枕草子 第22段 日記的章段
清涼殿の丑寅の隅の
春の清涼殿で、大納言伊周が桜の前に座り古歌を口ずさむ。中宮定子は女房たちに古歌を書かせ、作者は機転を利かせて歌を書き換える。定子は村上天皇と宣耀殿女御の古今集暗誦の逸話を語り、一条天皇も加わって和やかなひとときが過ぎる。

- 1淸淸せい凉凉りょうののののののすみすみすみののの北北きたのののへだてへだてへだてなるなるなる御御みさうじさうじそうじにににははは荒荒あら海海うみのののかたかたかた、、、いきいきいきたるたるたるものものものどもどもどものののおそろしげおそろしげおそろしげなるなるなる、、、手手てながながながあしあしあしながながながをををぞぞぞかゝれかゝれかかれたるたるたる。。。うへうへうえのののみつぼねみつぼねみつぼねののの戶戶と押押おしししあけあけあけたれたれたればばば常常つねににに目目めににに見見みゆるゆるゆるををを、、、にくみにくみにくみなどなどなどしししててて笑笑わらふふう程程ほどににに高高こう欄欄らんのののもともともとににに、、、靑靑あおきききかめかめかめののの大大おおきききなるなるなる据据すゑゑえててて、、、櫻櫻さくらのののいみじくいみじくいみじくおもしろきおもしろきおもしろき枝枝えだののの五五ご尺尺しゃくばかりばかりばかりなるなるなるをををいといといと多多おおくくくさしさしさしたれたれたればばば、、、高高こう欄欄らんのののもともともとまでまでまでこぼれこぼれこぼれ咲咲さきききたるたるたるににに、、、ひるひるひるつかたつかたつかた大大だい納納な言言ごん櫻櫻さくらののの直衣直衣のうしののの少少すこしししなよらかなよらかなよらかなるなるなるににに、、、濃濃こききき紫紫むらさきののの指指さし貫貫ぬき、、、白白しろききき御御おんぞぞぞどもどもども、、、うへうへうえににに濃濃こききき綾綾あやのののいといといとあざやかあざやかあざやかなるなるなるををを出出いだしししててて參參まいりりり給給たまへへえりりり。。。うへうへうえのののこなたこなたこなたにににおはしませおはしませおわしませばばば、、、戶戶と口口ぐちのののまへまへまえなるなるなる細細ほそききき板板いた敷敷じきにににゐゐい給給たまひひいてててものものものなどなどなど奏奏そうししし給給たまふふう。。。みすみすみすのののうちうちうちににに女房女房にょうぼう、、、櫻櫻さくらのののからぎぬからぎぬからぎぬどもどもどもくつろかくつろかくつろかにににぬぎぬぎぬぎ垂垂たれれれつゝつゝつつ、、、藤藤ふじ山山やま吹吹ぶきなどなどなどいろいろいろいろいろいろにににこのもしくこのもしくこのもしく、、、あまたあまたあまたこここはじとみはじとみはじとみのののみすみすみすよりよりよりおしおしおし出出いでででたるたるたるほどほどほど、、、ひひひのののおましおましおましのののかたかたかたにににおものおものおものまゐるまゐるまいる。。。足足あし音音おと高高たかししし。。。けはひけはひけわいなどなどなどおしおしおしおしおしおしととといふいふいう聲聲こえ聞聞きこゆゆゆ。。。うらうらうらうらうらうらとととのどかのどかのどかなるなるなる日日ひののの景景けし色色きいといといとをかしきをかしきおかしきににに、、、はてはてはてのののごはんごはんごはんもたるもたるもたる藏藏くら人人うど參參まいりりりててておものおものおもの奏奏そうすれすれすればばば、、、中中なかののの戶戶とよりよりより渡渡わたらららせせせ給給たまふふう。。。御御おおん供供ともににに大大だい納納な言言ごん參參まいらららせせせ給給たもうううててて、、、ありつるありつるありつる花花はなのののもともともとにににかへりかへりかえりゐゐい給給たまへへえりりり。。。