紫式部日記 第20章
すきものの歌と正月の戴餅
寛弘六年五月、土御門殿の御堂での法華三十講の夜、月下の舟遊びで斉信が朗詠する。道長は『源氏物語』を見て作者を「すきもの」とからかう歌を贈り、渡殿の戸を叩く人の歌もある。年が明けて寛弘七年正月、二人の皇子の戴餅の儀と臨時客が行われ、酔った道長は作者に歌を詠めと迫る。
- 1十一日十一日じゅういちにちののの曉曉あかつき御御み堂堂どうへへへわたらわたらわたらせせせ給給たまふふう。。。御御み車車くるまにににははは殿殿とののののうへうへうえ、、、人人ひと々々びとははは舟舟ふねにににのりのりのりてててさしさしさしわたりわたりわたりけりけりけり。。。それそれそれにににはははおくれおくれおくれてててようさりようさりようさりまゐるまゐるまいる。。。
- 2敎敎きょう化化け行行おこなふふうところところところ、、、山山やま寺寺でらののの作作さ法法ほううつしうつしうつしててて大大だい懺懺さん悔悔げすすす。。。しらいしらいしらい塔塔とうなどなどなどおほうおほうおおう繪繪えにににかいかいかいててて興興きょうじじじあそびあそびあそび給給たまふふう。。。上達部上達部かんだちめ多多おおくくくはははまかでまかでまかでたまひたまひたまいててて少少すこしししぞぞぞとまりとまりとまり給給たまへへえるるる。。。
- 3後後ご夜夜やののの御御おおん導導どう師師し、、、敎敎きょう化化けともともとも、、、說說せつ相相そう、、、みなみなみな心心こころ々々ごころ二二に十十じゅう人人にんながらながらながら、、、宮宮みやのののかくかくかくててておはしますおはしますおわしますよしよしよしををを、、、こぢかひこぢかひこじかいきしなきしなきしなことことことははは、、、たえてたえてたえて笑笑わらははわるゝるゝるる事事こともももあまたあまたあまたありありあり。。。
- 4事事ことはてはてはてゝゝて殿殿てん上上じょう人人びと舟舟ふねにににのりのりのりててて、、、皆皆みな漕漕こぎぎぎつゞきつゞきつづきてててあそぶあそぶあそぶ。。。御御み堂堂どうのののひんがしひんがしひんがしのののつまつまつま、、、北北きたむきむきむきにににおしおしおしあけあけあけたるたるたる戶戶とのののまへまへまえ、、、いけいけいけにににつくりつくりつくりおろしおろしおろしたるたるたる橋橋はしののの高高こう欄欄らんをををおさへおさへおさえててて宮宮みやののの大大だい夫夫ぶははは居居い給給たまへへえりりり。。。
- 5殿殿とのあからさまあからさまあからさまにににまゐらまゐらまいらせせせ給給たまへへえるるるほどほどほど、、、宰宰さい相相しょうののの君君きみなどなどなど物物もの語語がたりしししててて、、、おおお前前まえなれなれなればばばうちとけうちとけうちとけぬぬぬ用用よう意意い、、、內內うちもももととともももをかしきをかしきおかしきほどほどほどなりなりなり。。。
- 6月月つきおぼろおぼろおぼろにににさしさしさしいでいでいでゝゝて、、、若若わかやかやかやかなるなるなる君君きん達達だち今今いま樣樣よう歌歌うたうたふうたふうたうももも舟舟ふねにににのりのりのりおほせおほせおおせたるたるたるををを、、、若若わこうううをかしくをかしくおかしく聞聞きこゆるゆるゆるににに、、、
- 7大大おお藏藏くらのののおふなおふなおふなおふなおうなおうなまじりまじりまじりててて、、、さすがさすがさすがににに聲聲こえうちうちうちそへそへそえむむんもももつゝましきつゝましきつつましきにににややや、、、忍忍しのびびびやかやかやかにてにてにて居居いたるたるたるうしろでうしろでうしろでのののをかしうをかしうおかしゅう見見みゆれゆれゆればばば、、、みすみすみすのののうちうちうちののの人人ひともももみそかみそかみそかににに笑笑わらふふう。。。
