古事記 下巻
允恭天皇と盟神探湯
第十九代允恭天皇(男浅津間若子宿禰命)は遠つ飛鳥宮で天下を治めた。九柱の御子のうち、輕大郎女は身の光が衣を通して輝いたので衣通郎女と呼ばれた。長い病を理由に即位を辞退したが、大后や諸臣に強く勧められて即位し、新羅の医術で病を治した。乱れた氏姓を正すため、味白檮の言八十禍津日の前に探湯瓮を据えて盟神探湯を行った。
- 1若子若子わくごののの宿禰宿禰すくねののの命命みこと、、、つつつ飛鳥飛鳥あすかののの宮宮みやにましましてにましましてにましまして、、、天天あめののの下知下知したし召召めしきしきしき。。。此此こののの天皇天皇すめらみこと、、、意富本杼意富本杼おほほどののの王王みこののの妹妹いも、、、ののの大中津比賣大中津比賣おおなかつひめののの命命みことににに娶娶あひましてひましていまして、、、生生うみませるみませるみませる御子御子みこ、、、ののの王王きみ。。。次次つぎににに長田長田ながたののの大郞女大郞女おおいらつめ。。。次次つぎににに境境さかいののの黑日子黑日子くろひこののの王王きみ。。。つぎにつぎにつぎにののの命命みこと。。。次次つぎににに輕輕かるののの大郞女大郞女おおいらつめ、、、またのまたのまたの御名御名みなはははののの郞女郞女いらつめ。。。(((御名御名みなををを衣通衣通そとおしののの王王きみととと負負おはせるはせるわせる所以所以このゆえははは、、、そのそのその御身御身みみののの光光ひかり、、、衣衣きぬよりよりより通通とおりりり出出いでつればなりでつればなりでつればなり。。。)))つぎにつぎにつぎに八瓜八瓜やつりののの白日子白日子しろひこののの王王きみ。。。次次つぎにににののの命命みこと。。。次次つぎににに橘橘たちばなののの大郞女大郞女おおいらつめ。。。次次つぎににに酒見酒見さかみののの郞女郞女いらつめ。。。(((九柱九柱ここのはしら。。。)))凡凡すべてこのてこのてこの天皇天皇すめらみことののの御子御子みこたちたちたち九柱九柱ここのはしら(((男王五柱男王五柱ひこみこいつはしら、、、女王女王ひめみこ四柱四柱よはしら)))此此こののの九王九王ここのはしらののの中中なかににに、、、穴穗穴穗あなほののの命命みことははは天天あめののの下知下知したしろしめしきろしめしきろしめしき。。。次次つぎににに大長谷大長谷おおはつせののの命命みことももも天天あめののの下知下知したしろしめしきろしめしきろしめしき。。。男淺津間若子宿禰命。坐遠飛鳥宮。治天下也。此天皇。娶意富本杼王之妹。忍坂之大中津比賣命。生御子。木梨之輕王。次長田大郞女。次境之黑日子王。次穴穗命。次輕大郞女。亦名衣通郞女。〈御名所以負衣通王者。其身之光。自衣通出也。〉次八瓜之白日子王。次大長谷命。次橘大郞女。次酒見郞女。〈九柱〉凡天皇之御子等。九柱。〈男王五。女王四。〉此九王之中。穴穗命者。治天下也。次大長谷命。治天下也。
- 2天皇天皇すめらみこと初初はじめめめ天津日繼知召天津日繼知召あまつひつぎしろしめさむとせしさむとせしさむとせし時時ときににに、、、辭辭ことばびましてびましてびまして、、、「「「我我あはははうちうちうち延延はへたるへたるへたる病病やまいしあればしあればしあれば、、、日繼日繼ひつぎ得得え知知しらさじらさじらさじ。。。」」」ととと詔詔のりりり給給たまひきひきいき。。。然然しかれどもれどもれども大后大后おおきさきををを初初はじめてめてめて、、、諸卿諸卿まえつぎみたちたちたち堅堅かたくくく申申もうししし給給たまへるにへるにえるに因因よりてぞりてぞりてぞ、、、天天あめののの下知下知したしろしめしけるろしめしけるろしめしける。。。