今鏡 第七「村上の源氏」 第60章
堀河の流れ
堀川左大臣俊房の子孫。長男師頼は博学で歌を早く詠み、恋した女に百首を一晩で詠み上げたが、女は姿を消した。次男師時は日記を膨大に書き残し、妻を六、七人持って夜ごとに巡った。孫の師仲・師俊、曾孫の寛勝僧都の名説法など、学問と才芸の家として六代続いた一門が語られる。
- 1堀川堀川ほりかわののの左左ひだりのおとゞののおとゞののおとどの御子御子みこははは、、、太郞太郞たろうにてにてにてははは大納言大納言だいなごんとておはせしとておはせしとておわせし、、、御母御母おおんはは中將中將ちゅうじょう實實さね基基きののの君君きみののの御御おんむすめなりむすめなりむすめなり。。。文文ふみなどなどなど博博はかくくく習習ならひひい給給たまひてひていて、、、ざえおはするざえおはするざえおわする人人ひとにておはしきにておはしきにておわしき。。。
- 2中辨中辨ちゅうべんよりよりより宰相宰相さいしょうになりになりになり給給たまひてひていて、、、宰相宰相さいしょうにてにてにて、、、前前さきののの右右う兵衞兵衞ひょうえノノノ督督かみとてとてとて、、、年年とし久久ひさしくおはしきしくおはしきしくおわしき。。。年年としよりてぞよりてぞよりてぞ、、、中納言中納言ちゅうなごん大納言大納言だいなごんなどになどになどに引引ひ續續つづきてきてきて、、、程程ほどなくなりなくなりなくなり給給たまひしひしいし。。。
- 3近衞近衞こんえのみかどのみかどのみかど、、、東宮東宮とうぐうにたゝせにたゝせにたたせ給給たまひしかばひしかばいしかば、、、母母ははきさきのきさきのきさきの御御おんゆかりにてゆかりにてゆかりにて、、、大夫大夫だいぶになりになりになり給給たまへりきへりきえりき。。。歌歌うたをぞをぞをぞ口口くち疾疾とくよみくよみくよみ給給たまひけるひけるいける。。。早早はやくけさうしくけさうしくけそうし給給たまふふう女女おんなののの、、、よみよみよみ給給たまひたらばひたらばいたらば、、、逢逢あはんといふありけるにはんといふありけるにわんというありけるに、、、題題だいをををうちよりうちよりうちより出出いだしたりけるにだしたりけるにだしたりけるに從從したがひてひていて、、、よひよりよひよりよいより曉曉あかつきになるになるになるほどにほどにほどに、、、よみよみよみはははててて給給たまひたりけるにひたりけるにいたりけるに、、、女女おんなかくれにけるぞかくれにけるぞかくれにけるぞ、、、いとくちをしかりけるいとくちをしかりけるいとくちおしかりける。。。
- 4ノノノ內侍內侍ないしがゆかりなりければがゆかりなりければがゆかりなりければ、、、內侍內侍ないしのとがにぞのとがにぞのとがにぞ聞聞きくくく人申人申ひともうしけるしけるしける。。。大納言大納言だいなごんののの御子御子みこははは能能よしののの辨辨べんとてとてとて、、、若狹守若狹守わかさのかみ通通かよ宗宗そうのむすめののむすめののむすめのはらにおはしきはらにおはしきはらにおわしき。。。
- 5そのそのその兄弟兄弟はらからににに、、、師師し敎敎おし師光師光もろみつなどきこえなどきこえなどきこえ給給たまふふう。。。三井寺三井寺みいでらににに證證しょう禪禪ぜん已講已講いこうとてとてとて、、、よきよきよき智者智者ちしゃおはしけるおはしけるおわしける、、、うせうせうせ給給たまひにけりひにけりいにけり。。。師光師光もろみつははは小野小野おのノノノ宮宮みやののの大納言大納言だいなごん能能よし實實みのののうまごにてうまごにてうまごにて、、、小野小野おのノノノ宮宮みやののの侍從侍從じじゅうなどなどなど申申もうすにやすにやすにや。。。
- 6大納言大納言だいなごんののの次次つぎののの御弟御弟おおんおとうとももも、、、時時ときののの中納言中納言ちゅうなごんととと申申もうしゝしゝしし、、、そのそのその母母はは侍從宰相侍從宰相じじゅうのさいしょう平平たいらのむすめなりのむすめなりのむすめなり。。。それもそれもそれも詩詩しなどよくなどよくなどよく作作つくりりり給給たまふなるべしふなるべしうなるべし。。。
