今鏡 第七「村上の源氏」 第59章
うたたね
巻七「村上源氏」の始まり。天皇や摂関の母方として、藤原氏に並んで栄えた村上源氏が語られる。具平親王の子師房が源姓を得て、その子俊房・顕房の兄弟が並んで大臣となった。白河天皇が大臣の人選に迷い、大江匡房の進言で兄俊房を選んだ話、盲目の相人が弟顕房の子孫の繁栄を予言した話、顕房の従者盛重の機転などが語られる。
- 1藤波藤波ふじなみののの御流御流おおんながれれのれのれの榮榮さかえええ給給たまふのみにあらずふのみにあらずうのみにあらず、、、みかどみかどみかど一一いちののの人人ひとののの御母御母おおんはは方方かたにににははは、、、近近ちかくくくははは源氏源氏げんじののの公公きんだちこそだちこそだちこそ、、、よきよきよき上達部上達部かんだちめどもどもどもはははおはすなれおはすなれおわすなれ。。。堀河堀河ほりかわののの帝帝みかどののの御母御母おおんははののの中宮中宮ちゅうぐうははは、、、おほとのゝおほとのゝおおとのの御子御子みことてとてとて參參まいりりり給給たまへれどへれどえれど、、、誠誠まことははは六條六條ろくじょうののの右右みぎのおとゞののおとゞののおとどの御女御女おおんむすめなりなりなり。。。
- 2きさきのきさきのきさきの御事御事おおんことははは帝帝みかどのついでにのついでにのついでに申申もうししし侍侍はべりぬりぬりぬ。。。そのゆかりのそのゆかりのそのゆかりの有樣有樣ありさま、、、源源げんをををたづぬればたづぬればたずぬれば、、、いとやんごとなくなんいとやんごとなくなんいとやんごとなくなん侍侍はべるるる。。。村上村上むらかみのみかどののみかどののみかどの御子御子みこににに、、、ののの親王親王しんのうととと申申もうしゝしゝししははは、、、六條六條ろくじょうののの宮宮みやともともとも後後のちノノノ中書王中書王ちゅうしょおうともともとも申申もうすすす、、、このこのこの御事御事おおんことなりなりなり。。。
- 3ふみふみふみ作作つくらせらせらせ給給たまふことふことうこと、、、世世よにすぐれにすぐれにすぐれ給給たまへりきへりきえりき。。。御歌御歌みゅうたももも世々世々よよののの集集しゅうどもにどもにどもに見見みえええ侍侍はべるらんるらんるらん。。。そのそのその御子御子みこににに、、、土御門土御門つちみかどののの右右みぎのおとゞとのおとゞとのおとどと申申もうしゝしゝししははは、、、始始はじめてめてめて、、、源源みなもとののの姓姓しょう得得えさせさせさせ給給たまひてひていて、、、のおとゞとのおとゞとのおとどと聞聞きこえさせこえさせこえさせ給給たまひきひきいき。。。
- 4御身御身おおんみのざえものざえものざえも高高たかくくく文文ふみ作作つくらせたまふらせたまふらせたまう方方かたもすぐれもすぐれもすぐれ給給たまひてひていて、、、ののの御狩御狩みかりののの歌歌うたののの序序ついでなどなどなど、、、人人ひとののの口口くちににに侍侍はべるなりるなりるなり。。。又又また月月つきののの歌歌うたこそこそこそ、、、心心こころにしみてにしみてにしみて聞聞きこえこえこえ侍侍はべりしかりしかりしか。。。
- 5有明有明ありあけののの月月つきまつまつまつ程程ほどのののうたゝねうたゝねうたたねははは山山やまのののはははのみぞのみぞのみぞ夢夢ゆめににに見見みえけるえけるえける
- 6すき〳〵しきすき〳〵しきすきすきしき方方かたのみにあらずのみにあらずのみにあらず、、、ののの御日記御日記おおんにっきとてとてとて、、、世世よののの中中なかののの鑑鑑かんがとなんうけとなんうけとなんうけ給給たまはるはるわる。。。みかどみかどみかど一一いちののの人人ひとののの御御おんよそひどもよそひどもよそいども、、、そのそのその中中なかにぞにぞにぞ多多おおくくく侍侍はべるなるるなるるなる。。。
