古事記 下巻
雄略天皇と若日下部王
第二十一代雄略天皇(大長谷若建命)は長谷の朝倉宮で天下を治め、若日下部王・韓比売を妃とした。日下の若日下部王のもとへ向かう途中、天皇の宮に似せて堅魚木を上げた志幾の大県主の家を焼こうとするが、大県主は白い犬を献じて許しを請う。天皇はその犬を求婚の贈り物として若日下部王に贈り、帰途に「日下部の此方の山と」の歌を詠む。
- 1ののの若建若建わかたけののの命命みこと、、、長谷長谷はつせのののののの宮宮みやにましましてにましましてにましまして、、、天天あめののの下知下知したし召召めしきしきしき。。。此此こののの天皇天皇すめらみこと、、、大日下大日下おおくさかののの王王みこののの妹妹いも、、、ののの王王みこににに娶娶あひましきひましきいましき。。。(((御子御子みこましまさずましまさずましまさず。。。)))又又また都夫良意富美都夫良意富美つぶらおおみががが女女め、、、韓比賣韓比賣からひめををを娶娶あしてしてして生生うみませるみませるみませる御子御子みこ、、、ののの命命みこと、、、次次つぎににに妹妹いも若帶比賣若帶比賣わかたらしひめののの命命みこと。。。(((二柱二柱ふたはしら。。。)))かれかれかれ、、、白髮白髮しらかののの太子太子ひつぎのみこののの御名代御名代みなしろとしてとしてとして、、、白髮部白髮部しらかべををを定定さだめめめ給給たまひひい、、、又又また長谷部長谷部はつせべののの舍人舍人とねりををを定定さだめめめ給給たまひひい、、、又又また河瀨河瀨かわせののの舍人舍人とねりををを定定さだめめめ給給たまひきひきいき。。。此此こののの御世御世みよににに、、、吳人參渡吳人參渡くれびとまいわたりりり來來きつつつ。。。そのそのその吳人吳人くれびとをををににに置置おききき給給たまひきひきいき。。。かれかれかれ、、、其其そののの地地ところををを吳原吳原くれはらとととはははいふなりいふなりいうなり。。。大長谷若建命。坐長谷朝倉宮。治天下也。天皇。娶大日下王之妹。若日下部王。〈无子〉又娶都夫良意富美之女。韓比賣生御子。白髮命。次妹若帶比賣命。〈二柱〉故爲白髮太子之御名代。定白髮部。又定長谷部舍人。又定河瀨舍人也。此時吳人參渡來。其吳人安置於吳原。故號其地謂吳原也。
- 2初初はじめめめ、、、大后大后おおきさき日下日下くさかにましけるにましけるにましける時時とき、、、日下日下くさかののの直越直越ただこえののの道道みちよりよりより河內河內こうちにいでましきにいでましきにいでましき。。。かれかれかれ、、、山山やまののの上上うえににに登登のぼりましてりましてりまして、、、國見國見くにみしせればしせればしせれば、、、ををを上上あげてげてげて、、、舍屋舍屋やををを作作つくれるれるれる家家いえありありあり。。。天皇天皇すめらみこと、、、そのそのその家家いえををを問問とはしめはしめわしめ給給たまひしかばひしかばいしかば、、、「「「志幾志幾しきのののががが家家いえなりなりなり。。。」」」ととと申申もうしきしきしき。。。こゝにこゝにここに天皇天皇すめらみこと詔詔のりりり給給たまへるへるえるははは、、、「「「奴奴やつこややや、、、己己おのががが家家いえををを、、、天皇天皇すめらみことののの御舍御舍みあらかににに似似にててて造造みやつこれりれりれり。。。」」」ととと詔詔のりりり給給たまひてひていて、、、卽卽すなわちちち人人ひとををを遣遣つかはしてそのはしてそのわしてその家家いえををを燒燒やかしめかしめかしめ給給たまふふう時時とき、、、そのそのその大縣主大縣主おおあがたぬし、、、懼懼おぢぢじ畏畏かしこみてみてみて、、、稽首稽首のみ申申もうさくさくさく、、、「「「奴奴やつこにあればにあればにあれば、、、奴奴やつこながらながらながら覺覺さとらずてらずてらずて、、、過過あやまちつくれりちつくれりちつくれり、、、いといといと畏畏かしこししし。。。」」」ととと申申もうしきしきしき。。。かれかれかれ、、、能美能美のみののの御幣物御幣物みいやじりををを獻獻たてまつるるる。。。白白しろききき犬犬いぬににに布布ぬのををを懸懸かけてけてけて、、、鈴鈴すずををを著著つけてけてけて、、、己己おのががが族族ともがら、、、名名なはははといふといふという人人ひとににに、、、犬犬いぬののの繩繩つなををを取取とらしめてらしめてらしめて獻獻まつりきりきりき。。。かれかれかれ、、、そのそのその火火ひををを著著つくることくることくることををを止止やめしめめしめめしめ給給たまひきひきいき。。。