- 7大藏卿大藏卿おおくらきょう匡房匡房まさふさととと申申もうしゝしゝしし博士博士はかせののの申申もうされけるされけるされけるははは、、、このこのこの君君きみははは、、、詩詩しののの心得心得こころえてよくてよくてよく作作つくりりり給給たまふとぞふとぞうとぞ、、、ほめきこえけるほめきこえけるほめきこえける。。。からのからのからの文文ふみものしものしものし給給たまへるへるえる事事ことははは、、、兄兄このかみにににははは劣劣おとりりり給給たまへりけれどへりけれどえりけれど、、、日記日記にきなどなどなど量量はかりなくりなくりなく、、、かきつめかきつめかきつめ給給たまひてひていて、、、此此こののの世世よにさばかりにさばかりにさばかり多多おおくくく記記きせるせるせる人人ひとなくぞなくぞなくぞ侍侍はべるなるるなるるなる。。。
- 8そのそのその文文ふみどもどもどもははは、、、うせうせうせ給給たまひてのちひてのちいてのち、、、鳥羽鳥羽とばノノノ院院いんめしてめしてめして、、、ののの北殿北殿きただのにおかせにおかせにおかせ給給たまへりけるにへりけるにえりけるに、、、權大夫權大夫ごんのだいぶとかきつけられたるとかきつけられたるとかきつけられたる櫃櫃びつどもどもども、、、數數かずしらずぞしらずぞしらずぞ侍侍はべりけるりけるりける。。。
- 9宗宗むね茂茂しげ菅菅すが軒軒のきなどいひしがくさうのなどいひしがくさうのなどいいしがくそうのなりしなりしなりし時時ときははは、、、此此こののの君君きみ弟子弟子でしにおはしてにおはしてにおわして、、、車車くるまなどなどなど貸貸かしたまへりければしたまへりければしたまえりければ、、、ののの車車くるまははは、、、上﨟上﨟じょうろう次第次第しだいにこそたつなるにこそたつなるにこそたつなるををを、、、中將殿中將殿どのののの車車くるまとてとてとて、、、牛飼牛飼うしかい一一ひとつにつにつに立立たてゝてゝてて爭爭あらそひなどしけるひなどしけるいなどしける。。。
- 10歌歌うたよみにもおはしてよみにもおはしてよみにもおわして、、、兄兄あにののの大納言大納言だいなごんももも、、、このこのこの君君きみももも、、、堀河院堀河院ほりかわのいんののの百首百首ひゃくしゅなどよみなどよみなどよみ給給たまへりへりえり。。。隆隆たか宰相宰相さいしょうははは、、、大大だい辨辨べんにてにてにて中納言中納言ちゅうなごんにならんとしけるにもにならんとしけるにもにならんとしけるにも、、、宰相中將宰相中將さいしょうのちゅうじょうなれどもなれどもなれども、、、大大だい辨辨べんににに劣劣おとらずらずらず何事何事なにごともつかへもつかへもつかえ、、、ののの執執と筆筆ふでなどもすればなどもすればなどもすれば、、、うれへとゞめなどしうれへとゞめなどしうれえとどめなどし給給たまひけるひけるいける。。。
- 11大方大方おおかたののの物物ものののの上手上手じょうずにてにてにて、、、鳥羽鳥羽とばののの御堂御堂みどうののの池池いけ堀堀ほりりり、、、山山やま造造つくりなどりなどりなど、、、とりもちてさたしとりもちてさたしとりもちてさたし給給たまふとぞふとぞうとぞ聞聞きこえこえこえ侍侍はべりしりしりし。。。をぞをぞをぞ多多おおくもちくもちくもち給給たまへるとへるとえると、、、うけたまはりしうけたまはりしうけたまわりし、、、六六ろく七人七人しちにんととと持持もちちち給給たまへりけるへりけるえりけるををを、、、夜每夜每よごとににに皆皆みなおはしわたしけるとかやおはしわたしけるとかやおわしわたしけるとかや。。。
