今鏡 第六「藤波の下」 第53章
ますみの影
高松殿腹の道長の子、閑院春宮大夫能信は、養女茂子が白河天皇を産んだことで天皇の外祖父となった。詩と歌、後三条天皇の皇女たち、養子能長の子孫、出家した顕信、歌人の長家とその子孫――とりわけ歌の家を興した俊成が、崇徳院に歌を奉って院の殿上を許された話などが語られる。
- 1閑院閑院かんいんののの春宮大夫春宮大夫とうぐうのだいぶととと申申もうすもすもすも、、、高松高松たかまつののの御御おんはははらなりらなりらなり。。。贈贈ぞう太政大臣太政大臣だいじょうだいじんととと申申もうすすす。。。白河白河しらかわノノノ院院いんののの御御おんおほぢおほぢおおじののの御御おんおやにておやにておやにて、、、誠誠まことののの御御おんむすめにこそおはしまさねどもむすめにこそおはしまさねどもむすめにこそおわしまさねども、、、いとやんごとなしいとやんごとなしいとやんごとなし。。。
- 2このこのこの殿殿どのははは詩詩しなどなどなど作作つくらせらせらせ給給たまひけるとてひけるとていけるとて、、、人人ひとののの語語かたりりり侍侍はべりしりしりしははは、、、「「「はるにとめるはるにとめるはるにとめる山山やまののの月月つきははは、、、かうべにあたりてしろしかうべにあたりてしろしこうべにあたりてしろし」」」。。。とぞきこえとぞきこえとぞきこえ侍侍はべりしりしりし。。。
- 3まだまだまだ忘忘わすれれれ侍侍はべらぬらぬらぬ、、、これこれこれはははふみふみふみををを題題だいにてにてにて作作つくりりり給給たまへるにへるにえるに、、、漢漢かんとかいふとかいふとかいう人人ひととぞいひしとぞいひしとぞいいし。。。所所ところののの名名ななどなどなどをもをもをも、、、さすがにさすがにさすがに、、、たど〳〵しくなんたど〳〵しくなんたどたどしくなん申申もうしゝしゝしし。。。またまたまた御歌御歌みゅうたもももうけうけうけ給給たまわりきりきりき。。。
- 4くもりなきくもりなきくもりなき鏡鏡かがみののの光光ひかります〳〵にます〳〵にますますに照照てらさんらさんらさん影影かげにかくれざらめやにかくれざらめやにかくれざらめや
- 5ととと白河院白河院しらかわいんののの御事御事おおんことををを、、、ノノノ大輔大輔たいふよみよみよみ侍侍はべりけるりけるりける、、、そのそのその御返御返おおんかえししとぞきこえしとぞきこえしとぞきこえ侍侍はべりしりしりし。。。白河白河しらかわノノノ院院いん一一ひとつつつ御御おんはははらのらのらの御御おんいもいもいもうとうとうとははは、、、仁和寺仁和寺にんなじののの一品一品いっぽんノノノ宮宮みやとてとてとて、、、近近ちかくまでおはしましきくまでおはしましきくまでおわしましき。。。
- 6子子こ內親王內親王ないしんのうととと申申もうすなるべしすなるべしすなるべし。。。後後のち三條三條さんじょうノノノ院院いんうせさせうせさせうせさせ給給たまひしひしいし時時とき、、、そのそのその日日ひ御御おんぐしおろさせぐしおろさせぐしおろさせ給給たまひてひていて、、、仁和寺仁和寺にんなじににに住住すませたまひきませたまひきませたまいき。。。さておはしましゝかどもさておはしましゝかどもさておわしまししかども、、、年年としごとにごとにごとに、、、賜賜たまはははらせらせらせ給給たまひきひきいき。。。
- 7そのそのその御御おんおとうとにおとうとにおとうとに、、、伊勢伊勢いせのいつきにておはせしのいつきにておはせしのいつきにておわせし、、、三品三品さんぽんしたまへりしたまへりしたまえり。。。子子こノノノ內親王內親王ないしんのうときこえきときこえきときこえき。。。樋樋ひノノノ口口ぐちののの齋宮齋宮さいぐうととと申申もうすなるべしすなるべしすなるべし。。。次次つぎににに賀茂賀茂かものいつきのいつきのいつき、、、ノノノ內親王內親王ないしんのうときこえときこえときこえ給給たまひしひしいし、、、御惱御惱おおんなやみによりてみによりてみによりて、、、延延の久久ひさ四年四年よねん七月七月しちがつににに罷罷まかりいでりいでりいで給給たまひきひきいき。。。
