万葉集 巻第一 21番
紫草の にほへる妹を
紫草のように美しいあなたを憎く思うなら、人妻と知りながら恋い慕ったりするものか。額田王の歌に、大海人皇子が答えた歌。

題詞皇太子の答へませる御歌(明日香宮御宇天皇)
現代語訳
紫草のように美しく照り映えるあなたを、もし憎いと思うのなら、人妻であるのに、どうして私が恋い慕ったりするだろうか。
意訳
額田王の「野守に見られますよ」という呼びかけに、大海人皇子は「あなたがあまりに美しいから、人妻と知っていても恋せずにはいられないのだ」と、正面から思いを打ち明けて返す。「憎くあらば」という逆説的な言い方で、かえって強い愛情を表している。人妻への恋という危うい題材を堂々と詠みあげる大胆さに、宴の座興としての遊び心を読み取る説もある。
語釈・文法注
- 紫草(むらさき)
- ムラサキ科の多年草。根から紫色の染料をとる。紫は高貴な色とされた。ここでは「にほへる妹」を導く比喩。
- にほへる
- 「にほふ」は色が美しく照り映える意。「る」は存続の助動詞「り」の連体形。
- 妹(いも)
- 男性が妻や恋人など親しい女性を呼ぶ語。
- 人嬬(ひとづま)
- 他人の妻。ここでは天智天皇に仕える額田王を指すとみられる。
- めやも
- 推量の助動詞「む」の已然形「め」に、反語の「や」と詠嘆の「も」が付いた形。…だろうか、いや…しない。
文法・本文
- 憎くあらば
- 未然形+「ば」で仮定条件。もし憎いと思うならば。
- 人嬬ゆゑに
- 「ゆゑに」は逆接で、人妻であるのに、の意。理由(人妻だから)と解する説もある。
- 左注
- 歌の後に「紀に曰く、天皇七年丁卯夏五月五日、蒲生野に縦獵したまふ。時に大皇弟、諸王、内臣、及び群臣、悉く皆從へり」と、『日本書紀』を引いて状況を記す。
和歌
- 作者
- 大海人皇子(?–686)
舒明天皇の皇子で、天智天皇の弟。天智天皇の没後、壬申の乱(672)で大友皇子を破って即位し、天武天皇となった(在位673–686)。飛鳥浄御原宮で律令国家の建設を進めた。 - 出典
- 『万葉集』巻第一・雑歌・21番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 第1期(629〜672年(舒明天皇の即位〜壬申の乱))
- 状況
- 天智天皇7年(668)5月5日の蒲生野の薬猟で、額田王の20番の歌に、当時皇太子(大皇弟)であった大海人皇子が答えた歌。
修辞
- 比喩
- 「紫草の」が、照り映える美しさを表す「にほへる」を導く。前の歌の「紫野」を受けて紫草を詠み込み、贈答の言葉をつないでいる。
- 反語
- 「吾戀ひめやも」。恋するだろうか、いやしない、という形で、恋せずにいられない思いを強く表す。
解説
額田王の20番の歌に答えた歌で、二首で一組の贈答になっている。額田王が「紫野」と詠んだのを受けて「紫草の」と歌い起こし、相手を紫草の美しさにたとえる。「憎くあらば……恋ひめやも」という逆説の形で、人妻と知りながら恋せずにはいられないと告白する、万葉集でも屈指の情熱的な恋の歌である。
題詞では作者を「皇太子」と呼び、注に「明日香宮御宇天皇」、すなわち天武天皇と記す。四年後の壬申の乱で天智天皇の子の大友皇子を破り、即位することになる大海人皇子である。兄の天智天皇と弟の大海人皇子の間にあった額田王をめぐる三角関係の話は、のちの時代の人々の想像をかき立て、壬申の乱の原因に結びつける俗説まで生まれた。ただし二首は雑歌に収められており、宴の席での戯れの歌とみる説も根強い。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』上巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、23頁(コマ15)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』上巻 岩波書店、昭和24年(1949)、15頁(コマ13)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日