今鏡 第八「みこたち」 第71章
月の隠るる山の端
有仁には跡継ぎがなかったが、本人は「つまらない子なら無い方がよい」と言っていた。召使の童が産んだ姫君の話、七夜続けて徒歩で石清水に詣で、往生極楽をひそかに祈った話が語られる。有仁は四十余歳で出家して亡くなり、越後の乳母や人々がその死を悼んだ。輔仁親王の他の子女たちにも触れる。
- 1このおとゞのこのおとゞのこのおとどの御子御子みこのおはせぬぞのおはせぬぞのおわせぬぞ、、、くちをしけれどくちをしけれどくちおしけれど、、、かへりてかへりてかえりてはははあはれなるあはれなるあわれなる方方かたもありてもありてもありて、、、なごりをしくなごりをしくなごりおしく侍侍はべりてりてりて、、、我我われものたまはせけるれものたまはせけるれものたまわせけるははは、、、「「「いとしもなきいとしもなきいとしもなき子子こなどのあらむなどのあらむなどのあらむははは、、、いといといとほいなかるべしほいなかるべしほいなかるべし。。。村上村上むらかみのみかどののみかどののみかどの末末すえ、、、ののの宮宮みやのののうまごといふうまごといふうまごという人々人々ひとびと見見みるにるにるに、、、させるさせるさせる事事ことなきなきなき人々人々ひとびとどもこそどもこそどもこそ多多おおくくく見見みゆめれゆめれゆめれ。。。我我わががが子子こなどありともなどありともなどありとも、、、かひなかるべしかひなかるべしかいなかるべし」」」。。。
- 2などぞなどぞなどぞ有有ありけるりけるりける。。。姫君姫君ひめぎみこそおはすなれこそおはすなれこそおわすなれ。。。北北きたののの方方かたののの御御おんはははらにらにらにはははあらであらであらで、、、うちにつかひうちにつかひうちにつかい給給たまへりけるわらへりけるわらえりけるわらはははののの、、、多多おおくのくのくの人人ひとのなかにのなかにのなかに、、、いかなるすぐせにかいかなるすぐせにかいかなるすぐせにか、、、生生うみきこえたるとなんみきこえたるとなんみきこえたるとなん。。。
- 3にぞおはすとにぞおはすとにぞおわすと聞聞きこえこえこえ給給たまふふう。。。琴琴こと琵琶琵琶びわなどもなどもなども、、、ひきひきひき給給たまふともしられでおはしけるにふともしられでおはしけるにうともしられでおわしけるに、、、月月つきあかきあかきあかき夜夜よ、、、しのびてかきならししのびてかきならししのびてかきならし給給たまひけるよりひけるよりいけるより、、、あらはれあらはれあらわれ給給たまひけるとかやひけるとかやいけるとかや。。。
- 4又又またことはらことはらことはらににに、、、女君女君おんなぎみきこえきこえきこえ給給たまふふうははは、、、ノノノ院院いんににに參參まいりかよひりかよひりかよい給給たまひてひていて、、、殿上人殿上人てんじょうびとののの車車くるまなどつかはしてなどつかはしてなどつかわして、、、迎迎むかへなどせさせへなどせさせえなどせさせ給給たまふとかやぞきこえふとかやぞきこえうとかやぞきこえ給給たまふふう。。。
- 5大將殿大將殿だいしょうどの、、、いづれのいづれのいずれの程程ほどにかにかにか侍侍はべりけんりけんりけん。。。年頃年頃としごろすみたまひしすみたまひしすみたまいし、、、東東ひんがしののの洞院洞院とういんよりにやよりにやよりにや侍侍はべりけんりけんりけん。。。なゝなゝなな夜夜よ、、、かちよりかちよりかちより御御おん束帶束帶そくたいにてにてにて、、、石淸水石淸水いわしみずののの宮宮みやににに、、、參參まいりりり給給たまひけるにひけるにいけるに、、、淸淸きよとかきこえしのとかきこえしのとかきこえしの別當別當べっとう、、、御設御設おおんもうけなどけなどけなど、、、房房ぼうとかいふにしてとかいふにしてとかいうにして、、、御御おんきそくきそくきそく聞聞きこえけれどこえけれどこえけれど、、、殊更殊更ことさらにたちやどることなくてにたちやどることなくてにたちやどることなくて、、、此此こののの度度たびははは參參まいらむとらむとらむと、、、心心こころざしたればざしたればざしたれば、、、えなむえなむえなむ入入いるまじきとてるまじきとてるまじきとて、、、寄寄よりりり給給たまはざりけるにはざりけるにわざりけるに、、、七夜七夜ななよまゐりまゐりまいりはははててて給給たまひけるひけるいける夜夜よ、、、所所ところにおいてにおいてにおいて、、、たてまつりけるたてまつりけるたてまつりける。。。
