万葉集 巻第十一 2527〜2532番
誰ぞ此の 吾が屋戸に來喚ぶ
母に叱られて物思いをしている私を、誰が家に呼びに来るのか。共寝しない夜が千夜あっても、あなたが後悔するような心は持たない。家の人は道を頻りに通うのに、待つ妹の使いは来ない。竹垣の編み目からでも妹が見えれば恋しくはない。あなたの名を言うまいと命は捨てた、忘れないで。いい加減な気持ちなら誰に見せようと黒髪を靡けているか。正述心緒の歌六首。
場面イラスト(準備中)
題詞(正に心緒を述ぶ)
- 1誰誰たぞぞぞ此此こののの誰此乃2527
- 2吾吾わががが屋戸屋戸やどににに來來き喚喚よぶぶぶ吾屋戸來喚
- 3垂乳根垂乳根たらちねののの足千根
- 4母母ははににに嘖嘖ころばえばえばえ母爾所嘖
- 5物物もの思思おもふふう吾吾われををを物思吾呼
- 6さささ宿宿ねぬぬぬ夜夜よははは左不宿夜者2528
- 7千千ち夜夜よもももありありありともともとも千夜毛有十方
- 8我我わが背背せ子子こががが我背子之
- 9思思おもひひい悔悔くゆゆゆべきべきべき思可悔
- 10心心こころははは持持もたたたじじじ心者不持
- 11家家いえ人人びとははは家人者2529
- 12路路みちももも頻繁頻繁しみみににに路毛四美三荷
- 13通通かよへへえどもどもども雖往來
- 14吾吾わががが待待まつつつ妹妹いもががが吾待妹之
- 15使使つかい來來こぬぬぬかもかもかも使不來鴨
- 16あらたまあらたまあらたまののの璞之2530
- 17柵戸柵戸きえががが竹竹たか垣垣がき寸戸我竹垣
- 18編編あみ目目めゆゆゆももも編目從毛
- 19妹妹いもししし見見みえええなばなばなば妹志所見者
- 20吾吾われ戀戀こひひいめめめやややももも吾戀目八方
- 21吾吾わが背背せ子子こががが吾背子我2531
- 22其其そののの名名な告告のらららじじじととと其名不謂跡
- 23たまきはるたまきはるたまきわる玉切
- 24命命いのちははは棄棄すてててつつつ命者棄
- 25忘忘わすれれれたまふたまふたまうななな忘賜名
- 26凡凡おおならならならばばば凡者2532
- 27誰誰たががが見見みむむむとととかもかもかも誰將見鴨
- 28ぬばたまぬばたまぬばたまののの黑玉乃
- 29我我わががが黑黑くろ髮髮かみををを我玄髮乎
- 30靡靡なびけけけててて居居おらららむむん靡而將居
現代語訳
〔2527〕誰だろう、わが家に来て呼ぶのは。(垂乳根の)母に叱られて物思いをしている私を。
〔2528〕共寝をしない夜が千夜あったとしても、あなたが後悔するような心は持つまい。
〔2529〕家の人は道もひっきりなしに通って来るけれど、私が待つあの人の使いは来ないことだ。
〔2530〕(あらたまの)柵戸の竹垣の編み目からでも、あの人が見えたなら、私がこれほど恋しく思うだろうか。
〔2531〕あなたの名を言うまいと、(たまきはる)命は捨てた。忘れないでください。
〔2532〕いい加減な気持ちなら、誰が見るだろうと、(ぬばたまの)私の黒髪をなびかせていようか。
意訳
正述心緒の歌の続きである。母に叱られて物思いをしている時に呼びに来た恋人、共寝しない夜が続いても心変わりはしないという誓い、家の者は行き来するのに恋人の使いは来ないという嘆き、竹垣の隙間からでも見えればという思い、恋人の名を明かさないために命を捨てる覚悟、あなたに見せるためにこそ黒髪をなびかせているという女の歌が並ぶ。
語釈・文法注
文法・本文
- 嘖ばえ
- 「ころばえ」。叱られて。
- 頻繁に
- 「しみみに」。ぎっしりと、しきりに。
- 柵戸
- 「きへ」。地名とも、柵の戸とも。
- 凡ならば
- 「おほならば」。いい加減な気持ちなら。
和歌
- 作者
- 作者未詳
- 出典
- 『万葉集』巻第十一・相聞・2527〜2532番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 作者未詳(時代を問わない)
- 状況
- 正述心緒。作者未詳。
修辞
- 枕詞
- 「垂乳根の」「あらたまの」「たまきはる」「ぬばたまの」を用いる。
解説
2531番は、恋人の名を守るために命を捨てるという、女性の激しい誓いの歌である。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』下巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、438頁(コマ12)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』下巻 岩波書店、昭和5年(1930)、503頁(コマ15)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日