- 8富富ふノノノ小路小路こうじののの齋院齋院さいいんとぞとぞとぞ申申もうすめりしすめりしすめりし。。。齋宮齋宮さいぐうはははしはすにしはすにしわすに出出いででで給給たまひきひきいき。。。そのおとうとにてそのおとうとにてそのおとうとにてノノノ內親王內親王ないしんのうととと申申もうしゝもしゝもししも、、、皆同皆同みなおなじじじ御御おんはははらからなりらからなりらからなり。。。始始はじめめめ延延の久久ひさ元年元年がんねん、、、賀茂賀茂かものいつきにのいつきにのいつきに立立たちちち給給たまひてひていて、、、同同おなじじじ五年五年ごねんににに院院いんうせさせうせさせうせさせ給給たまひしかばひしかばいしかば、、、前前さきのノノノ齋院齋院さいいんにておはしましゝににておはしましゝににておわしまししに、、、女院女院にょういんののの御御おん讓讓ゆずににに御御おん封封ふうなどなどなど給給たまはははらせたまへりしらせたまへりしらせたまえりし程程ほどににに、、、堀河堀河ほりかわののの帝帝みかどののの御時御時おおんとき、、、后后きさきにたちにたちにたち給給たまひきひきいき。。。
- 9みかどよりみかどよりみかどよりははは、、、御御おんとしとしとし殊殊ことののの外外ほかにおとなにおはしければにおとなにおはしければにおとなにおわしければ、、、世世よにににうたふうたふうたう歌歌うたなんなんなんはべりけるとかやはべりけるとかやはべりけるとかや。。。
- 10春宮大夫春宮大夫とうぐうのだいぶ殿殿どのははは誠誠まことののの御子御子みこもおはせねばもおはせねばもおわせねば、、、三條三條さんじょうののの內大臣內大臣ないだいじん長長ながのおとゞののおとゞののおとどの甥甥おいにおはするにおはするにおわするをぞをぞをぞ、、、子子こにしたてまつりにしたてまつりにしたてまつり給給たまひけるひけるいける。。。誠誠まことにににははは堀川殿堀川殿ほりかわどのののの御子御子みこにおはすにおはすにおわす。。。
- 11これもこれもこれも帥帥そつ殿殿どのののの御女御女おおんむすめのののはらなりはらなりはらなり。。。このこのこの內內うちのおとゞののおとゞののおとどの御子御子みこははは、、、中納言中納言ちゅうなごん長長ながととと申申もうしゝしゝししははは、、、贈贈ぞう三位三位さんみ濟濟さい政政じょうののの女女おんなのののはらなりはらなりはらなり。。。彈正彈正だんじょうノノノ尹尹いんになりになりになり給給たまへりしかばへりしかばえりしかば、、、尹尹いんののの中納言中納言ちゅうなごんとぞとぞとぞ申申もうしゝしゝしし。。。
- 12三三さん井井いでらにでらにでらに僧都僧都そうずとてとてとて、、、御子御子みこおはすとぞおはすとぞおわすとぞ。。。尹尹いんののの中納言中納言ちゅうなごんののの弟弟おとうと、、、大藏卿大藏卿おおくらきょう忠忠ただとておはしきとておはしきとておわしき。。。母母ははははは昭昭しょう登登と親王親王しんのうののの女女おんななりなりなり。。。大大だい辨辨べんののの宰相宰相さいしょうよりよりより、、、中納言中納言ちゅうなごんになりておはせしになりておはせしになりておわせしほどにほどにほどに、、、中納言中納言ちゅうなごんををを奉奉たてまつりてりてりて、、、われわれわれ大藏卿大藏卿おおくらきょうになりになりになり、、、子子こををを辨辨べんになされになされになされ侍侍はべりきりきりき。。。
