枕草子 第127段 日記的章段
関白殿、黒戸より出でさせ給ふとて
関白道隆が黒戸から退出する際、息子の伊周に沓を履かせてもらい、居並ぶ大納言以下の人々の前を通る。弟の道長がひざまずくのを見て、作者は道隆の栄華に感嘆する。後年の道長の栄達を思えば、作者の道長びいきももっともだと結ぶ。
- 1ののの黑戶黑戶くろどよりよりより出出いでででさせさせさせ給給たまふふうとてとてとて女房女房にょうぼうのののらうらうろうににに隙隙ひまなくなくなくさぶらふさぶらふさぶらうををを「「「あなあなあないみじいみじいみじのののおもとおもとおもとたちたちたちややや。。。翁翁おきなをををばばばいかにいかにいかにをこをこおこなりなりなりととと笑笑わらひひい給給たまふふうらむらむらん」」」ととと分分わけけけ出出いでででさせさせさせ給給たまへへえばばば戶口戶口とぐちににに人々人々ひとびとのののいろいろいろいろいろいろののの袖口袖口そでぐちしししてててみすみすみすををを引引ひききき上上あげげげたるたるたるににに、、、權權ごん大納言大納言だいなごん御御おんくつくつくつとりとりとりてててはかはかはかせせせ奉奉たてまつらららせせせ給給たまふふう。。。いといといとものものしうものものしうものものしゅうきよげきよげきよげににによそほしげよそほしげよそおしげににに、、、下下したがさねがさねがさねのののしりしりしりながくながくながく所所ところせくせくせくさぶらひさぶらひさぶらい給給たまふふう。。。まづまづまずあなあなあなめでためでためでた、、、大納言大納言だいなごんばかりばかりばかりののの人人ひとにににくつくつくつをををとらとらとらせせせ給給たまふふうよよよととと見見みゆゆゆ。。。山山やまのののゐゐいのののそのそのそのつぎつぎつぎつぎつぎつぎ、、、さらさらさらぬぬぬ人々人々ひとびと黑黑くろきききものものものをををひきひきひきちらしちらしちらしたるたるたるやうやうようににに、、、藤壺藤壺ふじつぼのののへいへいへいのののもともともとよりよりより登華殿登華殿とうかでんののの前前まえまでまでまでゐゐいなみなみなみたるたるたるににに、、、いといといとほそやかほそやかほそやかにににいみじういみじういみじゅうなまめかしうなまめかしうなまめかしゅうててて、、、御御みはかしはかしわかしなどなどなど引引ひきききつくろひつくろひつくろいやすらはやすらはやすらわせせせ給給たまふふうににに、、、宮宮みやののの大夫大夫だいぶののの清涼殿清涼殿せいりょうでんののの前前まえにににたゝたゝたたせせせ給給たまへへえれれればばば、、、それそれそれははは居居いさせさせさせ給給たまふふうまじきまじきまじきなめりなめりなめりととと見見みるるる程程ほどににに少少すこししし步步あゆみみみ出出いでででさせさせさせ給給たまへへえばばば、、、ふとふとふと居居いさせさせさせ給給たまひひいしししこそこそこそ猶猶なおいかばかりいかばかりいかばかりののの昔昔むかしののの御御おんおこなひおこなひおこないのののほどほどほどならならならむむんととと見見み奉奉たてまつりりりしししこそこそこそいみじかりいみじかりいみじかりしかしかしか。。。
- 2中納言中納言ちゅうなごんのののののの忌忌いみののの日日ひとてとてとてくすしがりくすしがりくすしがり行行おこなひひい給給たまひひいしししををを、、、「「「たべたべたべそのそのそのずゞずゞずずしばししばししばし。。。行行おこなひひいてててめでたきめでたきめでたき身身みにににならならならむむんとととかかか」」」とてとてとて集集あつまりりりててて笑笑わらへへえどどど、、、猶猶なおいといといとこそこそこそめでたけれめでたけれめでたけれ。。。御御おまへまへまえにににきこしめしきこしめしきこしめしててて「「「佛佛ほとけににになりなりなりたらたらたらむむんこそこそこそこれこれこれよりよりよりはははまさらまさらまさらめめめ」」」とてとてとてうちうちうちゑまゑまえませせせ給給たまへへえるるるににに、、、又又まためでたくめでたくめでたくなりなりなりてててぞぞぞ見見みまゐらするまゐらするまいらする。。。大夫大夫だいぶ殿殿どのののの居居いさせさせさせ給給たまへへえるるるををを、、、かへすがへすかへすがへすかえすがえす聞聞きこゆれゆれゆればばば「「「例例れいののの思思おもふふう人人ひと」」」ととと笑笑わらははわせせせ給給たまふふう。。。ましてましてましてこのこのこの後後のちののの御御おんありさまありさまありさま見見み奉奉たてまつらららせせせ給給たまははわましかましかましかばばば、、、ことわりことわりことわりとととおぼしめさおぼしめさおぼしめされれれなななましましまし。。。
