今鏡 第七「村上の源氏」 第62章
根合
顕房の娘賢子中宮が産んだ子どもたち。白河院の最愛の皇女、郁芳門院媞子内親王は、菖蒲の根合わせと歌合を催し、周防内侍の恋の歌が判者顕房を感嘆させた。しかし女院は二十一歳で急逝し、白河院は悲しみのあまり出家した。女院の乳母子が出家して詠んだ虫の音の歌と、筑前の返歌が語られる。
- 1六條六條ろくじょうののの右右みぎのおとゞののおとゞののおとどの公達公達きんだちははは、、、まづまづまず堀河堀河ほりかわのみかどののみかどののみかどの御母御母おおんはは中宮中宮ちゅうぐう、、、そのそのその御腹御腹おおんはらににに、、、ととと、、、堀河堀河ほりかわののの帝帝みかどととと、、、をのこをのこおのこ宮生宮生みやうみたてまつりみたてまつりみたてまつり給給たまへりへりえり。。。女宮女宮おんなみやははは、、、ノノノ內親王內親王ないしんのうととと申申もうすすすははは、、、白河白河しらかわノノノ院院いんののの第一第一だいいちののの御御おんむすめむすめむすめ、、、伊勢伊勢いせのいつきにおはしましゝのいつきにおはしましゝのいつきにおわしましし、、、中宮中宮ちゅうぐううせさせうせさせうせさせ給給たまひにしかばひにしかばいにしかば、、、出出いでさせでさせでさせ給給たまひてひていて、、、堀河堀河ほりかわのみかどののみかどののみかどの姉姉あねにてにてにて、、、御母御母おおんははきさきになぞらへてきさきになぞらへてきさきになぞらえて、、、皇后宮皇后宮こうごうぐうににに立立たたせたせたせ給給たまふふう。。。
- 2院號院號いんごうありてありてありて郁芳門院郁芳門院いくほうもんいんととと申申もうしきしきしき。。。寛寛かん治治じ七年七年しちねん五月五日五月五日さつきいつか、、、あやめのあやめのあやめの合合あわせさせせさせせさせ給給たまひてひていて、、、歌合歌合うたあわせののの題題だい、、、菖蒲菖蒲あやめ、、、郭公郭公ほととぎす、、、五月雨五月雨さみだれ、、、祝祝いわ、、、戀戀こいになんになんになん侍侍はべりけるりけるりける。。。
- 3こまかにこまかにこまかにははは、、、歌合歌合うたあわせののの日記日記にきなどになどになどに侍侍はべるらんるらんるらん。。。判者判者はんざははは六條六條ろくじょうのおのおのおほいほいほい殿殿どのせさせせさせせさせ給給たまへりへりえり。。。ノノノ內侍內侍ないし、、、戀戀こいののの歌歌うた、、、
- 4こひわびてながむるそらのこひわびてながむるそらのこいわびてながむるそらのうきうきうき雲雲くもややや我我わがががもえのもえのもえの煙煙けぶりなるらむなるらむなるらむ
- 5とよめりけるとよめりけるとよめりけるををを、、、判者判者はんざあはれあはれあわれ仕仕つこうまつりたるうまつりたるうまつりたる歌歌うたかなかなかな。。。ととと侍侍はべりければりければりければ、、、右右みぎののの歌人歌人うたびとかちぬとてかちぬとてかちぬとて、、、このこのこのうたうたうた詠詠えいじてたちにけるとなんじてたちにけるとなんじてたちにけるとなん。。。二位二位にい大納言大納言だいなごんののの宰相宰相さいしょうにおはせしにかはりてにおはせしにかはりてにおわせしにかわりて、、、ががが、、、「「「ひくひくひく手手てもたゆくながきもたゆくながきもたゆくながき根根ねののの」」」とよみとゞめとよみとゞめとよみとどめ侍侍はべるぞかしるぞかしるぞかし。。。
- 6永永えい長元長元ちょうげん年年とし八月八月はちがつ七日七日なぬか、、、かくれさせかくれさせかくれさせ給給たまひにきひにきいにき。。。そのそのその年年とし、、、おほおほおお樂樂らくとてとてとて、、、都都みやこにもにもにも、、、道道みちもさりあへずもさりあへずもさりあえず、、、神神かみののの社社やしろ々々びと、、、このこのこの事事ことひまなかりけるひまなかりけるひまなかりける、、、御事御事おおんことあるべくてなどあるべくてなどあるべくてなど、、、世世よににに申申もうしけるしけるしける。。。
- 7このこのこの御事御事おおんことををを、、、白河白河しらかわノノノ院院いんなげかせなげかせなげかせ給給たまふこともおろかなりふこともおろかなりうこともおろかなり。。。これによりてこれによりてこれによりて、、、御御おんぐしおろさせたまへりぐしおろさせたまへりぐしおろさせたまえり。。。あさましなどあさましなどあさましなど申申もうすもおろかなりすもおろかなりすもおろかなり。。。