- 7御堂御堂みどうののの御女御女おおんむすめははは、、、おほくきさきおほくきさきおおくきさき、、、國母國母こくもにてのみおはしますににてのみおはしますににてのみおわしますに、、、此此こののの殿殿どのののの北北きたののの方方かたのみこそのみこそのみこそ、、、たゝたゝたた人人ひとはははおはしませばおはしませばおわしませば、、、いと〳〵やんごとなしいと〳〵やんごとなしいといとやんごとなし。。。
- 8そのそのその御御おんはははらにらにらに、、、堀川堀川ほりかわののの左左ひだりのおとゞのおとゞのおとど房房ぼう、、、六條六條ろくじょうののの右右みぎのおとゞのおとゞのおとど房房ぼうととと申申もうしてしてして、、、兄兄いろせおとうとおとうとおとうと並並ならびたまへりきびたまへりきびたまえりき。。。堀川殿堀川殿ほりかわどのははは、、、才學才學さいがく高高たかくおはしてくおはしてくおわして、、、文文ふみ作作つくりたまふりたまふりたまう事事ことすぐれてすぐれてすぐれて聞聞きこえこえこえ給給たまひきひきいき。。。
- 9六條六條ろくじょう殿殿どのははは、、、歌歌うたよみにぞおはしてよみにぞおはしてよみにぞおわして、、、判判ほうなどしなどしなどし給給たまひきひきいき。。。世世よのおぼえのおぼえのおぼえ兄兄いろせよりもまさりよりもまさりよりもまさり給給たまひてひていて、、、大納言大納言だいなごんののの大將大將だいしょう、、、中宮中宮ちゅうぐうののの御親御親おおんおやにておはせしににておはせしににておわせしに、、、大臣大臣おとどあきてあきてあきて侍侍はべりけるりけるりけるををを、、、白河白河しらかわののの帝帝みかどおぼしわづらはせおぼしわづらはせおぼしわずらわせ給給たまひてひていて、、、日日ひごろごろごろ過過すぎけるにぎけるにぎけるに、、、ののの中納言中納言ちゅうなごんににに、、、仰仰おおせられあはせければせられあはせければせられあわせければ、、、「「「堀川堀川ほりかわののの大納言大納言だいなごんをををなさせなさせなさせ給給たまへへえ」」」。。。
- 10とととうちいだしてうちいだしてうちいだして申申もうしければしければしければ、、、みかどみかどみかど仰仰おおせられけるせられけるせられけるははは、、、「「「弟弟おとうとなれどもなれどもなれども、、、左大將左大將さだいしょう中宮中宮ちゅうぐうののの御御おんおやにておやにておやにて、、、此此このたびならずのたびならずのたびならずははは、、、法師法師ほうしにならんといふなりにならんといふなりにならんというなり。。。またまたまた上﨟上﨟じょうろうどもどもども有有ありてりてりて、、、われこそなるべれわれこそなるべれわれこそなるべれ。。。などいへばなどいへばなどいえば、、、それもそれもそれも捨捨すてがたきなりてがたきなりてがたきなり」」」。。。
- 11ととと仰仰おおせられければせられければせられければ、、、「「「大納言大納言だいなごん大臣大臣おとどになりになりになり侍侍はべるるる事事ことははは、、、必必かならずしもしもしも、、、一二一二いちにといふことといふことということ侍侍はべらずらずらず。。。なるべきなるべきなるべき人人ひとをををえりてえりてえりて、、、なされなされなされ侍侍はべるなりるなりるなり。。。又又また國國くにののの司司つかさ歷歷へたるたるたる人人ひといかゞいかゞいかが」」」。。。
- 12などなどなど申申もうししし侍侍はべりければりければりければ「「「のおとゞものおとゞものおとども讃岐讃岐さぬき守守かみぞかしぞかしぞかし」」」。。。ととと仰仰おおせられければせられければせられければ、、、江江え師師し申申もうしけるしけるしけるははは、、、「「「博士博士はかせはははべちのことにべちのことにべちのことに侍侍はべりりり。。。又又また才學才學さいがく高高たかくくく侍侍はべらんらんらん兄兄このかみををを、、、大臣大臣おとどになさせになさせになさせ給給たまはんにはんにわんに、、、出家出家しゅっけするおとうとするおとうとするおとうとはははよによによに侍侍はべらじらじらじ」」」。。。
