蜻蛉日記 上巻 第12章
稲荷・賀茂詣と村上天皇の崩御
康保三年(966)九月、作者はひそかに稲荷社と賀茂社に詣で、ままならぬ身の上を訴える歌を幣に書きつける。翌年春には雁の卵を十重ねる趣向を兼家の妹登子に贈る。五月、村上天皇が崩御し、東宮の亮だった兼家は蔵人頭に昇る。悲しみの中、帝に仕えていた若い兵衛佐が出家し、その妻も尼になった。
- 1九月九月くがつににになりなりなりててて、、、世世よののの中中なかをかしからをかしからおかしからむむん、、、物物もの人人ひと詣詣もうでででせせせばばばややや。。。かうかうこう物物ものはかなきはかなきはかなき身身みののの上上うえももも申申もうさささむむんなどなどなど定定さだめめめててていといといと忍忍しのびびびあるあるある所所ところにににものものものしししたりたりたり。。。ひとひとひとはさみはさみはさみのののにににかうかうこう書書かきききつけつけつけたりたりたりけりけりけり、、、まづまづまずしもしもしものののみみみ社社やしろににに、、、
- 2「「「いちじるきいちじるきいちじるき山山やま口口ぐちならならならばばばこゝこゝここながらながらながら神神かみののの氣氣け色色しきををを見見みせせせよよよととと思思おもふふう」」」。。。
- 3中中なかのののににに、、、
- 4「「「いなりいなりいなり多多おおくくくののの年年としぞぞぞ越越こえええにににけりけりけりいのるいのるいのるしるししるししるしののの杉杉すぎをををたのみたのみたのみててて」」」。。。
- 5はてはてはてのののににに、、、
- 6「「「神神かみ々々がみとととのぼりのぼりのぼり下下くだりりりはははわぶれわぶれわぶれどどどてててまだまだまださかゆかさかゆかさかゆかぬぬぬこゝろこゝろこころこそこそこそすれすれすれ」」」。。。
- 7又又また同同おなじじじ晦晦つごもりににに、、、あるあるあるににに同同おなじじじやうやうようにににててて詣詣もうでででけりけりけり。。。ふたふたふたはさみはさみはさみつゝつゝつつしもしもしものののににに、、、
- 8「「「かみかみかみやややせくせくせくしもしもしもにににやややみくづみくづみくず積積つもるるるらむらむらん思思おもふふうこゝろこゝろこころののの行行ゆかかかぬぬぬみたらしみたらしみたらし」」」。。。
- 9又又また、、、
- 10「「「榊榊さかき葉葉ばのののときはときはときわかきはかきはかきわにににゆふゆふゆうしでしでしでやややかたかたかたくるしくるしくるしなるなるなるめめめななな見見みせせせそそそ神神かみ」」」。。。
- 11又又また上上かみのののこここ、、、
- 12「「「いつしかいつしかいつしかもももいつしかいつしかいつしかもももとととぞぞぞ待待まちちちわたるわたるわたる森森もりのののたまたまたまよりよりより光光ひかり見見みむむむまままををを」」」。。。
- 13又又また、、、
- 14「「「ゆふゆふゆうだすきだすきだすき結結むすぼゝれぼゝれぼおれつゝつゝつつ歎歎なげくくくことことこと絕絕たえええなばなばなば神神かみのののしるししるししるしととと思思おもははわむむん」」」
- 15などなどなどなむなむなん、、、神神かみののの聞聞きかかかぬぬぬ所所ところににに聞聞きこえええごちごちごちけるけるける。。。
