今鏡 第八「みこたち」 第68章
源氏の御息所
巻八「みこたち」の始まり。後三条天皇の女御源基子(源氏の御息所)とその一族。基子の兄弟には歌人の季宗・行宗、名高い験者の行尊僧正がいた。行尊の「もろともにあはれと思へ山桜」の歌、基子の産んだ東宮実仁親王の早世、才学すぐれた輔仁親王(三宮)の歌と、皇位から遠ざけられた境遇が語られる。
- 1みかどのみかどのみかどの御御おんおほぢにおほぢにおおじにはははおはせねどおはせねどおわせねど、、、ややや宮宮みやたちのたちのたちの、、、御母御母おおんははにおはせしにおはせしにおわせしははは、、、後後のち二條二條にじょうノノノ院院いんののの女御女御にょうごにてにてにて、、、侍從侍從じじゅうののの宰相宰相さいしょう基基もと平平たいらののの御御おんむすめこそおはせしかむすめこそおはせしかむすめこそおわせしか。。。
- 2そのそのその宰相宰相さいしょうははは、、、一條一條いちじょうノノノ院院いんののの御子御子みこにおはしきにおはしきにおわしき。。。そのそのその源氏源氏げんじののの御息所御息所みやすんどころ、、、御名御名みなははは子子こ女御女御にょうごとぞとぞとぞ申申もうしゝしゝしし。。。そのそのその御御おんせうとにてせうとにてしょうとにてははは、、、春宮春宮とうぐうノノノ大夫大夫だいぶ宗宗むね、、、大藏卿大藏卿おおくらきょうなどなどなど申申もうしておはしきしておはしきしておわしき。。。
- 3みなみなみな三位三位さんみのくらゐにぞおはせしのくらゐにぞおはせしのくらいにぞおわせし。。。大藏卿大藏卿おおくらきょうははは八十八十やそばかりまでおはせしかばばかりまでおはせしかばばかりまでおわせしかば、、、近近ちかくまできこえくまできこえくまできこえ給給たまひきひきいき。。。歌歌うたよみにおはしきよみにおはしきよみにおわしき。。。ふたりふたりふたりながらながらながら、、、からのからのからの文文ふみなどもなどもなども作作つくりりり給給たまふとぞきゝふとぞきゝうとぞきき侍侍はべりしりしりし。。。
- 4良賴良賴よしよりののの中納言中納言ちゅうなごんのむすめののむすめののむすめの腹腹はらののの公達公達きんだちなりなりなり。。。女御女御にょうごもおなじもおなじもおなじ御御おんはははらからにおはすらからにおはすらからにおわす。。。又又またそのそのその腹腹はらににに、、、平等院平等院びょうどういんののの僧正僧正そうじょう尊尊そんとてとてとて、、、三井寺三井寺みいでらにおはせしこそにおはせしこそにおわせしこそ、、、名高名高なたかききき驗者驗者げんざにておはせしかにておはせしかにておわせしか。。。
- 5少少すこ阿闍梨阿闍梨あざりなどなどなど申申もうしけるしけるしける折折おりよりよりより、、、葛城葛城かずらきはははさることにてさることにてさることにて、、、遠遠とおききき國々國々くにぐに山々山々やまやまなどなどなど、、、久久ひさしくしくしく行行おこなひたまひてひたまひていたまいて、、、白河白河しらかわノノノ院院いん鳥羽鳥羽とばノノノ院院いん、、、うちつゞきうちつゞきうちつづき護持僧護持僧ごじそうにおはしきにおはしきにおわしき。。。
- 6仁和寺仁和寺にんなじののの女院女院にょういんののの、、、女御女御にょうごまゐりにやまゐりにやまいりにや侍侍はべりけんりけんりけん。。。御御おんものゝけものゝけもののけ、、、其其そののの夜夜よになりてになりてになりて起起おこらせこらせこらせ給給たまひてひていて、、、俄俄にわかににに大事大事だいじにおはしましけるににおはしましけるににおわしましけるに、、、このこのこの僧正僧正そうじょう祈祈いのりりり申申もうしたまひければしたまひければしたまいければ、、、程程ほどなくおこたらせなくおこたらせなくおこたらせ給給たまひてひていて、、、御車御車みくるまにたてまつりてにたてまつりてにたてまつりて、、、出出いでさせでさせでさせ給給たまひにけるあとにひにけるあとにいにけるあとに、、、、、、ものものものうたせてゐさせうたせてゐさせうたせていさせ給給たまへりけるこそへりけるこそえりけるこそ、、、いとめでたくいとめでたくいとめでたく侍侍はべりけれりけれりけれ。。。