宮宮みやののの御御おまへまへまえののの御御み凡凡き帳帳ちょう押押おしししやりやりやりててて、、、なげしなげしなげしのののもともともとににに出出いでででさせさせさせ給給たまへへえるるるなどなどなど、、、唯唯ただ何何なに事事ごともももなくなくなくよろづよろづよろずにににめでたきめでたきめでたきををを、、、侍侍さぶらふふう人人ひとももも思思おもふふうことことことなきなきなき心心ここちちちするするするににに、、、「「「月月つきももも日日ひもももかはりかはりかわりゆけゆけゆけどもどもどもひさにひさにひさにふるふるふる三三み室室むろののの山山やまののの」」」ととといふいふいうふるふるふることことことをををゆるゝかゆるゝかゆるるかにににうちうちうち詠詠よみみみ出出いだしししててて居居い給給たまへへえるるる、、、いといといとをかしをかしおかしととと覺覺おぼゆるゆるゆる。。。げにげにげにぞぞぞちとせちとせちとせもももあらあらあらまほしげまほしげまほしげなるなるなる御御おおんありさまありさまありさまなるなるなるややや。。。
- 2はいぜんはいぜんはいぜんつかうまつるつかうまつるつこうまつる人人ひとのののをのこをのこおのこどもどもどもなどなどなど召召めすすす。。。ほどほどほどもももなくなくなくわたらわたらわたらせせせ給給たまひひいぬぬぬ。。。「「「御御おおん硯硯すずりののの墨墨すみすれすれすれ」」」ととと仰仰おおせせせらるゝらるゝらるるににに、、、目目めはははそらそらそらにににのみのみのみにてにてにて唯唯ただおはしますおはしますおわしますをををのみのみのみ見見み奉奉たてまつれれればばば、、、ほどほどほど遠遠とおききき目目めももも放放はなちちちつつつべしべしべし。。。白白しろきききしきししきししきしおしおしおしたゝみたゝみたたみててて「「「これこれこれににに唯唯ただ今今いま覺覺おぼえええむむんふるふるふることことこと一一ひとつつつづゝづゝずつ書書かけけけ」」」ととと仰仰おおせせせらるゝらるゝらるる。。。とととににに居居い給給たまへへえるるるににに「「「これこれこれはははいかにいかにいかに」」」ととと申申もうせせせばばば「「「とくとくとく書書かきききててて參參まいらせらせらせ給給たまへへえ。。。をのこをのこおのこはははことことことくはへくはへくわえ候候さぶらふふうべきべきべきにににもももあらあらあらずずず」」」とてとてとて御御おおん硯硯すずりとりとりとりおろしおろしおろしててて「「「とくとくとくとくとくとく、、、たゞたゞただ思思おもひひいめぐらさめぐらさめぐらさででで、、、ももも何何なにもももふとふとふと覺覺おぼえええむむん事事ことををを」」」ととと責責せめめめさせさせさせ給給たまふふうににに、、、などなどなどさささははは臆臆おくせせせしししにににかかか、、、すべてすべてすべておもておもておもてさへさへさへ赤赤あかみみみてててぞぞぞ思思おもひひいみだるゝみだるゝみだるるややや。。。春春はるののの歌歌うた花花はなののの心心こころなどなどなどさささいふいふいういふいふいうももも上上じょう臈臈ろう二二ふたつつつ三三みつつつ書書かきききててて「「「これこれこれににに」」」とととあるあるあるににに、、、
- 3年年とし經經ふれれればばば齡齡よわいははは老老おいいいぬぬぬしかしかしかはははあれあれあれどどど花花はなをををししし見見みれれればばば物物ものおもひおもひおもいもももなしなしなし歌
