今鏡 第六「藤波の下」 第58章
志賀のみそぎ
巻六の結び。待賢門院の産んだ皇子・皇女たち。足の立たないまま十六歳で出家して亡くなった三の宮、嵯峨天皇の皇子隠君子の故事、仁和寺の覚性法親王の歌と金泥一切経の供養、早世した禧子内親王、上西門院統子内親王が斎院として唐崎で禊をした時の実行の歌が語られる。
- 1春宮大夫春宮大夫とうぐうのだいぶののの御末御末おおんすえののの、、、かくかくかく榮榮さかえええ給給たまふふう事事ことももも、、、みかどのみかどのみかどの御御おんゆかりなればゆかりなればゆかりなれば、、、女院女院にょういんののの御事御事おおんことこそこそこそ申申もうししし侍侍はべるべけれどるべけれどるべけれど、、、そのそのその御有樣御有樣おおんありさまははは、、、さきにさきにさきに申申もうししし侍侍はべりぬりぬりぬ。。。
- 2そのそのその生生うみみみ奉奉たてまつりりり給給たまへるへるえる宮々宮々みやみやははは一一いちののの御子御子みこははは讃岐讃岐さぬきノノノ院院いんにおはしますにおはしますにおわします。。。二二にののの御子御子みこははは御目御目おおんめくらくなりくらくなりくらくなり給給たまひてひていて、、、幼幼おさなくてかくれくてかくれくてかくれ給給たまひにきひにきいにき。。。ののの御子御子みこははは若宮若宮わかみやととと申申もうしておはしましゝしておはしましゝしておわしましし、、、幼幼おさなくよりなえさせくよりなえさせくよりなえさせ給給たまひてひていて、、、起起おきききふしもふしもふしも人人ひとのまゝにてのまゝにてのままにて、、、ものもものもものも仰仰おおせられでおはしましゝせられでおはしましゝせられでおわしましし、、、十六十六じゅうろくにてにてにて御御おんぐしおろさせぐしおろさせぐしおろさせ給給たまひてひていて、、、うせさせうせさせうせさせ給給たまひにきひにきいにき。。。
- 3御御おんみめもみめもみめもうつくしううつくしううつくしゅう、、、御御おんぐしもぐしもぐしも長長ながくおはしましけりくおはしましけりくおわしましけり。。。むかしむかしむかし綱綱つな宰相宰相さいしょうのののののの歌歌うたににに、、、
- 4たらちねたらちねたらちねはははいかにあはれといかにあはれといかにあわれと思思おもふらんふらんうらん三年三年さんねんににに成成なりぬりぬりぬ足足あしたゝずしてたゝずしてたたずして
- 5とよまれたるもとよまれたるもとよまれたるも、、、子子こにおはしましけるにおはしましけるにおわしましける宮宮みやののの如如ごとくこそくこそくこそははは聞聞きこえさせたまへこえさせたまへこえさせたまえ。。。昔昔むかしもかゝるもかゝるもかかる類類たぐひおはせぬにひおはせぬにひおわせぬにはははあらぬにやあらぬにやあらぬにや。。。嵯峨嵯峨さがののの帝帝みかどののの御子御子みこににに、、、君子君子くんしととと申申もうしけるしけるしける御子御子みこははは、、、御耳御耳みみにいかなるにいかなるにいかなる事事ことのおはしけるとかやのおはしけるとかやのおわしけるとかや。。。
- 6扨扨さて嵯峨嵯峨さがにこもりゐにこもりゐにこもりい給給たまひてひていて、、、ひきものゝうちにたれこめてひきものゝうちにたれこめてひきもののうちにたれこめて、、、人人ひとにもにもにも見見みえええ給給たまはははででで、、、わらわらわらはははにてぞおはしけるにてぞおはしけるにてぞおわしける。。。此此こののの頃頃ころならばならばならば法師法師ほうしにぞなりにぞなりにぞなり給給たまはははましましまし。。。
