無念を思いやる。また清和天皇は、父の即位からわずか五日後に生まれ、生後八か月で東宮となった。藤原良房が外孫を帝位につけるために、兄の惟喬親王をさしおいて立太子させたのである。世継は「惟喬の親王の東宮争ひ」にさりげなく触れている。
后たちについては、『伊勢物語』の在原業平の恋の歌が引かれる。五条后順子の邸に住んでいた二条后高子のもとへ業平が忍んで通ったという話である。また、清和天皇の母の染殿后明子が物の怪に悩まされ、智証大師(円珍)の祈禱でも治らなかったという話も添えられ、藤原氏の栄えの始まりに、すでに影がさしていることを感じさせる。
語釈・文法注
- 仁明天皇
- 第五十四代の天皇(810〜850)。嵯峨天皇の皇子。
- いみな
- 諱。生前の実名。
- 順子
- 藤原順子(809〜871)。冬嗣の娘で、仁明天皇の女御、文徳天皇の母。五条后と呼ばれた。
- 冬嗣
- 藤原冬嗣(775〜826)。北家藤原氏の繁栄の基礎を築いた人。
- 東宮をとりて
- もとの皇太子恒貞親王(淳和天皇の皇子)を廃したこと。承和九年(842)の承和の変による。
- 田村
- 文徳天皇の陵がある地。京都市右京区太秦三尾町の田邑陵。文徳天皇は田邑帝とも呼ばれる。
- よひ〳〵ごとに
- 『伊勢物語』第五段の歌「人知れぬわが通ひ路の関守はよひよひごとにうちも寝ななむ」。業平が忍んで通う道の番人に、毎晩眠ってほしいと詠んだ。
- 二條の后
- 藤原高子(842〜910)。長良の娘で、のち清和天皇の女御、陽成天皇の母となる。業平との恋の伝説で知られる。
- はるやむかしの
- 『伊勢物語』第四段の歌「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」。去った女を偲んで業平が詠んだ。
- 明子
- 藤原明子(829〜900)。良房の娘で、文徳天皇の女御、清和天皇の母。染殿后と呼ばれた。
- 良房
- 藤原良房(804〜872)。冬嗣の次男。人臣として初めて摂政となった。
- 小一條
- 良房の邸。のちに忠平・師尹に伝わる。
- これたかの御子
- 惟喬親王(844〜897)。文徳天皇の第一皇子。母は紀名虎の娘静子。文徳天皇は惟喬親王を愛したが、良房の外孫の惟仁親王(清和天皇)が東宮となった。
- みづのをの御門
- 水尾の帝。清和天皇。
- 源氏の武者
- 清和天皇の子孫で臣籍に下った清和源氏。源満仲・頼光らが武士として名をあげた。
- 智證大師
- 円珍(814〜891)。天台宗の僧。唐で学び、天安二年(858)に帰国。
- 御持僧
- 護持僧。天皇の身を守るために祈禱する僧。
文法
- おぼしけんとこそおぼえ侍れ
- 「けん」は過去推量「けむ」の連体形。「こそ〜侍れ」は係り結び。お思いになったのだろうと思われます。
- うせさせ給ぬ
- 「うす(失す)」は亡くなる。「させ給ふ」は最高敬語(二重敬語)で、帝に用いる。
- あがりゐ給ふ
- 后が中宮から皇太后、太皇太后へと位が上がること。
- おはしけるにや
- 「にや」の下に「あらむ」などが省略されている。いらっしゃったのであろうか。
- 生れ給へりけんこそ
- 「り」は完了・存続、「けん」は過去推量、「こそ」の結びは下の「おぼえ侍れ」。
解説
承和の変(842年)は、嵯峨上皇の死の直後、伴健岑・橘逸勢らが謀反を企てたとして流され、皇太子恒貞親王が廃された事件である。これによって、藤原良房の妹順子が産んだ道康親王(文徳天皇)が皇太子となった。藤原北家による他氏排斥の最初の事件とされる。
清和天皇は天安二年(858)に九歳で即位した。史上初めての幼帝であり、外祖父の良房が政治の実権を握った。良房が正式に摂政となったのは貞観八年(866)の応天門の変の後とされる。
染殿后明子に物の怪がとりつき、高僧の祈禱でも治らなかったという話は『今昔物語集』などにも見え、金剛山の聖人が鬼となって后を悩ませたという説話として広く知られた。
関連
出典
- 底本
- 経済雑誌社編『国史大系』第17巻(大鏡) 経済雑誌社、明治34年(1901)、464〜466頁(コマ248–249)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日