- 4ととといふいふいうことことことををを、、、「「「君君きみをををししし見見みれれればばば」」」ととと書書かきききなしなしなしたるたるたるををを御御ご覽覽らんじじじててて、、、「「「唯唯ただこのこのこの心心こころばへばへばえどもどもどものののゆかしかりゆかしかりゆかしかりつるつるつるぞぞぞ」」」ととと仰仰おおせせせらるゝらるゝらるるついでついでついでににに「「「圓圓えん融融ゆう院院いんののの御御おおん時時とき御御お前前まえにてにてにて、、、さうしさうしそうしににに歌歌うた一一ひとつつつ書書かけけけととと殿上人殿上人てんじょうびとににに仰仰おおせせせられられられけるけるけるををを、、、いみじういみじういみじゅう書書かきききにくゝにくゝにくくすまひすまひすまい申申もうすすす人々人々ひとびとありありありけるけるける。。。更更さらににに手手てのののあしさあしさあしさよさよさよさ、、、歌歌うたののの折折おりにににあはあはあわざらざらざらむむんをををももも知知しじらじらじらととと仰仰おおせせせられられられけれけれければばば、、、わびわびわびててて皆皆みな書書かきききけるけるける中中なかににに唯唯ただ今今いまののの關關かん白白ぱく殿殿どのののの三位三位さんみののの中將中將ちゅうじょうととと聞聞きこえええけるけるける時時とき、、、
- 5しほしほしおのののみつみつみついづもいづもいずもののの浦浦うらのののいつもいつもいつもいつもいつもいつも君君きみをををばばばふかくふかくふかくおもふおもふおもうはやはやはやわわわががが歌
- 6ととといふいふいう歌歌うたののの末末すえをををたのむたのむたのむはやはやはやわわわがががととと書書かききき給給たまへへえりりりけるけるけるをををなむなむなんいみじくいみじくいみじくめでめでめでさせさせさせたまひたまひたまいけるけるける」」」ととと仰仰おおせせせらるゝらるゝらるるももも、、、すゞろすゞろすずろににに汗汗あせあゆるあゆるあゆる心心ここちちちぞぞぞしししけるけるける。。。若若わかからからからむむん人人ひとはははさささもももえええ書書かくくくまじきまじきまじき事事ことのののさまさまさまにににやややとととぞぞぞ覺覺おぼゆるゆるゆる。。。れいれいれいいといといとよくよくよく書書かくくく人人ひともももあいなくあいなくあいなく皆皆みなつゝまつゝまつつまれれれててて書書かききき汚汚けがしししなどなどなどしししたるたるたるもももありありあり。。。古古このののさうしさうしそうしををを御御おまへまへまえににに置置おかかかせせせ給給たまひひいててて、、、歌歌うたどもどもどものののもともともとををを仰仰おおせせせられられられててて「「「これこれこれががが末末すえはははいかにいかにいかに」」」ととと仰仰おおせせせらるゝらるゝらるるににに、、、すべてすべてすべて夜夜よ晝晝ひる心心こころにににかゝりかゝりかかりててて覺覺おぼゆるゆるゆるもももありありあり。。。げにげにげによくよくよく覺覺おぼえええずずず、、、申申もうししし出出いでででられられられぬぬぬことことことはははいかなるいかなるいかなることことことぞぞぞ。。。宰宰さい相相しょうののの君君きみぞぞぞ十十とおばかりばかりばかり。。。それそれそれももも覺覺おぼゆるゆるゆるかかかははは。。。まいてまいてまいて五五いつつつつ六六むつつつなどなどなどははは唯唯ただ覺覺おぼえええぬぬぬよしよしよしをををぞぞぞけいすけいすけいすべけれべけれべけれどどど「「「さささやはやはやはけにくゝけにくゝけにくく、、、仰仰おおせせせ事事ごとをををはえはえはえなくなくなくもてなすもてなすもてなすべきべきべき」」」ととといひいひいい、、、口口くちをしをしおしがるがるがるもももをかしをかしおかし。。。知知しるるるととと申申もうすすす人人ひとなきなきなきをををばばばやがてやがてやがて詠詠よみみみ續續つづけけけさせさせさせ給給たまふふうををを「「「さてさてさてこれこれこれははは皆皆みな知知しりりりたるたるたることことことぞぞぞかしかしかし。。。などなどなどかくかくかくつたなくつたなくつたなくはははあるあるあるぞぞぞ」」」ととといひいひいい歎歎なげくくく。。。
