万葉集 巻第十一 2368〜2374番
垂乳根の 母が手放れ
母の手を離れてからこれほどどうしようもない思いはしたことがない。人が寝る安眠もできず君の目だけを欲しがって嘆く。恋い死ぬなら死ねというのか、道行く人も便りを告げない。千度思っても人には言わない妻に逢いたい。こんなに恋しいと知っていたら遠くから見ていればよかった。夕方になると恋は術がない。こう恋い続けて年を経るのか。人麻呂歌集の正述心緒の歌七首。
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題詞正に心緒を述ぶ
- 1垂乳根垂乳根たらちねののの垂乳根乃2368
- 2母母ははががが手手て放放はなれれれ母之手放
- 3斯斯かくくくばかりばかりばかり如是許
- 4術術すべなきなきなき事事ことははは無爲便事者
- 5いまだいまだいまだ爲爲せなくなくなくににに未爲國
- 6人人ひとののの寐寐ぬるるる人所寐2369
- 7味味うま宿宿いははは寢寢ねずずずててて味宿不寐
- 8愛愛はしきしきしきやしやしやし早敷八四
- 9君君きみががが目目めすらすらすらををを公目尙
- 10欲欲ほりりりししし嘆嘆なげくくくももも欲嘆
- 11戀戀こひひい死死しなななばばば戀死2370
- 12戀戀こひひいももも死死しねねねとととややや戀死耶
- 13玉玉たま桙桙ほこののの玉桙
- 14路路みち行行ゆき人人びとののの路行人
- 15言言ことももも告告つげげげなくなくなく事告無
- 16心心こころにににははは心2371
- 17千千ち遍遍たび念念おもへへえどどど千遍雖念
- 18人人ひとににに云云いははわずずず人不云
- 19吾吾わががが戀戀こい孋孋づまををを吾戀孋
- 20見見みむむむよしよしよしもがもがもがももも見依鴨
- 21斯斯かくくくばかりばかりばかり是量2372
- 22戀戀こひひいむむんものものものとととししし戀物
- 23知知しらららませませませばばば知者
- 24遠遠とおくくく見見みつつつべくべくべく遠可見
- 25ありありありけるけるけるものものものををを有物
- 26何時何時いつはははしもしもしも何時2373
- 27戀戀こひひいぬぬぬ時時ときとととははは不戀時
- 28あらあらあらねねねどもどもども雖不有
- 29夕夕ゆう片片かた設設まけけけててて夕方枉
- 30戀戀こいははは術術すべ無無なししし戀無乏
- 31斯斯かくくくのみのみのみししし是耳2374
- 32戀戀こひひいややや渡渡わたらららむむん戀度
- 33たまきはるたまきはるたまきわる玉切
- 34命命いのちももも知知しらららずずず不知命
- 35歲歲としををを經經へにににつつつつつつ歲經管
現代語訳
〔2368〕(垂乳根の)母の手を離れてから、これほどどうしようもない思いは、まだしたことがないのに。
〔2369〕人が寝る安らかな眠りも眠らずに、ああ、あなたの顔だけでも見たいと嘆くことだ。
〔2370〕恋い死ぬなら恋い死ねというのか。(玉桙の)道を行く人も、便りを告げてくれない。
〔2371〕心の中では千度も思っているけれど、人には言わない。私の恋しい妻に逢う手立てがあればよいのに。
〔2372〕これほど恋しく思うものだと知っていたなら、遠くから見ているだけでよかったのに。
〔2373〕いつだって恋しく思わない時はないけれども、夕方になると、恋はどうしようもない。
〔2374〕こうして恋い続けるのだろうか。(たまきはる)命のほどもわからずに、年を重ねながら。
意訳
正述心緒は、物に寄せずに思いを直接述べた恋の歌で、その初めに人麻呂歌集の歌が並ぶ。母の手を離れて初めて知った恋の苦しさ、眠れずに恋人を思う夜、便りのない恋人へのいらだち、人には言えない恋、知っていれば遠くから見るだけにしたのにという後悔、夕方になると恋しさが募るという嘆き、命も知らずに年を重ねて恋い続ける思いが歌われる。
語釈・文法注
文法・本文
- 味宿
- 「うまい」。安らかな眠り。
- 愛しきやし
- 「はしきやし」。ああいとしい。
- 夕片設けて
- 夕方を待ち受けて、夕方になって。
- たまきはる
- 「命」にかかる枕詞。
和歌
- 作者
- 作者未詳
- 出典
- 『万葉集』巻第十一・相聞・2368〜2374番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 第2期(672〜710年(壬申の乱〜平城京遷都))
- 状況
- 正述心緒。柿本人麻呂歌集に出る。
修辞
- 枕詞
- 「垂乳根の」「玉桙の」「たまきはる」を用いる。
解説
人麻呂歌集の正述心緒の歌は、助詞を省いた略体で書かれ、訓には諸説がある。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』下巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、426頁(コマ6)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』下巻 岩波書店、昭和5年(1930)、489頁(コマ8)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日