万葉集 巻第十一 2438〜2443番
人言は 暫しぞ吾妹
人の噂はしばらくのこと、綱手を引く海のように深く思う。近江の海の沖つ島山のように奥深く思う妹に噂がうるさい。近江の海の沖を漕ぐ船に碇をおろして君の言葉を待つ。隠れ沼の下で恋えばすべがなく、妹の名を口にした。大地は掘り尽くせても世の中で尽きないのは恋。隠れた沢の泉の岩根を通して思う。海・沼・地に寄せた歌六首。
場面イラスト(準備中)
題詞(物に寄せて思を陳ぶ)
- 1人人ひと言言ごとははは人事2438
- 2暫暫しましぞぞぞ吾吾わぎ妹妹も暫吾妹
- 3綱綱つな手手で引引ひくくく繩手引
- 4海海うみゆゆゆ益益まさりりりててて從海益
- 5深深ふかくくくししし念念おもふふうををを深念
- 6淡海淡海おうみののの海海うみ淡海2439
- 7おきおきおきつつつ島島しま山山やま奧島山
- 8奧奧おくまけまけまけててて奧儲
- 9吾吾わががが念念おもふふう妹妹いもににに吾念妹
- 10言言ことののの繁繁しげけくけくけく事繁
- 11近江近江おうみののの海海うみ近江海2440
- 12おきおきおきこぐこぐこぐ船船ふねににに奧滂船
- 13碇碇いかりおろしおろしおろし重下
- 14藏藏かくれれれててて君君きみががが藏公之
- 15言言こと待待まつつつ吾吾われぞぞぞ事待吾序
- 16隱隱こもり沼沼ぬののの隱沼2441
- 17下下したゆゆゆ戀戀こふれふれうればばば從裏戀者
- 18すべすべすべををを無無なみみみ無乏
- 19妹妹いもががが名名な告告のりりりつつつ妹名告
- 20忌忌いむむむべきべきべきものものものををを忌物矣
- 21大大おお地地つちももも大土2442
- 22採採とらららばばば盡盡つきききめめめどどど採雖盡
- 23世世よののの中中なかににに世中
- 24盡盡つきききせせせぬぬぬものものものははは盡不得物
- 25戀戀こいにににしししありありありけりけりけり戀在
- 26隱處隱處こもりどののの隱處2443
- 27澤澤さわ泉泉いずみなるなるなる澤泉在
- 28石石いわ根根ねをををももも石根
- 29通通とおしししてててぞぞぞ念念おもふふう通念
- 30吾吾わががが戀戀こふらくふらくうらくははは吾戀者
現代語訳
〔2438〕人の噂はしばらくのことだ、いとしい人よ。綱手を引く海よりもまさって、深く思っているのだから。
〔2439〕近江の海の沖の島山のように、心の奥深くに思っている人のことで、噂がうるさいことだ。
〔2440〕近江の海の沖を漕ぐ船が碇をおろすように、隠れてあなたの言葉を待っているのは私なのです。
〔2441〕隠れ沼のように心の底で恋しく思っていると、どうしようもなくて、いとしい人の名を口にしてしまった。口にしてはならないものなのに。
〔2442〕大地も掘り取れば尽きてしまうだろうが、この世の中で尽きることがないものは、恋なのだ。
〔2443〕隠れた所の沢の泉が岩根をも通して湧き出るように、通して思う、私の恋は。
意訳
海・沼・大地・泉に寄せた恋の歌である。噂はしばらくのことで、思いは海よりも深いと恋人を励ます歌、沖の島山のように奥深く思う人について噂が立つ嘆き、碇をおろした船のように隠れて恋人の言葉を待つ女、隠れ沼のように秘めた恋に耐えかねて恋人の名を口にしてしまった後悔、大地は尽きても恋は尽きないという歌、岩根をも通して湧く泉のような恋が並ぶ。
語釈・文法注
文法・本文
- 綱手
- 船を引く綱。
- 奧まけて
- 心の奥深くに。
- 隱沼
- 「こもりぬ」。草に隠れた沼。
- 忌むべき
- 口にしてはならない。恋人の名は秘するものとされた。
和歌
- 作者
- 作者未詳
- 出典
- 『万葉集』巻第十一・相聞・2438〜2443番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 第2期(672〜710年(壬申の乱〜平城京遷都))
- 状況
- 寄物陳思。海・沼・地・泉に寄せた歌。柿本人麻呂歌集に出る。
修辞
- 序詞
- 2439番の上二句が「奧」を、2440番の上三句が「藏れて」を導く。
解説
恋人の名を人に告げることは、恋が露見することを意味し、禁忌とされていた。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』下巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、431頁(コマ8)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』下巻 岩波書店、昭和5年(1930)、495頁(コマ11)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日