- 7「「「中中なかにににももも古古こ今今きんあまたあまたあまた書書かききき寫寫うつしししなどなどなどするするする人人ひとははは皆皆みな覺覺おぼえええぬぬぬべきべきべきことことことぞぞぞかしかしかし。。。村村むら上上かみののの御御おおん時時とき、、、宣宣せん耀耀よう殿殿でんののの女女にょととと聞聞きこえええけるけるけるははは、、、小小こ一一いち條條じょうののの左左さ大大だい臣臣じん殿殿どのののの御御おおんむすめむすめむすめにににおはしましおはしましおわしましけれけれければばば、、、誰誰たれかかかははは知知しりりり聞聞きこえええざらざらざらむむん。。。まだまだまだ姫姫ひめ君君ぎみにににおはしおはしおわしけるけるける時時とき、、、ちゝちゝちちおとゞおとゞおとどののの敎敎おしへへへ聞聞きこえええさせさせさせ給給たまひひいけるけるけるははは、、、一一ひとつつつにににははは御御おおん手手てををを習習ならひひい給給たまへへえ。。。次次つぎにににはははきんきんきんののの御御おおん琴琴ことををを、、、いかでいかでいかで人人ひとにににひきひきひきまさまさまさむむんとととおぼせおぼせおぼせ。。。さてさてさて古古こ今今きんののの歌歌うた二二に十十じつ卷卷かんををを皆皆みなうかべうかべうかべさせさせさせ給給たまははわむむんををを、、、御御おおん學學がく問問もんにににはははせせせさせさせさせ給給たまへへえとととなむなむなん聞聞きこえええさせさせさせ給給たまひひいけるけるけるととと、、、きこしめしきこしめしきこしめしおかおかおかせせせ給給たまひひいててて御御おおんものものものいみいみいみなりなりなりけるけるける日日ひ、、、古古こ今今きんをををかくしかくしかくしてててもてもてもて渡渡わたらららせせせ給給たまひひいててて、、、例例れいならならならずずず御御み凡凡き帳帳ちょうをををひきひきひきたてたてたてさせさせさせ給給たまひひいけれけれければばば、、、女女にょ御御うごあやしあやしあやしとととおぼしおぼしおぼしけるけるけるににに、、、御御おおん草草そう紙紙しをををひろげひろげひろげさせさせさせたまひたまひたまいててて、、、そのそのその年年としそのそのその月月つき、、、なになになにのののをりをりおりそのそのその人人ひとののの詠詠よみみみたるたるたる歌歌うたはははいかにいかにいかにととと問問とひひいきこえきこえきこえさせさせさせたまふたまふたまうににに、、、かうかうこうなりなりなりととと心心こころ得得えさせさせさせたまふたまふたまうもももをかしきをかしきおかしきものものものゝゝの、、、ひがひがひがおぼえおぼえおぼえもももししし、、、忘忘わすれれれたるたるたるなどなどなどもももあらあらあらばばばいみじかるいみじかるいみじかるべきべきべき事事こととととわりなくわりなくわりなくおぼしおぼしおぼし亂亂みだれれれぬぬぬべしべしべし。。。そのそのそのかたかたかたおぼめかしからおぼめかしからおぼめかしからぬぬぬ人人ひと二二ふた三三み人人たりばかりばかりばかり召召めししし出出いでゝでゝでて、、、しししてててかずかずかずををを置置おかかかせせせ給給たまははわむむんとてとてとて聞聞きこえええさせさせさせ給給たまひひいけむけむけん程程ほど、、、いかにいかにいかにめでたくめでたくめでたくをかしかりをかしかりおかしかりけむけむけん。。。御御お前前まえににに侍侍さぶらひひいけむけむけん人人ひとさへさへさへこそこそこそうらやましけれうらやましけれうらやましけれ。。。