- 13石山石山いしやまノノノ辨辨べんとぞとぞとぞ申申もうすめりしすめりしすめりし。。。賀茂賀茂かもにぞにぞにぞ限限かぎりなくりなくりなく仕仕つこうまつられしうまつられしうまつられし。。。中納言中納言ちゅうなごんまでなどまでなどまでなど夢夢ゆめににに見見みられたりけるとかやられたりけるとかやられたりけるとかや。。。其其そののの子子こははは左左さ少少すこ辨辨べん忠忠ただととと申申もうしゝしゝしし、、、詩詩しなどなどなど能能よくくく作作つくりりり給給たまひつひついつ。。。
- 14心心こころさときさときさとき人人ひとになんおはしけるになんおはしけるになんおわしける。。。若若わかくてくてくて疾疾とくうせくうせくうせ給給たまひにきひにきいにき。。。少將少將しょうしょう人人ひと道道みち有有あり家家いえときこえしときこえしときこえし人人ひとののの子子こににに、、、このこのこの辨辨べんののの同同おなじじじ名名なつきたるがつきたるがつきたるが、、、わづらひけるわづらひけるわずらいける程程ほどににに、、、公公く伊伊い法印法印ほういんといふといふという人人ひとににに、、、祈祈いのりりりをををつけたりけるがつけたりけるがつけたりけるが、、、同同おなじじじ名名なにてとりかへられたるとぞにてとりかへられたるとぞにてとりかえられたるとぞ、、、世世よにににはははいひあへりしいひあへりしいいあえりし。。。
- 15其其そのとりかへのとりかへのとりかえ人人ひとははは、、、まだおはすとかやまだおはすとかやまだおわすとかや。。。大藏卿大藏卿おおくらきょうののの弟弟おとうとににに、、、山山やまののの座主座主ざす豪豪ごうととと申申もうすもおはしきすもおはしきすもおわしき。。。南南みなみ勝勝すぐ坊坊ぼうとぞとぞとぞ申申もうししし侍侍はべりしりしりし。。。又又また律師律師りつしなどいひてなどいひてなどいいて二人二人ふたりばかりおはしきばかりおはしきばかりおわしき。。。
- 16又又また四位四位しいののの侍從侍從じじゅう宗宗むね信信のぶととと申申もうすもおはしきすもおはしきすもおわしき。。。其其そののの子子こははは仁和寺仁和寺にんなじににに僧正僧正そうじょうとてとてとて、、、東寺東寺とうじノノノ長者長者ちょうじゃにてにてにて此此こののの頃頃ごろおはすとぞおはすとぞおわすとぞ。。。尹尹いんののの中納言中納言ちゅうなごんののの同同おなじじじ腹腹はらにおはせしにおはせしにおわせし三條三條さんじょうのおとゞののおとゞののおとどの御御おんむすめむすめむすめははは、、、白河白河しらかわノノノ院院いん東宮東宮とうぐうにおはしましゝにおはしましゝにおわしましし時時とき、、、御息所御息所みやすんどころととと聞聞きこえこえこえ給給たまひしひしいし、、、みかどみかどみかど位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たまひてひていて、、、延延の久久ひさ五年五年ごねん女御女御にょうごののの宣旨宣旨せんじかうぶりかうぶりこうぶり給給たまひきひきいき。。。
- 17子子こののの女御女御にょうごときこえきときこえきときこえき。。。姫宮姫宮ひめみょ生生うみみみ奉奉たてまつりてりてりて後後のち、、、內內うちへもへもへも參參まいりりり給給たまはずなりにきはずなりにきわずなりにき。。。承香殿承香殿じょうきょうでんののの女御女御にょうごとやとやとや申申もうしけんしけんしけん。。。御御おんむすめのむすめのむすめの子子こノノノ內親王內親王ないしんのうににに伊勢伊勢いせにいつきにてにいつきにてにいつきにて下下くだらせらせらせ給給たまひしにひしにいしに、、、具具ぐししし奉奉たてまつりてぞおはしけるりてぞおはしけるりてぞおわしける。。。
- 18七十七十しちじゅうににに餘餘あまりてりてりてうせたまひにきうせたまひにきうせたまいにき。。。このこのこの女御女御にょうごははは、、、またまたまた何何なにとかやとかやとかや申申もうすすす御名御名みなおはしきおはしきおわしき。。。
