今鏡 第七「村上の源氏」 第61章
夢の通ひ路
俊房の子孫が大臣になれなかったわけ。長男師頼が若い時に「採桑老」を舞う夢を見たのを、ある人が「宰相で久しくいる」と誤って夢解きしたため、と言う人もあり、俊房が斎院(娟子内親王)を盗み出して妻にしたため、と言う人もいた。語り手はそれを否定する。俊房の娘たち、俊房の七十の賀の盛儀が語られる。
- 1堀川殿堀川殿ほりかわどのののの公達公達きんだち、、、大臣大臣おとどににに成成なりりり給給たまはぬぞくちをしきはぬぞくちをしきわぬぞくちおしき。。。春宮大夫春宮大夫とうぐうのだいぶははは、、、一一いちののの大納言大納言だいなごんにてにてにて時時ときにあひにあひにあい給給たまへりしにへりしにえりしに、、、成成なりりり給給たまふべかりしにふべかりしにうべかりしに、、、折折おりふしふしふし、、、あきあふあきあふあきあう事事ことなくなくなく、、、えならでえならでえならで亡亡うせせせ給給たまひにきひにきいにき。。。
- 2若若わかくおはしけるくおはしけるくおわしける時時ときににに、、、御夢御夢おおんゆめにににといふといふという舞舞まいをををしたまふとみてしたまふとみてしたまうとみて、、、語語かたりりり給給たまへりけるへりけるえりけるををを、、、ものにものにものに心得心得こころえぬぬぬ人人ひとののの、、、「「「宰相宰相さいしょうにてにてにて久久ひさしくやおはしまさんずらむしくやおはしまさんずらむしくやおわしまさんずらむ」」」ととと、、、せたりけるせたりけるせたりける。。。
- 3いとあさましいとあさましいとあさまし。。。さいさうさいさうさいそうといふことといふことということははは有有ありとてもりとてもりとても、、、さいさいさい相相しょうとやとやとやははは心得心得こころえべきべきべき。。。桑桑くわといふといふという木木きをををとるおきなといふとるおきなといふとるおきなという心心こころともともとも、、、其其そののの木木きをををとりてとりてとりて、、、老老おいたりともいたりともいたりとも云云いふにつきてぞふにつきてぞうにつきてぞ心心こころうべきうべきうべきををを、、、かゝるかゝるかかるひがごとのあるなりひがごとのあるなりひがごとのあるなり。。。
- 4さればさればされば大納言大納言だいなごんはははらだちてらだちてらだちて、、、のたまひければにやありけんのたまひければにやありけんのたまいければにやありけん。。。さいひけるさいひけるさいいける人人ひとももも、、、とくうせにけりとくうせにけりとくうせにけり。。。又大又大またおおき納言納言なごん殿殿どのももも、、、誠誠まことににに宰相宰相さいしょうにてにてにて久久ひさしくおはしきしくおはしきしくおわしき。。。
- 5昔昔むかしののの右右みぎのおとゞののおとゞののおとどの御夢御夢おおんゆめををを、、、あしくあしくあしく合合あわせたりけんやうなることなりせたりけんやうなることなりせたりけんようなることなり。。。宰相宰相さいしょうにてにてにて久久ひさしくおはせざらましかばしくおはせざらましかばしくおわせざらましかば、、、大臣大臣おとどにににはははなりなりなり給給たまひなましひなましいなまし。。。
- 6又又また「「「おおおほいほいほい殿殿どのををを取取とりりり据据すゑゑえ給給たまへりしかばにやへりしかばにやえりしかばにや。。。御末御末おおんすえのつかさのつかさのつかさ昇昇のぼりがたくおはするりがたくおはするりがたくおわする」」」。。。ととと申申もうすすす人人ひともあるとかやもあるとかやもあるとかや。。。九條九條くじょう殿殿どののののののの方方かたののの宮宮みやももも、、、びんなきことなれどびんなきことなれどびんなきことなれど、、、それそれそれはははたゞたゞただ宮宮みやばかりにおはしきばかりにおはしきばかりにおわしき。。。
- 7これこれこれはははいつきにいつきにいつきに居居いたまへるたまへるたまえる人人ひとををを、、、籠籠こめすゑめすゑめすえ申申もうしたまへりししたまへりししたまえりし、、、類類たぐひなくやひなくやひなくや。。。ののの中將中將ちゅうじょうももも、、、「「「夢夢ゆめかうつゝかかうつゝかこうつつか」」」ののの事事ことにてやみにけりにてやみにけりにてやみにけり。。。雅雅まさののの三位三位さんみももも、、、「「「ゆふしでかけしいにしへにゆふしでかけしいにしへにゆうしでかけしいにしえに」」」などいひてなどいひてなどいいて、、、しのびたるしのびたるしのびたる事事ことにこそにこそにこそ侍侍はべりけれりけれりけれ。。。