せめてせめてせめて申申もうさささせせせ給給たまひひいけれけれければばば、、、さかしうさかしうさかしゅうやがてやがてやがて末末すえまでまでまでなどなどなどはははあらあらあらねねねどどど、、、すべてすべてすべてつゆつゆつゆたがふたがふたがう事事ことなかりなかりなかりけりけりけり。。。いかでいかでいかで猶猶なお少少すこしししおぼめかしくおぼめかしくおぼめかしくひがひがひがごとごとごと見見みつけつけつけてててをををやまやまやまむむんとととねたきねたきねたきまでまでまでおぼしおぼしおぼしけるけるける。。。十十じつ卷卷かんにににもももなりなりなりぬぬぬ。。。更更さらににに不不ふ用用ようなりなりなりけりけりけりとてとてとて、、、御御おおん草草そう紙紙しにににけうさんけうさんきょうさんしししてててみとのごもりみとのごもりみとのごもりぬるぬるぬるもももいといといとめでたしめでたしめでたしかしかしかし。。。いといといと久久ひさしうしうしゅうありありありててて起起おきききさせさせさせ給給たまへへえるるるににに、、、猶猶なおこのこのこの事事ことさうさうそうなくなくなくてててやまやまやまむむん、、、いといといとわろかるわろかるわろかるべしべしべしとてとてとて、、、下下しもののの十十じつ卷卷かんをををあすあすあすにににもももならならならばばばことことことをををもももぞぞぞ見見み給給たまひひい合合あわするするするとてとてとて、、、今今こ宵宵よい定定さだめめめむむんとととおほとなぶらおほとなぶらおおとなぶら近近ちかくくく參參まいりりりててて夜夜よふくるふくるふくるまでまでまでなむなむなんよまよまよませせせ給給たまひひいけるけるける。。。されされされどどど終終ついにににまけまけまけ聞聞きこえええさせさせさせ給給たまははわずずずなりなりなりにににけりけりけり。。。うへうへうえ渡渡わたらららせせせ給給たもうううてててのちのちのち、、、かゝるかゝるかかる事事ことなむなむなんととと人々人々ひとびと殿殿とのににに申申もうししし奉奉たてまつりりりけれけれければばば、、、いみじういみじういみじゅうおぼしおぼしおぼし騷騷さわぎぎぎててて御御み誦誦ず經經きょうなどなどなどあまたあまたあまたせせせさせさせさせ給給たもうううてててそなたそなたそなたににに向向むかひひいてててなむなむなん念念ねんじじじくらさくらさくらさせせせ給給たまひひいけるけるけるもももすきずきしくすきずきしくすきずきしくあはれあはれあわれなるなるなる事事ことなりなりなり」」」などなどなど語語かたりりり出出いださせさせさせ給給たまふふう。。。
- 8うへうへうえももも聞聞きこしししめしめしめしてててめでめでめでさせさせさせ給給たまひひい、、、「「「いかでいかでいかでさささ多多おおくくくよまよまよませせせ給給たまひひいけむけむけん、、、我我われははは三三みまきまきまき四四よまきまきまきだにだにだにもももえええよみよみよみはてはてはてじじじ」」」ととと仰仰おおせせせらるらるらる。。。「「「昔昔むかしはははえせえせえせものものものももも皆皆みなすきすきすきをかしうをかしうおかしゅうこそこそこそありありありけれけれけれ。。。このこのこの頃頃ころかやうかやうかようなるなるなる事事ことやはやはやは聞聞きこゆるゆるゆる」」」などなどなど御御おまへまへまえににに侍侍さぶらふふう人々人々ひとびと、、、うへうへうえののの女房女房にょうぼうのののこなたこなたこなた許許ゆるささされれれたるたるたるなどなどなど參參まいりりりててて、、、口々口々くちぐちいひいひいい出出いでででなどなどなどしししたるたるたる程程ほどはははまことまことまことににに思思おもふふう事事ことなくなくなくこそこそこそ覺覺おぼゆれゆれゆれ。。。