- 16秋秋あきはてはてはてゝゝて冬冬ふゆははは朔朔ついとてとてとてあしきあしきあしきもももよきよきよきももも騷騷さわぐぐぐめるめるめるものものものなれなれなればばば、、、獨獨ひとり寐寐ねのののやうやうようにににててて過過すぐしぐしぐしつつつ。。。三月三月さんがつ晦晦つごもり方方がたにににかりかりかりのののののの見見みゆるゆるゆるををを「「「これこれこれ十十とをづゝづゝずつ重重かさぬるぬるぬるわざわざわざをををいかでいかでいかでせせせむむん」」」ととと手手てまさぐりまさぐりまさぐりにににすゞしすゞしすずしののの糸糸いとををを長長なごううう結結むすびびびててて、、、一一ひとつつつ結結むすびびびてててははは、、、ゆひゆひゆいゆひゆひゆいしししててて引引ひきききたてたてたてたれたれたればばばいといといとようようようかさなりかさなりかさなりたりたりたり。。。猶猶なおあるあるあるよりよりよりはははとてとてとて九九く條條じょう殿殿どのののの女女にょうご御御ごののの御御おおん方方かたににに奉奉たてまつるるる。。。卯卯うののの花花はなにににぞぞぞつけつけつけたるたるたる。。。何何なに事事ごともももなくなくなく唯唯ただ例例れいののの御御おおん文文ふみにににててて端端はしににに「「「このこのこの十十とをかさなりかさなりかさなりたるたるたるはははかうかうこうてててももも侍侍はべりりりぬぬぬべかりべかりべかりけりけりけり」」」とととのみのみのみ聞聞きこえええたるたるたる。。。御御おおんかへりかへりかえり、、、
- 17「「「數數かず知知しらららずずず思思おもふふうこゝろこゝろこころにににくらぶれくらぶれくらぶればばば十十とをかさぬるかさぬるかさぬるもももものものものとととやややははは見見みるるる」」」
- 18とととあれあれあればばば、、、御御おおんかへりかへりかえり。。。
- 19「「「思思おもふふうことことことしらしらしらででではははかひかひかいやややあらあらあらざらざらざらむむんかへすかへすかえすがへすがへすがえすもももかずかずかずをををこそこそこそ見見みめめめ」」」。。。
- 20それそれそれよりよりより五五ごののの宮宮みやににになむなむなん奉奉たてまつれれれ給給たまふふうととと聞聞きくくく。。。
- 21五月五月ごがつにににもももなりなりなりぬぬぬ。。。十十とよよよ日日かにににうちうちうちののの御御おおん藥藥くすりのののことことことありありありてててのゝしるのゝしるののしるほどほどほどもももなくなくなくててて、、、二十二十にじゅうよよよ日日にちのののほどほどほどにににかくれかくれかくれさせさせさせ給給たまひひいぬぬぬ。。。東東とう宮宮ぐう即即すなわちちちかゝりかゝりかかり居居いさせさせさせ給給たまふふう。。。東東とう宮宮ぐうののの亮亮すけととといひいひいいつるつるつる人人ひとははは藏藏くら人人うどのののとうとうとうなどなどなどいひいひいいてててのゝしれのゝしれののしればばば、、、悲悲かなしびしびしびははは大大おおかたかたかたののの事事ことにににててて、、、おほんおほんおおん喜喜よろころろろととといふいふいうことことことのみのみのみ聞聞きこゆゆゆ。。。あひあひあい答答いらへへえなどなどなどしししててて少少すこししし人人ひとののの心心ここちちちすれすれすれどどど、、、私私わたくしののの心心こころははは猶猶なお同同おなじじじ事事ことあれあれあれどどど、、、引引ひきききかへかへかえたるたるたるやうやうようににに騷騷さわがしくがしくがしくなどなどなどありありあり。。。みさゝぎみさゝぎみささぎややや何何なにやややととと聞聞きくくくににに時時ときめめめききき給給たまへへえるるる人人ひと々々びといかにいかにいかに思思おもひひいやりやりやり聞聞きこゆるゆるゆるあはれあはれあわれなりなりなり。。。やうやうやうやうようよう日日ひ頃頃ごろににになりなりなりててて貞貞じょう觀觀がん殿殿でんののの御御おおん方方かたにににいかにいかにいかになどなどなど聞聞きこえええけるけるけるついでついでついでににに、、、