- 7ととと傳傳つたへへえうけうけうけ給給たまはははりしかりしかりしか。。。僧正僧正そうじょう歌歌うたよみにおはしてよみにおはしてよみにおわして、、、代々代々よよののの集集しゅうどもにもどもにもどもにも、、、多多おおくくく入入いりたまへるとこそきゝりたまへるとこそきゝりたまえるとこそきき侍侍はべれれれ。。。のいのいのいはやはやはやにてにてにて、、、
- 8草草くさのいほのいほのいおををを何何なに露露つゆけしとけしとけしと思思おもひけんもらぬいひけんもらぬいいけんもらぬいはやはやはやももも袖袖そではははぬれけりぬれけりぬれけり
- 9などよみなどよみなどよみ給給たまへりへりえり。。。傳傳つたへきくへきくえきく人人ひとののの袖袖そでさへしぼりつべくなんさへしぼりつべくなんさえしぼりつべくなん聞聞きこえこえこえ侍侍はべるるる。。。大峯大峯おおみねにてにてにて後冷泉後冷泉ごれいぜいノノノ院院いんうせさせうせさせうせさせ給給たまひてひていて、、、世世よのののうきことなどうきことなどうきことなど思思おもひひい亂亂みだれてれてれて籠籠こもりゐてりゐてりいて侍侍はべりけるにりけるにりけるに、、、後後のち三條三條さんじょうノノノ院院いんくらゐにくらゐにくらいに卽卽つかせかせかせ給給たまひてのちひてのちいてのち、、、七月七日七月七日しちがつなのかまゐるべきまゐるべきまいるべき由由よし、、、仰仰おおせられければせられければせられければ、、、よめるよめるよめる、、、
- 10もろともにあはれともろともにあはれともろともにあわれと思思おもへへえ山櫻山櫻やまざくら花花はなよりよりよりほかにほかにほかに知知しるるる人人ひともなしもなしもなし
- 11などよみたまへりなどよみたまへりなどよみたまえり。。。歌歌うたよまざらんよまざらんよまざらんははは、、、ほいなかるべきほいなかるべきほいなかるべき事事ことなるべしなるべしなるべし。。。いとゞいとゞいとど御心御心みこころもすみまさりもすみまさりもすみまさり給給たまひけんかしひけんかしいけんかし。。。手手てかきにもおはしてかきにもおはしてかきにもおわして、、、かなのかなのかなの手本手本てほんなどなどなど世世よにとゞまりにとゞまりにとどまり侍侍はべるなりるなりるなり。。。
- 12ことことことはら〳〵にもはら〳〵にもはらはらにも、、、勸勸けん修修しゅ寺寺じののの僧正僧正そうじょう、、、光光ひかり明明あ山山やまののの僧都僧都そうずなどなどなど申申もうしておはしきしておはしきしておわしき。。。
- 13そのそのその女御女御にょうごののの御御おんはははらにらにらに、、、御子御子みこあまたおはしきあまたおはしきあまたおわしき、、、東宮東宮とうぐうととと申申もうしてしてして、、、延延の久久ひさ三年三年さんねん二月二月きさらぎににに生生うまれまれまれ給給たまひてひていて、、、同同おな四年四年よねん十二月十二月じゅうにがつににに、、、御年御年おおんとしふたつとふたつとふたつと申申もうしゝしゝしし、、、東宮東宮とうぐうにたちにたちにたち給給たまひきひきいき。。。
- 14永永えい保保ほう元年元年がんねん八月八月はちがつににに御元服御元服ごげんぷくせさせせさせせさせ給給たまふふう。。。應應おう德德とく二年二年にねん十一月十一月じゅういちがつ八日八日ようか、、、十五十五じゅうごにおはしましゝににおはしましゝににおわしまししに、、、かくれさせかくれさせかくれさせ給給たまひにきひにきいにき。。。平等院平等院びょうどういんののの僧正僧正そうじょうははは、、、女御女御にょうごののの御御おんせうとなればせうとなればしょうとなれば、、、東宮東宮とうぐうののの御忌御忌おおんいみにこもりにこもりにこもり給給たまひてひていて、、、御御おんはははてすぎててすぎててすぎて、、、人々人々びとちりけるにちりけるにちりけるに、、、常陸常陸ひたちのめのとにのめのとにのめのとに、、、おくりおくりおくり給給たまふときこえふときこえうときこえ侍侍はべりしりしりし、、、
- 15おもひきやおもひきやおもいきや春春はるのみやのみやのみや人人ひとなのみしてなのみしてなのみして花花はなよりさきによりさきによりさきに散散ちらむらむらむ物物ものとととははは
