万葉集 巻第七 1140〜1145番
しなが鳥 猪名野を來れば
猪名野をやって来ると、有馬山に夕霧が立った。泊まる宿もないのに。武庫川の早瀬、垂水の湧き水、堀江を漕ぐ松浦船、住吉の岸、血沼の海。摂津国で作った歌二十一首のうち初めの六首。
場面イラスト(準備中)
題詞攝津にて作れる(1)
- 1しながしながしなが鳥鳥どり志長鳥1140
- 2猪名猪名いな野野ぬををを來來くれれればばば居名野乎來者
- 3有間有間ありま山山やま有間山
- 4夕夕ゆう霧霧ぎり立立たちちちぬぬぬ夕霧立
- 5宿宿やどははは無無なくくくしてしてして宿者無而
- 6武庫武庫むこ河河がわののの武庫河1141
- 7水水み脉脉おををを早早はやけみけみけみ水尾急
- 8赤赤あか駒駒ごまののの赤駒
- 9足足あ搔搔がくくく激激たぎちににに足何久激
- 10沾沾ぬれれれにににけるけるけるかもかもかも沾祁流鴨
- 11命命いのちををを命1142
- 12幸幸さきくくくよけよけよけむむんととと幸久吉
- 13石石いわ走走ばしるるる石流
- 14垂水垂水たるみののの水水みずををを垂水水乎
- 15掬掬むすびびびててて飮飮のみみみつつつ結飮都
- 16さささ夜夜よ深深ふけけけててて作夜深而1143
- 17堀堀ほり江江え榜榜こぐぐぐなるなるなる穿江水手鳴
- 18松浦松浦まつら船船ぶね松浦船
- 19楫楫かじののの音音おと高高たかししし梶音高之
- 20水水み脉脉お早早はやみみみかもかもかも水尾早見鴨
- 21悔悔くやしくしくしくももも悔毛1144
- 22滿滿みちちちぬるぬるぬる潮潮しおかかか滿奴流鹽鹿
- 23住吉住吉すみのえののの墨江之
- 24岸岸きしののの浦浦うら回回みゆゆゆ岸乃浦回從
- 25行行ゆかかかましましましものものものををを行益物乎
- 26妹妹いもがががためためため爲妹1145
- 27貝貝かいををを拾拾ひりふふうととと貝乎拾等
- 28血沼血沼ちぬののの海海うみににに陳奴乃海爾
- 29沾沾ぬれれれにににししし袖袖そでははは所沾之袖者
- 30乾乾ほせせせどどど干干かわかかかずずず雖凉常不干
現代語訳
〔1140〕(しなが鳥)猪名野を通って来ると、有馬山に夕霧が立った。泊まる宿もないのに。
〔1141〕武庫川の水の流れが速いので、赤駒が足でかく水しぶきに、濡れてしまったことだ。
〔1142〕命が無事であるようにと、岩の上を走る垂水の水を、手ですくって飲んだ。
〔1143〕夜がふけて堀江を漕いでいるらしい松浦船の、楫の音が高い。流れが速いからだろうか。
〔1144〕残念なことに満ちてしまった潮よ。住吉の岸の浦辺を通って行こうと思っていたのに。
〔1145〕妻のために貝を拾おうとして、血沼の海で濡れた袖は、干しても乾かない。
意訳
摂津国(今の大阪府北部と兵庫県南東部)で作った歌である。夕霧の立つ猪名野の旅の心細さ、武庫川の早瀬を馬で渡る歌、垂水の湧き水を飲んで旅の無事を祈る歌、夜の堀江に響く楫の音、潮が満ちて浜辺を通れない悔しさ、妻へのみやげの貝を拾って濡れた袖と、旅の途中のさまざまな場面が歌われている。
語釈・文法注
文法・本文
- しなが鳥
- 「猪名」にかかる枕詞。
- 足搔く激
- 馬が足でかく水しぶき。
- 掬びて
- 手ですくって。
和歌
- 作者
- 作者未詳
- 出典
- 『万葉集』巻第七・雑歌・1140〜1145番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 作者未詳(時代を問わない)
- 状況
- 巻第七の雑歌のうち、「攝津にて作れる」歌二十一首の初めの六首。作者はわからない。
修辞
- 枕詞
- 1140番の「しなが鳥」が「猪名」に、1142番の「石走る」が「垂水」にかかる。
解説
垂水は今の大阪府吹田市の垂水神社のあたりとされ、志貴皇子の「石走る垂水の上の」(巻第八の1418番)でも知られる。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』上巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、265頁(コマ136)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』上巻 岩波書店、昭和24年(1949)、291頁(コマ151)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日