枕草子 第135段 日記的章段
円融院の御果ての年
円融院の一周忌が明けた年、藤三位の局に、法師の筆跡で「これをだに形見と思ふに都には葉がへやしつる椎柴の袖」という歌が届く。藤三位は藤大納言の仕業と思って返事をするが、実は一条天皇と中宮定子のいたずらだった。真相を知った藤三位が、悔しがりながらも笑う様子を描く。
- 1ゑんゆうゑんゆうえんゆうののの御御おんはてはてはてののの年年とし、、、皆皆みな人人ひと御御おん服服ぶくぬぎぬぎぬぎなどなどなどしししてててあはれあはれあわれなるなるなる事事ことをををおほやけおほやけおおやけよりよりより始始はじめめめててて院院いんののの人人ひとももも「「「花花はなののの衣衣ころもににに」」」などなどなどいひいひいいけむけむけん、、、世世よののの御御おん事事ことなどなどなど思思おもひひい出出いづるづるずるににに、、、雨雨あめいたういたういとう降降ふるるる日日ひののの局局つぼねにににみのむしみのむしみのむしのののやうやうようなるなるなるわらはわらはわらわののの大大おおきききなるなるなる木木きののの白白しろきききにににたてたてたて文文ぶみをををつけつけつけててて「「「これこれこれ奉奉たてまつらららむむん」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、「「「いづこいづこいずこよりよりよりぞぞぞ。。。けふけふきょうあすあすあす御御おん物忌物忌ものいみなれなれなればばば御御みしとみしとみしとみもももまゐらまゐらまいらぬぬぬぞぞぞ」」」とてとてとてしもしもしもははは立立たてててたるたるたるしとみしとみしとみのののかみかみかみよりよりより取取とりりり入入いれれれててて、、、「「「さささなむなむなんとととはははきかきかきかせせせ奉奉たてまつらららずずず。。。物忌物忌ものいみなれなれなればばばえええ見見みずずず」」」とてとてとてかみかみかみににについついついさしさしさしててて置置おきききたるたるたるををを、、、つとめてつとめてつとめて手手て洗洗あらひひいてててそのそのそのとととこひこひこいててて伏伏ふししし拜拜おがみみみてててあけあけあけたれたれたればばば、、、くるみくるみくるみいろいろいろととといふいふいうしきししきししきしのののあつあつあつごえごえごえたるたるたるをををあやしあやしあやしととと見見みてててあけあけあけもてもてもてゆけゆけゆけばばば、、、老老おい法師法師ほうしのののいみじげいみじげいみじげなるなるなるががが手手てにてにてにて、、、
- 2「「「これこれこれをををだにだにだにかたみかたみかたみととと思思おもふふうににに都都みやこにににははは葉葉はがへがへがへやややしししつるつるつるしひしばしひしばしいしばののの袖袖そで」」」
- 3とととかきかきかきたりたりたり。。。あさましくあさましくあさましくねたかりねたかりねたかりけるけるけるわざわざわざかなかなかな、、、たれたれたれがががしししたるたるたるにににかかかあらあらあらむむん、、、仁和寺仁和寺にんなじののののののにににやややととと思思おもへへえどどどよもよもよもかゝるかゝるかかることことことのたまはのたまはのたまわじじじ、、、なほなほなおたれたれたれならならならむむん、、、藤藤とうぞぞぞかのかのかの院院いんののの別當別當べっとうにににおはせおはせおわせしかしかしかばばば、、、そのそのそのししし給給たまへへえるるる事事ことなめりなめりなめり、、、これこれこれをををうへうへうえののの御御おまへまへまえ、、、宮宮みやなどなどなどにににとうとうとうきこしめさきこしめさきこしめさせせせばばばやややととと思思おもふふうにににいといといと心心こころもとなけれもとなけれもとなけれどどど、、、猶猶なおおそろしうおそろしうおそろしゅう言言いひひいたるたるたる物忌物忌ものいみをををしししはてはてはてむむんととと念念ねんじじじくらしくらしくらしててて、、、まだまだまだつとめてつとめてつとめて藤藤とう大納言大納言だいなごんののの御御おんもともともとにににこのこのこの御御おん返返かえしししをををしししてててさしさしさしおかおかおかせせせたれたれたればばばすなはちすなはちすなわち又又また返事返事かえりごとしししててておかおかおかせせせ給給たまへへえりりりけりけりけり。。。それそれそれををを二二ふたつつつながらながらながら取取とりりりててて急急いそぎぎぎ參參まいりりりててて「「「かゝるかゝるかかる事事ことなむなむなん侍侍はべりりりししし」」」とととうへうへうえもももおはしますおはしますおわします御御おまへまへまえにてにてにて語語かたりりり申申もうししし給給たまふふうををを、、、宮宮みやはははいといといとつれなくつれなくつれなく御覽御覽ごらんじじじててて「「「藤藤とう大納言大納言だいなごんののの手手てのののさまさまさまにににはははあらあらあらででで法師法師ほうしにににこそこそこそあめれあめれあめれ」」」とととのたまはすれのたまはすれのたまわすればばば「「「さささはははこここはははたれたれたれがががしわざしわざしわざにににかかか。。。