此此こののの時新良時新良ときしらぎののの國主國主こにきし、、、御調八十一艘御調八十一艘みつぎやそまりひとふねたてまつりきたてまつりきたてまつりき。。。爾爾ここににに御調御調みつぎののの大使大使おおつかい、、、名名なはははとぞいひけるとぞいひけるとぞいいける。。。此此こののの人藥人藥ひとくすりののの方方みちををを深深ふかくくく知知しれりきれりきれりき。。。かれかれかれ、、、帝皇帝皇ていおうががが御病御病みやまいををを治治おさめめめ奉奉たてまつりきりきりき。。。是是ここににに天皇天皇すめらみこと、、、天天あめののの下下したののの氏々名々氏々名々うじうじななののの人等人等ひとどもののの氏氏うじ姓姓かばねののの忤忤たがひひひ過過あやまてるてるてる事事ことををを愁愁うれひましてひましてひまして、、、味白檮味白檮あまかしのののののの前前さきににに、、、ををを居居おゑてゑてえて、、、天天あめののの下下したのののののの緖緖をののの氏氏うじ姓姓かばねををを定定さだめめめ給給たまひきひきいき。。。又又また、、、木梨木梨きなしののの輕輕かるののの太子太子ひつぎのみこののの御名代御名代みなしろとしてとしてとして、、、輕部輕部かるべををを定定さだめめめ給給たまひひい、、、大后大后おおきさきののの御名代御名代みなしろとしてとしてとして、、、ををを定定さだめめめ給給たまひひい、、、大后大后おおきさきののの御弟田井御弟田井みおとたいののの中中なかつつつ比賣比賣ひめののの御名代御名代みなしろとしてとしてとして、、、河部河部かわべををを定定さだめめめ給給たまひきひきいき。。。このこのこの天皇御年七十八歲天皇御年七十八歲すめらみことみとしななそじまりやつ、、、御陵御陵みはかははは河內河內こうちののの惠賀惠賀えがのののにありにありにあり。。。天皇。初爲將所知天津日繼之時。天皇辭而詔之。我者有一長病。不可得所知日繼。然大后始而。諸卿等。因堅奏而乃。治天下。此時新良國主。貢進御調八十一艘。爾御調之大使。名云金波鎭漢紀武。此人深知藥方。故治差帝皇之御病。於是天皇。愁天下氏氏名名人等之氏姓忤過而。於味白檮之言八十禍津日前。居玖訶瓮而。〈玖訶二字以音〉定賜天下之八十友緖氏姓也。又爲木梨之輕太子御名代。定輕部。爲大后御名代。定刑部。爲大后之弟田井中比賣御名代。定河部也。天皇御年漆拾捌歲。御陵在河內之惠賀長枝也。
現代語訳
男浅津間若子宿禰命(允恭天皇)は、遠つ飛鳥の宮にいらして天下を治められた。この天皇は、意富本杼王の妹、忍坂之大中津比売命を妻として生んだ御子は、木梨之軽王、次に長田大郎女、次に境之黒日子王、次に穴穂命、次に軽大郎女、またの名は衣通郎女。(衣通王という名を負うわけは、その身の光が衣を通して輝き出たからである。)次に八瓜之白日子王、次に大長谷命、次に橘大郎女、次に酒見郎女。(九柱。)すべてこの天皇の御子たちは九柱(男王五柱、女王四柱)。この九王の中で、穴穂命は天下を治められ、次に大長谷命も天下を治められた。
天皇は、初め皇位を継ごうとなさったとき、辞退して「私は長く続く病があるので、皇位を継ぐことはできない」とおっしゃった。けれども大后をはじめ、臣下たちが強く申し上げたので、天下をお治めになった。このとき新羅の国王が、貢ぎ物を積んだ船八十一艘を献上した。その貢ぎ物の大使は、名を金波鎮漢紀武といった。この人は薬の処方に深く通じていた。それで天皇の御病を治して差し上げた。