- 13ととと申申もうしければしければしければ、、、堀川殿堀川殿ほりかわどのはははなりなりなり給給たまへりけるとぞへりけるとぞえりけるとぞ。。。六條六條ろくじょうのおとゞのおとゞのおとどははは、、、そのそのその後後のちにぞなりにぞなりにぞなり給給たまひしひしいし。。。中宮中宮ちゅうぐうののの御御おんおやおやおや、、、堀河堀河ほりかわのみかどののみかどののみかどの御御おんおほぢにておほぢにておおじにて、、、いとめでたくおはしきいとめでたくおはしきいとめでたくおわしき。。。
- 14後後のちにににははは大將大將だいしょうをばをばをば、、、のおとゞののおとゞののおとどの大納言大納言だいなごんにおはせしににおはせしににおわせしに、、、讓讓ゆずりりり申申もうししし給給たまひてひていて、、、行幸行幸ぎょうこうににに仕仕つこうまつりうまつりうまつり給給たまへりしこそへりしこそえりしこそ、、、いとめづらかにいとめづらかにいとめずらかに侍侍はべりしかりしかりしか。。。
- 15遲遲おそくくく參參まいりりり給給たまひてひていて、、、道道みちにてにてにて車車くるまよりおりてよりおりてよりおりて、、、馬馬うまにのりにのりにのり給給たまひしかばひしかばいしかば、、、大將殿大將殿だいしょうどのよりよりよりはじめてはじめてはじめて、、、皆皆みなおりおりおり給給たまへりしにへりしにえりしに、、、重重しげといひしがといひしがといいしが、、、左衞門左衞門さえもんノノノ尉尉じょうなりしとなりしとなりしと、、、行行ゆ利利りといふといふという隨身隨身ずいじんののの、、、陣陣じんにつかうまつりしにつかうまつりしにつこうまつりしををを、、、馬馬うまにのせてにのせてにのせて、、、さきにさきにさきに具具ぐせさせたまへりければせさせたまへりければせさせたまえりければ、、、なほなほなお大將大將だいしょうにてわたりにてわたりにてわたり給給たまふとぞふとぞうとぞ見見みえけるえけるえける。。。
- 16このあにおとうとのおこのあにおとうとのおこのあにおとうとのおほいどのほいどのほいどの、、、少將少將しょうしょうにおはしけるにおはしけるにおわしける時時とき、、、治部卿治部卿じぶきょう、、、御御おんむこにとりむこにとりむこにとり申申もうさんとさんとさんと思思おもひてひていて、、、そのそのその時時とき目目めしひたるしひたるしいたるありけるにありけるにありけるに、、、「「「彼彼かののの二人二人ふたりいかゞいかゞいかが相相そうしたてまつりたるしたてまつりたるしたてまつりたる」」」。。。
- 17ととと問問とはれければはれければわれければ、、、「「「ともにともにともに能能よくおはしますくおはしますくおわします。。。皆皆みな大臣大臣おとどにいたりにいたりにいたり給給たまふべきふべきうべき人人ひとなりなりなり」」」。。。といひけるといひけるといいけるををを、、、「「「いづれかいづれかいずれか世世よにににはははあひあひあい給給たまふべきふべきうべき」」」。。。ととと問問とはれけるにはれけるにわれけるに、、、「「「おとうとおとうとおとうとははは、、、末末すえ廣廣ひろくくく、、、みかどみかどみかど一一いちののの人人ひとももも、、、出出いできできでき給給たまふべきふべきうべき相相そうおはすおはすおわす」」」。。。
- 18ととと申申もうしければしければしければ、、、六條六條ろくじょう殿殿どのをををとりとりとり申申もうしたるとぞきゝしたるとぞきゝしたるとぞきき侍侍はべりしりしりし。。。其其そのかひありてのかひありてのかいありて、、、みかどみかどみかど關白關白かんぱくももも、、、そのそのその御末御末おおんすえよりよりより出出いできできでき給給たまへりへりえり。。。雪雪ゆきふりのみゆきにふりのみゆきにふりのみゆきに、、、おそくおそくおそく參參まいりりり給給たまひてひていて、、、「「「雪雪ゆき見見みんとしもいそがれぬかなんとしもいそがれぬかなんとしもいそがれぬかな」」」。。。