- 12冬冬ふゆははは炭炭すみなどなどなどをもをもをもたせてたせてたせて、、、火火ひおこしたるおこしたるおこしたる、、、消消きえがたにえがたにえがたにははは出出いでつゝでつゝでつつ、、、よもすがらありきたまひてよもすがらありきたまひてよもすがらありきたまいて、、、朝朝あさいいいををを午午うま時時ときなどまでせられけるとぞなどまでせられけるとぞなどまでせられけるとぞ、、、さてさてさて其其そのののうへどもうへどもうえども、、、皆皆みな中中なかよくてよくてよくて、、、いひかはしつゝぞおはしけるいひかはしつゝぞおはしけるいいかわしつつぞおわしける。。。
- 13このこのこの中納言中納言ちゅうなごんののの御子御子みこははは、、、中宮中宮ちゅうぐうノノノ大夫大夫だいぶ師師し忠忠ただのむすめののむすめののむすめのはらにはらにはらに、、、中納言中納言ちゅうなごんとておはするとておはするとておわする、、、右衞門右衞門うえもんノノノ督督かみのいくさおこしたりしのいくさおこしたりしのいくさおこしたりし折折おり、、、あづまにあづまにあずまに流流ながされされされ給給たまひてひていて、、、歸歸かえりのぼりておはすとぞりのぼりておはすとぞりのぼりておわすとぞ。。。
- 14このこのこの兄兄いろせどもどもども、、、少納言少納言しょうなごん大藏卿大藏卿おおくらきょうなどきこゆるなどきこゆるなどきこゆる、、、あまたおはしきあまたおはしきあまたおわしき。。。おおおほいどのゝほいどのゝほいどのの御子御子みこははは、、、入道入道にゅうどう中納言中納言ちゅうなごんとておはしきとておはしきとておわしき。。。大大だい辨辨べんののの宰相宰相さいしょうよりよりより中納言中納言ちゅうなごんになりてになりてになりて、、、治部卿治部卿じぶきょうなどなどなど申申もうしゝしゝしし程程ほどににに、、、御病御病おおんやまいによりてによりてによりて、、、かしらおろしかしらおろしかしらおろし給給たまひてひていて、、、たうのもとのたうのもとのとうのもとの入道入道にゅうどう中納言中納言ちゅうなごんとぞきこえとぞきこえとぞきこえ給給たまひしひしいし。。。
- 15それもそれもそれも物物ものよくよくよく習習ならひひい給給たまひてひていて、、、詩詩しなどよくなどよくなどよく作作つくりりり給給たまふふう。。。歌歌うたよみにもおはしきよみにもおはしきよみにもおわしき。。。このこのこの兄兄いろせおとうとたちおとうとたちおとうとたち、、、かやうにおはするかやうにおはするかようにおわする、、、理理ことわりとりとりと申申もうしながらしながらしながら、、、いとありがたくなんいとありがたくなんいとありがたくなん。。。
- 16延喜延喜えんぎ天曆天曆てんりゃく二代二代にだいのみかどのみかどのみかど、、、かしこきかしこきかしこき御世御世みよにおはしますにおはしますにおわします上上うえににに、、、ふみふみふみ作作つくらせらせらせ給給たまふふう方方かたももも、、、たへにおはしますにたへにおはしますにたえにおわしますに、、、中務中務なかつかさののの宮宮みや、、、又又またすぐれすぐれすぐれ給給たまへりけりへりけりえりけり。。。
- 17土御門殿土御門殿つちみかどどの、、、堀川殿堀川殿ほりかわどのあひつぎてあひつぎてあいつぎて、、、御身御身おおんみのざえのざえのざえ、、、文文ふみ作作つくらせらせらせ給給たまふふう方方かたももも、、、すぐれすぐれすぐれ給給たまへるにへるにえるに、、、土御門殿土御門殿つちみかどどのははは才才さいすぐれすぐれすぐれ、、、堀川殿堀川殿ほりかわどのははは、、、ふみふみふみ作作つくりりり給給たまふことふことうこと、、、すぐれておはすとぞきこえすぐれておはすとぞきこえすぐれておわすとぞきこえ給給たまひけるひけるいける。。。
- 18このこのこの大納言大納言だいなごん中納言中納言ちゅうなごんたちたちたち、、、かくかくかく仕仕つかへたまひてへたまひてえたまいて、、、六六ろく代代よかくおはするかくおはするかくおわする、、、いといといと有有ありがたくやんごとなしりがたくやんごとなしりがたくやんごとなし。。。このこのこの大納言大納言だいなごん中納言中納言ちゅうなごん殿殿どのたちのたちのたちの詩詩しももも歌歌うたももも、、、集集しゅうどもにどもにどもに多多おおくくく侍侍はべらんらんらん。。。
