万葉集 巻第十一 2485〜2490番
袖振るが 見ゆべきかぎり
袖を振るのが見える所まで来たのに、あの松の枝に隠れてしまった。血沼の海の浜辺の小松が根を深く張るように恋い続ける。奈良山の小松の梢のように、どうして思う妹に逢わずに終わろうか。磯の回香樹のように心深く思い始めたのか。橘の下で下枝を取り、実るかと問うた子よ。天雲に翼を打つ鶴のようにたどたどしい、君がいないので。木・鳥に寄せた歌六首。
場面イラスト(準備中)
題詞(物に寄せて思を陳ぶ)
- 1袖袖そで振振ふるるるががが袖振2485
- 2見見みゆゆゆべきべきべきかぎりかぎりかぎり可見限
- 3吾吾われはははあれあれあれどどど吾雖有
- 4其其そののの松松まつががが枝枝えににに其松枝
- 5隱隱かくりりりたりたりたりけりけりけり隱在
- 6血沼血沼ちぬののの海海うみののの珍海2486
- 7濱濱はま邊邊べののの小小こ松松まつ濱邊小松
- 8根根ね深深ふかめめめててて根深
- 9吾吾わががが戀戀こひひいわたるわたるわたる吾戀度
- 10人人ひとののの子子こゆゑゆゑゆえににに人子姤
- 11奈良奈良なら山山やまののの平山2487
- 12小小こ松松まつががが末末うれののの子松末
- 13うれむぞうれむぞうれむぞははは有廉叙波
- 14我我わががが思思おもふふう妹妹いもににに我思妹
- 15逢逢あははわずずず止止やみみみなむなむなん不相止者
- 16礒礒いそののの上上うえににに礒上2488
- 17立立たてててるるる回香樹回香樹むろのき立回香樹
- 18心心こころいたくいたくいたく心哀
- 19何何なにににに深深ふかめめめててて何深目
- 20思思おもひひい始始そめめめけむけむけん念始
- 21橘橘たちばなののの橘2489
- 22下下もとににに我我われ立立たちちち本我立
- 23下下しず枝枝え取取とりりり下枝取
- 24成成ならららむむんややや君君きみととと成哉君
- 25問問とひひいししし子子こらららはははももも問子等
- 26天天あま雲雲ぐもににに天雲爾2490
- 27翼翼はねうちうちうちつけつけつけててて翼打附而
- 28飛飛とぶぶぶ鶴鶴たずののの飛鶴乃
- 29たづたづたづたづたずたずしかもしかもしかも多頭多頭思鴨
- 30君君きみ坐坐いまさささねねねばばば君不座者
現代語訳
〔2485〕あの人が袖を振るのが見えるはずの所まで私はいるけれど、あの松の枝に隠れてしまったことだ。
〔2486〕血沼の海の浜辺の小松が根を深く張るように、心深く私は恋い続ける。人の子のために。
〔2487〕奈良山の小松の梢の「うれ」ではないが、どうして、私の思う人に逢わずに終わることがあろう。
〔2488〕磯の上に立っている回香樹のように、心痛く、どうしてこれほど深く思い始めたのだろう。
〔2489〕橘の木の下に私が立って、下枝を手に取り、実はなるでしょうかあなた、と尋ねたあの子は、ああ。
〔2490〕天雲に翼を打ちつけて飛ぶ鶴の「たづ」のように、たどたどしく心もとないことだ、あなたがおいでにならないので。
意訳
木と鳥に寄せた恋の歌である。旅立つ恋人が振る袖が松の枝に隠れて見えなくなった別れ、血沼の浜の小松の根のように深い恋、奈良山の小松の梢にかけてどうして逢わずにいられようかという歌、磯の回香樹のように深く思い始めた恋、橘の下で恋が実るかと問うた娘を懐かしむ歌、恋人がいないので鶴のようにたどたどしいという歌が並ぶ。
語釈・文法注
文法・本文
- うれむぞ
- どうして。
- 回香樹
- 「むろのき」。ねず、ひのき科の木。
- 成らむや
- 実がなるだろうか、恋が実るだろうか。
- たづたづし
- たどたどしい、心もとない。
和歌
- 作者
- 作者未詳
- 出典
- 『万葉集』巻第十一・相聞・2485〜2490番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 第2期(672〜710年(壬申の乱〜平城京遷都))
- 状況
- 寄物陳思。木・鳥に寄せた歌。柿本人麻呂歌集に出る。
修辞
- 序詞
- 2486番の上三句が「深めて」を、2487番の上二句が「うれむぞ」を、2490番の上三句が「たづたづし」を導く。
解説
2489番は、恋の成就を橘の実のなることに重ねた、問いかけの言葉を生かした歌である。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』下巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、434頁(コマ10)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』下巻 岩波書店、昭和5年(1930)、499頁(コマ13)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日