卽卽すなわちちち、、、そのそのその若日下部若日下部わかくさかべののの王王みこののの御許御許みもとにいでましてにいでましてにいでまして、、、そのそのその犬犬いぬををを賜賜たまひひい入入いれてれてれて詔詔のらしめらしめらしめ給給たまはくはくわく、、、「「「是是こののの物物ものははは、、、今今いま日日ひ道道みちににに得得えつるつるつる奇奇めずらしきらしきらしき物物ものなりなりなり。。。かれかれかれ、、、ののの物物もの。。。」」」といひてといひてといいて、、、賜賜たまひひい入入いれきれきれき。。。こゝにこゝにここに若日下部若日下部わかくさかべののの王王きみ、、、天皇天皇すめらみことににに奏奏まおさしめさしめさしめ給給たまはくはくわく、、、「「「日日ひにににきていでませることきていでませることきていでませること、、、いといといと恐恐かしこししし。。。かれかれかれ、、、己己おの、、、直直ただににに參上參上まいのぼりてりてりて仕仕つかへまつらむへまつらむえまつらむ。。。」」」ととと奏奏まおさしめさしめさしめ給給たまひきひきいき。。。是是ここををを以以もつててて、、、宮宮みやににに還還かえりりり上上たてまつりますりますります時時ときににに、、、そのそのその山山やまののの坂坂さかののの上上うえににに行行ゆききき立立たたしてたしてたして、、、歌歌うたひひい給給たまはくはくわく、、、日下部日下部くさかべののの 此此こ方方かたののの山山やまととと 疊薦疊薦たたみこも 平羣平羣へぐりののの山山やまののの 此方々々此方々々こちごちののの 山山やまののの峽峽かいににに 立立たちちち榮榮さかゆるゆるゆる 葉廣熊白檮葉廣熊白檮はびろくまかし もとにもとにもとにははは いくみいくみいくみ竹生竹生たけおひひひ 末末すえへへへにににははは 生生おひひひ いくみいくみいくみ竹竹たけ いくみいくみいくみははは寢寢ねずずず 立繁竹立繁竹たしみだけ 慥慥たしにににははは率寢率寢いねずずず 後後のちもくみもくみもくみ寢寢ねむむむ そのそのその思妻思妻おもいづま あはれあはれあわれ 卽卽すなわちちち、、、このこのこの御歌御歌みうたををを持持もたしめてたしめてたしめて、、、返返かへししし使使つかはははしきしきしき。。。初大后坐日下之時。自日下之直越道。幸行河內。爾登山上。望國內者。有上堅魚作舍屋之家。天皇令問其家云。其上堅魚作舍者。誰家。答白志幾之大縣主家。爾天皇詔者。奴乎。己家。似天皇之御舍而造。卽遣人。令燒其家之時。其大縣主懼畏。稽首白。奴有者。隨奴不覺而過作。甚畏。故獻能美之御幣物。〈能美二字以音〉布繫白犬。著鈴而。己族名謂腰佩人。令取犬繩以獻上。故令止其著火。卽幸行其若日下部王之許。賜入其犬。令詔。是物者。今日得道之奇物。故都摩杼比〈此四字以音〉之物云而。賜入也。於是若日下部王。令奏天皇。背日幸行之事。甚恐。故己直參上而仕奉。是以還上坐於宮之時。行立其山之坂上。歌曰。久佐加辨能。許知能夜麻登。多多美許母。幣具理能夜麻能。許知棊知能。夜麻能賀比爾。多知邪加由流。波毘呂久麻加斯。母登爾波。伊久美陀氣淤斐。須惠幣爾波。多斯美陀氣淤斐。伊久美陀氣。伊久美波泥受。多斯美陀氣。多斯爾波韋泥受。能知母久美泥牟。曾能淤母比豆麻。阿波禮。卽令持此歌而。返使也。
現代語訳
大長谷若建命(雄略天皇)は、長谷の朝倉の宮にいらして天下を治められた。この天皇は、大日下王の妹の若日下部王を妻とされた。(御子はなかった。)また都夫良意富美の娘の韓比売を妻として生んだ御子は、白髪命、次に妹の若帯比売命。(二柱。)そして白髪太子の御名代として白髪部を定め、また長谷部の舎人を定め、また河瀬の舎人を定められた。この御世に、呉の人々が渡来してきた。その呉の人々を呉原に住まわせられた。それでその地を呉原というのである。
はじめ、大后が日下にいらしたとき、天皇は日下の直越の道から河内にお出かけになった。そして山の上に登って国見をなさると、屋根に堅魚木を上げて舎屋を作った家があった。天皇がその家のことを尋ねさせると、「志幾の大
県主の家です」と申し上げた。そこで天皇は「やつめ、自分の家を、天皇の御殿に似せて造っている」とおっしゃって、すぐに人を遣わしてその家を焼かせようとなさった。するとその大県主は恐れかしこまって、額を地につけて申し上げた。「卑しい身ですので、卑しい者のこととて気づかずに、誤って造ってしまいました。まことに恐れ多いことです」。そして、お詫びのしるしの贈り物を献上した。白い犬に布をかけ、鈴をつけて、自分の一族で名を腰佩という者に、犬の綱を取らせて献上した。そこで天皇は火をつけるのをやめさせなさった。そしてそのまま若日下部王のもとにおいでになって、その犬を贈り入れて、こう伝えさせた。「これは、今日道で手に入れた珍しい物だ。だから求婚の贈り物としよう」。こう言って贈り入れた。すると若日下部王は、天皇にこう申し上げさせた。「日に背を向けておいでになったことは、たいへん恐れ多いことです。ですから、私の方から直接参上してお仕えいたしましょう」。こうして宮にお帰りになるとき、その山の坂の上に立って歌われた歌は、