- 8「「「舟舟ふねのののうちうちうちにににややや、、、老老おいをををばばばかこつかこつかこつらむらむらん」」」ととといひいひいいたるたるたるををを、、、きゝきゝききつけつけつけ給給たまへへえるるるにににややや、、、大大だい夫夫ぶ、、、「「「徐徐じょ福福ふく文文ぶん成成せい誑誑こう誕誕たんおほしおほしおおしとととうちうちうちずしずしずし給給たまふふう。。。聲聲こえもももさまさまさまもももこよなうこよなうこよのういまめかしくいまめかしくいまめかしく見見みゆゆゆ。。。
- 9「「「池池いけのののうきうきうき草草くさとととうたひうたひうたいててて、、、笛笛ふえなどなどなど吹吹ふきききあはせあはせあわせたるたるたる曉曉あかつきがたがたがたののの風風かぜのののけはひけはひけわいさへさへさへぞぞぞ心心こころことことことなるなるなる。。。はかないはかないはかないことことことももも所所ところからからからをりをりおりからからからなりなりなりけりけりけり。。。
- 10源源げん氏氏じののの物物もの語語がたりおおおまへまへまえにににあるあるあるををを、、、殿殿とのののの御御ご覽覽らんじじじててて、、、例例れいのののすゞろすゞろすずろごとごとごとゞゞどももも出出いででできききたるたるたるついでついでついでににに、、、梅梅うめのののえだえだえだにににしかしかしかれれれたるたるたる紙紙かみにににかゝかゝかかせせせ給給たまへへえるるる、、、
- 11「「「すきすきすきものものものととと名名なにににしししたてたてたてれれればばば見見みるるる人人ひとのののをらをらおらででですぐるすぐるすぐるはははあらあらあらじじじとととぞぞぞおもふおもふおもう」」」。。。
- 12たまはせたまはせたまわせたれたれたればばば、、、
- 13「「「人人ひとにににまだまだまだをらをらおられれれぬぬぬものものものををを誰誰たれかかかこのこのこのすきすきすきものものものぞぞぞとととはははくちくちくちならしならしならしけむけむけん。。。
- 14めざましうめざましうめざましゅう」」」ととときこゆきこゆきこゆ。。。渡渡わた殿殿どのにににねねねたるたるたる夜夜よ、、、戶戶とをををたゝくたゝくたたく人人ひとありありありととときけきけきけどどど、、、おそろしさおそろしさおそろしさににに音音おともももせせせででであかしあかしあかしたるたるたるつとめてつとめてつとめて、、、
- 15「「「よもすがらよもすがらよもすがら水水くい鷄鷄なよりよりよりけにけにけになくなくなくなくなくなくぞぞぞまきまきまきののの戶戶と口口ぐちにににたゝきたゝきたたきわびわびわびつるつるつる」」」。。。
- 16かへしかへしかへし、、、
- 17「「「たゞたゞただならならならじじじとととばかりばかりばかりたゝくたゝくたたく水水くい鷄鷄なゆゑゆゑゆえあけあけあけてててはははいかにいかにいかに悔悔くやしからしからしからましましまし」」」。。。
- 18ことしことしことし正正しょう月月がつ三日三日みかまでまでまで、、、宮宮みやたちたちたちののの御御おおんいたゞきいたゞきいただきもちひもちひもちいににに日日ひ々々びにににまうまうもうのぼらのぼらのぼらせせせ給給たまふふう。。。御御おおん供供ともににに皆皆みな上上じょう臈臈ろうももも參參まいるるる。。。
- 19左左さ衞衞え門門もんののの督督かみいだきいだきいだき奉奉たてまつりりり給給たまひひいててて、、、殿殿とのもちひもちひもちいはははとりとりとりつぎつぎつぎてててうへうへうえににに奉奉たてまつらららせせせ給給たまふふう。。。ふたふたふたまままののの東東ひんがしのののとととににに向向むかひひいててて、、、うへうへうえののの戴戴いただかかかせせせ奉奉たてまつらららせせせ給給たまふふうなりなりなり。。。おりおりおりのぼらのぼらのぼらせせせたまふたまふたまう儀儀ぎ式式しき見見みものものものなりなりなり。。。大大おお宮宮みやはははのぼらのぼらのぼらせせせ給給たまははわずずず。。。