- 19とよみたまへるこそとよみたまへるこそとよみたまえるこそ、、、いとやさしくいとやさしくいとやさしく、、、昔昔むかしのこゝちしのこゝちしのここちし侍侍はべれれれ。。。よるよるよる女女おんなののの許許もとにわたりにわたりにわたり給給たまへりけるにへりけるにえりけるに、、、かねてもなくてかねてもなくてかねてもなくて、、、門門もんににに車車くるまののの絕絕たえずたちければえずたちければえずたちければ、、、それそれそれををを召召めしてしてして出出いでたまひければでたまひければでたまいければ、、、盛盛もり重重しげといひしがといひしがといいしが、、、出出いでさせたまふでさせたまふでさせたまう道道みちににに、、、常常つねはははふしたりければふしたりければふしたりければ、、、かならずおくれかならずおくれかならずおくれ奉奉たてまつつるつるつる事事ことなかりけるになかりけるになかりけるに、、、ゐなかさぶらひとゐなかさぶらひといなかさぶらいと、、、盛盛もり重重しげとととふたりふたりふたりともにともにともに具具ぐしてしてして、、、出出いででで給給たまひけるにひけるにいけるに、、、馬馬うまににに乘乘のれりけるれりけるれりける者者ものののの、、、おりざりければおりざりければおりざりければ、、、ゐなかゐなかいなか人人ひと、、、ともしたるついともしたるついともしたるつい松松まつしてしてして、、、うちおとさんとしけるうちおとさんとしけるうちおとさんとしけるををを、、、猛猛たけきききものゝふものゝふもののふどもどもども、、、多多おおくくく具具ぐしたりけるがしたりけるがしたりけるが、、、御車御車みくるまによらんとしけるによらんとしけるによらんとしけるををを、、、盛盛もり重重しげ御車御車みくるまのもとにてのもとにてのもとにて、、、「「「皇后宮皇后宮こうごうぐうノノノ大夫大夫だいぶ殿殿どののおはしますぞのおはしますぞのおわしますぞ。。。過過あやまちちち仕仕つこうまつるなうまつるなうまつるな」」」。。。
- 20といひければといひければといいければ、、、まどひおりてまどひおりてまどいおりて、、、「「「皆皆みな々々びとまかりのきねまかりのきねまかりのきね」」」。。。といひければといひければといいければ、、、過過すぎぎぎ給給たまひにけりひにけりいにけり。。。次次つぎののの日日ひののの夕暮夕暮ゆうぐれににに、、、治治じといひしといひしといいし武者武者むしゃののの、、、おおおほいどのほいどのほいどのへへへ參參まいりてりてりて、、、御門御門みかどののの方方かたにてにてにて、、、盛盛もり重重えたづねたづねたずね出出いだしてだしてだして「「「よべかしこくよべかしこくよべかしこく御御おん恩恩おんかぶりてかぶりてかぶりて、、、過過あやまちちちをををつかうまつるらんにつかうまつるらんにつこうまつるらんに」」」とてとてとて、、、かしこまりかしこまりかしこまり申申もうしにしにしに參參まいりたるりたるりたる也也なり。。。
- 21「「「かくとかくとかくとはははななな申申もうししし給給たまひそひそいそ」」」。。。といひけれどといひけれどといいけれど、、、おおおほいほいほい殿殿どのににに申申もうしたりければしたりければしたりければ、、、召召めしてみきすゝめなどしたまひけるとぞしてみきすゝめなどしたまひけるとぞしてみきすすめなどしたまいけるとぞ。。。盛盛もり重重しげががが子子こ盛盛もり道道みちといひしといひしといいしははは語語かたりけるりけるりける。。。
現代語訳
