古事記 下巻
雄略天皇陵と仁賢・武烈天皇
顕宗天皇は父を殺した雄略天皇を恨み、その陵を壊そうとするが、兄の意富祁命が自ら出向いて陵の傍らを少し掘っただけで戻り、「天下を治めた天皇の陵をすべて壊せば後世の非難を受ける。少し掘っただけでも恥は示せた」と諫める。顕宗天皇の崩後、意富祁命が即位して仁賢天皇となり、その子の小長谷若雀命(武烈天皇)の後は皇位を継ぐ者がなく、応神天皇の五世の孫、袁本杼命が近江から迎えられた。
- 1天皇天皇すめらみこと、、、そのそのその父王父王ちちみこををを殺殺ころししし給給たまひしひしいし大長谷大長谷おおはつせののの天皇天皇すめらみことををを深深ふかくくく怨怨あたみみみ奉奉たてまつりてりてりて、、、そのそのその靈靈みたまににに報報むくいむといむといむと思思おもほしきほしきおしき。。。かれかれかれ、、、そのそのその大長谷大長谷おおはつせののの天皇天皇すめらみことののの御陵御陵みはかををを毀毀やぶらむとらむとらむと思思おもほしてほしておして、、、人人ひとををを遣遣つかはすときにはすときにわすときに、、、そのそのその伊呂兄伊呂兄いろせ、、、ののの命命みことののの奏奏まおししし給給たまはくはくわく、、、「「「是是こののの御陵御陵みはかををを破壞破壞やぶらむにらむにらむにははは、、、他人他人あだしびとををを遣遣つかはすべからずはすべからずわすべからず。。。專專もわららら、、、僕僕あ、、、自自ずかららら行行ゆきてきてきて、、、天皇天皇すめらみことののの御御おん心心こころのごとのごとのごと、、、破壞破壞やぶりてまゐでむりてまゐでむりてまいでむ。。。」」」ととと申申もうしたまひきしたまひきしたまいき。。。かれかれかれ、、、天皇天皇すめらみこと、、、「「「然然しからばらばらば、、、命命みことのののまに〳〵いでませまに〳〵いでませまにまにいでませ。。。」」」ととと詔詔のりりり給給たまひきひきいき。。。是是ここををを以以もつててて意富祁意富祁おおけののの命命みこと、、、自自ずかららら下下くだりりり幸幸さきでましてでましてでまして、、、そのそのその御陵御陵みはかののの傍傍かたえををを少少すこししし掘掘こりてりてりて、、、還還かえりりり上上のぼらしてらしてらして、、、「「「既既すでににに掘掘こりりり壞壞やぶりぬりぬりぬ。。。」」」ととと申申もうししし給給たまひきひきいき。。。こゝにこゝにここに、、、天皇天皇すめらみこと、、、そのそのその早早はやくくく還還かえりりり上上たてまつりませることりませることりませることををを異異あやしみましてしみましてしみまして、、、「「「如何樣如何樣いかさまににに、、、壞壞やぶりりり給給たまひしぞひしぞいしぞ。。。」」」ととと詔詔のりたまへばりたまへばりたまえば、、、「「「かのかのかの御陵御陵みはかののの傍傍かたえののの土土つちををを少少すこししし掘掘こりつりつりつ。。。」」」ととと申申もうししし給給たまひきひきいき。。。天皇天皇すめらみこと、、、詔詔のりりり給給たまはくはくわく、、、「「「父王父王ちちみこののの仇仇あたををを報報むくいむといむといむと思思おもふなればふなればうなれば、、、必必かならずずず、、、かのかのかの御陵御陵みはかををを、、、悉悉ことごとににに破壞破壞やぶりてむりてむりてむををを。。。何何なにぞすこしぞすこしぞすこし掘掘こりりり給給たまひしぞひしぞいしぞ。。。」」」ととと詔詔のりりり給給たまへばへばえば、、、申申もうししし給給たまはくはくわく、、、「「「然然しかしつるしつるしつる所以所以このゆえははは、、、父王父王ちちみこののの怨怨あたををを、、、そのそのその靈靈みたまににに報報むくいむといむといむと思思おもほすほすおすははは、、、誠誠まことににに理理ことわりなりなりなり。。。