- 19中納言中納言ちゅうなごんののの御子御子みこははは少納言少納言しょうなごんになりになりになり給給たまへりしへりしえりし、、、後後のちははは大宮大宮おおみや亮亮すけとぞきこえけるとぞきこえけるとぞきこえける。。。そのおとうとそのおとうとそのおとうとははは、、、勝勝すぐ僧都僧都そうずとてとてとて、、、山山やまにおはしけるこそにおはしけるこそにおわしけるこそ、、、あめつちといふあめつちといふあめつちという女房女房にょうぼうののの、、、みめよきがみめよきがみめよきが生生うみきこえたりければにやみきこえたりければにやみきこえたりければにや。。。
- 20みめもいときよらにみめもいときよらにみめもいときよらに、、、心心こころばへもいとばへもいとばえもいとつき〳〵しきつき〳〵しきつきつきしき學生學生がくしょうにてにてにて、、、山山やまののの題題だいなどいふなどいふなどいう事事こともしたまひけるにもしたまひけるにもしたまいけるに、、、あるべかしくいあるべかしくいあるべかしくいはははまほしきさまにまほしきさまにまほしきさまに、、、いとめでたくこそおはしけれいとめでたくこそおはしけれいとめでたくこそおわしけれ。。。
- 21說法說法せっぽうよくしよくしよくし給給たまひけるにひけるにいけるに、、、人人ひとにすぐれてもにすぐれてもにすぐれても、、、聞聞きこえこえこえ給給たまはざりしかどはざりしかどわざりしかど、、、あるあるある所所ところにてにてにて、、、阿彌陀佛阿彌陀佛あみだぶつ釋釋しゃくししし給給たまひしこそひしこそいしこそ、、、法文法文ほうもんのかぎりしのかぎりしのかぎりし給給たまへばへばえば、、、聞聞ききしらぬきしらぬきしらぬ人人ひとははは、、、何何なにともともとも思思おもふまじきふまじきうまじきををを、、、男男おとこももも女女おんなももも、、、身身みにしみてにしみてにしみてたふとたふととうとがりがりがり申申もうしてしてして、、、聞聞ききしりたるきしりたるきしりたるははは、、、かばかりのことなしとかばかりのことなしとかばかりのことなしと思思おもひあへりひあへりいあえり。。。
- 22台台だい大師大師だいしののの經經きょうををを釋釋しゃくししし給給たまふにふにうに、、、つのつのつの法文法文ほうもんにてにてにて、、、はじめはじめはじめ如是如是ことよりよりより、、、經經きょうのすゑまでのすゑまでのすえまで、、、句句くごとにごとにごとに釋釋しゃくししし給給たまへばへばえば、、、そのそのその流流ながれれれををを汲汲くまんまんまん人人ひと、、、法法ほうをををとかんとかんとかん其其そのあとのあとのあとををを思思おもふべければとてふべければとてうべければとて、、、はじめにはじめにはじめにははは因緣因緣いんえんなどいひてなどいひてなどいいて、、、さま〳〵のさま〳〵のさまさまの阿彌陀佛阿彌陀佛あみだぶつをををときてときてときて、、、むかしむかしむかし物物ものがたりがたりがたり說說とききき具具ぐしつゝしつゝしつつ、、、何事何事なにごとももも我我わががが心心こころよりよりより外外ほかのことものやのことものやのことものやはははあるあるある。。。
- 23事事ことののの心心こころをををしらぬしらぬしらぬははは、、、いとかひなしいとかひなしいとかいなし。。。朝夕朝夕あさゆうによそのによそのによその寳寳ぼうをををかぞかぞかぞふるになんあるべきふるになんあるべきふるになんあるべき。。。などなどなど說說とききき給給たまひしひしいし、、、思思おもひかけずひかけずいかけず、、、うけたまはりしこそうけたまはりしこそうけたまわりしこそ、、、世々世々よよののの罪罪つみももも滅滅ほろびぬらんかしとおぼえびぬらんかしとおぼえびぬらんかしとおぼえ侍侍はべりしかりしかりしか。。。
現代語訳
