おくのほそ道 第43章
天龍寺・永平寺
丸岡の天龍寺に旧知の長老を訪ねる。金沢からずっと同行してきた北枝とここで別れ、「物書て扇引さく余波哉」と名残を惜しむ。さらに五十町山に入って、道元禅師の開いた永平寺に参詣する。

- 1ののの長老長老ちょうろう、、、古古ふるききき因因ちなみあればあればあれば尋尋たずぬぬぬ。。。又又また金澤金澤かなざわのののといふものといふものというもの、、、かりそめにかりそめにかりそめに見送見送みおくりてりてりて此處此處このところまでしたひまでしたひまでしたい來來くるるる。。。所々所々ところどころののの風景過風景過ふうけいすぐさずさずさず思思おもひつゞけてひつゞけていつづけて、、、折節折節おりふしあはれなるあはれなるあわれなる作意作意さくいなどなどなど聞聞きこゆゆゆ。。。今既別今既別いますでにわかれににに望望のぞみてみてみて、、、
- 2物書物書ものかきてててさくさくさく余波余波なごり哉哉かな
- 3五十丁山五十丁山ごじっちょうやまににに入入いてててををを禮禮らいすすす。。。ののの御寺也御寺也みてらなり。。。ををを避避さててて、、、かゝるかゝるかかる山山やま陰陰かげににに跡跡あとをををのこしのこしのこし給給たまふもふもうも、、、貴貴とうときゆへきゆへきゆえ有有ありとかやとかやとかや。。。
現代語訳
丸岡の天龍寺の長老とは古い縁があるので訪ねる。また、金沢の北枝という者が、ほんのちょっと見送るつもりで、ここまでついて来てくれた。道中のあちこちの景色を見過ごさずに句を思いめぐらして、ときおり心にしみる趣向などを聞かせてくれた。今、いよいよ別れにのぞんで、
物書て扇引さく余波哉(夏の間使ってきた扇に句を書きつけ、別れのしるしにそれを引き裂いて分け合う。名残の尽きないことだ)
五十町ほど山に入って、永平寺を拝む。道元禅師の開かれたお寺である。都の近くを千里も避けて、このような山陰に寺を残されたのも、尊いわけがあってのことだという。
意訳
曾良と別れたあとの芭蕉を支えたのは、金沢の刀研ぎ師で俳人の立花北枝であった。北枝は「かりそめに」と言いながら、金沢から丸岡まで付き添い、道中の景色を句にして芭蕉に聞かせた。
秋になって不要になった扇(捨て扇)に句を書き、それを引き裂いて別れのしるしとする――扇を二つに裂くことが、二人の別れの姿そのものに重なっている。
永平寺は、道元が権力から遠ざかり、山深い越前の地に開いた曹洞宗の大本山である。芭蕉はその簡素な精神に敬意を表し、多くを語らない。
語釈・文法注
- 丸岡天龍寺
- 越前国丸岡(福井県坂井市)の天龍寺。曹洞宗の寺。長老の大夢和尚は、江戸の品川天龍寺にいたころからの知り合いであった。
- 北枝
- 立花北枝(?〜1718)。金沢の刀研ぎ師で、俳人。芭蕉の門人となり、金沢から松岡(丸岡)まで同行した。
- 扇引さく
- 扇を引き裂く。扇は夏の物で、秋になると不要になる(捨て扇)。
- 永平寺
- 福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の大本山。寛元二年(1244)、道元が開いた。
- 道元禪師
- 道元(1200〜1253)。宋に渡って禅を学び、曹洞宗を開いた。
- 邦機千里を避て
- 都の近くを千里も避けて。「邦畿千里」は『詩経』の語で、都を中心とした千里四方の地。底本は「邦機」と刷る。
文法
- したひ來る
- 「慕ひ来たる」。ついて来る。
- 過さず
- 見過ごさないで。
- 別に望みて
- 「望み」は「臨み」。別れにのぞんで。
- ゆへ有とかや
- 「ゆへ」は底本のまま(歴史的仮名遣いでは「ゆゑ」)。わけがあるとかいうことだ。
発句・和歌
物書て扇引さく余波哉
- 作者
- 松尾芭蕉
- 状況
- 丸岡の天龍寺で、金沢から同行してきた北枝と別れるときの句。夏の間使った扇に句を書き、引き裂いて分け合う別れの名残を詠む。季語は「扇引さく(捨て扇)」で秋。
修辞
- 季語
- 扇(捨て扇・扇置く)。秋。
- 切れ字
- 「哉」。
解説
芭蕉が北枝と別れたのは、実際には天龍寺のある松岡(現在の福井県永平寺町)で、丸岡とあるのは芭蕉の思い違いとされる。天龍寺の境内には、「物書て」の句碑と、芭蕉と北枝の別れの像が立っている。
永平寺の記述はわずか数行で、句もない。曾良の『随行日記』は曾良が先に行ったので、このあたりの芭蕉の足取りは詳しくわかっていない。
関連
出典
- 底本
- 藤村作編『奥の細道』 至文堂、昭和5年(1930)、33頁(コマ25)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日