- 20今今こ年年としのののついたちついたちついたち、、、御御おおんまかなひまかなひまかない宰宰さい相相しょうののの君君きみ、、、例例れいののの物物ものののの色色いろあひあひあいなどなどなど殊殊ことにににいといといとをかしをかしおかし。。。藏藏くら人人うどはははたゝたゝたたにににみやうぶみやうぶみょうぶつかうつかうつこうまつるまつるまつる。。。髪髪かみ上上あげげげたるたるたるかたちかたちかたちなどなどなどこそこそこそ御御おおんまかなひまかなひまかないはははいといといとことことことににに見見みえええ給給たまへへえ。。。
- 21わりなしわりなしわりなしややや、、、くすりくすりくすりののの女女にょう官官かんにてにてにて、、、ふやふやふやののの博士博士はかせ、、、さかしさかしさかしだちだちだちさいらぎさいらぎさいらぎゐゐいたりたりたり。。。たうやくたうやくとうやくくばれくばれくばれるるる例例れいののの事事ことどもどもどもなりなりなり。。。
- 22二日二日ふつか、、、宮宮みやののの大大だい饗饗きょうはははとまりとまりとまりててて、、、臨臨りん時時じひんがしひんがしひんがしおもておもておもてとりとりとりはらひはらひはらいててて、、、例例れいのののことことことしししたりたりたり。。。
- 23上達部上達部かんだちめははは傅傅ふののの大大だい納納な言言ごん、、、右右う大大だい將將しょう、、、中中ちゅう宮宮ぐう大大だい夫夫ぶ、、、四四し條條じょう大大だい納納な言言ごん、、、權權ごん中中ちゅう納納な言言ごん、、、侍侍じ從從じゅうののの中中ちゅう納納な言言ごん、、、左左さ衞衞え門門もん督督のかみ、、、有有あり國國くにののの宰宰さい相相しょう、、、大大おお藏藏くら卿卿きょう、、、左左さ兵兵ひょう衞衞え督督のかみ、、、源源げん宰宰さい相相しょうむかひむかひむかいむかひむかひむかい居居い給給たまへへえりりり。。。
- 24源源げん中中ちゅう納納な言言ごん、、、左左さ兵兵ひょう衞衞え督督のかみ、、、左左さ右右ゆう宰宰さい相相しょう中中ちゅう將將じょうはははなげしなげしなげしのののしもしもしもににに殿殿てん上上じょう人人びとののの座座ざののの上上かみにににつきつきつき給給たまへへえりりり。。。
- 25若若わか宮宮みやいだきいだきいだきいでいでいで奉奉たてまつりりり給給たまひひいててて、、、例例れいのののことことことゞゞどもももいはいはいわせせせ奉奉たてまつりりり、、、うつくしみうつくしみうつくしみ聞聞きこえええさせさせさせ給給たまふふう。。。
- 26うへうへうえににに「「「いといといとみみみやややいだきいだきいだき奉奉たてまつらららむむん」」」ととと殿殿とののたまふのたまふのたまうをををいといといとねたきねたきねたきことことことにににししし給給たまひひいててて「「「あゝあゝああ」」」とととさいなむさいなむさいなむををを、、、うつくしがりうつくしがりうつくしがりきこえきこえきこえ給給たまひひいててて申申もうししし給給たまへへえばばば、、、右右う大大だい將將しょうなどなどなど興興きょうじじじきこえきこえきこえたまふたまふたまう。。。
- 27うへうへうえにににまゐりまゐりまいり給給たまひひいててて、、、うへうへうえ殿殿てん上上じょうにににいでいでいでさせさせさせ給給たまひひいててて御御おおんあそびあそびあそびありありありけりけりけり。。。殿殿との例例れいののの醉醉えははわせせせ給給たまへへえりりり。。。わづらはしわづらはしわずらわしとととおもひおもひおもいてててかくろへかくろへかくろえ居居いたるたるたるににに、、、