- 16とよみとよみとよみ給給たまひたりけるひたりけるいたりける、、、返返かえししし御御おんめのとめのとめのと、、、
- 17花花はなよりもよりもよりもちり〳〵になるちり〳〵になるちりちりになる身身みをををしらでしらでしらで千歲千歲ちとせののの春春はるととと賴賴たのみつるかなみつるかなみつるかな
- 18とぞきゝとぞきゝとぞきき侍侍はべりしりしりし。。。これこれこれははは白河白河しらかわノノノ院院いんのののことはらことはらことはらののの御御おんおとうとおとうとおとうと、、、後後のち三條三條さんじょうノノノ院院いんののの第二第二だいにののの御子御子みこなりなりなり。。。東宮東宮とうぐうととと同同おなじはらにじはらにじわらに、、、第三第三だいさんののの御子御子みこおはしきおはしきおわしき。。。
- 19仁仁にん親王親王しんのうととと申申もうしきしきしき。。。延延の久久ひさ五年五年ごねん正月正月しょうがつににに生生うまれまれまれ給給たまへりへりえり。。。承承うけたまわ保保ほう二年二年にねん十二月十二月じゅうにがつににに、、、親王親王しんのうののの宣旨宣旨せんじかぶりかぶりかぶり給給たまふふう。。。このこのこの御子御子みこははは、、、ざえおはしてざえおはしてざえおわして詩詩しなどつくりなどつくりなどつくり給給たまふふう事事こと、、、昔昔むかしののの中務中務なかつかさののの宮宮みやなどのやうにおはしきなどのやうにおはしきなどのようにおわしき。。。
- 20歌歌うたよみよみよみ給給たまふふう事事ことももも、、、すぐれすぐれすぐれ給給たまへりきへりきえりき。。。ののの花花はなををを見見みたまひてたまひてたまいて、、、
- 21植植うゑおきしゑおきしえおきし君君きみもなきもなきもなき世世よににに年年としへたるへたるへたる花花はなややや我我わががが身身みのたぐひなるらむのたぐひなるらむのたぐいなるらむ
- 22とよみとよみとよみ給給たまへるこそへるこそえるこそ、、、いとあはれにきこえいとあはれにきこえいとあわれにきこえ侍侍はべりしかりしかりしか。。。かやうのかやうのかようの御歌御歌みゅうたどもどもども、、、もくのかみのもくのかみのもくのかみの撰撰えらびてたてまつれるびてたてまつれるびてたてまつれる金葉集金葉集きんようしゅうににに、、、輔輔ふ仁仁ひとのみことかきたりければのみことかきたりければのみことかきたりければ、、、白河白河しらかわノノノ院院いんははは、、、「「「いかにこゝにいかにこゝにいかにここに見見みむむむほどほどほど、、、かくかくかくはははかきたるぞかきたるぞかきたるぞ」」」。。。
- 23ととと仰仰おおせられければせられければせられければ、、、三三さんノノノ宮宮みやとぞかきたてまつれるとぞかきたてまつれるとぞかきたてまつれる。。。御中御中おおんなからひらひらいははは、、、能能よくもおはしまさゞりしかどもくもおはしまさゞりしかどもくもおわしまさざりしかども、、、御御おんおとうとなればなるべしおとうとなればなるべしおとうとなればなるべし。。。詩詩しなどなどなどははは數數かずしらずめでたくしらずめでたくしらずめでたく侍侍はべるなりるなりるなり。。。
- 24「「「よろこびもなくよろこびもなくよろこびもなく、、、うれへもなしうれへもなしうれえもなし。。。世上世上せじょうののの心心こころ」」」とかやとかやとかや作作つくりりり給給たまへりけるへりけるえりけるををを、、、御堂御堂みどうととと申申もうしておはせしがしておはせしがしておわせしが、、、のたまひけるのたまひけるのたまいけるははは、、、「「「うれへこそあれうれへこそあれうれえこそあれ」」」。。。
- 25とのとのとの給給たまはせけれどはせけれどわせけれど、、、位位くらいにににははは必必かならずしもしもしも、、、帝帝みかどののの御子御子みこなれどなれどなれど、、、つぎつぎつぎ給給たまふふう事事ことならねばならねばならねば、、、ものしりものしりものしり給給たまへるへるえる人人ひとははは、、、なげきとおぼすべからずなげきとおぼすべからずなげきとおぼすべからず。。。かのかのかの仁和寺仁和寺にんなじのみやののみやののみやの、、、口口くちにこそあれにこそあれにこそあれ。。。何事何事なにごとかかかははは御御ごのぞみもあらむなのぞみもあらむなのぞみもあらむな。。。