- 8御御おんめのとめのとめのと子子こののの、、、まだまだまだ若若わかくてくてくて、、、廿一廿一にじゅういちとかとかとか聞聞きこえしもこえしもこえしも、、、法師法師ほうしになりになりになり侍侍はべりしりしりし。。。かなしさかなしさかなしさははは理理ことわりとりとりと申申もうしながらもしながらもしながらも、、、わかきそらにいとあはれにわかきそらにいとあはれにわかきそらにいとあわれに、、、ありがたきありがたきありがたき心心こころなるべしなるべしなるべし。。。
- 9日日ひ野野のといふといふという所所ところににに、、、住住すむとぞきゝむとぞきゝむとぞきき侍侍はべりしりしりし。。。次次つぎのとしののとしののとしの秋秋あきむかしのむかしのむかしの御事御事おおんこと思思おもひひい出出いでてでてでて、、、大大だいとことことこ
- 10悲悲かなしさにしさにしさに秋秋あきはははつきぬとつきぬとつきぬと思思おもひしひしいしをををことしもことしもことしも虫虫むしのねこそなかるれのねこそなかるれのねこそなかるれ
- 11とよみてとよみてとよみて、、、ののの御御おんとてとてとて、、、伯伯はくののの母母ははときこえしがもとにときこえしがもとにときこえしがもとに、、、つかはしたりければつかはしたりければつかわしたりければ、、、筑前筑前ちくぜんかへしかへしかえし、、、
- 12むしのねむしのねむしのねはははこのこのこの秋秋あきしもぞなきまさるしもぞなきまさるしもぞなきまさる別別わかれのれのれの遠遠とおくなるくなるくなる心心こころちしてちしてちして
- 13ととと侍侍はべりしりしりしををを、、、にににははは、、、きゝあやまりたるにやきゝあやまりたるにやききあやまりたるにや。。。かきたがへられてぞかきたがへられてぞかきたがえられてぞ侍侍はべるなるるなるるなる。。。ノノノ院院いんににに御堂御堂みどうたてさせたてさせたてさせ給給たまひてひていて、、、昔昔むかしおはしましゝやうにおはしましゝやうにおわしまししょうに、、、女房女房にょうぼうさぶらひなどさぶらひなどさぶらいなど、、、かはらぬさまにかはらぬさまにかわらぬさまに、、、いまだおかれいまだおかれいまだおかれ侍侍はべるめりるめりるめり。。。
- 14御御おんかなしみかなしみかなしみ、、、昔昔むかしもたぐひあれどもたぐひあれどもたぐいあれど、、、かゝるかゝるかかる事侍事侍ことはべらずらずらず。。。御庄御庄みしょう御御おん封封ふうなどなどなど、、、よにおはしますよにおはしますよにおわします樣樣さまににに、、、しおかせしおかせしおかせ給給たまへればへればえれば、、、すゑ〳〵のすゑ〳〵のすえすえの帝帝みかどののの御時御時おおんときにもにもにも、、、改改あらためさせめさせめさせ給給たまふふう事事ことなくてなくてなくて、、、このこのこの頃頃ごろもさきのもさきのもさきの齋宮齋宮さいぐう、、、傳傳つたへておはしますとぞへておはしますとぞえておわしますとぞ、、、きこえさせきこえさせきこえさせ給給たまふめるふめるうめる。。。
現代語訳
六条の右大臣(顕房)の公達としては、まず堀河の帝の御母中宮(賢子)で、その御腹に前坊(敦文親王)と堀河の帝との男宮をお産み申されました。女宮は媞子内親王と申し上げる方で、白河院の第一の御娘で、伊勢の斎宮でいらっしゃったが、中宮がお亡くなりになったので退下なさって、堀河の帝の姉として、御母后になぞらえて皇后宮にお立ちになりました。院号があって郁芳門院と申し上げました。寛治七年(1093)五月五日、菖蒲の根合わせをなさって、歌合の題は菖蒲・郭公・五月雨・祝・恋でございました。詳しくは歌合の日記などにございましょう。判者は六条の大臣がなさいました。周防内侍の恋の歌、
恋に思い悩んで眺める空に浮かぶ雲は、私の胸の内で燃える恋の煙なのでしょうか。
と詠んだのを、判者が「しみじみと見事に詠み申した歌だな」とおっしゃったので、右方の歌人たちは「勝った」といって、この歌を吟じて立って行ったということです。二位大納言(雅実)が宰相でいらした時に代わって、孝善が「ひく手もたゆくながき根の」と詠みとどめたのでしたね。(女院は)永長元年(1096)八月七日にお亡くなりになりました。その年は大田楽といって、都でも道も避けきれないほど、神の社々でもこのことが絶え間なかったのは、(女院の)ご不幸があるはずの前触れだったなどと、世に申しました。この御事を白河院がお嘆きになることは、言葉では言い尽くせません。これによって御髪をおろされました。あきれたことだなどと申すのも言い足りません。