- 28「「「などなどなど御御おおんてゝてゝててののの御御おまへまへまえののの御御おおんあそびあそびあそびにににめしめしめしつるつるつるににに、、、さぶらはさぶらはさぶらわででで急急いそぎぎぎまかでまかでまかでにににけるけるける。。。ひがみひがみひがみたりたりたり」」」などなどなどむつからむつからむつからせせせたまへたまへたまえるるる。。。
- 29「「「さるさるさるははは歌歌うた一一ひとつつつ仕仕つこうううまつれまつれまつれ。。。親親おやのののかはりかはりかわりにににははは、、、常常つねののの日日ひなりなりなり。。。よめよめよめよめよめよめ」」」とととせめせめせめさせさせさせたまふたまふたまう。。。うちうちうちいでいでいでむむんにににいといといとかたはかたはかたわならならならむむん、、、
- 30こよなからこよなからこよなからぬぬぬ御御おおん醉醉えいなななめれめれめればばば、、、いとゞいとゞいとど御御おおん色色いろあひあひあいきよげきよげきよげににに、、、ほかげほかげほかげはなやかはなやかはなやかにににあらまほしくあらまほしくあらまほしくててて
- 31「「「年年としごろごろごろ宮宮みやのののすさましげすさましげすさましげにてにてにて一一ひとところところところおはしますおはしますおわしますをををさうざうしくさうざうしくそうぞうしく見見み奉奉たてまつりりりしししににに、、、かくかくかくむつかしきむつかしきむつかしきまでまでまでひだりひだりひだり右右みぎににに見見み奉奉たてまつるるるこそこそこそうれしけれうれしけれうれしけれ」」」ととと大大おお殿殿とのごもりごもりごもりたるたるたる宮宮みやたちたちたちををを、、、ひきひきひきあけあけあけつゝつゝつつ見見み奉奉たてまつりりりたまふたまふたまう。。。
- 32「「「野野の邊邊べににに小小こ松松まつのののなかりなかりなかりせせせばばばとととうちうちうちずしずしずしたまふたまふたまう。。。あたらしからあたらしからあたらしからむむんことことことよりよりよりももも、、、をりふしをりふしおりふしののの人人ひとのののありさまありさまありさまめでたくめでたくめでたく覺覺おぼえええさせさせさせ給給たまふふう。。。
現代語訳
(寛弘六年五月)十一日の明け方、中宮さまは御堂にお渡りになる。御車には殿の北の方が(同乗し)、女房たちは舟に乗って池を渡った。わたしはそれに遅れて、夕方に参上する。
教化を行うところで、山寺の作法をまねて大懺悔をする。白い塔などをたくさん絵に描いて、おもしろがって遊んでいらっしゃる。上達部の多くは退出なさって、少しだけ残っていらっしゃる。
後夜の御導師は、教化も説法の作法も、二十人がみなそれぞれ思い思いに、中宮さまがこうしてこちらにいらっしゃるということを(述べ立てるが)、言葉につまったり言い間違えたりして、笑ってしまうこともたくさんあった。
行事が終わって、殿上人は舟に乗って、みな漕ぎ連なって遊ぶ。御堂の東の端の、北向きに押し開けた戸の前で、池に作りおろした橋の高欄に寄りかかって、中宮の大夫(斉信)は座っていらっしゃった。
殿がちょっと中宮さまのもとに参上なさっているあいだ、宰相の君などと話をしていて、御前なので気を許さない心づかいをしているのも、内も外も趣深いときである。
月がおぼろにさし出て、若々しい公達が今様歌を謡うのも、舟に乗りおおせて、若々しく趣深く聞こえるところに、
大蔵卿(正光)が年がいもなく(舟に)まじって、さすがに声を合わせるのも気がひけるのか、ひっそりと座っている後ろ姿がおかしく見えるので、御簾の内の女房たちもこっそり笑う。