- 6はははいとさんぞのおまへいとさんぞのおまへいとさんぞのおまえ伏伏ふしししをををがみがみがみ七夜七夜ななよののの願願ねがひひい十十とおながらみてながらみてながらみて
- 7とよめりけるとよめりけるとよめりけるををを、、、御神御神おおんかみのみこととたのまんとてのみこととたのまんとてのみこととたのまんとて、、、御御おんふところにふところにふところに納納おさめさせめさせめさせ給給たまひてひていて、、、かへさにかへさにかえさに、、、乘乘のりりり給給たまふふう御馬御馬みま鞍鞍くらおきながらぞおきながらぞおきながらぞ、、、引引ひきてきてきて給給たまはせけるはせけるわせける。。。
- 8そのそのその御御おんともともとも人人ひとなどなどなど、、、いかばかりなるいかばかりなるいかばかりなる御心御心みこころざしにてざしにてざしにて、、、かくかちのかくかちのかくかちの御物御物おおんものまうでまうでもうで、、、夜夜よをををかさねさせかさねさせかさねさせ給給たまふらんふらんうらん。。。人人ひと神神かみ、、、昔昔むかしののの帝帝みかどにおはしませばにおはしませばにおわしませば、、、流流ながれのとだえさせれのとだえさせれのとだえさせ給給たまふふう御事御事おおんことにやなどにやなどにやなど、、、おぼつかなくおぼえけるにおぼつかなくおぼえけるにおぼつかなくおぼえけるに、、、往生往生おうじょう極樂極樂ごくらく、、、としのびてとしのびてとしのびて唱唱となへさせへさせえさせ給給たまひけるひけるいける御御おんねぎごとにてぞねぎごとにてぞねぎごとにてぞ、、、あはれにかなしくうけあはれにかなしくうけあわれにかなしくうけ給給たまはははりしりしりし。。。ときこえときこえときこえ侍侍はべりけるりけるりける。。。
- 9おおおほいどのほいどのほいどの、、、後後のちにににははは大將大將だいしょうももも辭辭じししし給給たまひてひていて、、、たゞたゞただ左左ひだりのおとゞとておはしきのおとゞとておはしきのおとどとておわしき。。。仁和寺仁和寺にんなじにににといふといふという所所ところににに、、、山里山里やまざと作作つくりいだしてりいだしてりいだして通通かよひひひ給給たまひきひきいき。。。四十四十よそじにあまりてやにあまりてやにあまりてや、、、うせうせうせ給給たまひにけむひにけむいにけむ。。。
- 10近近ちかくなりてくなりてくなりてははは、、、御御おんぐしおろしぐしおろしぐしおろし給給たまひけるにひけるにいけるに、、、すがたすがたすがたははは猶猶なお昔昔むかしにかはらずにかはらずにかわらず、、、淸淸きよらにてらにてらにて、、、少少すこしおもやせてぞしおもやせてぞしおもやせてぞ見見みえええ給給たまひけるひけるいける。。。なるなるなるひじりひじりひじり呼呼よびてびてびて、、、烏帽子烏帽子えぼうし直衣直衣のうしにてにてにて出出いでてでてでて、、、御御おんぐしおろしぐしおろしぐしおろし給給たまひけるひけるいける、、、いとかなしくいとかなしくいとかなしく、、、見見み奉奉たてまつるるる人人ひとももも、、、淚淚なみだおさへがたくなんありけるおさへがたくなんありけるおさえがたくなんありける。。。越後越後えちごのめのとのめのとのめのと、、、風風かぜいたみけるいたみけるいたみける頃頃ころ、、、花花はなにさしてにさしてにさして、、、