- 8これはぬすみこれはぬすみこれわぬすみ出出いだしてだしてだして、、、とりすゑとりすゑとりすえ給給たまへれどへれどえれど、、、業平業平なりひらののの中將中將ちゅうじょうにににはははかはりてかはりてかわりて、、、前前さきのなればのなればのなれば、、、さまであやまりならずやあらんさまであやまりならずやあらんさまであやまりならずやあらん。。。ののの女御女御にょうごなどもなどもなども、、、又又またいつきのおりいつきのおりいつきのおり給給たまひてひていて、、、后后きさきになりになりになり給給たまへるもおはせずやへるもおはせずやえるもおわせずやはははあるあるある。。。
- 9又大又大またおおき臣臣じんまでまでまで、、、ぬしぬしぬしのぼりのぼりのぼり給給たまひしかばひしかばいしかば、、、末末すえのかたかるべきにあらずのかたかるべきにあらずのかたかるべきにあらず。。。おのづからのおのづからのおのずからの事事ことなるべしなるべしなるべし。。。
- 10堀川殿堀川殿ほりかわどのははは、、、僧僧そう子子こももも多多おおくおはしきくおはしきくおわしき。。。小野小野おの法印法印ほういん、、、山山やまののの座主座主ざすなどなどなど聞聞きこえこえこえ給給たまひきひきいき。。。姫君姫君ひめぎみははは、、、ののの入道入道にゅうどうおとゞのおとゞのおとどの北北きたののの方方かたにておはせしにておはせしにておわせし、、、後後のちにににははは、、、御堂御堂みどうののの御前御前おまえなどきこえてなどきこえてなどきこえて、、、御御おんぐしおろしぐしおろしぐしおろし給給たまへりきへりきえりき。。。
- 11おとうとのおとうとのおとうとの姫君姫君ひめぎみははは、、、子子こにしにしにし給給たまひてひていて、、、御堂御堂みどうをもをもをも讓讓ゆずりりり給給たまへるへるえるははは、、、堀川堀川ほりかわののの大納言大納言だいなごんののの子子こののの辨辨べんににに具具ぐししし給給たまへりけるとかやへりけるとかやえりけるとかや。。。それもさまかへておはするとぞそれもさまかへておはするとぞそれもさまかえておわするとぞ。。。
- 12又又また近衞近衞こんえのみかどののみかどののみかどの御御おんはゝはゝははももも、、、左左ひだりのおとゞののおとゞののおとどの御御おんむすめのむすめのむすめの生生うみたてまつりみたてまつりみたてまつり給給たまへるとへるとえると聞聞きこえこえこえ給給たまひきひきいき。。。このこのこの堀川殿堀川殿ほりかわどのははは、、、七十七十しちじゅうになりになりになり給給たまふふう御御おんとしとしとし、、、御子御子みこののの堀川堀川ほりかわののの大納言殿大納言殿だいなごんどのののの、、、右右う兵衞兵衞ひょうえノノノ督督かみととと申申もうしゝしゝしし、、、父父ちちのおとゞののおとゞののおとどの御賀御賀おおんがせさせせさせせさせ給給たまふとてふとてうとて、、、長長なが治治じ元年元年がんねんしはすのしはすのしわすの廿日廿日はつかあまりあまりあまり、、、堀川殿堀川殿ほりかわどのにてにてにて、、、御賀御賀おおんがしたてまつりたまふときゝしたてまつりたまふときゝしたてまつりたまうときき侍侍はべりしこそりしこそりしこそ、、、むかしのことむかしのことむかしのこと聞聞きききき侍侍はべるやうにおぼえるやうにおぼえるようにおぼえ侍侍はべりしかりしかりしか。。。
- 13そのそのその殿殿どのににに參參まいりしりしりし僧僧そうのかたりのかたりのかたり侍侍はべりしりしりしははは、、、のみくにののみくにののみくにの佛佛ほとけののの、、、人人ひとのたけにおはしますのたけにおはしますのたけにおわします、、、かきかきかき奉奉たてまつりてこそりてこそりてこそ、、、ののの岸岸きしのみのりにのみのりにのみのりに、、、かねのかねのかねの文字文字もじににに七七しち卷卷ま、、、たゞのたゞのただの文字文字もじののの御經御經おおんきょうなゝそぢなゝそぢななそじ、、、寫寫うつしたてまつりてしたてまつりてしたてまつりて、、、有職有職ゆうそくなどなどなど七人七人しちにん、、、請請こせさせせさせせさせ給給たまひてひていて、、、供養供養くようしたてまつらせしたてまつらせしたてまつらせ給給たまふふう。。。
