蜻蛉日記 中巻 第21章
途絶える訪れ
天禄元年(970)四月から五月、兼家は病を理由に訪れず、やがて便りさえ途絶える。夜ごと行き交う車の音に胸をつぶし、小野宮実頼の死去を口実に装束の仕立てを頼んでくる兼家に作者はあきれる。六月には、夜の訪れのない日が三十日余り、昼も四十日余りとなり、作者は心を慰めるために唐崎の祓えに出かけることにする。
- 1かくかくかくててて、、、四月四月しがつににになりなりなりぬぬぬ。。。十日十日とおかよりよりよりしもしもしも又又また五月五月ごがつ十日十日とおかばかりばかりばかりまでまでまで「「「いといといとあやしくあやしくあやしく惱惱なやましきましきましき頃頃ころににになむなむなんあるあるある」」」とてとてとて例例れいのののやうやうようにににもももあらあらあらででで「「「七八日七八日なのかようかおほとにおほとにおおとにててて念念ねんじじじてててなむなむなんおぼつかなさおぼつかなさおぼつかなさににに」」」などなどなどいひいひいいててて「「「夜夜よののの程程ほどにににてててもももあれあれあればばば、、、かくかくかく苦苦くるしうしうしゅうてててなむなむなん、、、內內うちへへへももも參參まいらららねねねばばばかくかくかくありきありきありきけりけりけりととと見見みらむらむらむもももびんびんびんなかるなかるなかるべしべしべし」」」とてとてとて歸歸かえりりりなどなどなどせせせししし人人ひとおこたりおこたりおこたりてててととと聞聞きくくくににに待待まつつつほどほどほど過過すぐるぐるぐる心心ここちちちすすす。。。怪怪あやしししととと人人ひと知知しれれれずずず今宵今宵こよいををを試試こころみみみむむんととと思思おもふふうほどほどほどににに、、、はてはてはてはははせうそくせうそくしょうそくだにだにだになくなくなくててて久久ひさしくしくしくなりなりなりぬぬぬ。。。めづらしくめづらしくめずらしくあやしあやしあやしととと思思おもへへえどどどつれなしつれなしつれなしをををつくりつくりつくり渡渡わたるるるににに、、、よるよるよるははは世世せ界界かいののの車車くるまののの聲聲こえににに胸胸むねうちうちうち潰潰つぶれれれつゝつゝつつ時時とき々々どきははは寢寢ね入入いりりりててて明明あけけけにににけるけるけるはははととと思思おもふふうにににぞぞぞ、、、ましてましてましてあさましきあさましきあさましき。。。幼幼おさなききき人人ひと通通かよひひいつゝつゝつつ聞聞きけけけどどど、、、さるさるさるはははなでふなでふなでう事事こともももなるなるなるなりなりなり。。。いかにいかにいかにぞぞぞとととだにだにだに問問とひひいふれふれふれざざざなりなりなり。。。ましてましてましてこれこれこれよりよりよりははは何何なにせせせむむんにににかかかはははあやしあやしあやしともともともものものものせせせむむんととと思思おもひひいつゝつゝつつ暮暮くらししし明明あかしししててて格格こう子子しなどなどなどあくるあくるあくるににに見見み出出いだしししたれたれたればばば、、、よるよるよる雨雨あめののの降降ふりりりけるけるける氣氣け色色しきにににててて木木きどもどもども露露つゆかゝりかゝりかかりたりたりたり。。。見見みるるるまゝまゝままににに覺覺おぼゆるゆるゆるやうやうよう、、、
- 2「「「よよよのののうちうちうちははは松松まつにににももも露露つゆはははかゝりかゝりかかりけりけりけり明明あくれくれくればばば消消きゆるゆるゆるものものものこそこそこそ思思おもへへえ」」」。。。
- 3かくかくかくててて經經ふるるるほどほどほどにににそのそのその月月つきつごもりつごもりつごもりににに小小を野野のののの宮宮みやのののかくれかくれかくれ給給たまひひいぬぬぬとてとてとて、、、「「「世世よはははさはりさはりさわりありありありててて世世よののの中中なかいといといと騷騷さわがしがしがしかかかなれなれなればばばつゝしむつゝしむつつしむとてとてとてえええ物物ものせせせぬぬぬなりなりなり。。。服服ぶくににになりなりなりぬるぬるぬるをををこれこれこれららら疾疾とくくくしししててて」」」とととはははあるあるあるものものものかかか。。。いといといとあさましけれあさましけれあさましければばばこのこのこの頃頃ころものものものするするするものものものどもどもども里里さとにににつてつてつてなむなむなんとてとてとて歸歸かへしししつつつ。。。これこれこれにににましてましてまして心心こころやましきやましきやましきさまさまさまにににててて絕絕たえええててて事事ことづてづてずてもももなしなしなし。。。