- 11われわれわれはははたゞたゞただ君君きみをぞをぞをぞをしむをしむおしむ風風かぜをををいたみいたみいたみ散散ちりなんりなんりなん花花はなははは又又またももも咲咲さきなんきなんきなん
- 12とよみたまひけるとよみたまひけるとよみたまいけるををを、、、めのとめのとめのとははは常常つねににに語語かたりつゝりつゝりつつ、、、こひかなしみけるこひかなしみけるこいかなしみける。。。このこのこの大將殿大將殿だいしょうどの、、、帝帝みかどのののうまごうまごうまご、、、宮宮みやののの御子御子みこにてにてにて、、、たゞたゞただ人人ひとになりになりになり給給たまへるへるえる、、、此此こののの世世よにににははは珍珍めずらしくしくしく、、、聞聞ききたてまつるにきたてまつるにきたてまつるに、、、なさけなさけなさけ多多おおくさへおはしけるくさへおはしけるくさえおわしける。。。
- 13いとありがたくいとありがたくいとありがたく、、、きこえたてまつりしにきこえたてまつりしにきこえたてまつりしに、、、まださかりにてまださかりにてまださかりにて、、、雲雲くもかくれかくれかくれ給給たまひにけむひにけむいにけむ。。。いといといと悲悲かなしくこそしくこそしくこそ侍侍はべれれれ。。。かのかのかの花園花園はなぞのももも、、、雲雲くもけぶりとのぼりてけぶりとのぼりてけぶりとのぼりて、、、あとさへあとさへあとさえ殘殘のこらぬとらぬとらぬと聞聞きききき侍侍はべるこそるこそるこそ、、、あはれにあはれにあわれに心心こころうけれうけれうけれ。。。そのわたりにそのわたりにそのわたりに詣詣もうででで通通かよひけるひけるひける人人ひと、、、
- 14いづくいづくいずくをををかかか形見形見かたみともみんよともみんよともみんよをををこめてこめてこめて光光ひかりりり消消きえにしえにしえにし山山やまのののはははののの月月つき
- 15三三さんのみこののみこののみこの御子御子みこにににははは、、、またまたまた證證しょう僧正僧正そうじょうとてとてとて、、、仁和寺仁和寺にんなじにおはしきにおはしきにおわしき。。。鳥羽鳥羽とばノノノ院御院御いんおおんぐしおろさせぐしおろさせぐしおろさせ給給たまひしひしいし時時とき、、、御戒御戒おおんかいののの師師しにおはしきにおはしきにおわしき。。。又又また山山やまにもにもにも僧都僧都そうずののの君君きみなどいひてなどいひてなどいいて聞聞きこえこえこえ給給たまひきひきいき。。。
- 16一定一定いちじょうにもなかりしにやにもなかりしにやにもなかりしにや。。。院院いんよりよりより大大おおいいい殿殿どのににに尋尋たずねねね申申もうさせさせさせ給給たまひけるとかやひけるとかやいけるとかや。。。御御おんむすめむすめむすめははは、、、おおおほいほいほい殿殿どのののの一一ひとつつつ腹腹はらににに、、、伊勢伊勢いせのいつきにてのいつきにてのいつきにて下下くだりりり給給たまへりきへりきえりき。。。
- 17後後のちはははののの齋宮齋宮さいぐうととと申申もうしゝしゝしし、、、これにやおはすらんこれにやおはすらんこれにやおわすらん。。。又又また行宗行宗ゆきむねののの大藏卿大藏卿おおくらきょうののの女女おんなのののはらにはらにはらに、、、もおはするなるべしもおはするなるべしもおわするなるべし。。。此此こののの頃頃ころむそぢなどにやむそぢなどにやむそじなどにや餘餘あまりりり給給たまふらんふらんうらん。。。
- 18そのいつきにおはせしそのいつきにおはせしそのいつきにおわせし比比ごろ、、、おおおほいほいほい殿殿どの、、、本院本院ほんいんににに有栖川有栖川ありすがわのもとののもとののもとの櫻櫻さくらのさかりなりけるにおはしてのさかりなりけるにおはしてのさかりなりけるにおわして、、、歌歌うたなどよみなどよみなどよみ給給たまひけるにひけるにいけるに、、、女房女房にょうぼうののの歌歌うたとてとてとて、、、
- 19散散ちるるる花花はなををを君君きみふみわけてこざりせばふみわけてこざりせばふみわけてこざりせば庭庭にわのおもてもなくやあらましのおもてもなくやあらましのおもてもなくやあらまし