- 14一家一家いっけののの上達部上達部かんだちめ殿上人殿上人てんじょうびと、、、太政太政だいじょうのおのおのおほいどのほいどのほいどの、、、內大臣內大臣ないだいじんととと申申もうしゝよりしゝよりししより始始はじめてわたりめてわたりめてわたり給給たまひてひていて、、、御佛御佛みほとけ供養供養くようののの後後のち、、、舞人舞人まいびと樂人樂人がくにんなどなどなど、、、左右左右さゆうののの舞舞まひなどしてひなどしていなどして、、、後後のちにににははは御御おんあそびせさせあそびせさせあそびせさせ給給たまふふう。。。
- 15御御おんみきみきみき聞聞きこえかはしなどしてこえかはしなどしてこえかわしなどして、、、いひしらずめでたくいひしらずめでたくいいしらずめでたく聞聞ききたまへりしがきたまへりしがきたまえりしが、、、中中なかノノノ院院いんののの大將大將だいしょう若君若君わかぎみにおはしけるにおはしけるにおわしける、、、十八十八じゅうはちばかりにてばかりにてばかりにて、、、笙笙しょうののの笛笛ふえ吹吹ふききき給給たまひけるこそひけるこそいけるこそ、、、そのそのその日日ひのめづらしくのめづらしくのめずらしく、、、涙涙なみだもおとしつべきもおとしつべきもおとしつべき事事ことににに侍侍はべりけれりけれりけれ。。。
- 16このおとゞよりこのおとゞよりこのおとどよりははは、、、六條六條ろくじょうののの大臣殿大臣殿おおいどのははは、、、さきにさきにさきにうせうせうせ給給たまひにしかばひにしかばいにしかば、、、そのそのその御子御子みこののの太政太政だいじょうのおとゞのおとゞのおとどははは、、、堀川堀川ほりかわのおとゞにのおとゞにのおとどに何事何事なにごとももも尋尋たずねねね習習ならひひい給給たまひてひていて、、、親親おや子子こののの如如ごとくなんおはしけるくなんおはしけるくなんおわしける。。。
- 17それにそれにそれにひかれてひかれてひかれて、、、こときんだちこときんだちこときんだち皆皆みな靡靡なびききき申申もうししし給給たまひけりとぞきゝひけりとぞきゝいけりとぞきき侍侍はべりしりしりし。。。
現代語訳
堀川殿(俊房)の公達が大臣になられなかったのは残念なことです。春宮大夫(師頼)は一の大納言で時流に乗っていらしたので、なられるはずだったのに、ちょうど大臣の欠員が出ることがなくて、なれないままに亡くなられました。若くていらした時に、御夢に「採桑老」という舞を舞われると見て、お話しになったのを、物事をわきまえない人が「宰相で長くいらっしゃることでしょう」と夢解きしたのです。たいそうあきれたことです。「さいさう」ということはあっても、「宰相」と解釈してよいものでしょうか。「桑という木を採る翁」という意味としても、その木を採って老いたとも言うことによって解釈すべきなのに、このような間違いがあるのです。それで大納言が腹を立てて(何か)おっしゃったからでしょうか、そう言った人も早く亡くなりました。また大納言殿も、本当に宰相で長くいらっしゃいました。昔、九条の右大臣(師輔)の御夢を悪く夢解きしたようなことです。宰相で長くいらっしゃらなかったなら、大臣にはなられたことでしょう。また「大臣(俊房)が斎院を取り据えなさった(妻になさった)からだろうか、御子孫の官位が昇りにくくいらっしゃる」と申す人もいるとか。九条殿(師輔)の北の方の宮(康子内親王)も不都合なことだったけれど、それはただの宮でいらっしゃいました。こちらは斎院でいらした方をこもらせ据え申されたので、類のないことでしょうか。業平の中将も「夢かうつつか」のことで終わってしまいました。道雅の三位も「ゆふしでかけしいにしへに」などと言って、忍んだことでございました。こちらは盗み出して据えなさったけれど、業平の中将とは違って、前(の斎院)なので、それほどの過ちではないのではないでしょうか。斎宮の女御なども、また斎宮を退下されて后になられた方もいらっしゃらないことがあるでしょうか(いらっしゃいます)。また大臣まで本人が昇られたのだから、子孫が困難であるはずもありません。自然のなりゆきなのでしょう。