(女院の)御乳母子で、まだ若くて二十一歳とか申した者も法師になりました。悲しさは道理とは申しながらも、若い身でたいそうしみじみとした、めったにない心なのでしょう。日野という所に住んでいると聞きました。翌年の秋、昔の御事を思い出して、その知信の大徳が、
悲しさに、去年の秋で(涙も)尽きてしまったと思っていたのに、今年も虫の音のように泣き声が出てしまうことだ。
と詠んで、筑前の御といって伯の母と申した人のもとに送ったところ、筑前の返歌、
虫の音は今年の秋こそ鳴き声がまさっています。(女院との)別れが遠くなってゆく心地がして。
とありましたのを、金葉集には聞き誤ったのでしょうか、書き違えられているそうです。六条院に御堂をお建てになって、(女院が)昔いらっしゃったように、女房や侍などを変わらない様子でいまだに置いておられるようです。(院の)御悲しみは、昔も例があるけれど、このようなことはございません。御荘園・御封なども、生きていらっしゃった時のように定めておかれたので、後々の帝の御代にも改められることがなくて、このごろも前の斎宮が伝えていらっしゃると聞こえます。
意訳
郁芳門院媞子内親王は白河天皇と賢子の間に生まれた最愛の皇女で、弟堀河天皇の准母として皇后となった。寛治七年の郁芳門院根合は、菖蒲の根の長さを競う遊びと歌合を合わせた華やかな催しで、章題の「根合」はこれによる。
周防内侍の恋の歌は判者顕房を感嘆させ、右方の歌人たちは勝ったと喜んで吟じながら退出した。しかし女院はわずか三年後、二十一歳で急逝した。都では大田楽が大流行しており、それが不幸の前兆だったと噂された。
白河院は悲しみのあまり出家し、女院の御所を御堂として、女房や侍をそのまま置き続けたという。若い乳母子知信も出家し、翌年の秋に虫の音に寄せて悲しみを詠んだ。語り手は、筑前の返歌が金葉集では誤って伝えられていると指摘している。
語釈・文法注
- 前坊
- 敦文親王(1075〜1077)。白河天皇の第一皇子。四歳で亡くなった。
- 媞子ノ內親王
- 郁芳門院(1076〜1096)。白河天皇の皇女。堀河天皇の准母として皇后となった。
- あやめの根合せ
- 菖蒲の根の長さを競う遊び。五月五日の端午の節句に行われた。
- 周防ノ內侍
- 平仲子。白河・堀河朝の女房。歌人。
- 下もえ
- 心の内でひそかに恋い焦がれること。
- 孝善
- 藤原孝善。歌人。
- おほ田樂
- 永長元年(1096)、京で大流行した田楽。貴賤を問わず熱狂した。
- とものぶの大とこ
- 知信。郁芳門院の乳母子。女院の死後に出家した。
- 筑前の御
- 伯の母(康資王母)。歌人。
- 金葉集
- 第五の勅撰和歌集。源俊頼撰。
- 六條ノ院
- 郁芳門院の御所。死後、御堂とされた。
文法
- あはれ仕うまつりたる歌かな
- しみじみと見事に詠み申した歌だな。
- なげかせ給ふこともおろかなり
- お嘆きになることは、言葉では言い尽くせない。
和歌
こひわびてながむるそらのうき雲や我が下もえの煙なるらむ
- 詠者
- 周防内侍
- 状況
- 郁芳門院根合の恋の題で詠んだ歌。
修辞
- 見立て
- 空の浮雲を、胸の内で燃える恋の火の煙に見立てる。
- 掛詞
- 「うき」に「浮き」と「憂き」をかける。
悲しさに秋はつきぬと思ひしをことしも虫のねこそなかるれ
- 詠者
- 知信
- 状況
- 郁芳門院の死の翌年の秋、女院を偲んで詠んだ歌。
修辞
- 掛詞
- 「ね」に虫の「音」と泣く「音」をかける。
むしのねはこの秋しもぞなきまさる別れの遠くなる心ちして
- 詠者
- 筑前(伯の母)
- 状況
- 知信の歌への返歌。
修辞
- 掛詞
- 「なき」に虫が「鳴き」と人が「泣き」をかける。
解説
郁芳門院の死は白河院に大きな衝撃を与え、院の出家の直接のきっかけとなった。院政期の最高権力者の私的な悲しみを伝える章である。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、305〜307頁(コマ167–168)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日