- 7昔昔むかしはははかくぞおはしけるかくぞおはしけるかくぞおわしける。。。心心こころももも敏敏びんくいとまもおはするまゝにくいとまもおはするまゝにくいとまもおわするままに、、、よろづのよろづのよろずの文文ふみををを披披ひらききき見見み給給たまひければひければいければ、、、身身みののの御才御才おおんざえ人人ひとにすぐれにすぐれにすぐれ給給たまひておはしましけるにひておはしましけるにいておわしましけるに、、、やんごとなきやんごとなきやんごとなき博士博士はかせのみちのみちのみちををを遂遂ついけけけ給給たまひけるひけるいける時時とき、、、相相しょうののの宰相宰相さいしょうととと聞聞きこえけるこえけるこえける人人ひとののの、、、かのかのかの博士博士はかせになりになりになり給給たまひけるにひけるにいけるに、、、小屋小屋おやとかいふとかいふとかいう所所ところ、、、立立たちちち寄寄よりとぶらひりとぶらひりとぶらい奉奉たてまつられけるにられけるにられけるに、、、難難がたきこときこときこと侍侍はべりけるりけるりけるをばをばをば、、、駒駒こまをををはやはやはやめてめてめて、、、かのかのかの嵯峨嵯峨さがににに詣詣もうでてぞでてぞでてぞ、、、問問とひひい奉奉たてまつりけるりけるりける。。。
- 8みかどのみかどのみかどの御子御子みこにもにもにも、、、かやうなるかやうなるかようなる樣々樣々さまざまおはしけりおはしけりおわしけり。。。これこれこれははは、、、佛佛ほとけののの道道みちににに入入いらせらせらせ給給たまひたればひたればいたれば、、、後後のちののの世世よののの契契ちぎりはむすばせりはむすばせりわむすばせ給給たまふらんふらんうらん。。。
- 9このこのこの宮宮みやあかごにおはしましけるあかごにおはしましけるあかごにおわしましける時時とき、、、絕絕たえいりえいりえいり給給たまへりければへりければえりければ、、、行尊僧正行尊僧正ぎょうそんそうじょう祈祈いのりりり奉奉たてまつられけるにられけるにられけるに、、、白河白河しらかわノノノ院院いん位位くらいにつきにつきにつき給給たまふべくふべくうべくははは、、、いきかへりいきかへりいきかえり給給たまへとへとえと、、、仰仰おおせられけるせられけるせられけるほどにほどにほどに直直なおらせらせらせ給給たまひければひければいければ、、、たのもしくたのもしくたのもしく人人ひとももも思思おもひあへりけるにひあへりけるにいあえりけるに、、、そのかひなくおはしましけるそのかひなくおはしましけるそのかいなくおわしましける、、、いかにいかにいかに侍侍はべるにかるにかるにか。。。
- 10なえさせなえさせなえさせ給給たまひたりともひたりともいたりとも、、、御命御命おおんいのちははは十十とおにあまりておはしますべくにあまりておはしますべくにあまりておわしますべく、、、又又またひとのしるしもひとのしるしもひとのしるしもたふとたふととうとくおはすればくおはすればくおわすれば、、、直直なおらせらせらせ給給たまへどもへどもえども位位くらいはははべちのことなるべしべちのことなるべしべちのことなるべし。。。
- 11第四第四だいしののの御子御子みこははは、、、今今いまののの一院一院いちいんにおはしますにおはしますにおわします、、、第第だい五五ごのみこのみこのみこははは仁仁にんノノノ親王親王しんのうととと申申もうしゝしゝしし、、、わらわらわらはははよりよりより出家出家しゅっけししし給給たまひてひていて、、、仁和寺仁和寺にんなじののの法法ほう親王親王しんのうととと申申もうすなるべしすなるべしすなるべし。。。
- 12きさきばらのきさきばらのきさきばらの宮宮みや、、、法師法師ほうしにならせにならせにならせ給給たまふふう事事こと、、、ありがたきことゝありがたきことゝありがたきことと申申もうせどもせどもせども、、、佛佛ほとけののの道道みちををを重重おもくせさせくせさせくせさせ給給たまふふう、、、いとめでたきことなるべしいとめでたきことなるべしいとめでたきことなるべし。。。このこのこの宮宮みやいとよきいとよきいとよき人人ひとにおはしてにおはしてにおわして、、、眞言眞言しんごんよくよくよく習習ならひひい給給たまひひい、、、御手御手おおんてもかゝせたまひもかゝせたまひもかかせたまい、、、詩詩しつくりつくりつくり歌歌うたよみなどもよくしたまひきよみなどもよくしたまひきよみなどもよくしたまいき。。。