- 4さながらさながらさながら六月六月ろくがつににになりなりなりぬぬぬ。。。かくかくかくててて數數かぞふるふるうるははは夜夜よ見見みるるる事事ことははは三十三十さんじゅうよよよ日日にち、、、晝晝ひる見見みるるる事事ことははは四十四十しじゅうよよよ日日にちににになりなりなりにににけりけりけり。。。いといといとにはかにはかにはかにににあやしあやしあやしととといはいはいわゞゞばおろかおろかおろかなりなりなり。。。心心こころもももゆかゆかゆかぬぬぬ世世よとととはははいひいひいいながらながらながら、、、まだまだまだいといといとかゝるかゝるかかる目目めははは見見みざりざりざりつれつれつればばば、、、見見みるるる人人ひと々々びともももあやしうあやしうあやしゅうめづらかめづらかめずらかなりなりなりととと思思おもひひいたりたりたり。。。物物ものしししおぼえおぼえおぼえねねねばばば、、、詠詠ながめめめのみのみのみぞぞぞせせせらるゝらるゝらるる。。。人人ひと目目めもももいといといと耻耻はずかしうしうしゅう覺覺おぼえええててて落落おつるつるつる泪泪なみだおしおしおし隱隱かくしししつゝつゝつつ臥臥ふしししててて聞聞きけけけばばば、、、ぐひすぐひすぐいすぞぞぞをりをりおりはへはへはえててて鳴鳴なくくくにににつけつけつけててて覺覺おぼゆるゆるゆるやうやうよう、、、
- 5「「「鶯鶯うぐいすもももごごごもももなきなきなきものものものやややおもふおもふおもうらむらむらんみなみなみなつきつきつきはてはてはてぬぬぬ音音ねをををぞぞぞ鳴鳴なくくくなるなるなる」」」。。。
- 6かくかくかくながらながらながら二十二十にじゅう餘餘よ日日にちににになりなりなりぬるぬるぬる心心ここちちち、、、せせせむむん方方かた知知しらららずずずあやしくあやしくあやしく置置おききき所所どころなきなきなきををを、、、いかでいかでいかで凉凉すずしきしきしき方方かたもももやややあるあるあるととと、、、心心こころももものべのべのべがてらがてらがてら濱濱はまづらづらずらののの方方かたににに祓祓はらへへえもももせせせむむんととと思思おもひひいててて唐唐からへへへとてとてとて物物ものすすす。。。
現代語訳
こうして、四月になった。十日から、また五月の十日ごろまで、「ひどく妙に気分のすぐれない頃なのだ」と言って、いつものようでもなく、「七、八日、大殿籠もって(横になって)こらえていたが、気がかりなので」などと言って、「夜の間でもあるし、こんなに苦しくて宮中へも参内しないのに、こうして出歩いていると見られるのも具合が悪いだろう」と言って帰ったりしていた人が、病が快方に向かったと聞くと、待つ時間がいっそう長く感じられる。妙だと、人知れず今夜こそはと試してみようと思っているうちに、とうとう便りさえなくて久しくなった。珍しく妙なことだと思うけれど、平気なふりをし通していると、夜は世間の車の音に胸がつぶれる思いをしながら、時々は眠りこんで、夜が明けてしまったのかと思うと、いっそうあきれる思いがする。幼い子(道綱)があちらへ通いながら様子を聞くけれど、別に何事もないらしい。「どうしているか」とさえ尋ねもしないようだ。ましてこちらからは、何のために妙だなどと言ってやろうと思いながら、日を暮らし夜を明かして、格子などを上げて外を見やると、夜のうちに雨が降った様子で、木々に露がかかっている。見るにつけて思われたのは、
「夜の間には、松にも露はかかっていたのだ(あの人も夜には訪れていたのだ)。夜が明けると消えてしまうもののように、私は思い沈むことだ」。
こうして過ごしているうちに、その月の末に小野宮の大臣(藤原実頼)がお亡くなりになったということで、「世の中は差し障りがあって、たいそう騒がしいようなので、謹慎していて行けないのだ。喪服を着ることになったので、これらを急いで仕立てて」と言ってきたではないか。ひどくあきれたので、「この頃、仕立てをする者たちは、里に下がっておりますので」と言って返した。これでいっそう不機嫌な様子で、まったく言伝もない。