- 19春宮春宮とうぐうノノノ大夫大夫だいぶののの御弟御弟おおんおとうとににに同同おなじじじ高松高松たかまつののの御腹御腹おおんはらののの、、、無動寺無動寺むどうじののの右右う馬馬うまノノノ頭頭かしら入道入道にゅうどう信信のぶののの君君きみときこえときこえときこえ給給たまひしひしいし、、、そのそのその御名御名みなははは長長なが禪禪ぜんとぞとぞとぞ申申もうすなるすなるすなる。。。十八十八じゅうはちにてこのにてこのにてこの世世よをををおぼしおぼしおぼし捨捨すてゝてゝてて、、、比叡比叡ひえののの山山やまににに籠籠こもらせらせらせ給給たまひしひしいし、、、たふとたふととうとくあはれになどくあはれになどくあわれになど申申もうすもおろかなりすもおろかなりすもおろかなり。。。
- 20昔昔むかしののの物語物語ものがたりどもにこまかにどもにこまかにどもにこまかに侍侍はべればればれば、、、さのみやさのみやさのみやははは繰繰くりかへしりかへしりかえし申申もうししし侍侍はべらんらんらん。。。家家いえののの民部卿民部卿みんぶきょうととと申申もうすもすもすも、、、やがてやがてやがて高松高松たかまつののの御御おんはははらなりらなりらなり。。。御歌御歌みゅうたどもこそどもこそどもこそうけたまはりしかうけたまはりしかうけたまわりしか。。。
- 21「「「庭庭にわしろたへのしろたへのしろたえの霜霜しもととと見見みえつゝえつゝえつつ」」」などよみなどよみなどよみ給給たまへるもへるもえるも、、、このこのこの御歌御歌おおんうたとこそきゝとこそきゝとこそきき侍侍はべりしかりしかりしか。。。このこのこの大納言大納言だいなごんののの御子御子みこ忠家忠家ただいえ大納言大納言だいなごん、、、祐祐ゆう家家いえ中納言中納言ちゅうなごんなどなどなど申申もうしておはしきしておはしきしておわしき。。。
- 22母母はははははみなみなみな美濃守基貞美濃守基貞みののかみもとさだのむすめとぞのむすめとぞのむすめとぞ。。。大納言大納言だいなごんののの御子御子みこにてにてにて、、、もとたゞもとたゞもとただ、、、忠忠ただ二人二人ふたりののの中納言中納言ちゅうなごんおはしきおはしきおわしき。。。それそれそれははは經輔經輔つねすけののの大納言大納言だいなごんのむすめののむすめののむすめの御御おんはははらなりらなりらなり。。。
- 23俊俊しゅん忠忠ただののの中納言中納言ちゅうなごんははわ、、、それもそれもそれも歌歌うたよみよみよみ給給たまふときこえふときこえうときこえ給給たまひきひきいき。。。堀河堀河ほりかわノノノ院院いんののの御時御時おおんとき、、、男男おとこをををんなのんなのんなのかはしにもかはしにもかわしにも、、、よみよみよみ給給たまへるとこそへるとこそえるとこそ聞聞きききき侍侍はべりしかりしかりしか。。。そのそのその中納言中納言ちゅうなごんののの公達公達きんだちははは、、、民部大輔民部大輔みんぶのたいう忠忠ただ成成なりととと聞聞きこえこえこえ給給たまひしひしいし、、、又又また成成なり三位三位さんみとてもおはすなりとてもおはすなりとてもおわすなり。。。
- 24伊豫守伊豫守いよのかみ敦家敦家あついえのむすめののむすめののむすめのはらとぞはらとぞはらとぞ。。。そのそのその三位三位さんみののの御歌御歌みゅうたももも、、、此此こののの頃頃ごろののの上手上手じょうずにおはすとかやにおはすとかやにおわすとかや。。。歌歌うたののの判判ほうなどしなどしなどし給給たまふとこそふとこそうとこそ聞聞きききき侍侍はべれれれ。。。このこのこの三位三位さんみ、、、讚岐讚岐さぬきのみかどののみかどののみかどの御時御時おおんとき、、、殿上人殿上人てんじょうびとにおはしけるがにおはしけるがにおわしけるが、、、みかどみかどみかど位位くらいおりおりおり給給たまひてのちひてのちいてのち、、、院院いんののの殿上殿上てんじょうをををししし給給たまはざりければはざりければわざりければ、、、
