万葉集 巻第一 19番
綜麻形の
綜麻形の林の先の榛の木の色が衣によく染みつくように、目にはっきりと焼きついている、いとしいあなたの姿が。額田王の三輪山の歌に添えられた井戸王の歌。

題詞(額田王近江國に下りし時、作れる歌、井戸王すなはち和ふる歌)
現代語訳
綜麻形の林の先の、野に生える榛の木の色が衣によく染みつくように、目にはっきりと焼きついている、いとしいあなたよ。
意訳
三輪山の神が、糸巻きの麻糸をたどって正体を明かされたという伝説から、三輪山のあたりを「綜麻形」とも呼んだ。その地の林に生える榛の木は、衣を染める染料になる。榛の色が衣にくっきり染まるように、あなたの姿が目に焼きついて離れない、と歌う。左注は「和ふる歌に似ず」とするが、三輪山の地名と染め物の比喩で恋しい人を思う、印象的な歌である。
語釈・文法注
- 綜麻形(へそがた)
- 三輪山のあたりの地名とされる。「綜麻(へそ)」は紡いだ麻糸を巻いたもの。三輪山の神の正体が麻糸をたどって明らかになったという『古事記』の伝説と関係するといわれる。
- さ野榛(さぬはり)
- 野に生える榛(はり)の木。榛はハンノキで、実や樹皮を染料にした。「さ」は接頭語。
- なす
- …のように。
文法・本文
- 衣に著くなす 眼に著く
- 同じ「著く」を重ね、衣に色がつく様子から、目に姿が焼きつく様子へと意味を移す。
- 左注
- 「今案ずるに、和ふる歌に似ず。但旧本この次に載す。故に以て猶載す」とある。
和歌
- 作者
- 井戸王(7世紀後半)
どのような人物かは伝わっていない。題詞では、額田王の17・18番の歌に和えた歌の作者とされる。 - 出典
- 『万葉集』巻第一・雑歌・19番
- 歌体
- 短歌(五七五七七)
- 時期
- 第1期(629〜672年(舒明天皇の即位〜壬申の乱))
- 状況
- 額田王が近江へ下るときに詠んだ17・18番の歌に、井戸王が和えた歌として載せられている。ただし左注は、和える歌らしくないと記している。
修辞
- 序詞
- 「綜麻形の 林の始の さ野榛の 衣に著くなす」が「眼に著く」を導く。
解説
題詞では額田王の歌に「和ふる歌」とされるが、内容は三輪山を惜しむ17・18番の歌とは直接つながらず、左注も「和ふる歌に似ず」と疑問を記している。三輪山にゆかりの地名「綜麻形」を詠みこんでいることから、三輪山を題材にした歌として、ここに置かれたものと考えられる。
榛の木で染めた衣の色のように、恋しい人の姿が目に焼きついているという比喩は、染め物が身近であった当時の暮らしをうかがわせる。三輪山の神婚伝説を思わせる「綜麻形」という地名とあいまって、神秘的な雰囲気をもった恋の歌になっている。
関連
出典
- 底本
- 佐佐木信綱編『新訓万葉集』上巻 岩波文庫、昭和2年(1927)、22頁(コマ15)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 原文
- 佐佐木信綱編『白文万葉集』上巻 岩波書店、昭和24年(1949)、14頁(コマ13)。万葉仮名の原文。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日