万葉集 巻第十一 2651〜2655番
難波人 葦火焚く屋の
難波の人が葦火を焚く家のように煤けていても、自分の妻こそいつも愛しい。放ち駒が荒れて去ったらしい、逢ってくれないのを思うと。馬の足音がすると松陰に出て見た、もしや君かと。君を恋うて眠れない明け方に、誰の馬の足音を聞かせるのか。紅の裳裾を引く道を間にして、私が通おうか君が来るか。葦火・駒・馬・裳に寄せた歌五首。
場面イラスト(準備中)
題詞(物に寄せて思を陳ぶ)
- 1難波難波なにわ人人びと難波人2651
- 2葦葦あし火火び焚焚たくくく屋屋やののの葦火燎屋之
- 3煤煤すしししてててあれあれあれどどど酢四手雖有
- 4己己おのががが妻妻つまこそこそこそ己妻許增
- 5常常とこめづらしきめづらしきめずらしき常目頰次吉
- 6妹妹いもががが髮髮かみ妹之髮2652
- 7上上あげ竹竹たか葉葉は野野ぬののの上小竹葉野之
- 8放放はなちちち駒駒ごま放駒
- 9荒荒あれれれ去去ゆきききけらしけらしけらし蕩去家良思
- 10逢逢あははわなくなくなく思思おもへへえばばば不合思者
- 11馬馬うまののの音音とののの馬音之2653
- 12とどとどとどととともももすれすれすればばば跡杼登毛爲者
- 13松松まつ蔭蔭かげににに松陰爾
- 14出出いでででてててぞぞぞ見見みつるつるつる出曾見鶴
- 15蓋蓋けだししし君君きみかかかととと若君香跡
- 16君君きみににに戀戀こひひい君戀2654
- 17寢寢いねねねぬぬぬ朝朝あさ明明けににに寢不宿朝明
- 18誰誰たががが乘乘のれれれるるる誰乘流
- 19馬馬うまののの足足あ音音のとぞぞぞ馬足音
- 20吾吾われににに聞聞きかかかするするする吾聞爲
- 21くれなゐくれなゐくれないののの紅之2655
- 22裾裾すそ引引ひくくく道道みちををを襴引道乎
- 23中中なかににに置置おきききててて中置而
- 24妾妾わしややや通通かよははわむむん妾哉將通
- 25君君きみややや來來きまままさささむむん公哉將來座
現代語訳
〔2651〕難波の人が葦火を焚く家のように煤けてはいるけれど、自分の妻こそいつまでも愛しいものだ。
〔2652〕(妹が髪)上竹葉野の放ち飼いの駒のように、あの人の心は荒れて離れて行ったらしい。逢ってくれないのを思うと。
〔2653〕馬の足音がとどろくと、松の木陰に出て見たことだ。もしやあなたかと思って。
〔2654〕あなたを恋しく思って眠れなかった明け方に、誰が乗っている馬の足音を、私に聞かせるのか。
〔2655〕紅の裳裾を引いて歩く道を間にして、私が通って行こうか、あなたがおいでになるだろうか。
意訳
葦火・駒・馬・裳に寄せた歌である。煤けていても自分の妻がいちばん愛しいという男の歌、放ち駒のように心が離れていったらしい恋人を嘆く歌、馬の足音に恋人かと松陰に出て見る女の歌、眠れぬ明け方によその馬の足音を聞くつらさ、恋人の家との間の道をどちらが通うかという歌が並ぶ。
語釈・文法注
文法・本文
- 葦火
- 葦を燃やす火。煙が多く、家が煤ける。
- 常めづらしき
- いつも愛しい。
- 妹が髮
- 髪を上げる意で「上竹葉野」にかかる枕詞。
- 放ち駒
- 放し飼いの馬。
- とど
- 馬の足音のとどろき。
- 蓋し
- 「けだし」。もしや。
- 足音
- 「あのと」。足音。
- 妾
- 「わし」。わたし。
和歌
- 作者
- 作者未詳
- 出典
- 『万葉集』巻第十一・相聞・2651〜2655番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 作者未詳(時代を問わない)
- 状況
- 寄物陳思(葦火・駒・馬・裳に寄せる)。作者未詳。
修辞
- 序詞
- 2651番の上三句が「煤してあれど」を、2652番の上三句が「荒れ去き」を導く。
- 対句
- 2655番の「妾や通はむ君や來まさむ」。
解説
2651番は、煤けた家の妻を愛しむ庶民の夫婦愛を伝える歌として親しまれている。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』下巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、446頁(コマ16)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』下巻 岩波書店、昭和5年(1930)、514頁(コマ21)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日