万葉集 巻第十一 2714〜2719番
もののふの 八十氏川の
宇治川の早瀬に立っていられないように、立っていられない恋をする。神名火の石淵に隠れるように、心に隠して恋い続けるのか。高山から流れ出る水が岩に当たって砕けるように、心砕けて思う、妹に逢えない夜は。井堤を越す波のように今は逢えないのに、滝のように噂が響く。岩根に激して流れる水の音のように、声には出すまい、恋い死んでも。隠れ沼のように心の中で恋うので飽き足らず、人に語ってしまった、慎むべきだったのに。川・淵・水に寄せた歌六首。
題詞(物に寄せて思を陳ぶ)
- 1もののふもののふもののふののの物部乃2714
- 2八十八十やそ氏氏うじ川川がわののの八十氏川之
- 3早早はやききき瀨瀨せににに急瀨
- 4立立たちちち得得えぬぬぬ戀戀こいももも立不得戀毛
- 5吾吾われはははするするするかもかもかも吾爲鴨
- 6神名火神名火かむなびののの神名火2715
- 7打打うちちち廻廻たむむむ埼埼さきののの打廻前乃
- 8石石いわ淵淵ぶちののの石淵
- 9隱隱こもりりりてててのみのみのみややや隱而耳八
- 10吾吾わががが戀戀こひひい居居おらららむむん吾戀居
- 11高高たか山山やまよよよ自高山2716
- 12出出いででで來來くるるる水水みずののの出來水
- 13岩岩いわににに觸觸ふりりり石觸
- 14破破われれれてててぞぞぞ念念おもふふう破衣念
- 15妹妹いもににに逢逢あははわぬぬぬ夕夕よははは妹不相夕者
- 16朝朝あさ東風東風こちににに朝東風爾2717
- 17井提井提いで越越こすすす浪浪なみののの井堤越浪之
- 18まさかまさかまさかにににももも世蝶似裳
- 19逢逢あははわぬぬぬものものものゆゑゆゑゆえ不相鬼故
- 20瀧瀧たぎもももとどろとどろとどろににに瀧毛響動二
- 21高高たか山山やまののの高山之2718
- 22石石いわ本本もと激激たぎちちち石本瀧千
- 23逝逝ゆくくく水水みずののの逝水之
- 24音音おとにににははは立立たてててじじじ音爾者不立
- 25戀戀こひひいててて死死しぬぬぬともともとも戀而雖死
- 26隱隱こもり沼沼ぬののの隱沼乃2719
- 27下下したににに戀戀こふれふれうればばば下爾戀者
- 28飽飽あき足足たらららずずず飽不足
- 29人人ひとににに語語かたりりりつつつ人爾語都
- 30忌忌いむむむべきべきべきものものものををを可忌物乎
現代語訳
〔2714〕(もののふの)八十宇治川の流れの速い瀬に立っていられないように、立っていられないほどの恋を、私はすることだ。
〔2715〕神名火の、川がめぐり流れる岬の石淵のように、心に隠してばかり、私は恋い続けるのだろうか。
〔2716〕高い山から流れ出る水が岩に当たって砕けるように、心が砕けて思うことだ。いとしい人に逢えない夜は。
〔2717〕朝の東風に井堤を越す波のように、今は逢えないのに、噂ばかりが滝のようにとどろくことだ。
〔2718〕高い山の岩の根元で激しく流れる水の音のように、声に立てて人に知られることはするまい。たとえ恋い死にしても。
〔2719〕隠れ沼のように心の中で恋い慕っているので、満ち足りずに、人に語ってしまった。慎むべきことだったのに。
意訳
川・淵・水に寄せた歌である。宇治川の早瀬のように立っていられない恋、淵に隠れるように心に秘めた恋、岩に砕ける水のように逢えない夜に心砕ける歌、逢えないのに噂ばかりとどろく嘆き、恋い死んでも声には出すまいという誓い、心に秘めきれず人に語ってしまった後悔が並ぶ。
語釈・文法注
文法・本文
- もののふの
- 「八十」にかかる枕詞。
- 八十氏川
- 宇治川。
- 打ち廻む
- 「うちたむ」。めぐり流れる。
- 破れてぞ念ふ
- 心砕けて思う。
- 井提
- 「ゐで」。川の水をせき止めた所。
- まさかにも
- 今は。白文は「世蝶似裳」と書く。
- 激ち
- 「たぎち」。激しく流れて。
- 隱沼
- 「こもりぬ」。草に覆われて見えない沼。
和歌
- 作者
- 作者未詳
- 出典
- 『万葉集』巻第十一・相聞・2714〜2719番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 作者未詳(時代を問わない)
- 状況
- 寄物陳思(川・淵・水に寄せる)。作者未詳。
修辞
- 序詞
- 各首の上句が、川や水の様子から恋のありさまを導く。
- 枕詞
- 2714番の「もののふの」。
解説
2716番の「岩に觸り破れてぞ念ふ」は、砕け散る水に恋の苦しみを重ね、後世の「岩打つ波のおのれのみ砕けて物を思ふ」の発想に通じる。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』下巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、451頁(コマ18)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』下巻 岩波書店、昭和5年(1930)、519頁(コマ23)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日