然然しかれどもれどもれども、、、そのそのその大長谷大長谷おおはつせののの天皇天皇すめらみことははは、、、父父ちちののの怨怨あたにににはははあれどもあれどもあれども、、、還還かえりてりてりてははは、、、我我あがががにましにましにまし、、、またまたまた天天あめののの下知下知したし召召めしししししし天皇天皇すめらみことににに坐坐ますすすををを、、、今今いま、、、ひとひとひとへにへにへに父王父王ちちみこののの仇仇あたといふといふという志志こころざしをををのみのみのみ取取とりてりてりて、、、天天あめののの下知下知したししししししし天皇天皇すめらみことののの御陵御陵みはかををを悉悉ことごとににに壞壞やぶりなばりなばりなば、、、後後のちののの世世よののの人人ひと、、、必必かならずずず誹誹そしりりり奉奉たてまつりてむりてむりてむ。。。たゞしたゞしただし、、、父王父王ちちみこののの仇仇あたははは報報むくいずいずいずはははあるべからずあるべからずあるべからず。。。かれかれかれ、、、かのかのかの御陵御陵みはかののの邊邊へををを少少すこししし掘掘こりつりつりつ。。。既既すでにかくにかくにかく恥恥はじ見見みせせせ奉奉たてまつりてあればりてあればりてあれば、、、後後のちののの世世よににに示示しめすにもすにもすにも足足たへなむへなむへなむ。。。」」」かくかくかく申申もうししし給給たまひつればひつればいつれば、、、天皇天皇すめらみこと、、、「「「これもこれもこれも亦亦またいといといと理理ことわりなりなりなり。。。命命みことののの如如ごとくてくてくて可可よししし。。。」」」とぞとぞとぞ詔詔のりりり給給たまひけるひけるいける。。。かれかれかれ、、、天皇天皇すめらみこと崩崩かむあがりましてりましてりまして、、、卽卽すなわちちち意富祁意富祁おおけののの命命みこと、、、天津日繼知天津日繼知あまつひつぎしろしめしきろしめしきろしめしき。。。このこのこの天皇天皇すめらみこと、、、御年三十八歲御年三十八歲みとしみそじまりやつ、、、八歲天八歲天やとせあめののの下知下知したししめしきしめしきしめしき、、、御陵御陵みはかははは片岡片岡かたおかのののののの岡岡をかののの上上うえにありにありにあり。。。天皇。深怨殺其父王之大長谷天皇。欲報其靈。故欲毀其大長谷天皇之御陵而。遣人之時。其伊呂兄意富祁命奏言。破壞是御陵。不可遣他人。專僕自行。如天皇之御心。破壞以參出。爾天皇。詔然隨命宜幸行。是以意富祁命自下幸而。少掘其御陵之傍。還上。復奏言既掘壞也。爾天皇。異其早還上而。詔如何破壞。答白少掘其陵之傍土。天皇詔之。欲報父王之仇。必悉破壞其陵。何少掘乎。答曰。所以爲然者。父王之怨。欲報其靈。是誠理也。然其大長谷天皇者。雖爲父之怨。還爲我之從父。亦治天下之天皇。是今單取父仇之志。悉破治天下之天皇陵者。後人必誹謗。唯父王之仇。不可非報。故少掘其陵邊。既以是恥。足示後世。如此奏者。天皇。答詔之是亦大理。如命可也。故天皇崩。卽意富祁命知天津日繼。天皇。御年參拾捌歲。治天下八歲。御陵在片岡之石坏岡上也。
- 2意富祁意富祁おおけののの命命みこと、、、石石いそののの上上かみのののののの宮宮みやにましましてにましましてにましまして、、、天天あめののの下治下治したしろしめしきしめしきしめしき。。。此此こののの天皇天皇すめらみこと、、、大長谷大長谷おおはつせののの若建若建わかたけののの天皇天皇すめらみことののの御子御子みこ、、、春日春日かすがののの大郞女大郞女おおいらつめににに婚婚よばひましてひましていまして、、、生生うみませるみませるみませる御子御子みこ、、、高木高木たかぎののの郞女郞女いらつめ。。。次次つぎににに財財たからののの郞女郞女いらつめ。。。次次つぎににに久須毘久須毘くすびののの郞女郞女いらつめ。。。つぎにつぎにつぎにののの郞女郞女いらつめ。。。つぎにつぎにつぎにののの若雀若雀わかさざきののの命命みこと。。。次次つぎににに眞若眞若まわかののの王王きみ。。。