「舟の中で、老いを嘆いているのかしら」と(わたしが)言ったのを、お聞きつけになったのか、中宮の大夫が「徐福文成誑誕多し」と朗詠なさる。声も姿もこの上なく当世風に見える。
「池の浮き草」と謡って、笛などを吹き合わせている明け方の風の気配までも格別である。ちょっとしたことでも、場所がらと折がらによるものなのだった。
『源氏物語』が中宮さまの御前にあるのを、殿がご覧になって、いつものとりとめのない冗談が出てきたついでに、梅の枝の下に敷かれた紙にお書きになった歌、
「好き者(梅の実は酸きもの)という評判が立っているので、見る人で折らずに通り過ぎる者はいないと思う」。
それをくださったので、
「まだ人に折られたこと(なびいたこと)もありませんのに、だれがこのわたしを好き者だなどと言いふらしたのでしょう。
心外なことです」と申し上げる。渡殿に寝た夜、戸を叩く人があると聞いたけれど、恐ろしさに音も立てずに夜を明かした翌朝、
「一晩じゅう、水鶏よりもいっそう泣く泣く、槙の戸口で戸を叩きあぐねたことだ」。
返歌、
「ただごとではないとばかりに戸を叩く水鶏のような方のために、戸を開けていたら、どんなに後悔したことでしょう」。
今年(寛弘七年)の正月三日まで、宮たち(敦成・敦良親王)の戴餅の儀のために、毎日(清涼殿へ)参上なさる。お供には上臈女房もみな参る。
左衛門の督(頼通)がお抱き申し上げて、殿が餅を取り次いで帝に差し上げなさる。二間の東の戸に向かって、帝が(宮たちの頭に)餅をお戴かせになるのである。宮たちが上り下りなさる儀式は見ものである。中宮さまはお上りにならない。
今年の元日のお給仕役は宰相の君で、例によって衣の色の取り合わせなどが格別に美しい。蔵人の役は、たたにみやうぶが奉仕する。髪上げをした姿などは、お給仕役がことに立派に見えなさる。
困ったことに、薬の女官として、文屋の博士が利口ぶって出しゃばって座っていた。屠蘇を配るのは例年どおりのことである。
二日、中宮の大饗は中止になって、臨時客を東面を取り払って、例年どおりに行った。
上達部は、傅の大納言(道綱)、右大将(実資)、中宮大夫(斉信)、四条大納言(公任)、権中納言(隆家)、侍従の中納言(行成)、左衛門督(頼通)、有国の宰相、大蔵卿(正光)、左兵衛督(実成)、源宰相(頼定)が向かい合って座っていらっしゃる。
源中納言(俊賢)、左兵衛督、左右の宰相中将(経房・兼隆)は、長押の下の、殿上人の座の上座にお着きになった。
(殿は)若宮を抱いてお出ましになって、いつものお決まりの言葉を言わせ申し上げ、かわいがり申し上げなさる。
北の方に「今宮(敦良親王)をお抱き申し上げましょう」と殿がおっしゃるのを、(若宮が)たいそうねたましく思われて「ああ」とお責めになるのを、かわいらしくお思いになって(なだめて)申し上げなさるので、右大将などはおもしろがり申し上げなさる。
殿は帝のもとに参上なさって、帝が殿上の間にお出ましになって管絃の遊びがあった。殿は例によって酔っていらっしゃる。面倒だと思って隠れていると、
「どうしておまえの父親は、帝の御前の管絃の遊びにお召ししたのに、お仕えしないで急いで退出してしまったのか。ひねくれている」などとご機嫌を損ねていらっしゃる。
「その代わりに歌を一首詠め。親の代わりにな。今日は(初子の日ではなく)ふつうの日だ。詠め詠め」とお責めになる。(ここで)詠み出したら、たいそう見苦しいだろう。
(殿は)ひどくはないお酔いようなので、いっそうお顔の色も美しく、灯影に華やかで申し分のないようすで、
「長年、中宮さまが(お子もなく)さびしそうにお一人でいらっしゃるのを物足りなく見申し上げていたが、こうしてうるさいほどに左右に(宮たちを)見申し上げるのはうれしいことだ」と、おやすみになっている宮たちを、夜具を引き開けては見申し上げなさる。