- 13そのそのその御歌御歌みゅうた多多おおくくく侍侍はべるるる中中なかににに、、、、、、出出いででで給給たまひけるにひけるにいけるに、、、有明有明ありあけののの月月つきおもしろかりけるにおもしろかりけるにおもしろかりけるに、、、
- 14このまもるこのまもるこのまもる有明有明ありあけののの月月つきのおくらずのおくらずのおくらずははは獨獨ひとりややや秋秋あきのみねのみねのみねををを越越こえましえましえまし
- 15とよみとよみとよみ給給たまへるとかやへるとかやえるとかや。。。又又また、、、
- 16夏夏なつのよのよのよはははたゞたゞただ時時ときのまもながむればやがてのまもながむればやがてのまもながむればやがて有明有明ありあけののの月月つきをををこそこそこそ見見みれれれ
- 17などよませなどよませなどよませ給給たまへりへりえり。。。またまたまた若若わかくおはせしにくおはせしにくおわせしに、、、このこのこの一二一二いちに年年とせがさきにがさきにがさきに、、、うせさせうせさせうせさせ給給たまひにきひにきいにき。。。四十一二四十一二しじゅういちににやおはしけんにやおはしけんにやおわしけん。。。惜惜おしくもしくもしくも、、、おはしますおはしますおわします御齡御齡おおんよわいににに、、、定定さだめなきめなきめなき世世よののの恨恨うらめしきなるべしめしきなるべしめしきなるべし。。。
- 18又何事又何事またなにごとももも、、、よにおはぬよにおはぬよにおわぬほどのほどのほどの人人ひとととと聞聞きききき侍侍はべりしけにやりしけにやりしけにや。。。うせうせうせ給給たまはんとてのはんとてのわんとての頃頃ころ、、、ののの一切經一切經いっさいきょうかきいだしてかきいだしてかきいだして、、、高野高野こうやにてにてにて供養供養くようししし給給たまひけるにひけるにいけるに、、、ひえのひえのひえの山山やまののの憲憲けん僧都僧都そうずををを、、、院院いんににに申申もうしししうけさせうけさせうけさせ給給たまひてひていて、、、導師導師どうしにてにてにて供養供養くようせさせせさせせさせ給給たまひけりひけりいけり。。。
- 19そのそのその時時とき院院いんににに御御おんものまうでにものまうでにものもうでに、、、具具ぐせさせせさせせさせ給給たまふべかりけるとかやふべかりけるとかやうべかりけるとかや。。。殊殊ことにえらびたまひてにえらびたまひてにえらびたまいて、、、あらぬあらぬあらぬ方方かたののの僧僧そうなりともなりともなりとも能能よくくく說說ときつべききつべききつべきをををととと、、、おぼしけんもいとおぼしけんもいとおぼしけんもいとたふとたふととうとししし。。。
- 20こがねのこがねのこがねの文字文字もじをもをもをも、、、院院いん女院女院にょういんなどなどなどはははなちたてまつりてなちたてまつりてなちたてまつりてははは、、、ありがたきありがたきありがたき事事ことををを、、、おぼろげのおぼろげのおぼろげの御心御心みこころざしにざしにざしにはははあらざるべしあらざるべしあらざるべし。。。
- 21女宮女宮おんなみやははは一品一品いっぽんノノノ宮宮みやとておはしましゝとておはしましゝとておわしまししははは、、、ノノノ內親王內親王ないしんのうとてとてとて、、、賀茂賀茂かものいつきにのいつきにのいつきに立立たちちち給給たまへりしへりしえりし、、、御御おんなやみにてなやみにてなやみにて、、、程程ほどなくなくなく出出いででで給給たまひにきひにきいにき。。。長長なが承承うけたまわ二年二年にねん十月十月じゅうがつ十一日十一日じゅういちにち、、、御御おんとしとしとし十二十二じゅうににてかくれさせにてかくれさせにてかくれさせ給給たまひにきひにきいにき。。。