又又また丸邇丸邇わにののの日爪日爪ひつまののの臣臣おみののの女女め、、、糠糠ぬかののの若子若子わくごののの郞女郞女いらつめををを娶娶あしてしてして、、、生生うみませるみませるみませる御子御子みこ、、、春日春日かすがののの山田山田やまだののの郞女郞女いらつめ。。。此此こののの天皇天皇すめらみことののの御子御子みこたちたちたち、、、併併あわせてせてせて七柱七柱ななはしらますますます。。。此此こののの中中なかににに、、、小長谷小長谷おはつせののの若雀若雀わかさざきののの命命みことははは天天あめののの下治下治したしろしめしきしめしきしめしき。。。意富祁命。坐石上廣高宮。治天下也。天皇。娶大長谷若建天皇之御子春日大郞女。生御子。高木郞女。次財郞女。次久須毘郞女。次手白髮郞女。次小長谷若雀命。次眞若王。又娶丸邇日爪臣之女糠若子郞女。生御子。春日山田郞女。此天皇之御子。幷七柱。此之中。小長谷若雀命者治天下也。
- 3小長谷小長谷おはつせののの若雀若雀わかさざきののの命命みこと。。。長谷長谷はつせのののののの宮宮みやにましましてにましましてにましまして、、、天天あめののの下八歲治下八歲治したやとせしろしめしきしめしきしめしき。。。このこのこの天皇天皇すめらみこと、、、太子太子ひつぎのみこましまさずましまさずましまさず。。。かれかれかれ、、、御子代御子代みこしろとしてとしてとして、、、小長谷部小長谷部おはつせべををを定定さだめめめ給給たまひきひきいき。。。御陵御陵みはかははは、、、片岡片岡かたおかののの石坏石坏いわつきののの岡岡おかにありにありにあり。。。このこのこの天皇天皇すめらみこと既既すでににに崩崩かむあがりましてりましてりまして、、、日繼日繼ひつぎ知知しろしめすべきろしめすべきろしめすべき王王きみましまさずましまさずましまさず。。。故故かれ、、、品太品太ほむだののの天皇天皇すめらみことののの五世五世いつつぎののの孫孫ひこ、、、ののの命命みことををを、、、近淡海近淡海ちかつおうみののの國國くによりよりより上上たてまつりりり坐坐まさしめてさしめてさしめて、、、手白髮手白髮たしらかののの命命みことににに合合あはせまつりてはせまつりてわせまつりて、、、天天あめののの下下したををを授授さずけまつりきけまつりきけまつりき。。。小長谷若雀命。坐長谷之列木宮。治天下捌歲也。此天皇无太子。故爲御子代。定小長谷部也。御陵在片岡之石坏岡也。天皇既崩。無可知日續之王。故品太天皇五世之孫。袁本杼命。自近淡海國令上坐而。合於手白髮命。授奉天下也。
現代語訳
天皇(顕宗天皇)は、父王を殺した大長谷天皇(雄略天皇)を深く恨んで、その霊に報復しようとお思いになった。そこで、その大長谷天皇の御陵を壊そうとして人を遣わそうとすると、同母兄の意富祁命が申し上げた。「この御陵を壊すのに、他人を遣わしてはなりません。私が自分で行って、天皇のお心のとおりに壊してまいりましょう」。そこで天皇は「それなら、おっしゃるとおりにおいでください」とおっしゃった。こうして意富祁命は自ら下っていかれ、その御陵の傍らを少し掘って帰って来て、「もう掘り壊しました」と申し上げた。天皇はその早く帰って来たことを不審にお思いになって、「どのように壊されたのか」とお尋ねになると、「あの御陵の傍らの土を少し掘りました」と申し上げた。天皇は「父王の仇に報いようと思うのだから、必ずあの御陵をすっかり壊すべきなのに、どうして少し掘っただけなのか」とおっしゃった。すると意富祁命は申し上げた。「そのようにしたわけは、父王の恨みをその霊に報いようとお思いになるのは、まことにもっともなことです。けれども、その大長谷天皇は、父の仇ではありますが、一方では私たちの叔父にあたり、また天下をお治めになった天皇でいらっしゃいます。それを今、ひたすら父王の仇という思いだけで、天下を治めた天皇の御陵をすっかり壊してしまったら、後の世の人々は必ず非難するでしょう。ただし、父王の仇に報いないわけにはいきません。そこで、あの御陵の周りを少し