現代語訳
帝の御祖父ではいらっしゃらないけれど、東宮や宮たちの御母でいらっしゃったのは、後三条院の女御で、侍従の宰相基平の御娘でいらっしゃいました。その宰相は小一条院の御子でいらっしゃいました。その源氏の御息所は、御名を基子女御と申しました。その御兄弟としては、春宮大夫季宗、大蔵卿行宗などと申していらっしゃいました。皆三位の位でいらっしゃいました。大蔵卿は八十歳ほどまで生きていらしたので、近ごろまで聞こえていらっしゃいました。歌詠みでいらっしゃいました。お二人とも漢詩などもお作りになると聞きました。良頼の中納言の娘の腹の公達です。女御も同じ御兄弟でいらっしゃいます。またその腹に、平等院の僧正行尊といって三井寺にいらっしゃった方こそ、名高い験者でいらっしゃいました。少阿闍梨などと申した時から、大峰・葛城はもちろんのこと、遠い国々や山々などで長く修行なさって、白河院・鳥羽院と引き続いて護持僧でいらっしゃいました。仁和寺の女院(待賢門院)の女御としての入内の時でしたでしょうか、御物の怪がその夜になって起こられて、急に重態でいらっしゃった時に、この僧正がお祈り申し上げなさったところ、程なくお治りになって、御車に乗られて出ていかれた後に、(僧正は)憑坐に物の怪を打たせて座っていらしたのこそ、たいそうすばらしかった、と伝え承りました。僧正は歌詠みでいらして、代々の撰集にも多く入っていらっしゃると聞いております。笙の岩屋で、
草の庵を何を露っぽいと思ったのだろう。雨の漏らない岩屋でも、(涙で)袖は濡れることだ。
などとお詠みになりました。伝え聞く人の袖まで絞れそうなほどに聞こえます。大峰で、後冷泉院がお亡くなりになって、世の憂いことなどに思い乱れて籠っておりました時に、後三条院が即位なさった後、七月七日に参上すべき旨を仰せられたので、詠んだ歌、
わたしがおまえをしみじみと思うように、おまえも一緒にしみじみと思っておくれ、山桜よ。花のほかに(私の心を)知る人もいないのだから。
などとお詠みになりました。歌を詠まないのは残念なことでしょう。いっそうお心も澄みまさっていらしたことでしょう。能書でもいらして、仮名の手本などが世に残っております。別々の腹にも、勧修寺の僧正、光明山の僧都などと申していらっしゃいました。
その女御の御腹に、御子が大勢いらっしゃいました。東宮と申して、延久三年(1071)二月にお生まれになって、同四年十二月に御年二歳と申した時、東宮にお立ちになりました。永保元年(1081)八月に御元服なさいます。応徳二年(1085)十一月八日、十五歳でいらっしゃった時に亡くなられました。平等院の僧正は女御の御兄弟なので、東宮の御忌に籠られて、御四十九日が過ぎて人々が散っていった時に、常陸の乳母に送られたと聞きました歌、
思ったでしょうか。春宮(東宮)の宮人とは名ばかりで、花より先に散ってゆくものとは。
とお詠みになったのに、返歌を御乳母が、
花よりも散り散りになる身とも知らないで、千年の春(東宮の長寿)を頼みにしていたことです。
と聞きました。この方は白河院の異腹の御弟で、後三条院の第二の御子です。東宮と同じ腹に第三の御子がいらっしゃいました。輔仁親王と申し上げました。延久五年(1073)正月にお生まれになりました。承保二年(1075)十二月に親王の宣旨をこうむられました。この御子は学才がおありで、詩などをお作りになることは、昔の中務の宮(具平親王)などのようでいらっしゃいました。歌をお詠みになることもすぐれていらっしゃいました。円宗寺の花をご覧になって、
(父の後三条院が)植えておかれたその君もいない世に、年を経て咲く花こそ、わが身の仲間なのだろうか。