「野辺に小松のなかりせば」と口ずさみなさる。新しく詠む歌よりも、その折の殿のご様子が、すばらしく思われなさる。
意訳
ここから再び日付のある記録に戻る。寛弘六年五月、土御門殿の御堂で法華三十講が行われ、中宮も参詣した。
山寺の作法をまねた懺悔や、塔の絵を描いて興じる様子が描かれる。
導師たちが中宮の参詣をほめたたえようとして、言葉につまったりするのを、女房たちは笑う。
法会のあと、殿上人は舟遊びに出る。斉信は橋の高欄に寄りかかっている。
作者は宰相の君と話をしている。御前なので緊張を解かずにいる。
おぼろ月の下、若い公達が今様歌を謡う。
年配の大蔵卿正光が若者にまじって舟に乗り、声を合わせられずに黙っている姿を、女房たちは笑う。
作者が「老いを嘆いているのかしら」と言うと、斉信が白居易の詩の一句を朗詠する。舟に乗って不老を求めた徐福の故事を引いた、機知に富んだ応答である。
明け方の風の気配まで格別に感じられる。何気ないことも、場所と時によって趣が変わる。
道長は『源氏物語』を見て、梅の実の下の紙に作者をからかう歌を書く。
道長の歌は、梅の実を「酸きもの」と言い、それを「好き者(恋多き者)」に掛ける。『源氏物語』のような恋の物語を書く作者は、さぞ恋多き女だろう、とからかったのである。
作者はそれに返歌する。
作者の歌は、まだ誰にも折られていないのに、と反論する。
「めざましう(心外です)」と付け加える。続いて、ある夜、作者の局の戸を叩く人があった話が書かれる。作者は恐ろしくて戸を開けなかった。
翌朝、戸を叩いた人から歌が届く。水鶏の鳴き声は戸を叩く音に似ているとされた。
作者の返歌。
作者は、開けていたら後悔したでしょう、と応える。戸を叩いた人を道長とする古くからの説があるが、本文には明記されていない。
寛弘七年正月。中宮は前年十一月に二人目の皇子敦良親王を産んでいた。二人の皇子の戴餅の儀が行われる。
頼通が皇子を抱き、道長が餅を取り次ぎ、帝が皇子の頭に餅を戴かせる。
元日の給仕役は宰相の君で、装束の色合いが美しい。
屠蘇を配る薬の女官として、文屋の博士が出しゃばっているのを、作者は困ったことだと見る。
二日、中宮の大饗は取りやめになり、臨時客が行われる。
参集した公卿たちの顔ぶれを記録する。
座の配置。
道長は若宮を抱いて現れ、お決まりの言葉を言わせて可愛がる。
道長が「今宮(弟宮)を抱こう」と言うと、若宮は嫉妬して抗議する。それを道長がかわいがる、ほほえましい場面である。
帝の御前で管絃の遊び。酔った道長を避けて、作者は隠れる。
道長は、作者の父為時が管絃の遊びに召されたのに退出したと、作者に文句を言う。
道長は父の代わりに歌を詠めと迫る。
しかし道長はそれほど酔っておらず、灯影に美しい顔をしている。
道長は、長年中宮が一人で寂しげだったのが、今は左右に皇子がいてうれしいと、眠る孫たちの顔をのぞきこむ。
道長は「野辺に小松のなかりせば」と口ずさむ。作者は、新しく歌を詠むよりも、このときの道長の姿こそすばらしいと感じる。孫に囲まれた道長の幸福を描いて、日記は終わりに近づく。
語釈・文法注
- 大藏卿
- 藤原正光(957〜1014)。このとき五十代。
- 「徐福文成誑誕おほし」
- 白居易「新楽府」の「海漫漫」の一句「徐福文成多誑誕」。不老不死の薬を求めて船出した方士徐福や文成のことばは偽りが多い、の意。作者の「老いを嘆く」という言葉を受けて朗詠した。
- 「池のうき草」
- 催馬楽または風俗歌の一節と考えられる。
- 臨時客
- 正月二日ごろ、摂関家などで公卿を招いて催す宴。
- 「野邊に小松のなかりせば」