- 20とぞきこえしとぞきこえしとぞきこえし。。。
現代語訳
この大臣(有仁)に御子がいらっしゃらないのは残念だけれど、かえってしみじみとした面もあって、名残惜しくございましたが、ご自身もおっしゃったのは、「たいしたこともない子などがいたら、たいそう不本意だろう。村上の帝の子孫、中務の宮の孫という人々を見ると、これといったこともない人々が多く見えるようだ。わが子などがいても甲斐はないだろう」などとありました。姫君はいらっしゃるそうです。北の方の御腹ではなくて、邸で召し使っていらした童が、大勢の人の中でどのような宿縁でしょうか、お産み申したのだそうです。上西門院にいらっしゃると聞こえます。琴や琵琶なども弾かれるとも知られずにいらっしゃったが、月の明るい夜にひそかに掻き鳴らされたことから、知られるようになったとか。また別の腹に女君と聞こえる方は、高松院に参り通われて、(院が)殿上人の車などを遣わして迎えさせなさるとか聞こえます。
大将殿は、いつごろのことでしたでしょうか、長年住んでいらした冷泉東洞院からでしたでしょうか、七夜、徒歩で束帯姿で石清水の宮に参られた時、光清とかいった別当が、御用意などを坊とかいう所にして、ご意向をうかがったけれど、ことさら立ち寄って宿ることもなくて、「今度は(徒歩で)参ろうと志したのだから、入ることはできない」といって寄られなかったが、七夜参り終えられた夜、御津という所において(ある者が)差し上げた歌、
再拝と三度の御前(神前)に伏し拝んで、七夜の願いを十ながら満たして(くださるでしょう)。
と詠んだのを、御神の御言葉と頼みにしようといって懐にお納めになって、帰りに乗られる御馬を鞍を置いたまま引いてお与えになりました。そのお供の人などは、「どれほどのお志で、このように徒歩でのお参りを、夜を重ねてなさるのだろう。荒人神(八幡神)は昔の帝でいらっしゃるので、(ご自分の)血筋が途絶えることを(祈られる)のだろうか」などと不審に思っていたが、「臨終正念、往生極楽」と、ひそかにお唱えになっていた御祈願だったので、しみじみと悲しく承りました、と(供の者が言ったと)聞こえました。
大臣は後には大将も辞されて、ただ左大臣としていらっしゃいました。仁和寺の花園という所に山里を造り出して通われました。四十歳を過ぎて亡くなられたでしょうか。(臨終が)近くなっては御髪をおろされたが、姿はやはり昔と変わらず清らかで、少し面やつれしてお見えになりました。岩倉の聖を呼んで、烏帽子・直衣で出てきて御髪をおろされたのは、たいそう悲しく、拝見する人も涙をおさえがたくありました。越後の乳母に、風がひどく吹いたころ、花に挿して、
私はただあなたのことを惜しむのです。風がひどいので散ってしまう花は、また咲くでしょうから。
とお詠みになったのを、乳母はいつも語っては、恋い悲しみました。この大将殿は、帝の孫、宮の御子で臣下になられた方として、今の世には珍しく、伺うにつけても情け深くさえいらっしゃいました。たいそうめったにない方とお聞きしていたのに、まだ盛りのうちに雲隠れ(逝去)なさってしまったのでしょう。たいそう悲しいことでございます。あの花園も雲や煙と立ち上って、跡さえ残らないと聞きますのこそ、しみじみとつらいことです。そのあたりに詣で通っていた人が、
どこを形見として見たらよいのでしょう。夜の明けないうちに光が消えてしまった山の端の月(のようなあの方)を。
三の御子(輔仁親王)の御子には、また信証僧正といって仁和寺にいらっしゃいました。鳥羽院が御髪をおろされた時の戒師でいらっしゃいました。また比叡山にも僧都の君などといって聞こえました。確かではなかったのでしょうか。院から大臣(有仁)にお尋ねになったとか。御娘は大臣と同じ腹で、伊勢の斎宮として下られました。後は伏見の斎宮と申した方が、この方でいらっしゃるでしょうか。また行宗の大蔵卿の娘の腹に、斎院もいらっしゃるのでしょう。このごろ六十歳などを過ぎていらっしゃるでしょうか。その方が斎院でいらしたころ、大臣が本院に、有栖川のほとりの桜が盛りだった時にいらして、歌などをお詠みになったが、女房の歌として、