とお詠みになったのこそ、たいそうしみじみと聞こえました。このような御歌を、木工頭(俊頼)が撰んで奉った金葉集に「輔仁の親王」と書いたので、白河院は「どうしてここに(私が)見るのに、このように書いたのか」と仰せられたので、「三宮」と書き申し上げました。御仲は良くはいらっしゃらなかったけれども、御弟だからでしょう。詩などは数知れずすばらしいものがございます。「喜びもなく、憂いもない。世上の心」とかお作りになったのを、中御堂と申していらした方(覚行法親王)がおっしゃったのは、「憂いこそあるではないか」とおっしゃったけれど、位には必ずしも、帝の御子であっても継がれることとは限らないので、物事をわきまえた人は嘆きとはお思いにならないはずです。あの仁和寺の宮の、口先の言葉でしょう。どうして(三宮に)お望みなどありましょうか。
意訳
巻八「みこたち」は、后腹以外の皇子・皇女たちを語る。後三条天皇の女御源基子は小一条院の孫で、実仁・輔仁の二皇子を産んだ。章題の「源氏の御息所」は基子のこと。
基子の兄弟行尊は大峰・葛城で修行した名高い験者で、待賢門院の入内の夜の物の怪を祈り伏せた。百人一首の「もろともにあはれと思へ山桜」は、大峰で詠んだ歌として知られる。
後三条天皇は白河天皇の次に実仁、その次に輔仁を即位させる意向だったが、実仁は十五歳で早世し、白河天皇は自分の子の堀河天皇に譲位して輔仁を退けた。輔仁が「喜びもなく、憂いもない」と詠んだ詩を、覚行法親王が「憂いこそあるだろう」と評したのに対し、語り手は輔仁を弁護している。
語釈・文法注
- 基子女御
- 源基子(1049〜1134)。源基平の娘。後三条天皇の女御。実仁・輔仁親王の母。
- 小一條ノ院
- 敦明親王(994〜1051)。三条天皇の皇子。東宮を辞退した。
- 春宮ノ大夫季宗
- 源季宗(1047〜1105)。基平の子。
- 大藏卿行宗
- 源行宗(1064〜1143)。基平の子。歌人。
- 平等院の僧正行尊
- 行尊(1055〜1135)。基平の子。三井寺の僧。大峰で修行した験者・歌人。
- 大峯葛城
- 大峰山と葛城山。修験道の霊場。
- ものつき
- 憑坐(よりまし)。物の怪を乗り移らせる人。
- 笙のいはや
- 大峰山中の岩屋。修行の場。
- 東宮
- 実仁親王(1071〜1085)。後三条天皇の皇子。白河天皇の東宮となったが早世した。
- 輔仁親王
- 輔仁親王(1073〜1119)。後三条天皇の皇子。三宮。詩歌にすぐれた。
- 圓宗寺
- 後三条天皇が建てた寺。
- 中御堂
- 覚行法親王(1075〜1105)。白河天皇の皇子。仁和寺。第72章参照。
- 利口
- 口先がうまいこと。気の利いた言葉。
文法
- 花よりほかに知る人もなし
- 花以外に(自分を)知る人もいない。
- 何事かは御のぞみもあらむな
- どうして何かお望みなどあろうか、いやない。反語。
和歌
草のいほを何露けしと思ひけんもらぬいはやも袖はぬれけり
- 詠者
- 行尊
- 状況
- 大峰の笙の岩屋で詠んだ歌。
修辞
- 対比
- 雨露の漏る草の庵と、漏らない岩屋とを対比し、それでも涙で袖が濡れるとする。
もろともにあはれと思へ山櫻花よりほかに知る人もなし
- 詠者
- 行尊
- 状況
- 大峰で修行中、思いがけず山桜を見て詠んだ歌(金葉集・百人一首)。
修辞
- 擬人法
- 山桜に「ともにあはれと思え」と呼びかける。
おもひきや春のみや人なのみして花よりさきに散らむ物とは
- 詠者
- 行尊
- 状況
- 東宮実仁親王の死後、四十九日が過ぎて人々が去る時、乳母に送った歌。
修辞
- 掛詞
- 「春のみや」に「春宮(東宮)」と「春の宮」をかける。
花よりもちり〳〵になる身をしらで千歲の春と賴みつるかな
- 詠者
- 常陸の乳母
- 状況
- 行尊の歌への返歌。
植ゑおきし君もなき世に年へたる花や我が身のたぐひなるらむ
- 詠者
- 輔仁親王
- 状況
- 父後三条天皇の建てた円宗寺の花を見て詠んだ歌。
修辞
- 擬人法
- 父亡き後に残った花を、取り残された自分の仲間とみる。
解説
輔仁親王は白河院に皇位を阻まれた悲運の皇子だった。今鏡の語り手は、白河院への配慮から慎重な言い回しをしつつも、輔仁への同情を隠していない。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、333〜337頁(コマ181–183)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日