すきずきしきすきずきしきすきずきしき上達部上達部かんだちめ、、、僧僧そうがうがうごうなどなどなどははは誰誰たれかかかはははあるあるある。。。それそれそれにににやややかれかれかれにににややや」」」などなどなどおぼめきおぼめきおぼめきゆかしがりゆかしがりゆかしがり給給たまふふうににに、、、うへうへうえ「「「このこのこのわたりわたりわたりににに見見みえええしししにににこそこそこそはははいといといとよくよくよく似似にたたためれめれめれ」」」とととうちうちうちほゝゑまほゝゑまほほえませせせ給給たまひひいててて、、、今今いまひとひとひとすぢすぢすじ御厨子御厨子みずしのののもともともとなりなりなりけるけるけるををを取取とりりり出出いでででさせさせさせたまへたまへたまえれれればばば、、、「「「いでいでいであなあなあな心心こころううう。。。これこれこれおぼさおぼさおぼされれれよよよ。。。あなあなあなかしらかしらかしらいたいたいたややや。。。いかでいかでいかで聞聞きききき侍侍はべらららむむん」」」とととたゞたゞただせめせめせめにににせめせめせめ申申もうしししててて恨恨うらみみみ聞聞きこえええててて笑笑わらひひい給給たまふふうににに、、、やうやうやうやうようよう仰仰おおせせせられられられ出出いでゝでゝでて「「「御御おん使使つかいにににいきいきいきたりたりたりけるけるける鬼鬼おに童童わらわははは、、、臺盤所臺盤所だいばんどころのののとじとじとじととといふいふいうものゝものゝものの供供ともなりなりなりけるけるけるををを小兵衞小兵衞こひょうえががが語語かたらひらひらい出出いだしししたるたるたるにににやややありありありけむけむけん」」」などなどなど仰仰おおせせせらるれらるれらるればばば、、、宮宮みやももも笑笑わらははわせせせ給給たまふふうををを、、、引引ひきききゆるがしゆるがしゆるがし奉奉たてまつりりりててて、、、「「「などなどなどかくかくかくはからはからはからせせせおはしますおはしますおわします。。。猶猶なおうたがひうたがひうたがいもももなくなくなく手手てをををうちうちうちあらひあらひあらいててて伏伏ふししし拜拜おがみみみ侍侍はべりりりしししことことことよよよ」」」ととと笑笑わらひひいねたがりねたがりねたがり居居い給給たまへへえるるるさまさまさまもももいといといとほこりかほこりかほこりかにににあいぎやうあいぎやうあいぎょうづきづきずきてててをかしをかしおかし。。。さてさてさてうへうへうえのののだいばんだいばんだいばん所所どころにににももも笑笑わらひひいのゝしりのゝしりののしりててて、、、局局つぼねにににおりおりおりてててこのこのこのわらはわらはわらわたづねたづねたずね出出いでゝでゝでて文文ふみ取取とりりり入入いれれれししし人人ひとににに見見みすれすれすればばば、、、「「「それそれそれにににこそこそこそ侍侍はべるるるめれめれめれ」」」ととといふいふいう。。。「「「たれたれたれががが文文ふみをををたれたれたれがががとらせとらせとらせしししぞぞぞ」」」ととといへいへいえばばば、、、しれしれしれしれしれしれとととうちうちうちゑみゑみえみてててともかくもともかくもともかくもいはいはいわででで走走はしりりりにににけりけりけり。。。藤藤とう大納言大納言だいなごん後後のちにににきゝきゝききててて笑笑わらひひい興興きょうじじじ給給たまひひいけりけりけり。。。
現代語訳
円融院の一周忌の年、人々はみな喪服を脱いだりして、しみじみとしたことを、朝廷をはじめとして、院にお仕えした人々も「花の衣に」などと詠んだことだろう、院のご在世のころのことなどを思い出していると、雨がひどく降る日、藤三位の局に、蓑虫のような姿の童が、大きな白木の枝に立て文をつけて、「これを差し上げます」と言ったので、「どこからですか。今日明日は御物忌なので、蔀もお上げしないのです」と言って、下半分は立てたままの蔀の上から受け取って、「こういうものが来たとは、藤三位様にはお聞かせしません。物忌なので見られないのです」と言って、蔀の上の長押に差し込んで置いたのを、翌朝、藤三位は手を洗い清めて、「その巻数を」と取り寄せて、伏し拝んで開けると、胡桃色という色紙の厚ぼったいのを、妙だと思って開いていくと、ひどく年寄りじみた法師の筆跡で、
せめてこの喪服だけでも院の形見と思っておりましたのに、都では、もう椎柴の喪服の袖を、衣替えして脱いでしまったのですか。