現代語訳
清涼殿の東北の隅の、北側の仕切りになっている御障子には、荒海の絵や、生きている者たちで恐ろしげな手長・足長が描かれている。弘徽殿の上の御局の戸を押し開けていると、いつも目に入るのを、気味悪がったりして笑っているうちに、高欄のそばに青い大きな瓶を据えて、桜のたいそう見事な枝の五尺ほどもあるのをたくさん挿してあるので、高欄の外までこぼれるように咲いているところへ、昼ごろ、大納言殿が、桜襲の直衣の少し柔らかくなったものに、濃い紫の指貫、白い御衣を何枚も重ね、その上に濃い色の綾織のたいそう鮮やかなのを出衣にして参上なさった。帝がこちらにいらっしゃるので、戸口の前の細い板敷にお座りになって、何かお話を申し上げなさる。御簾の内には女房たちが、桜襲の唐衣などをゆったりと脱ぎ垂らすようにして、藤襲や山吹襲など色とりどりに好ましく、大勢が小半蔀の御簾から袖口を押し出しているころ、昼の御座の方では御膳を差し上げる。足音が高い。先払いの「おしおし」という声が聞こえる。うららかでのどかな日の様子がたいそう趣深いところに、最後のお盆を持った蔵人が参上して、御食事の用意ができたことを申し上げると、帝は中の戸からお渡りになる。お供に大納言も参上なさって、もとの桜のもとに戻ってお座りになった。中宮様が御前の御几帳を押しやって、長押のもとまで出ていらっしゃるのなど、ただもう何ということもなく万事すばらしいので、お仕えしている者も何の心配もない気持ちがしていると、大納言が「月も日もかはりゆけども久に経る三室の山の」という古歌を、ゆったりと口ずさんでお座りになっているのが、たいそうすばらしく思われる。本当に、千年もこのままであってほしいご様子であることよ。
御膳のお給仕をする人が、男たちを呼ぶ。まもなく帝がこちらへお戻りになった。中宮様が「御硯の墨をすりなさい」とおっしゃるのに、私は目は上の空で、ただ帝と中宮様のおいでになるのばかりを見申し上げているので、すぐ近くの物からも目を放してしまいそうだ。白い色紙を折りたたんで、「これに、今思い浮かぶ古歌を一つずつ書きなさい」とおっしゃる。御簾の外に座っていらっしゃる大納言に「これはどうしましょう」と申し上げると、「早く書いて差し上げなさい。男が口出しするべきことでもございません」と言って、御硯を押し戻して、中宮様は「早く早く。ただあれこれ考えずに、難波津の歌でも何でも、ふと思い浮かぶものを」とお責めになるので、どうしてあんなに気おくれしたのだろうか、すっかり顔まで赤くなって思い乱れることよ。春の歌や花の心などと言いながら、上臈の女房が二つ三つ書いて、「ここに」と回してきたので、
年月がたったので、わが身は老いてしまった。けれども花を見ると、何の物思いもない。
という歌を、「君をし見れば(あなたを見ると)」と書き換えたのをご覧になって、中宮様は「ただこういう機転が見たかったのよ」とおっしゃるついでに、「円融院の御代に、帝が御前で、草子に歌を一首書けと殿上人たちにおっしゃったのを、たいそう書きにくがって辞退申し上げる人々がいた。字の上手下手や、歌が場にふさわしくないことなどは気にしないとおっしゃったので、困りながらもみな書いた中に、今の関白殿が三位の中将と申し上げていた時に、
潮の満ちる出雲の浦のいつもいつも、あなたを深く思うことよ、私は。