堀川の左大臣(俊房)の御子は、長男としては師頼大納言という方がいらしたが、御母は中将実基の君の御娘です。学問など広く習われて、学才のある人でいらっしゃいました。中弁から宰相になられて、平の宰相で前右兵衛督として長年いらっしゃいました。年をとってから、中納言・大納言などに引き続いて、程なくなられました。近衛の帝が東宮にお立ちになったので、母后(美福門院)の御縁で(春宮)大夫になられました。歌を早くお詠みになりました。以前懸想なさった女で、「百首詠んでくださったら逢いましょう」と言う人がいたので、題を(女が)内から出したのに従って、宵から暁になるころまでに詠み終えられたのに、女は姿を隠してしまったのは、たいそう残念なことでした。周防内侍の縁者だったので、内侍のせいだと聞く人は申しました。大納言の御子は師能の弁といって、若狭守通宗の娘の腹でいらっしゃいました。その兄弟に、師教・師光などと申し上げる方がいます。三井寺に証禅已講といって、よい智者がいらしたが、亡くなられました。師光は小野宮の大納言能実の孫で、小野宮の侍従などと申すのでしょうか。大納言の次の御弟も、師時の中納言と申した方で、その母は侍従宰相基平の娘です。この方も詩などをよくお作りになったのでしょう。
大蔵卿匡房と申した博士が申されたのは、「この君は詩の心を心得てよくお作りになる」と、褒め申し上げたそうです。漢籍を学ばれたことは兄には劣っていらしたけれど、日記などは量り知れないほど書き集められて、この世にあれほど多く記した人はないそうです。その書物どもは、亡くなられた後、鳥羽院が召して鳥羽の北殿に置かれたが、「権大夫」と書きつけられた櫃が数知れずございました。宗茂・菅軒などといった者が学生の上官であった時は、この君が弟子でいらして車などをお貸しになったので、外記の車は上臈の順に立てるものなのに、「中将殿の車だ」といって、牛飼が一番に立てて争ったりしました。歌詠みでもいらして、兄の大納言もこの君も、「堀河院百首」などをお詠みになりました。為隆宰相が大弁として中納言になろうとした時にも、「(自分は)宰相中将だけれども、大弁に劣らず何事も務め、除目の執筆などもするのだから」と、訴えて止めたりなさいました。だいたい何事にも上手で、鳥羽の御堂の池掘りや築山造りなども、取り仕切ってなさったと聞こえました。たいそう奥方を多く持っていらっしゃると承りましたが、六、七人と持っていらっしゃったのを、毎夜皆のところに通われたとか。冬は炭などを持たせて、火をおこしておいたのが消えかかるころには出て行き、一晩中歩き回られて、朝寝を昼ごろまでなさったそうです。そしてその奥方たちは皆仲がよくて、便りを交わし合っていらっしゃいました。
この中納言(師時)の御子は、中宮大夫師忠の娘の腹に、師仲中納言といっていらっしゃるが、右衛門督(信頼)が戦を起こした折に東国に流されて、帰り上っていらっしゃるとか。この方の兄たちに、少納言・大蔵卿などと申す方が大勢いらっしゃいました。大臣(俊房)の御子には、入道中納言師俊という方がいらっしゃいました。大弁の宰相から中納言になって、治部卿などと申したころに、ご病気によって出家なさって、「塔の本の入道中納言」と申し上げました。この方も物をよく習われて、詩などをよくお作りになります。歌詠みでもいらっしゃいました。この兄弟たちがこのようでいらっしゃるのは、道理とは申しながら、たいそうめったにないことです。延喜・天暦の二代の帝が賢い御代でいらっしゃった上に、詩をお作りになる方面もすぐれていらしたところに、中務の宮(具平親王)がまたすぐれていらっしゃいました。土御門殿(師房)・堀川殿(俊房)と相次いで、身の学才も、詩をお作りになる方面もすぐれていらしたが、土御門殿は学才がすぐれ、堀川殿は詩作がすぐれていらっしゃると評判でした。この大納言・中納言たちがこのようにお仕えなさって、六代もこのようでいらっしゃるのは、たいそうめったになく尊いことです。この大納言・中納言殿たちの詩も歌も、撰集に多くございましょう。中納言(師俊)の御子は少納言になられた方で、後は大宮亮と申しました。