堀川殿には、僧の子も多くいらっしゃいました。小野法印、比叡山の座主などと申し上げました。姫君は富家の入道大臣(忠実)の北の方でいらした方で、後には御堂の御前などと申し上げて、御髪をおろされました。妹の姫君は(その姉が)養女になさって、御堂をもお譲りになった方は、堀川の大納言(師頼)の子の弁に連れ添われたとか。その方も尼姿でいらっしゃるとか。また近衛の帝の御母、女院(美福門院)も、左大臣(俊房)の御娘がお産み申し上げたと聞こえました。この堀川殿は、七十歳になられた御年、御子の堀川の大納言殿が右兵衛督と申した時、父大臣の御賀をなさるといって、長治元年(1104)十二月二十日過ぎに、堀川殿で御賀をして差し上げなさったと聞きましたのこそ、昔のことを聞くように思われました。その殿に参った僧が語りましたのは、「瑠璃の御国の仏(薬師如来)の人の背丈ほどの像を描き申し上げて、彼岸の御法(法華経)を金の文字で七巻、普通の文字で七十巻の御経を写し申し上げて、僧綱・有職など七人を招いて供養させなさいました。一家の上達部・殿上人が、太政大臣(雅実)が内大臣と申し上げた方をはじめとしておいでになって、御仏供養の後、舞人・楽人などが左右の舞などをして、後には御遊びをなさいました。御酒を酌み交わしなどして、何とも言えずすばらしく聞いておりましたが、中院の大将(雅定)が若君でいらした十八歳ほどで笙の笛をお吹きになったのこそ、その日の珍しいことで、涙も落としそうなことでございました」。この大臣(俊房)よりは六条の大臣殿(顕房)が先に亡くなられたので、その御子の太政大臣(雅実)は、堀川の大臣に何事もお尋ねして習われて、親子のようでいらっしゃいました。それにひかれて、ほかの公達も皆従い申し上げなさったと聞きました。
意訳
俊房の子孫はなぜ大臣になれなかったのか。語り手は二つの説を紹介する。一つは、師頼が見た「採桑老」の夢を「宰相(さいしょう)で久しくいる」と誤って解いたため。夢解きが悪いと夢の吉凶が変わるという考え方は、『大鏡』の師輔の夢の話にも見える。
もう一つは、俊房が後朱雀天皇の皇女で前斎院の娟子内親王を盗み出して妻にしたため。語り手は在原業平や藤原道雅の例を引きながら、前斎院であり、俊房自身も大臣になったのだから、子孫が祟られるはずはないと否定する。章題の「夢の通ひ路」は、夢の話と斎院との恋とを重ねたものであろう。
後半は俊房の七十の賀の盛儀。薬師如来像を描き、金字の法華経を供養し、舞楽と管絃の遊びが催された。若き雅定の笙の演奏が涙を誘ったという。
語釈・文法注
- 採桑老
- 舞楽の曲名。老人が杖をついて桑の葉を採る様を舞う。「さいそうろう」と「宰相(さいしょう)」の音が似ていることから誤って夢解きされた。
- 合せたりける
- 夢合わせ(夢解き)をした。夢の吉凶を判断すること。
- 九條の右のおとゞの御夢
- 藤原師輔が見た夢を、女房が悪く解いたため、師輔は摂関になれなかったという話が『大鏡』にある。
- おほい殿のいつき
- 娟子内親王(1032〜1103)。後朱雀天皇の皇女で、賀茂斎院を退いた後、俊房と結ばれた。
- 九條殿の北の方の宮
- 康子内親王。醍醐天皇の皇女。藤原師輔の妻となった。
- 業平の中將
- 在原業平。『伊勢物語』で伊勢斎宮と密会し、「君や来し我や行きけむ思ほえず夢かうつつか寝てか覚めてか」の歌を贈られた。
- 道雅の三位
- 藤原道雅。伊勢斎宮を退下した当子内親王と密通した。「ゆふしで」は神事に用いる木綿の垂。
- 齋宮の女御
- 徽子女王。伊勢斎宮を退いた後、村上天皇の女御となった。
- 富家の入道おとゞ
- 藤原忠実。
- 近衞のみかどの御はゝ女院
- 美福門院得子。母は俊房の娘方子。
- 瑠璃のみくにの佛
- 東方浄瑠璃世界の教主、薬師如来。
- 彼の岸のみのり
- 彼岸に至る法、法華経のこと。
- 僧綱有職
- 僧綱は僧正・僧都・律師の位。有職は已講・内供・阿闍梨。
文法
- さい相とやは心得べき
- 「やは」は反語。宰相と解釈してよいものか、いやよくない。
- 大臣にはなり給ひなまし
- 「なまし」は反実仮想。大臣になられたことだろう。
解説
夢解きの誤りが運命を左右するという考え方は、平安時代の人々に広く信じられていた。今鏡の語り手は迷信めいた説を紹介しつつも、それを理性的に退けている。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、301〜304頁(コマ165–167)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日