- 22いつきのいつきのいつきのほどなくおりさせほどなくおりさせほどなくおりさせ給給たまふためしあれどもふためしあれどもうためしあれども、、、まだまだまだ本院本院ほんいんにもつかせにもつかせにもつかせ給給たまはははででで、、、かくかくかく出出いでさせでさせでさせ給給たまふふう事事ことはははいとあさましきいとあさましきいとあさましき事事こととぞきこえとぞきこえとぞきこえ侍侍はべりしりしりし。。。
- 23廿七日廿七日にじゅうしちにち奏奏そうとてとてとて、、、このよしこのよしこのよし內裏內裏うちににに奏奏そうすればすればすれば、、、三日三日みかはははとてとてとて、、、御殿御殿おおとののみすもおろされのみすもおろされのみすもおろされ、、、何事何事なにごとももも聲聲こえたてゝたてゝたてて、、、奏奏そうするするする事事ことなどなどなど侍侍はべらざりけりらざりけりらざりけり。。。
- 24みかどみかどみかどははは御御おんいもいもいもうとにおはしませばうとにおはしませばうとにおわしませば、、、御服御服おおんぶくたてまつりなどしけりたてまつりなどしけりたてまつりなどしけり。。。紋紋もんもなきもなきもなき御冠御冠みかがうり、、、纓纓えいなどなどなど聞聞きこえてこえてこえて、、、年年とし中中なか行事行事ぎょうじののの障子障子しょうじのもとにてぞのもとにてぞのもとにてぞ奉奉たてまつりけるりけるりける。。。
- 25みかどみかどみかどははは日日ひののの數數かずををを、、、月月つきなみのかはりにせさせなみのかはりにせさせなみのかわりにせさせ給給たまふなればふなればうなれば、、、三日三日みか御御おんぶくとぞぶくとぞぶくとぞ聞聞きこえけるこえけるこえける。。。次次つぎののの姫宮姫宮ひめみやははは、、、又又またさきのさきのさきの齋院齋院さいいんとてとてとて、、、ノノノ內親王內親王ないしんのうととと申申もうしゝしゝしし、、、後後のちにににははは統統とう子子ことあらためさせとあらためさせとあらためさせ給給たまひたるとぞきこえさせひたるとぞきこえさせいたるとぞきこえさせ給給たまひしひしいしははは、、、大大だい治治じ元年元年がんねん七月七月しちがつ廿三日廿三日にじゅうさんにちにににうまれさせうまれさせうまれさせ給給たまひてひていて、、、八月八月はちがつににに親王親王しんのうののの宣旨宣旨せんじかぶりかぶりかぶり給給たまひきひきいき。。。
- 26長長なが承承うけたまわ元年元年がんねん六月六月ろくがつ卅卅さんじゅう日日ひ、、、いつきいつきいつき出出いでさせでさせでさせ給給たまひてひていて、、、保保ほう元元げん三年三年さんねん二月二月にがつ皇后宮皇后宮こうごうぐうにたゝせたまふにたゝせたまふにたたせたまう。。。上西門院上西門院じょうさいもんいんととと申申もうすなるべしすなるべしすなるべし。。。永永えい曆曆りやく二年二年にねん二月二月にがつ十七日十七日じゅうしちにち、、、御御おんぐしおろさせぐしおろさせぐしおろさせ給給たまふとふとうと聞聞きこえきこえきこえき。。。
- 27后后きさきにたゝせにたゝせにたたせ給給たまふときこえしふときこえしうときこえしははは、、、みかどのみかどのみかどの御母御母おおんははににに、、、なぞならへなぞならへなぞならえ申申もうさせさせさせ給給たまふとぞきこえさせふとぞきこえさせうとぞきこえさせ給給たまふふう。。。ののの例例れいにやにやにや侍侍はべらんらんらん。。。このこのこの女院女院にょういんののの、、、さきのさきのさきの齋院齋院さいいん御御おんはははらへせさせらへせさせらえせさせ給給たまひしひしいし時時とき、、、御御おんをををぢのぢのじの太政太政だいじょうのおとゞのよみのおとゞのよみのおとどのよみ給給たまへるへるえる、、、