藤原氏の御流れが栄えていらっしゃるばかりではなく、帝や一の人(摂関)の御母方としては、近ごろは源氏の公達にこそ、よい上達部たちがいらっしゃるようです。堀河の帝の御母、賢子中宮は、大殿(師実)の御子として入内なさったけれど、本当は六条の右大臣(顕房)の御娘です。后の御事は帝の(話の)ついでに申し上げました。その御縁の有様は、源をたどれば、たいそう尊いのでございます。村上の帝の御子で中務の親王と申し上げた方は、六条の宮とも後中書王とも申し上げる、この方のことです。詩をお作りになることは、世にすぐれていらっしゃいました。御歌も代々の撰集に見えておりましょう。その御子で、土御門の右大臣と申し上げた方は、初めて源の姓を得られて、師房の大臣と申し上げました。身の学才も高く、詩をお作りになる方面もすぐれていらして、「野の御狩」の歌の序などは、人の口に(伝わって)おります。また月の歌こそ、心にしみて聞こえました。
有明の月を待つ間のうたた寝には、(月が出るはずの)山の端ばかりが夢に見えたことだ。
風流の方面ばかりでなく、「土御門の御日記」といって、世の中の手本と承っております。帝や一の人のご装束などが、その中に多くございますそうです。御堂(道長)の御娘は多くは后や国母でいらっしゃるのに、この殿(師房)の北の方だけが臣下(の妻)でいらっしゃるので、たいそう尊いことです。その御腹に、堀川の左大臣俊房、六条の右大臣顕房と申して、兄弟が並んでいらっしゃいました。堀川殿は学才が高くていらして、詩をお作りになることがすぐれていると評判でした。六条殿は歌詠みでいらして、歌合の判などをなさいました。世の評判は兄よりもまさっていらして、大納言で大将、中宮の御親でいらっしゃった時に、大臣の欠員がございましたのを、白河の帝が思い悩まれて日が過ぎたが、匡房の中納言にご相談なさったところ、「堀川の大納言(俊房)を任じなさいませ」と言い出して申したので、帝が仰せられたのは、「(顕房は)弟だけれども、左大将で中宮の親であって、今度でなければ法師になろうと言っているのだ。また上臈たちもいて、自分こそなるべきだなどと言うので、それも捨てがたいのだ」と仰せられたので、「大納言が大臣になることは、必ずしも一番・二番ということはございません。なるべき人を選んで任じられるのです。また国司を経た人はどうでしょうか」などと申したので、「菅原の大臣(道真)も讃岐守だったではないか」と仰せられたので、江帥(匡房)が申したのは、「博士は別のことでございます。また学才の高うございます兄を大臣になさるのに、出家する弟は、まさかおりますまい」と申したので、堀川殿がなられたのだそうです。六条の大臣は、その後になられました。中宮の御親、堀河の帝の御祖父として、たいそうめでたくいらっしゃいました。後には大将を太政大臣(雅実)が大納言でいらした時に譲り申されて、行幸にお仕えになったのは、たいそう珍しいことでございました。遅れて参られて、道で車から降りて馬にお乗りになったので、大将殿(雅実)をはじめとして皆(馬から)降りられたが、盛重といった者が左衛門尉であったのと、行利という随身が陣に仕えていたのを、跳ね馬に乗せて先に連れて行かれたので、やはり大将として通っていかれるように見えました。
この兄弟の大臣が少将でいらした時、隆俊治部卿が婿に迎え申そうと思って、その時盲目の人相見がいたのに、「あの二人をどう見立て申したか」と問われたところ、「どちらもよくいらっしゃいます。二人とも大臣に至られるはずの人です」と言ったので、「どちらが栄えなさるはずか」と問われると、「弟は子孫が広く栄え、帝や一の人も出てこられるはずの相がおありです」と申したので、六条殿を婿にお迎えしたと聞きました。その甲斐があって、帝も関白も、その御子孫から出てこられました。雪の日の御幸に遅れて参られて、「雪見んとしもいそがれぬかな」とお詠みになったのこそ、たいそう優雅で、昔の心地がいたします。