日下部のこちらの山と、(たたみこも)平群の山の、あちらこちらの山の谷あいに、立ち茂る葉の広い大きな樫よ。その根もとには絡み合った竹が生え、先の方には生い茂った竹が生えている。絡み合った竹のように絡み合って寝もせず、生い茂った竹のように確かに共寝もしなかったが、後には絡み合って寝よう、そのいとしい妻よ、ああ。
そしてこの御歌を使者に持たせて、返し遣わされた。
意訳
雄略天皇は、兄たちを倒して即位した強大な天皇です。即位後、かつて兄の安康天皇が仲立ちしようとした若日下部王を妻に迎えに行きます。その途中、天皇の宮殿のように屋根に堅魚木を上げた家を見つけて焼こうとしますが、持ち主の大県主が白い犬を差し出して謝ったので許しました。権力者の気性の激しさと、それをうまくなだめる臣下の知恵が描かれています。
天皇はその白い犬を、そのまま若日下部王への求婚の贈り物にします。若日下部王は、太陽の方角(東)に背を向けて西の日下へ来たのは不吉だとして、自分から天皇のもとへ参上すると答えました。帰り道の歌には、「今はまだ共寝しないが、後には共に寝よう」という、結婚を待ち望む思いが込められています。
語釈・文法注
- 大長谷の若建の命
- 第二十一代雄略天皇。允恭天皇の子。埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣の「獲加多支鹵大王(わかたけるのおおきみ)」は雄略天皇とされる。
- 長谷の朝倉の宮
- 奈良県桜井市黒崎・脇本の辺りにあったとされる宮。脇本遺跡が宮の跡と考えられている。
- 若日下部の王
- 仁徳天皇の皇女で、雄略天皇の大后。
- 白髮の命
- のちの第二十二代清寧天皇。生まれつき白髪だったことからの名とされる。
- 吳原
- 奈良県明日香村栗原。呉(中国南部)からの渡来人を住まわせた地とされる。
- 堅魚
- 堅魚木(かつおぎ)。屋根の棟の上に並べた丸太。天皇の宮殿や神社に用いられる飾りで、豪族の家に上げるのは無礼とされた。
- 志幾の大縣主
- 河内国志紀郡(大阪府藤井寺市・八尾市の辺り)の豪族。
- 腰佩
- 大県主の一族の者の名。
- 娉の物
- 「つまどひのもの」。求婚の贈り物。
- 日に背きていでませること
- 大和から西の日下へ来ることは、日の昇る東に背を向けることになり、不吉とされた。
- いくみ竹・立繁竹
- 絡み合って生える竹と、生い茂る竹。共寝のさまにたとえる。
文法
- 原文の「許知棊知能」
- 底本の原文は「許知棊知能」と刷る。訓み下しは「此方々々の」。
- 奴や
- 「やつめ」。相手を見下して言う言葉。
歌謡
日下部の 此方の山と 疊薦 平羣の山の 此方々々の 山の峽に 立ち榮ゆる 葉廣熊白檮 もとには いくみ竹生ひ 末へには 立繁竹生ひ いくみ竹 いくみは寢ず 立繁竹 慥には率寢ず 後もくみ寢む その思妻 あはれ
- 詠者
- 雄略天皇
- 状況
- 若日下部王に求婚して、帰り道に山の坂の上で詠んだ歌。
修辞
- 枕詞
- 「疊薦」は「平羣」にかかる。
- 序詞
- 樫の根もとと先に生える竹のようすから、「いくみ」「たしみ」を導く。
解説
雄略天皇は、古事記・日本書紀ともに強大な権力をもつ天皇として描かれ、万葉集の巻頭も雄略天皇の「籠もよみ籠持ち」の歌で始まります。埼玉県の稲荷山古墳と熊本県の江田船山古墳から出土した刀剣の銘文に「ワカタケル大王」の名があり、五世紀後半には大和の王権が関東から九州にまで及んでいたことを示しています。中国の『宋書』の倭王「武」も雄略天皇とされます。
堅魚木の話は、建物の装飾が身分を示すものであったことを伝えています。家の形にまで天皇の権威が及んでいたことがわかります。
関連
出典
- 底本
- 古事記(佐伯常麿校註) 国民図書、昭和4年(1929)。269〜272頁。国立国会図書館デジタルコレクション(保護期間満了)
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部(原文・訓み下しは底本による。現代語訳・注は当サイト)
- 更新日