そのまま六月になった。こうして数えてみると、夜に会うことは三十日余り、昼に会うことは四十日余りもなくなってしまった。まったく急に妙なことだと言っても言い足りない。心にかなわない夫婦仲とは言いながら、まだこれほどの目にはあわなかったので、見ている侍女たちも、妙で珍しいことだと思っている。何も考えられないので、物思いにふけってばかりいる。人目もひどく恥ずかしく思われて、落ちる涙を隠しながら横になって聞いていると、鶯がしきりに鳴くのにつけて思われたのは、
「鶯も、果てもない物思いをしているのだろうか、六月も終わらないのに、声を立てて鳴いているようだ」。
こうしたまま二十日余りになった気持ちは、どうしようもなく妙に身の置き所もないので、どうにか涼しい所もあるだろうかと、気晴らしをかねて、浜辺の方で祓えもしようと思って、唐崎へと出かける。
意訳
〔途絶え〕天禄元年の初夏、兼家は病を理由に訪れなくなり、病が癒えても便りさえ来なくなった。作者は夜ごと行き交う車の音に胸をつぶし、眠ってしまった朝にはいっそうあきれる。道綱が兼家のもとへ通っても、母のことを尋ねもしないという。雨上がりの朝、松の露に「夜には訪れていたのに」と詠む作者の歌は痛切である。
〔装束の依頼〕五月末、小野宮実頼が亡くなると、兼家は喪服の仕立てだけを頼んでくる。上巻の町の小路の女の時と同じ無神経さに、作者は「仕立てる者が里に下がっている」と突き返す。
〔唐崎へ〕六月には、兼家の訪れのない夜が三十日余りに及んだ。侍女たちも珍しいことだと驚く。鶯の声にも自分の嘆きを重ねた作者は、ついに気晴らしと祓えのため、近江の唐崎へ出かけることを決める。
語釈・文法注
- 小野の宮のおとゞ
- 藤原実頼(900〜970)。師輔の兄で兼家の伯父。摂政・太政大臣。小野宮に住んだ。天禄元年(970)五月十八日没。
- 唐崎
- 近江国(今の滋賀県大津市)の琵琶湖の西岸。祓えの名所で、「唐崎の松」で知られる。
文法
- 「七八日おほとにて」
- 底本どおり。注記に異文がある。「大殿籠もりて」(横になって)の意に解する。
- 「さるはなでふ事もなるなり」
- 底本どおり。注記に「か」の脱字かとあり、「なでふ事もなかるなり」(何事もないようだ)と解する。
- 「里につてなむ」
- 底本どおり。注記に異文がある。里に下がっております、の意に解する。
- 「夜見る事は三十よ日、晝見る事は四十よ日」
- 夜に会わない日が三十日余り、昼に会わない日が四十日余り、の意。
- 「ぐひすぞ」
- 底本の注記に「う」の脱字かとあり、「うぐひすぞ」と解する。
- 「鶯もごもなきものや」
- 「期もなき」(果てもない)物思い。
和歌
よのうちは松にも露はかゝりけり明くれば消ゆるものこそ思へ
- 詠者
- 道綱母(作者)
- 状況
- 兼家の訪れが途絶えたころ、雨上がりの朝に庭の木々の露を見て詠んだ歌。
修辞
- 掛詞
- 「よ」に「夜」と「世」、「松」に「待つ」を掛け、夜の間だけ露(兼家)が松(待つ私)に掛かっていたと嘆く。
鶯もごもなきものやおもふらむみなつきはてぬ音をぞ鳴くなる
- 詠者
- 道綱母(作者)
- 状況
- 六月、訪れの絶えた日々に、しきりに鳴く鶯の声を聞いて詠んだ歌。
修辞
- 掛詞
- 「みなつき」に「六月」と「皆尽き」を掛け、「音を鳴く」に声をあげて泣く意を重ねる。
解説
天禄元年(970)の夏、兼家の訪れは途絶えがちになった。この年、兼家は四十二歳、大納言として権力の中枢にあった。東三条邸への移転以来、兼家の生活の中心は時姫の家に移っており、作者の家に通う理由は薄れていた。
「夜見る事は三十よ日、晝見る事は四十よ日」という数え方は、作者が夫の訪れのない日を一日一日数えていたことを示している。夫婦が同居しない通い婚では、夫の訪れの頻度がそのまま愛情の深さを示すものであった。
小野宮実頼の死去に際して喪服の仕立てを頼んできたことは、上巻で町の小路の女のいる時期に相撲の節会の装束を頼んできたこと(第4章)と重なる。作者は二度とも突き返しており、妻としての務めと夫の不実との間で揺れる心が描かれる。
関連
出典
- 底本
- 丸岡桂・松下大三郎編『国文大観』日記草子部(蜻蛉日記) 板倉屋書房、明治36年(1903)、74–75頁(コマ40)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日