- 28昨日昨日きのう川川がわにせしみそぎしがのにせしみそぎしがのにせしみそぎしがの浦波浦波うらなみたちぞかへたるたちぞかへたるたちぞかえたる
- 29ととと侍侍はべりけるとなんりけるとなんりけるとなん。。。秋秋あきののの事事ことなりけるになりけるになりけるに、、、かりごろもかりごろもかりごろもおの〳〵おの〳〵おのおの、、、萩萩はぎ、、、龍膽龍膽りゅうたんなどいとなどいとなどいと珍珍めずらしきにらしきにらしきに、、、逢坂逢坂おうさかのせきのせきのせきうちうちうち越越こえてえてえて、、、山山やまのけしきみづのけしきみづのけしきみず海海うみなどなどなど、、、いとおもしろくていとおもしろくていとおもしろくて、、、御祓御祓おおんはらえのところにのところにのところにははは、、、かたのやうなるかりやにかたのやうなるかりやにかたのようなるかりやに、、、色色いろ、、、水水みずのみどりのみどりのみどり見見みえわきてえわきてえわきて、、、心心こころあらんあらんあらん人人ひとははは、、、いかなるいかなるいかなる言言ことのののはもはもはも、、、いひとゞめまほしきにいひとゞめまほしきにいいとどめまほしきに、、、おとゞのおとゞのおとどの御歌御歌みゅうたたけたかくいとやさしくこそたけたかくいとやさしくこそたけたかくいとやさしくこそ聞聞きこえこえこえ侍侍はべりしかりしかりしか。。。
現代語訳
春宮大夫(公実)の御子孫がこのように栄えていらっしゃるのも、帝の御縁なので、女院(待賢門院)の御事こそ申し上げるべきですが、その御有様は先に申し上げました。そのお産みになった宮々は、一の御子は讃岐院(崇徳)でいらっしゃいます。二の御子は御目が見えなくなられて、幼くしてお亡くなりになりました。三の御子は若宮と申していらしたが、幼い時から足が萎えていらして、起き伏しも人の手を借りて、ものもおっしゃらずにいらしたが、十六歳で御髪をおろされて亡くなられました。御容貌も美しく、御髪も長くていらっしゃいました。昔、朝綱宰相の日本紀竟宴の歌に、
父母はどれほど不憫に思っていることだろう。三年になってしまった、足が立たないままで。
と詠まれたのも、蛭子でいらした(神の)宮のようだと聞こえます。昔もこのような例がおありにならなかったわけではないのでしょうか。嵯峨の帝の御子で隠君子と申し上げた御子は、御耳にどんなことがおありだったのでしょうか。それで嵯峨に籠居なさって、引き物(帳)の内に閉じこもって、人にも会われずに、童姿でいらっしゃいました。今ならば法師になられたことでしょう。昔はこのようでいらしたのです。心も聡く暇もおありになるままに、あらゆる書物を開いてご覧になったので、身の学才は人にすぐれていらっしゃったが、尊い博士の道を修められた時、広相の宰相と申し上げた人が、その博士になられた時、小屋とかいう所に立ち寄ってお見舞い申し上げたが、難しいことがありました時には、馬を急がせてあの嵯峨に参って、お尋ね申し上げたのでした。帝の御子にも、このようないろいろな方がいらっしゃいました。この方(三の宮)は仏道にお入りになったので、来世の縁は結ばれたことでしょう。
この宮が赤子でいらした時、息が絶えてしまわれたので、行尊僧正がお祈り申し上げたところ、(行尊が)「白河院(の御孫)が位におつきになるはずならば、生き返られよ」と仰せられたうちにお治りになったので、頼もしく人も思い合ったのに、その甲斐もなくていらしたのは、どうしたことでしょうか。萎えていらしても御命は十余年おありになるはずで、また(行尊という)人の霊験も尊くいらっしゃるので、お治りになっても、位は別のことなのでしょう。第四の御子は今の一院(後白河)でいらっしゃいます。第五の御子は本仁親王と申し上げた方で、童の時から出家されて、仁和寺の法親王と申し上げるのでしょう。后腹の宮が法師におなりになることはめったにないことと申しますが、仏道を重んじられたのは、たいそうめでたいことでしょう。この宮はたいそうよい方でいらっしゃって、真言をよく習われ、字もお書きになり、詩作り・歌詠みなどもよくなさいました。その御歌が多くございます中に、箕面に籠って出ていらした時に、有明の月が趣深かったので、