散る花をあなたが踏み分けて来てくださらなかったら、庭の表もなかったでしょう(面目もなかったでしょう)。
と聞こえました。
意訳
有仁は跡継ぎがないことを気にせず、「村上源氏の子孫でもつまらない者が多い。子がいても甲斐はない」と語ったという。召使の童が産んだ姫君が、月夜に琴を弾いて知られるようになった話は、物語的な趣がある。
有仁が七夜続けて徒歩で石清水八幡に参詣したのは、供の者たちは子孫の繁栄を祈るのかと思ったが、実は「臨終正念、往生極楽」を祈るためだった。章題の「月の隠るる山の端」は、有仁の死を悼んだ人の「光り消えにし山のはの月」の歌による。
有仁は四十五歳で出家して亡くなり、花園の山荘も焼けて跡形もなくなった。越後の乳母に贈った「われはたゞ君をぞをしむ」の歌は、散る花よりも乳母の身を気づかう有仁の優しさを伝える。
語釈・文法注
- 中務の宮のうまご
- 具平親王の子孫、村上源氏。
- 上西門院
- 統子内親王。第58章参照。
- 高松ノ院
- 姝子内親王。第67章参照。
- れんぜい東の洞院
- 冷泉小路と東洞院大路の交差する辺り。有仁の邸があった。
- 光淸
- 石清水八幡宮の別当。小侍従の父。
- みつ
- 御津か。石清水の近くの地名か。
- さいはいとさんぞ
- 「再拝と三度」か。神前での拝礼。
- あら人神
- 人の姿で現れる神。八幡神は応神天皇とされる。
- 臨終正念往生極樂
- 臨終に心乱れず念仏し、極楽に往生すること。
- 花園
- 仁和寺の近くの地名。有仁の山荘があった。
- 岩倉
- 京都北部の地名。大雲寺があった。
- 信證僧正
- 信証(1088〜1142)。輔仁親王の子。仁和寺の僧。
- 伏見の齋宮
- 守子女王。輔仁親王の娘。伊勢斎宮。
- 齋院
- 怡子女王。輔仁親王の娘。賀茂斎院。
文法
- いとしもなき子などのあらむは、いとほいなかるべし
- たいしたこともない子などがいるのは、たいそう不本意だろう。
- まださかりにて、雲かくれ給ひにけむ
- 「雲隠る」は貴人の死をいう。
和歌
さいはいとさんぞのおまへ伏しをがみ七夜の願ひ十ながらみて
- 詠者
- 作者未詳
- 状況
- 有仁が七夜の石清水参詣を終えた夜に奉られた歌。
修辞
- 数詞
- 「三」「七」「十」の数を重ね、願いがすべて満たされることを祝う。
われはたゞ君をぞをしむ風をいたみ散りなん花は又も咲きなん
- 詠者
- 源有仁
- 状況
- 風の強いころ、花に挿して越後の乳母に贈った歌。
修辞
- 対比
- 散ってもまた咲く花と、二度とない人の命とを対比する。
いづくをか形見ともみんよをこめて光り消えにし山のはの月
- 詠者
- 作者未詳
- 状況
- 有仁の死後、花園の山荘の跡に詣でた人が詠んだ歌。
修辞
- 比喩
- 有仁を、夜明け前に山の端に消えた月にたとえる。
- 掛詞
- 「よ」に「夜」と「世」をかける。
散る花を君ふみわけてこざりせば庭のおもてもなくやあらまし
- 詠者
- 女房
- 状況
- 有仁が斎院の本院を訪れ、有栖川の桜の下で歌会をした時の女房の歌。
修辞
- 掛詞
- 「おもて」に庭の表面と「面目」をかける。
- 反実仮想
- 「せば…まし」。
解説
有仁の一生は、皇位から遠ざけられた輔仁親王の子として、臣籍に下りながら栄華を極めた生涯だった。今鏡はその死を、山の端に沈む月にたとえて哀切に描いている。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、348〜352頁(コマ189–191)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日