- 22「「「世世よののの中中なかをををはかなきはかなきはかなきものものものとととみさゝぎみさゝぎみささぎののの埋埋うずるゝるゝるる山山やまににになげくなげくなげくらむらむらんやうやうよう」」」。。。
- 23御御おおんかへりかへりかえりごとごとごといといといと悲悲かなしげしげしげにににててて、、、「「「おくれおくれおくれじじじとととうきうきうきみさゝぎみさゝぎみささぎににに思思おもひひい入入いるるる心心こころははは死死し出出でののの山山やまにににやややあるあるあるらむらむらん」」」。。。
- 24御御おおん四十九日四十九日しじゅうくにちはてはてはてゝゝて七月七月しちがつににになりなりなりぬぬぬ。。。うへうへうえににに侍侍さぶらひひいししし兵兵ひょう衞衞えのののまだまだまだ年年としももも若若わかくくくててて思思おもふふう事事ことありありありげげげもももなきなきなきににに、、、親親おやをををもももめめめをををもももうちうちうち捨捨すてててゝゝて山山やまににに這這はひひいのぼりのぼりのぼりててて法法ほう師師しににになりなりなりにににけりけりけり。。。「「「あなあなあないみじいみじいみじ」」」とととのゝしりのゝしりののしりあはれあはれあわれととといふいふいう程程ほどににに女女めははは又又また尼尼あまににになりなりなりぬぬぬととと聞聞きくくく。。。さきざきさきざきさきざきなどなどなどももも文文ふみ通通かよわしししなどなどなどするするする中中なかにににててて、、、いといといと哀哀あわれにににあさましきあさましきあさましき事事ことをををとぶらふとぶらふとぶらう。。。
- 25「「「おくおくおくやまやまやまののの思思おもひひいやりやりやりだにだにだに悲悲かなしきしきしきににに又又またあまあまあま雲雲ぐものののかゝるかゝるかかるなになになになりなりなり」」」
- 26てててばばばさながらさながらさながらかへりかへりかえりごとごとごとしししたりたりたり、、、
- 27「「「山山やま深深ふかくくく入入いりりりにににししし人人ひとももも尋尋たずぬれぬれぬれどどどなほなほなお天天あまぐもぐもぐものののよそよそよそにににこそこそこそなれなれなれ」」」
- 28とととあるあるあるもももいといといと悲悲かなししし。。。
現代語訳
九月になって、世の中も趣深いころだろう、物詣でをしたいものだ、こんなにはかない身の上についてもお願いしようなどと決めて、ごく内密に、ある所(稲荷社)へ出かけた。一挟みの幣に、こう書きつけたのだった。まず下の御社に、
「霊験あらたかな山の入口なら、ここにいながら、神のご意向をお見せくださいと思います」。
中の御社に、
「稲荷山で多くの年を越えてきました。祈るしるしの杉を頼みにして」。
上の御社に、
「神々の社を上り下りするのはつらいけれど、まだ栄えない(思いのかなわない)心がすることです」。
また同じ月の末に、ある所(賀茂社)に同じようにして参詣した。二挟みずつ、下の社に、
「神がせき止めているのか、下流に水屑がたまっているのだろうか。思う心が通じない御手洗川は」。
また、
「榊葉が常磐堅磐(とこしえ)であるように、木綿四手をかけて祈ります。つらい目を見せないでください、神よ」。
また上の社に、
「いつになったら、いつになったらと待ちつづけています。この森の木の間から光(ご利益)が見られる時を」。
また、
「木綿襷を結ぶように、心が結ぼれて嘆くことが絶えたら、それを神のしるしと思いましょう」
などと、神が聞いていない所でつぶやいていたのだった。