木の間を漏れる有明の月が送ってくれなかったら、私はひとりで秋の峰を越えたことだろう。
とお詠みになったとか。また、
夏の夜は、ほんのわずかの間でも眺めていると、そのまま有明の月を見ることになる。
などとお詠みになりました。まだお若くていらしたのに、この一、二年前に亡くなられました。四十一、二歳でいらしたでしょうか。惜しいお年なのに、定めない世が恨めしいことでしょう。また何事も世に並ぶ者がないほどの人と聞きましたからでしょうか、亡くなられようとするころ、金泥の一切経を書き上げて、高野山で供養なさった時、比叡山の澄憲僧都を院(後白河)にお願いして(借り受け)、導師として供養させなさいました。その時、院のお参りにお供させなさるはずだったとか。とりわけお選びになって、違う宗派の僧であってもよく説法できる者をとお思いになったのも、たいそう尊いことです。金の文字(の一切経)も、院・女院などを除いてはめったにないことなのに、並一通りのお志ではないのでしょう。
女宮で一品宮としていらしたのは、禧子内親王といって、賀茂の斎院にお立ちになったが、ご病気で程なく退下なさいました。長承二年(1133)十月十一日、御年十二歳でお亡くなりになりました。斎院が程なく退下なさる例はあるけれども、まだ本院(紫野の斎院)にもお入りにならないで、このように退下なさることは、たいそう嘆かわしいことと聞こえました。二十七日に薨奏といって、このことを内裏に奏上したので、三日間は廃朝といって、御殿の御簾も下ろされ、何事も声を立てて奏上することなどはありませんでした。帝(崇徳)は御妹でいらっしゃるので、御服喪をなさいました。紋もない御冠、縄纓などと聞こえて、年中行事の障子のもとでお召しになりました。帝は日の数を月の数の代わりになさるので、三日の御服喪と聞こえました。次の姫宮は、また前の斎院として、恂子内親王と申し上げた方で、後には統子と改められたと聞こえましたが、大治元年(1126)七月二十三日にお生まれになって、八月に親王の宣旨をこうむられました。長承元年(1132)六月三十日、斎院を退下なさって、保元三年(1158)二月に皇后宮にお立ちになりました。上西門院と申し上げるのでしょう。永暦二年(1161)二月十七日、御髪をおろされたと聞こえました。后にお立ちになったと聞こえたのは、帝(後白河)の御母になぞらえ申し上げなさったと聞こえます。六条院(郁芳門院)の例でございましょうか。この女院が前の斎院として唐崎の御祓をなさった時、御叔父の太政大臣(実行)がお詠みになった歌、
昨日までは賀茂の御手洗川でしていた禊を、今日は志賀の浦でなさり、波も(斎院の禊の波から)立ち替わったことだ。
とあったということです。秋のことだったので、狩衣もそれぞれ萩・竜胆などの色目でたいそう珍しく、逢坂の関を越えて、山の景色や湖などがたいそう趣深くて、御祓の場所には、形ばかりの仮屋に、斎垣の朱の色と水の緑とがくっきりと見分けられて、心ある人ならどんな言葉でも書きとめたいところに、大臣の御歌は格調高く、たいそう優雅に聞こえました。
意訳
巻六「藤波の下」の最終章。閑院流の繁栄の源である待賢門院の子どもたちが語られる。三の宮通仁親王は生まれつき足が不自由で、十六歳で出家して亡くなった。語り手は大江朝綱の歌や、嵯峨天皇の皇子隠君子の故事を引いて、障害を持った皇子たちに思いを寄せている。
五の宮覚性法親王は仁和寺の門跡となり、歌人としても知られた。金泥の一切経を書いて高野山で供養する際、比叡山の澄憲を導師に招いた、宗派を超えた心の広さがたたえられる。