掘ったのです。こうして恥をかかせたのですから、後の世に示すにも十分でしょう」。こう申し上げると、天皇は「これもまたまことにもっともだ。おっしゃるとおりでよい」とおっしゃった。そして天皇がお亡くなりになると、すぐに意富祁命が皇位を継いで天下を治められた。
この天皇(顕宗天皇)のお年は三十八歳。八年天下を治められた。御陵は片岡の石坏の岡の上にある。
意富祁命(仁賢天皇)は、石上の広高の宮にいらして天下を治められた。この天皇は、大長谷若建天皇(雄略天皇)の御子、春日大郎女を妻として生んだ御子は、高木郎女、次に財郎女、次に久須毘郎女、次に手白髪郎女、次に小長谷若雀命、次に真若
王。また丸邇の日爪臣の娘、糠若子郎女を妻として生んだ御子は、春日山田郎女。この天皇の御子たちは、あわせて七柱。この中で、小長谷若雀命が天下を治められた。
小長谷若雀命(武烈天皇)は、長谷の列木の宮にいらして、八年天下を治められた。この天皇には太子がなかった。そこで御子代として小長谷部を定められた。御陵は片岡の石坏の岡にある。この天皇がお亡くなりになると、皇位を継ぐべき王がいなかった。そこで品太天皇(応神天皇)の五世の孫、袁本杼命を近淡海の国から上って来させて、手白髪命と結婚させて、
天下をお授けした。
意訳
父の仇の雄略天皇の陵を壊そうとする弟の顕宗天皇を、兄の意富祁命は「天下を治めた天皇の陵を壊せば、後の世に非難される。少し掘って恥をかかせただけで十分だ」と諫めました。恨みを晴らしたい気持ちと、天皇としての節度との間で、兄が見せた分別ある判断が語られています。
顕宗天皇の死後、兄が即位して仁賢天皇となります。その子の武烈天皇には跡継ぎがなく、仁徳天皇から続いた皇統はここで途絶えました。そこで、遠く応神天皇の五世の孫にあたる袁本杼命(継体天皇)が近江から迎えられ、仁賢天皇の娘の手白髪命と結婚して皇位を継ぎます。古事記は武烈天皇を短く記すだけで、日本書紀が描く暴虐な天皇の姿は見られません。
語釈・文法注
- 意富祁の命
- 第二十四代仁賢天皇。顕宗天皇の兄。日本書紀では億計天皇。
- 片岡の石坏の岡
- 顕宗天皇陵・武烈天皇陵。奈良県香芝市・葛城市の辺りの古墳に治定されている。
- 石の上の廣高の宮
- 奈良県天理市石上の辺りにあったとされる宮。
- 手白髮の郞女
- 仁賢天皇の皇女。継体天皇の皇后となり、欽明天皇を生んだ。
- 小長谷の若雀の命
- 第二十五代武烈天皇。仁賢天皇の子。日本書紀では暴虐な天皇として描かれる。
- 長谷の列木の宮
- 奈良県桜井市出雲の辺りにあったとされる宮。
- 袁本杼の命
- のちの第二十六代継体天皇。応神天皇の五世の孫とされ、近江・越前から迎えられた。
- 從父
- 「をぢ」。父の兄弟。雄略天皇は二王子の父、市辺之忍歯王の従兄弟にあたる。
文法
- 原文の「無可知日續之王」
- 底本の原文は「日續」と刷る。訓み下しは「日繼」。
- 併せて
- 底本の訓み下しは、ここでは「併せて」と刷る。
- 御年
- 原文は顕宗天皇の年を「參拾捌歲」、治世を「八歲」と書く。
解説
雄略天皇陵を少しだけ掘った話は、日本書紀にもほぼ同じ形で記されています。皇統の正統を守ろうとする意識と、肉親の恨みを晴らしたい心とのせめぎ合いを描いたものとして注目されます。
継体天皇の即位は、古代の皇位継承の大きな転換点です。応神天皇の五世の孫という遠い血筋の人物が迎えられたことについては、新しい王統が始まったとみる説もあります。古事記は、継体天皇以後の天皇については系譜を中心に簡潔に記すだけになっていきます。
関連
出典
- 底本
- 古事記(佐伯常麿校註) 国民図書、昭和4年(1929)。291〜295頁。国立国会図書館デジタルコレクション(保護期間満了)
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部(原文・訓み下しは底本による。現代語訳・注は当サイト)
- 更新日