秋も終わり、冬は月の初めとか末とかいって、よいにつけ悪いにつけ騒がしい時期なので、独り寝のようにして過ごした。三月末ごろに、雁の卵が見えたので、「これを十ずつ重ねることを、どうにかしてできないものか」と、手すさびに、生絹(すずし)の糸を長く結んで、一つ結んでは結び結びして引き立てると、たいそううまく重なった。そのままにしておくよりはと思って、九条殿の女御殿(登子)のお方に差し上げた。卯の花につけた。特に何ということもなく、ただいつもの手紙で、端に「この十重なったものは、こうしてもできるものでございました」とだけ申し上げた。お返事に、
「数知れず思う私の心に比べれば、十重ねたものなど、ものの数とも見えませんよ」
とあったので、またお返事を。
「お思いになることを知らなくては、かいもないでしょう。繰り返し繰り返し、その数を拝見したいものです」。
それ(雁の卵)を、五の宮に差し上げなさったと聞く。
五月になった。十日過ぎに、帝のご病気のことがあって騒いでいるうちに、二十日過ぎにお隠れになった。東宮がすぐに位にお即きになる。東宮の亮と言っていた人(兼家)は、蔵人頭などといって大騒ぎをしているので、悲しみは世間一般のことで、ただお喜びの言葉ばかりが聞こえる。挨拶の受け答えなどをして、少しは人並みの気分になるけれど、私の心はやはり同じで、それでもうって変わったように騒がしいことなどがある。御陵がどうのこうのと聞くにつけ、帝の寵愛を受けていらした方々は、どんなにお嘆きだろうと思いやるのが哀れである。だんだん日が経って、貞観殿の御方に、いかがお過ごしかなどと申し上げたついでに、
「世の中をはかないものと、御陵の埋もれる山で、嘆いていらっしゃるのでしょう」。
お返事はたいそう悲しそうで、「後れまいと、つらい御陵に思い入る心は、死出の山にあるのでしょうか」。
御四十九日が過ぎて、七月になった。帝のおそば近くに仕えていた兵衛佐が、まだ年も若くて悩みがありそうでもないのに、親をも妻をもうち捨てて、山に登って法師になってしまった。「ああ、たいへんなことだ」と騒いで、気の毒だと言っているうちに、その妻はまた尼になったと聞く。以前から手紙のやりとりなどをしていた間柄なので、たいそう哀れに、あきれたことをお見舞いする。
「奥山のお住まいを思いやるだけでも悲しいのに、またあなたも尼雲(尼)になられたとは、何ということでしょう」
と送ると、そのまま返事があった。
「山深く入ってしまった人を尋ねても、やはり天雲のようによそよそしいのです」
とあるのも、たいそう悲しい。
意訳
〔稲荷と賀茂〕康保三年の秋、作者はひそかに稲荷社と賀茂社に参詣し、下・中・上の社ごとに歌を書いた幣を奉った。「まださかゆかぬ心」「つらい目を見せないで」と、作者は神にも身の不遇を訴える。けれども、その歌は「神の聞かぬ所」でつぶやいたもの、と作者自身が冷ややかに書き添えている。
〔雁の卵〕翌春、作者は雁の卵を糸で十ずつ重ねる遊びを思いつき、兼家の妹で村上天皇の女御となっていた登子(貞観殿)に贈る。登子とのやりとりは、上巻の後半を彩る女同士の交わりである。
〔村上天皇の崩御〕康保四年(967)五月、村上天皇が崩御し、冷泉天皇が即位した。東宮の亮だった兼家は蔵人頭となり、作者の家にも祝いの客が訪れる。一方、帝の近くに仕えていた若い兵衛佐は出家し、その妻も尼になった。華やかな昇進と、世をはかなむ出家とが、同じ時に起こっている。
語釈・文法注
- みてぐら
- 幣。神に奉るもの。木綿や紙を串にはさんで作る。「ひとはさみ」は一挟み(一本)。
- いなりやま
- 稲荷山。京の東南、伏見の稲荷社のある山。下・中・上の三社があった。稲荷の神木は杉で、参詣者は杉の枝を持ち帰った。
- ある所
- 賀茂社。下社(下鴨神社)と上社(上賀茂神社)がある。歌の「みたらし(御手洗川)」は下社の境内を流れる川。
- 朔つごもり