という歌の下の句を『頼むはや我が(頼みに思っています、私は)』とお書きになったのを、たいそうおほめになったそうです」とおっしゃるにつけても、私はむやみに汗が流れる気持ちがした。若い人ならとてもあのようには書けないだろう、という書きぶりだったのではないかと思われる。ふだんたいそう上手に字を書く人も、わけもなくみな気後れして、書き損じなどしている人もいる。中宮様は古今集の草子を御前にお置きになって、歌の上の句をおっしゃって「この下の句は何か」とお尋ねになるのに、昼も夜も心にかけて覚えている歌もある。それなのに、よく思い出せず、申し上げられないのはどうしたことだろう。宰相の君だけが十ほど。それとて覚えているうちに入ろうか。まして五つ六つなどは、ただ覚えていないとだけ申し上げるべきなのに、「そんなにそっけなく、仰せ言をかいのないものにしてよいものでしょうか」と言って、悔しがるのもおもしろい。誰も知っていると申し上げる人のいない歌を、中宮様がそのまま下の句まで詠み続けなさるのを聞くと、「なんだ、これはみな知っている歌なのに。どうしてこうも気がきかないのか」と言って嘆く。
中宮様は「とりわけ古今集をたくさん書き写したりする人なら、みな覚えているはずのことなのに。村上天皇の御代に、宣耀殿の女御と申し上げた方は、小一条の左大臣殿の姫君でいらっしゃったことは、誰が知らないでしょう。まだ姫君でいらっしゃった時、父の大臣がお教えになったことには、『第一にはお習字を習いなさい。次には琴の琴を、人より上手に弾こうとお思いなさい。そして古今集の歌二十巻をすべて暗記なさるのを、ご学問になさい』と申し上げていらっしゃったと、帝はお聞きになっていて、物忌みの日に、古今集を隠し持って女御のもとへお渡りになり、いつもと違って御几帳を引き立てなさったので、女御は不思議にお思いになったが、帝が草子を広げなさって、『何年何月、何の折に、誰それが詠んだ歌は何か』とお尋ね申し上げなさるので、女御はこういうことかと納得なさったのもおもしろいけれど、覚え違いをしたり、忘れたりしていたらたいへんなことだと、ひどく思い乱れなさったにちがいない。和歌に通じている女房を二、三人ほど呼び出して、碁石で正解の数を数えさせようとして、女御にお尋ね申し上げなさった様子は、どんなにすばらしく興趣深かったことでしょう。御前に控えていた人までうらやましいことです。帝がしいてお答えをうながしなさったので、女御は利口ぶってすぐに下の句まで言うということはなさらなかったけれど、すべて少しも間違えることがなかった。帝は何とかして少しでもあやふやな所や間違いを見つけて終わりにしようと、くやしいほどにお思いになった。十巻にもなってしまった。『まったく無駄だった』とおっしゃって、草子に栞をはさんでお休みになったのも、たいそうすばらしいことです。ずいぶん長い時間がたってお起きになったが、『やはりこの勝負を決着をつけずにやめるのはよくないだろう』とおっしゃって、下の十巻を、明日になったら女御が別の本を見て調べてしまうかもしれないと、今夜決着をつけようと、灯火を近くに寄せて、夜がふけるまでお読みになった。けれども、とうとう女御はお負けにならずに終わった。帝が女御のもとへお渡りになった後、これこれのことがあると人々が父の左大臣殿に申し上げたので、たいそうご心配なさって、御誦経などをたくさんおさせになって、宮中の方に向かって一日じゅう祈っていらっしゃったのも、風流で心を打たれることです」などと語り聞かせなさる。
帝もお聞きになって感心なさり、「どうしてそんなにたくさんお読みになれたのだろう。私なら三巻、四巻さえ読み終えられないだろう」とおっしゃる。「昔は身分の低い者までみな風流で趣があったのですね。このごろはこんな話を聞くでしょうか」などと、御前にお仕えする女房たちや、帝付きの女房でこちらへの出入りを許された者たちなどが参上して、口々に話したりしている時は、本当に何の心配もない気持ちがしたものだ。
意訳