夜、女のもとへお出かけになった時、前もっての用意もなくて、門にいつも止めてあった車を召してお出になったところ、盛重といった者が、(殿が)お出かけになる道にいつも伏していたので、必ず後れ申し上げることはなかったが、田舎侍と盛重と二人を連れてお出かけになったところ、馬に乗っていた者が(下馬の礼をとって)降りなかったので、田舎者がともしている松明で打ち落とそうとしたのを、猛々しい武士たちを大勢連れていた(相手)が御車に寄ってこようとしたので、盛重が御車のそばで「皇后宮大夫殿がいらっしゃるのだぞ。粗相をするな」と言ったところ、慌てて降りて、「皆々、退け」と言ったので、お通り過ぎになりました。次の日の夕暮れに、頼治といった武者が大臣の邸に参って、御門の方で盛重を探し出して、「昨夜は畏れ多くも御恩をこうむって、粗相をいたすところでしたのに(お許しいただきました)」といって、お詫び申し上げに参ったのです。「このことは(殿に)申し上げないでください」と言ったけれど、(盛重が)大臣に申し上げたところ、(頼治を)召して酒を勧めたりなさったそうです。盛重の子の盛道という者が語ったことです。
意訳
巻七「村上源氏」は、村上天皇の皇子具平親王に始まる源氏の一門を語る。師房は道長の娘を妻とし、その子俊房・顕房の兄弟は並んで大臣となった。顕房の娘賢子が白河天皇の中宮として堀河天皇を産んだことで、村上源氏は天皇の外戚となった。章題の「うたたね」は師房の歌による。
白河天皇は大臣の人選に迷い、寵臣の顕房と兄の俊房のどちらにするか大江匡房に相談した。匡房は「学才の高い兄を大臣にしても、弟が出家することはまさかないでしょう」と、天皇の心配を軽くかわして兄を推した。
盲目の相人が「弟の子孫から帝や関白が出る」と予言し、隆俊は顕房を婿に選んだ。実際に顕房の子孫からは堀河天皇が、また娘を通じて関白も出た。従者盛重が夜道で主人の名を名のって争いを避け、相手の武者が翌日詫びに来た話は、院政期の主従関係を伝えて興味深い。
語釈・文法注
- 賢子の中宮
- 藤原賢子(1057〜1084)。源顕房の娘で、藤原師実の養女。白河天皇の中宮。堀河天皇の母。
- 中務の親王
- 具平親王(964〜1009)。村上天皇の皇子。後中書王。学者・文人として名高い。
- 師房のおとゞ
- 源師房(1008〜1077)。具平親王の子。村上源氏の祖。土御門右大臣。
- 野の御狩の歌の序
- 師房が書いた和歌の序。
- 土御門の御日記
- 師房の日記『土右記』。
- 堀川の左のおとゞ俊房
- 源俊房(1035〜1121)。師房の子。左大臣。
- 六條の右のおとゞ顯房
- 源顕房(1037〜1094)。師房の子。右大臣。賢子の父。
- 匡房の中納言
- 大江匡房(1041〜1111)。学者。江帥と呼ばれた。
- 菅原のおとゞ
- 菅原道真。讃岐守を経て右大臣に至った。
- 太政のおとゞ
- 源雅実(1059〜1127)。顕房の子。太政大臣。
- 盛重
- 藤原盛重。顕房の家人。のち白河院に仕えた。
- あがり馬
- 跳ね上がる癖のある馬。
- 隆俊治部卿
- 源隆俊(1025〜1075)。顕房の妻の父。
- 相人
- 人相を見る人。
- 賴治
- 源頼治。武者。
文法
- 出家するおとうとはよに侍らじ
- 「よに…じ」で、まさか…ないだろう。
- 過ち仕うまつるな
- 粗相をするな。
和歌
有明の月まつ程のうたゝねは山のはのみぞ夢に見えける
- 詠者
- 源師房
- 状況
- 有明の月を待つ間にうたた寝をした時の歌。
修辞
- 趣向
- 月を待つ心が夢にまで現れ、月の出る山の端ばかりが夢に見えたとする。
解説
今鏡が藤原氏の列伝に続けて村上源氏に一巻を割いているのは、院政期に源氏が外戚として大きな力を持ったことの反映である。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、291〜296頁(コマ160–163)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日