その弟は寛勝僧都といって、比叡山にいらっしゃったのこそ、「あめつち」という容貌のよい女房がお産み申したからでしょうか、容貌もたいそう美しく、心ばえもたいそうふさわしい学僧で、比叡山の探題などということもなさったが、あるべき姿で、言いたいとおりの様子で、たいそうすばらしくいらっしゃいました。説法をよくなさったが、人にすぐれていると評判になるほどではなかったけれど、ある所で阿弥陀仏を解釈なさったのは、法文の限りをなさったので、聞いてわからない人は何とも思わないはずなのに、男も女も身にしみて尊がり申して、聞いてわかる人は、これほどのことはないと思い合いました。天台大師が経を解釈なさるのに、四つの法門で、初めの「如是」から経の終わりまで句ごとに解釈なさったので、その流れを汲む人は、法を説くにもその跡を思うべきだからといって、初めには因縁などを言って、さまざまの阿弥陀仏を説いて、昔物語も説き添えながら、「何事も我が心より外のものがあろうか。物事の本質を知らないのは、たいそう甲斐のないことだ。朝夕に他人の宝を数えるようなものであろう」などとお説きになったのを、思いがけず承ったのこそ、代々の罪も滅びたことだろうと思われました。
意訳
俊房の子孫は学問と文才の家として続いた。長男師頼は歌を早く詠み、女に求められた百首を一晩で詠み上げたが、女は姿を消してしまった。章題の「堀河の流れ」は、堀川左大臣俊房の家系であることによる。
次男師時は日記『長秋記』の作者で、膨大な日記が鳥羽院に召し上げられたという。妻を六、七人持って毎晩巡り、炭火が消えるころに次へ移り、朝寝は昼まで、それでも妻たちは仲がよかったという話はユーモラスである。
語り手は、延喜・天暦の帝から具平親王・師房・俊房を経て、師頼・師時の世代まで「六代」にわたって学問の家が続いたことをたたえる。最後は曾孫の寛勝僧都が阿弥陀仏について説いた名説法で結ばれる。
語釈・文法注
- 師賴大納言
- 源師頼(1070〜1139)。俊房の子。
- ひら宰相
- 近衛中将や大弁などを兼ねない、ただの参議。
- 周防ノ內侍
- 平安後期の女流歌人。百人一首「春の夜の夢ばかりなる手枕に」の作者。
- 師能の辨
- 源師能。師頼の子。
- 師時の中納言
- 源師時(1077〜1136)。俊房の子。日記『長秋記』の作者。
- 侍從宰相基平
- 源基平(1026〜1064)。小一条院の子。
- 鳥羽の北殿
- 鳥羽離宮の御所の一つ。
- 上官
- 太政官の弁官・外記・史などの役人。ここでは学生(大学寮の学生)の上席。
- 外記
- 太政官の書記官。
- 堀河院の百首
- 堀河院百首(1105年ごろ)。十六人の歌人が百首ずつ詠んだ。
- 爲隆宰相
- 藤原為隆(1070〜1130)。
- 除目の執筆
- 除目で任官者の名を書き入れる役。
- うへ
- 妻。
- 師仲中納言
- 源師仲(1116〜1172)。師時の子。平治の乱に加わって流罪となった。
- 入道中納言師俊
- 源師俊(1080〜1141)。俊房の子。
- 寛勝僧都
- 師俊の子。比叡山の学僧。
- 探題
- 論議の場で論題を出し、判定する役。
- 天台大師
- 智顗(538〜597)。中国天台宗の開祖。
- 四つの法文
- 天台大師が経を解釈する際に用いた四つの方法(因縁釈・約教釈・本迹釈・観心釈)。
文法
- 女かくれにけるぞ、いとくちをしかりける
- 女が姿を隠してしまったのは、たいそう残念なことだった。
- 何事も我が心より外のことものやはある
- 何事も自分の心の外にあるものがあろうか、いやない。反語。
解説
師時の日記『長秋記』は今日まで伝わり、院政期の重要な史料となっている。今鏡は、その膨大さが鳥羽院の関心を引いたことを伝えている。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、296〜301頁(コマ163–165)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日