現代語訳
関白殿が黒戸からお出ましになるというので、女房たちが廊にすき間なく控えているのを、「やあ、すばらしいご婦人方だ。この年寄りを、どんなにばかだとお笑いになっていることだろう」とおっしゃって、人々の間を分けてお出ましになると、戸口に近い女房たちが色とりどりの袖口を見せて御簾を引き上げたところに、権大納言殿がお沓を取ってお履かせ申し上げなさる。たいそう堂々として美しく、装いも立派で、下襲の裾を長く引いて、あたりも狭いほどに控えていらっしゃる。まず、ああすばらしい、大納言ほどの人に沓を取らせなさるのだなと見える。山の井の大納言、その次々の人々、それ以外の人々が、黒い袍をまき散らしたように、藤壺の塀のもとから登華殿の前まで居並んでいるところに、関白殿はたいそうほっそりと、たいそう優美なご様子で、御佩刀などを整えて、しばらくたたずんでいらっしゃると、中宮大夫殿が清涼殿の前に立っていらっしゃったので、この方はまさかひざまずきはなさるまいと見ているうちに、関白殿が少し歩み出しなさると、さっとひざまずかれたのは、やはり関白殿の前世でのご功徳はどれほどのものであったろうと拝見して、たいそうすばらしかった。
中納言の君が、忌日だといって殊勝らしく勤行していらっしゃったのを、「ちょっとその数珠をお貸しください。勤行して、すばらしい身の上になろうと思って」と言って集まって笑うけれど、やはりたいそうすばらしいことだ。中宮様がお聞きになって、「仏になったほうが、これよりはまさっていましょう」とおっしゃってほほえみなさったので、またすばらしく思って拝見する。大夫殿がひざまずかれたことを、私が繰り返し申し上げると、「いつものひいきの人ね」とお笑いになる。まして、この後の大夫殿のご栄達をご覧になったならば、私がそう言うのももっともだとお思いになったことだろう。
意訳
中関白家の全盛期の一場面である。関白道隆が退出するとき、息子の伊周が沓を履かせ、大納言たちがずらりと居並ぶ。なかでも作者の心に焼き付いたのは、中宮大夫の道長までが、兄の道隆の前にひざまずいたことであった。作者は、道隆の前世の功徳はどれほどだったろうと驚嘆する。しかし最後の一文は、のちに道長が権力の頂点に立ち、中関白家が没落した後に書かれたものである。中宮が亡くなった今、道長の栄華を見せられないのが残念だという言葉には、過ぎた日々への深い感慨がこもっている。
語釈・文法注
- 關白殿
- 藤原道隆。中宮定子の父。正暦四年(993)から長徳元年(995)まで関白を務めた。
- 權大納言殿
- 藤原伊周。道隆の長男で、定子の兄。
- 山のゐの大納言
- 藤原道頼。道隆の長男だが、祖父兼家の養子となった。山の井の邸に住んだ。
- 宮の大夫殿
- 藤原道長。道隆の弟で、当時は中宮大夫。のちに摂政・太政大臣となり、権勢をきわめた。
- 中納言の君
- 中宮定子に仕えた女房。藤原忠君の娘とされる。
文法
- 「居させ給ふまじきなめり」
- 「居る」は、ここでは膝をついてかしこまること。道長ほどの人はひざまずくまいと思ったのである。
- 「御おこなひのほど」
- 前世で積んだ仏道修行の功徳。現世の栄華は前世の果報と考えられた。
- 「見奉らせ給はましかば」
- 反実仮想。中宮がこの後の道長の栄華をご覧になったなら、の意。中宮はすでに亡くなっていた。
解説
道隆の権勢を、息子に沓を履かせる場面と、弟道長がひざまずく場面とで描いている。作者は、道長がひざまずいたことに特に強い印象を受けており、のちに権力を握る人物の姿をとらえている点が興味深い。
「例の思ふ人」という中宮の言葉から、作者が以前から道長びいきであったことがわかる。中関白家の没落後、道長方に通じていると疑われたこともある作者にとって、この結びの一文は複雑な思いを含んでいる。
関連
出典
- 底本
- 丸岡桂・松下大三郎編『国文大観』日記草子部(枕草紙) 板倉屋書房、明治36年(1903)、271–272頁(コマ138–139)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日