さて天皇は、天下の諸氏族・諸家の人々の氏姓が乱れて誤っていることを憂えて、味白檮の言八十禍津日の崎に、探湯瓮(くかへ)を据えて、天下の多くの氏族の氏姓をお定めになった。また、木梨之軽太子の御名代として軽部を定め、大后の御名代として刑部を定め、大后の妹の田井中比売の御名代として河部を定められた。
この天皇のお年は七十八歳。御陵は河内の恵賀の長枝にある。
意訳
允恭天皇は、長い病を理由に即位を辞退したと伝えられます。周囲に強く勧められて即位すると、新羅から来た医術に通じた使者が病を治しました。朝鮮半島からの医術の伝来を伝える記事として注目されます。
天皇が行った「盟神探湯(くかたち)」は、煮えたぎった湯に手を入れさせ、正しい者は火傷をせず、偽る者は火傷をするという神判です。人々が勝手に名乗っていた氏姓をこの方法で正したといいます。氏姓が朝廷の身分秩序の根幹であったことを示す話です。
御子の一人、軽大郎女は、その美しさが衣を通して光り輝いたので「衣通郎女(そとおしのいらつめ)」と呼ばれました。のちにこの軽大郎女と、同母兄の木梨之軽太子との悲恋が語られます。
語釈・文法注
- 男淺津間若子の宿禰の命
- 第十九代允恭天皇。仁徳天皇の子で、履中・反正天皇の弟。
- 遠つ飛鳥の宮
- 奈良県明日香村の辺りにあったとされる宮。
- 忍坂の大中津比賣の命
- 允恭天皇の大后。応神天皇の孫。
- 木梨之輕の王
- 允恭天皇の太子。同母妹の軽大郎女と通じ、のちに伊予に流される。
- 衣通の郞女
- 軽大郎女。身の光が衣を通して輝いたという美しい皇女。のちに和歌の三神の一人として信仰された。
- 穴穗の命
- のちの第二十代安康天皇。
- 大長谷の命
- のちの第二十一代雄略天皇。
- 金波鎭漢紀武
- 新羅の使者。「波鎮」「漢紀」は新羅の官位名とされる。日本書紀では金波鎮漢紀武。
- 探湯瓮
- 「くかへ」。盟神探湯(くかたち)のための湯を煮る釜。熱湯に手を入れさせて真偽を判定した。
- 味白檮の言八十禍津日の前
- 奈良県明日香村の甘樫丘の崎。言葉の正邪を正す神、八十禍津日神を祭った所とされる。
- 八十友の緖
- 朝廷に仕える多くの氏族。
- 刑部
- 「おさかべ」。忍坂大中津比売命の名を伝える御名代。
- 河內の惠賀の長枝
- 允恭天皇陵。大阪府藤井寺市の市野山古墳に治定されている。
文法
- 原文の「治差帝皇之御病」
- 底本は「差」と刷る。病が治ること。
- 原文の「居玖訶瓮」
- 「玖訶」は音で書き、探湯の意。訓み下しは「探湯瓮」と書く。
- 知召しき
- 底本の訓み下しは冒頭を「天の下知召しき」、そのあとを「知ろしめしき」と書く。
解説
允恭天皇の盟神探湯は、日本書紀にさらに詳しく記され、甘樫丘で人々に熱湯に手を入れさせたところ、偽って氏姓を名乗った者は火傷を恐れて逃げ出したと伝えられます。古代の神判の具体的な記録として知られています。
中国の史書『宋書』に記される倭の五王の「済」は、允恭天皇にあてる説が有力です。この時代、倭国は中国の南朝に使いを送り、朝鮮半島への影響力を認めさせようとしていました。
関連
出典
- 底本
- 古事記(佐伯常麿校註) 国民図書、昭和4年(1929)。253〜255頁。国立国会図書館デジタルコレクション(保護期間満了)
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部(原文・訓み下しは底本による。現代語訳・注は当サイト)
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