章題の「志賀のみそぎ」は、上西門院統子内親王が斎院を退下した後、唐崎で行った禊の際に、叔父の実行が詠んだ歌による。秋の湖畔に朱の斎垣と水の緑が映える情景描写で、巻六は美しく閉じられる。
語釈・文法注
- 三の御子
- 通仁親王(1124〜1129)。鳥羽天皇の皇子。母は待賢門院。※没年については諸説あり、本文では十六歳で出家して亡くなったとする。
- 朝綱宰相
- 大江朝綱(886〜957)。学者・文人。
- 日本紀の歌
- 日本紀竟宴和歌。『日本書紀』の講読が終わった後の宴で、書紀の人物を題に詠んだ歌。
- 蛭子
- 伊奘諾・伊奘冉の子。三年たっても足が立たなかったので、葦の舟に乗せて流されたという。
- 隱君子
- 源融ではなく、嵯峨天皇の皇子源某。耳が不自由で嵯峨に隠棲し、学問に通じていたという。
- 廣相の宰相
- 橘広相(837〜890)。文章博士。
- 本仁ノ親王
- 覚性法親王(1129〜1169)。鳥羽天皇の皇子。仁和寺門跡。歌人。
- みのお
- 箕面。摂津国の山。修験の霊地。
- 澄憲僧都
- 澄憲(1126〜1203)。信西の子。比叡山の僧。説法の名手。
- 金泥の一切經
- 金粉を膠で溶いた金泥で書いた一切経。
- 禧子ノ內親王
- 禧子内親王(1122〜1133)。鳥羽天皇の皇女。賀茂斎院。
- 薨奏
- 皇族や高官の死を天皇に奏上すること。
- 廢朝
- 天皇が政務を執らないこと。服喪の儀礼。
- 繩纓
- 冠の纓(後ろに垂らす部分)を縄のようにしたもの。喪中に用いた。
- 恂子ノ內親王
- 統子内親王(1126〜1189)。鳥羽天皇の皇女。賀茂斎院。のち上西門院。
- 六條院
- 郁芳門院媞子内親王。白河天皇の皇女で、堀河天皇の准母として皇后となった。
- からさき
- 唐崎。近江国の琵琶湖西岸。斎院の禊が行われた。
- みたらし川
- 御手洗川。賀茂社の境内を流れる川。斎院の禊が行われた。
- いがき
- 斎垣。神域を囲む垣。
文法
- 此の頃ならば法師にぞなり給はまし
- 「まし」は反実仮想。今ならば法師になられたことだろう。
- おくらずは
- 「送らずは」。送ってくれなかったら。
和歌
たらちねはいかにあはれと思ふらん三年に成りぬ足たゝずして
- 詠者
- 大江朝綱
- 状況
- 日本紀竟宴で、蛭子を題に詠んだ歌。
修辞
- 枕詞的用法
- 「たらちね」は親(ここでは父母)の意。
このまもる有明の月のおくらずは獨や秋のみねを越えまし
- 詠者
- 覚性法親王
- 状況
- 箕面の山に籠って出てきた時、有明の月が趣深かったので詠んだ歌。
修辞
- 擬人法
- 月が道を送ってくれるものとする。
- 反実仮想
- 「ずは…まし」で、月がなかったらと仮定する。
夏のよはたゞ時のまもながむればやがて有明の月をこそ見れ
- 詠者
- 覚性法親王
- 状況
- 夏の夜の短さを詠んだ歌。
昨日までみたらし川にせしみそぎしがの浦波たちぞかへたる
- 詠者
- 藤原実行
- 状況
- 上西門院が斎院を退下した後、唐崎で禊をした時に詠んだ歌。
修辞
- 掛詞
- 「たちぞかへたる」に波が立ち返ることと、斎院から立場が替わったことをかける。
- 対比
- 賀茂の御手洗川と志賀の浦とを対比する。
解説
巻六は高松殿腹の頼宗・能信・長家の子孫から閑院流へと語り進め、待賢門院の子どもたちで閉じる。華やかな繁栄の陰にある病や早世を丁寧に描くところに、今鏡の語り手のまなざしがうかがえる。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、285〜290頁(コマ157–160)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日