と書いてあった。あきれた、しゃくなことをするものだ、誰がしたのだろう、仁和寺の僧正の仕業かと思うけれど、まさかこんなことはおっしゃるまい、やはり誰だろう、藤大納言こそ、あの院の別当でいらっしゃったのだから、その方のなさったことのようだ、これを帝の御前や中宮様などに早くお聞かせしたいと思うと、たいそう待ち遠しいけれど、やはり恐ろしいと言われる物忌を最後まで守ろうと我慢して一日を過ごし、翌朝早く、藤大納言のもとにこの歌の返事をして差し置かせたところ、すぐにまた返事をしてよこされた。藤三位はそれを二つとも持って急いで参上し、「こういうことがございました」と、帝もいらっしゃる中宮様の御前でお話し申し上げなさるのを、中宮様はたいそう素知らぬ顔でご覧になって、「藤大納言の筆跡ではないようね。法師の字でしょう」とおっしゃるので、「それでは、これは誰の仕業でしょう。物好きな上達部や僧綱などで、誰がいるでしょう。あの人か、この人か」などと、いぶかしがり、知りたがりなさるところへ、帝が「このあたりで見かけた筆跡に、たいそうよく似ているようだ」とほほえまれて、もう一通、御厨子のもとにあったのを取り出されたので、「まあ、情けない。わけをお聞かせください。ああ、頭が痛い。どうしてもお聞きしたい」と、ただもう責めに責めて、恨み言を申し上げてお笑いになると、帝はようやくおっしゃり出して、「使いに行った鬼童は、台盤所の刀自という者の供だった者を、小兵衛が説き伏せて出したのだろうか」などとおっしゃるので、中宮様もお笑いになるのを、藤三位は中宮様のお体を揺さぶり申し上げて、「どうしてこのようにおだましになったのですか。少しも疑わずに、手を洗い清めて伏し拝んだのですよ」と、笑いながら悔しがっていらっしゃる様子も、たいそう得意げで愛嬌があっておもしろい。そうして、清涼殿の台盤所でも大笑いして、藤三位は局に下りて、この童を探し出して、手紙を受け取った女房に見せると、「この童でございます」と言う。「誰の手紙を、誰が渡したのか」と尋ねると、童はにやにや笑うばかりで、何とも言わずに走って行ってしまった。藤大納言は、後でこれを聞いて、おもしろがってお笑いになった。
意訳
一条天皇と中宮定子が仕組んだいたずらの顛末である。円融院の一周忌が過ぎ、人々が喪服を脱いだころ、院の乳母を務めた藤三位のもとに、「もう喪服を脱いでしまったのか」と責める歌が、法師の筆跡で届く。藤三位は物忌の最中でもうやうやしく拝んで開け、犯人は院の別当だった藤大納言に違いないと決めつける。ところが真相は、帝と中宮のいたずらであった。だまされた藤三位が中宮を揺さぶって悔しがる姿は、帝と中宮、そして年配の女官との打ち解けた関係をよく伝えている。
語釈・文法注
- ゑんゆう院
- 円融院。一条天皇の父。正暦二年(991)二月に崩御した。「御はて」は一周忌。
- 藤三位
- 藤原繁子。一条天皇の乳母で、藤原師輔の娘。従三位であった。
- 卷數
- 巻数(かんじゅ)。僧が依頼を受けて読んだ経の題名や回数を記して、施主に送る文書。法師の筆跡だったので、藤三位はこれだと思って拝んだ。
- 仁和寺の僧正
- 寛朝。宇多天皇の孫で、仁和寺の別当。藤三位の縁者であったともいう。
- 藤大納言
- 藤原為光とする説、藤原朝光とする説などがある。円融院の別当を務めた人物。
文法
- 「花の衣に」
- 『古今和歌集』の僧正遍昭の歌「みな人は花の衣になりぬなり苔の袂よかわきだにせよ」を踏まえる。喪が明けて華やかな衣に着替えること。
- 「しひしばの袖」
- 椎柴で染めた濃い鈍色の喪服の袖。
- 「おぼめき」
- 「おぼめく」は、はっきりわからずにいぶかしがる。
和歌
これをだにかたみと思ふに都には葉がへやしつる椎柴の袖
- 詠者
- 一条天皇(法師の筆跡を装う)
- 状況
- 円融院の一周忌が明けた年、藤三位の局に届けられた歌。喪服を脱いでしまったのかと責める内容である。
修辞
- 縁語
- 「葉がへ」(葉が生えかわる)と「椎柴」が縁語。「葉がへ」に、喪服を衣替えすることを重ねる。
解説
一条天皇と中宮定子の仲むつまじさと、宮廷の和やかな雰囲気を伝える段である。天皇が法師の筆跡をまねて歌を送り、中宮が素知らぬ顔でとぼけるという、手の込んだいたずらが楽しい。
だまされた藤三位が、中宮を揺さぶって「伏し拝んだのですよ」と悔しがる場面には、天皇の乳母という立場からくる親しさが表れている。
関連
出典
- 底本
- 丸岡桂・松下大三郎編『国文大観』日記草子部(枕草紙) 板倉屋書房、明治36年(1903)、278–280頁(コマ142–143)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日