春の清涼殿。大きな瓶に挿された満開の桜のもと、中宮定子の兄伊周が古歌を口ずさみ、帝と中宮が並ぶ。作者は「千年もこのままであってほしい」と、その光景をたたえる。やがて定子は、女房たちに古歌を書かせて機転を試す。作者は「花をし見れば」を「君をし見れば」と書き換え、主君への思いを歌に込めて定子を喜ばせた。定子はさらに、古今集をすべて暗誦してみせた宣耀殿女御の逸話を語り、和歌の教養がどれほど重んじられたかを伝える。中関白家がまだ栄えていたころの、満ち足りた後宮の一日の記憶である。
語釈・文法注
- 淸凉殿
- 内裏の中で天皇がふだん生活する殿舎。東北の隅(うしとら)の北側には、手長・足長を描いた「荒海の障子」が立てられていた。
- うしとら
- 丑と寅の間の方角、北東。
- 大納言殿
- 中宮定子の兄、藤原伊周(これちか)。正暦五年(994)に大納言となった。
- なにはづ
- 「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」の歌。手習いの初めに習う歌として、誰でも知っている歌の代表とされた。
- 古今
- 『古今和歌集』。醍醐天皇の命で編まれた最初の勅撰和歌集で、二十巻、約千百首。和歌の教養の基本とされた。
- 宣耀殿の女御
- 藤原芳子。小一条の左大臣藤原師尹の娘で、村上天皇の女御。古今集をすべて暗誦していたという逸話で知られる。
- ごいし
- 碁石。答えた歌の正誤の数を数えるのに用いた。
和歌
年経れば齢は老いぬしかはあれど花をし見れば物思ひもなし
- 詠者
- 藤原良房(古今集・春上)。作者は第四句を「君をし見れば」と書き換えた
- 状況
- 中宮定子から古歌を一首書くよう求められた場面で、作者は染殿の后(良房の娘)を花にたとえたこの歌を選び、「花」を「君」に書き換えて、主君定子を見れば何の物思いもない、という意味にした。
修辞
- 「君をし見れば」
- 「し」は強意の副助詞。花を君に置き換えることで、定子への賛美の歌に変えている。
しほの満ついづもの浦のいつもいつも君をばふかく思ふはやわが
- 詠者
- 古歌。藤原道隆(のちの関白)が下の句を「たのむはやわが」と書き換えた
- 状況
- 円融天皇が殿上人に歌を書かせた折、道隆はこの歌の結びを「頼むはや我が」と変えて、帝への信頼を表した。定子はこの父の逸話を引いて、作者の機転をほめた。
修辞
- 序詞
- 「しほの満つ出雲の浦の」が、同じ音の「いつも」を導く序詞。
解説
中宮定子の兄伊周が大納言であった正暦五年(994)ごろ、中関白家が最も栄えていた時期の春の一日を回想した日記的章段である。満開の桜と伊周の口ずさむ古歌、並び立つ帝と中宮という絵のような場面に、作者は「ちとせもあらまほしげなる」と、この幸福が永遠に続くことを願う。
後半は、定子が女房たちの和歌の素養と機転を試す場面である。作者が「花をし見れば」を「君をし見れば」と書き換えたのは、単に歌を覚えているだけでなく、その場にふさわしく古歌を生かす力を示したもので、定子は父道隆の同じような逸話を引いてこれを喜ぶ。
定子の語る村上天皇と宣耀殿女御の話は、古今集の暗誦がいかに重んじられたかを伝える有名な逸話である。この段が書かれた時には、すでに道隆は亡く、伊周は失脚していた。輝かしい日々の記憶としてこの場面を書き留めた作者の思いを、読み取ることもできる。
関連
出典
- 底本
- 丸岡桂・松下大三郎編『国文大観』日記草子部(枕草紙) 板倉屋書房、明治36年(1903)、180–183頁(コマ93–94)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日