- 月の初めと終わり。物忌みや行事が多く、夫が自邸で過ごす時期でもあった。
- かりのこ
- 雁の卵。鳥の卵をいう。「十づつ重ぬ」は『伊勢物語』第50段の「鳥の子を十づつ十は重ぬとも」をふまえた遊び。
- 九條殿の女御殿
- 九条殿(藤原師輔)の娘、登子。兼家の妹で、村上天皇の後宮に入り、のちに尚侍となった。貞観殿に住んだので「貞観殿の御方」とも呼ばれる。
- 兵衞の佐
- 村上天皇の近くに仕えていた兵衛佐。底本の小字の注は藤原高光(師輔の子で兼家の異母弟)とするが、高光の出家は応和元年(961)で、日記の記事の時期とは合わない。
文法
- 「物人詣でせばや」
- 底本どおり。注記に「へ」の異文があり、「物へ詣でせばや」(物詣でをしたい)と解する。
- 「いと忍びある所に」
- 底本どおり。注記に「て」の異文があり、ごく内密に、ある所(稲荷社)に、と解する。
- 「わぶれどて」
- 底本どおり。注記に「も」の異文がある。つらいけれども、の意。
- 「又上のこ」
- 底本どおり。注記に「に」の異文があり、「又上のに」(上の社に)と解する。
- 「おほん喜ろ」
- 底本どおり。注記に「び」の異文があり、「御喜び」と解する。
- 「てば」
- 底本どおり。注記に「へれば」の異文があり、「と聞えたれば」の意に解する。
和歌
いなりやま多くの年ぞ越えにけりいのるしるしの杉をたのみて
- 詠者
- 道綱母(作者)
- 状況
- 稲荷社の中の社に奉った幣に書きつけた歌。
修辞
- 掛詞
- 「しるし」に「験(霊験)」と目印の「標」を重ね、稲荷の神木の杉に願いを託す。
かみやせくしもにやみくづ積るらむ思ふこゝろの行かぬみたらし
- 詠者
- 道綱母(作者)
- 状況
- 賀茂社の下の社に奉った歌。
修辞
- 掛詞
- 「かみ」に「神」と川の「上(かみ)」、「しも」に「下」を掛け、御手洗川の流れに、思いが神に届かないもどかしさを重ねる。
數知らず思ふこゝろにくらぶれば十かさぬるもものとやは見る
- 詠者
- 登子(貞観殿)
- 状況
- 作者が雁の卵を十重ねにして贈ったことへの返歌。
修辞
- 本歌
- 『伊勢物語』第50段「鳥の子を十づつ十は重ぬとも思はぬ人を思ふものかは」をふまえる。
おくやまの思ひやりだに悲しきに又あま雲のかゝるなになり
- 詠者
- 道綱母(作者)
- 状況
- 夫の高光の出家に続いて尼になった、その妻を見舞った歌。
修辞
- 掛詞
- 「あま雲」に「天雲」と「尼」を掛ける。
解説
康保三年(966)九月の稲荷・賀茂詣は、作者が自分の不遇を神に訴えた記事である。当時の女性にとって物詣では、数少ない外出の機会であり、心の慰めでもあった。中巻以降、作者は石山・鳴滝・初瀬などへの参詣や参籠をたびたび行うようになるが、その最初の記録である。
康保四年(967)五月二十五日、村上天皇が崩御し、冷泉天皇が即位した。兼家は東宮時代の冷泉天皇に東宮亮として仕えていたため、即位とともに蔵人頭に抜擢された。兼家の出世の始まりである。一方で、帝に仕えていた若い兵衛佐が出家し、妻も尼となった。昇進の喜びと出家の悲しみが同じ時に起こるところに、作者は世の無常を見ている。
登子は兼家の妹で、村上天皇に寵愛された。天皇の崩御に「おくれじと」と詠む登子の悲しみは深い。作者は登子と親しく交わり、上巻の終わり近くでは、同じ邸に住んで歌を交わすまでになる(第13章)。
関連
出典
- 底本
- 丸岡桂・松下大三郎編『国文大観』日記草子部(蜻蛉日記) 板倉屋書房、明治36年(1903)、54–56頁(コマ30–31)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日