- 『拾遺和歌集』春・壬生忠岑「子の日する野辺に小松のなかりせば千代のためしに何を引かまし」の一句。小松に孫の皇子たちをなぞらえた。
文法
- 「こぢかひきしなことは」
- 底本のまま。言葉がつかえたり、言い間違えたりすること、と解した。
- 「內もともをかしきほどなり」
- 「內も外も」の意。御簾の内も外も。
- 「おふなおふな」
- 「おふなおふな(年がいもなく、むりやり)」の意と解した。
- 「藏人はたゝにみやうぶつかうまつる」
- 底本のまま。蔵人の役を「たたにみやうぶ(命婦)」がつとめた、と解した。
- 「ふやの博士」「さいらぎゐたり」「たうやく」
- 底本のまま。「ふや」は文屋(ふんや)、「さいらぎゐる」は出しゃばって座る、「たうやく」は屠蘇などの当薬と解した。
- 「いとみやいだき奉らむ」
- 底本のまま。通行本文は「今宮(いまみや)を抱き奉らむ」で、それに従って解した。
- 「あたらしからむことよりも」
- 底本のまま。新しく歌を詠むよりも、と解した。
和歌
すきものと名にしたてれば見る人のをらですぐるはあらじとぞおもふ
- 詠者
- 藤原道長
- 状況
- 中宮の御前にあった『源氏物語』を見て、梅の実の下に敷かれた紙に書いて作者に贈った歌。
修辞
- 掛詞
- 「すきもの」に「酸きもの(梅の実)」と「好き者(恋多き人)」を掛ける。
- 縁語
- 「すきもの」「をらで」と、梅の実にちなむ語を重ねる。
人にまだをられぬものを誰かこのすきものぞとはくちならしけむ
- 詠者
- 紫式部
- 状況
- 道長の歌への返歌。
修辞
- 掛詞
- 「をられぬ」に「(梅が)折られぬ」と「(男に)なびかぬ」、「くちならし」に「口慣らし(言いふらす)」と「(梅を)口にする」を掛ける。
- 言葉の受け
- 道長の「すきもの」「をらで」をそのまま受けて打ち消す。
よもすがら水鷄よりけになくなくぞまきの戶口にたゝきわびつる
- 詠者
- 戸を叩いた人(道長とする説がある)
- 状況
- 作者の局の戸を夜通し叩いたが開けてもらえなかった人が、翌朝贈ってきた歌。
修辞
- 見立て
- 戸を叩く自分を、戸を叩くような声で鳴く水鶏にたとえる。
- 掛詞
- 「なくなく」に「(水鶏が)鳴く」と「泣く泣く」を掛ける。
たゞならじとばかりたゝく水鷄ゆゑあけてはいかに悔しからまし
- 詠者
- 紫式部
- 状況
- 戸を叩いた人の歌への返歌。
修辞
- 反実仮想
- 「あけては〜まし」で、もし開けていたら後悔しただろう、と言う。
- 言葉の受け
- 相手の「水鷄」「たゝき」を受けて返す。
解説
消息文のあと、日記は再び日付のある記事に戻る。寛弘六年五月の法華三十講、そして寛弘七年正月の戴餅の儀と臨時客である。寛弘六年十一月には中宮が第二皇子敦良親王(のちの後朱雀天皇)を出産しており、道長の喜びはいっそう大きなものになっていた。
道長の「すきもの」の歌は、『源氏物語』の作者である紫式部を、恋の道に通じた女とからかったもので、作者はきっぱりと否定する。続く「戸をたたく人」の贈答は、相手が道長であるとする説が古くからあり、『尊卑分脈』が紫式部を「道長妾」と記すことの根拠ともされたが、本文からは断定できない。
正月の場面では、二人の孫の皇子に囲まれた道長の幸福が描かれる。弟宮を抱こうとする道長に兄宮がやきもちを焼く場面や、眠る孫たちの顔をのぞきこむ道長の姿は、権力者の素顔を伝えて印象深い。
関連
出典
- 底本
- 丸岡桂・松下大三郎編『国文大観』日記草子部(紫式部日記) 板倉屋書房、明治36年(1903)、413–416頁(コマ218–220)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日