- 25雲井雲井くもいよりなれしよりなれしよりなれし山路山路やまじををを今更今更いまさらにかすみにかすみにかすみへだてゝなげくへだてゝなげくへだててなげく春春はるかなかなかな
- 26とよみてとよみてとよみて、、、敎長敎長のりながノノノ卿卿きょうにつけてにつけてにつけて、、、奉奉たてまつられられられ侍侍はべりければりければりければ、、、御返事御返事おおんかえりごとはははなくてなくてなくて、、、やがてやがてやがて殿上殿上てんじょう仰仰おおせせせ下下くだされけるとぞされけるとぞされけるとぞ。。。撰集撰集せんしゅうにににははは、、、「「「何何なにののの暮暮くれををを待待まつらむつらむつらむ」」」。。。
- 27とかやいふとかやいふとかやいう歌歌うたぞいりてぞいりてぞいりて侍侍はべるなるるなるるなる。。。そのそのその兄兄このかみにににののの大大だい僧正僧正そうじょうとてとてとて、、、經經へたふとたふととうとくよみくよみくよみ給給たまふおはすなりときこえふおはすなりときこえうおわすなりときこえ給給たまふふう。。。
現代語訳
閑院の春宮大夫と申し上げる方も、高松殿の御腹です。贈太政大臣能信と申し上げます。白河院の御祖父、贈皇后宮(茂子)の御親で、本当の御娘ではいらっしゃらないけれども、たいそう尊い方です。この殿は詩などをお作りになったといって、人が語りましたのは、「春に富める山の月は、頭にあたりて白し」と聞こえました。まだ忘れておりません、これは書物を題にしてお作りになったもので、呉漢とかいう人(のこと)だと言いました。(出てくる)所の名なども、さすがにおぼつかなく申しました。また御歌も承りました。
曇りのない鏡の光がますます照らすように、(白河天皇の)ますます照らす御光の陰に、隠れないことがありましょうか(私もその恩恵をこうむりましょう)。
と、白河院の御事を伊勢大輔が詠みました(歌への)、その御返歌と聞こえました。白河院と同じ御腹の御妹は、仁和寺の一品宮といって、近ごろまでいらっしゃいました。聡子内親王と申し上げるのでしょう。後三条院がお亡くなりになった時、その日に御髪をおろされて、仁和寺にお住まいになりました。そうしていらっしゃったけれども、毎年、年官・年爵などを賜っていらっしゃいました。その御妹に、伊勢の斎宮でいらした方は、三品になられました。俊子内親王と申し上げました。樋口の斎宮と申し上げるのでしょう。次に賀茂の斎院の、佳子内親王と申し上げた方は、ご病気によって、延久四年(1072)七月に退出なさいました。富小路の斎院と申したようです。斎宮は十二月に退出なさいました。その御妹で篤子内親王と申し上げた方も、皆同じ御腹のご兄弟です。初め延久元年に賀茂の斎院にお立ちになって、同じ五年に院(後三条)がお亡くなりになったので、前斎院でいらっしゃったところ、叔母の女院(陽明門院)の御譲りで准三后・御封などを賜っていらっしゃったうちに、堀河の帝の御代に后にお立ちになりました。帝よりは御年がことのほか年上でいらっしゃったので、世に歌われる歌があったとか。
春宮大夫殿は本当の御子もいらっしゃらなかったので、三条の内大臣能長の大臣が甥でいらっしゃるのを、養子にしてお迎えなさいました。本当は堀川殿(頼宗)の御子でいらっしゃいます。この方も帥殿(伊周)の御娘の腹です。この内大臣の御子で、中納言基長と申し上げた方は、贈三位済政の娘の腹です。弾正尹になられたので、尹の中納言と申しました。三井寺に僧都として御子がいらっしゃるとか。尹の中納言の弟に、大蔵卿長忠という方がいらっしゃいました。母は昭登親王の娘です。大弁の宰相から中納言になっていらしたうちに、中納言を返上して、自分は大蔵卿になり、子を弁に任じられたのでした。石山の弁と申したようです。賀茂の神にこの上なくお仕えされました。中納言までなる、などと夢に見られたとか。その子は左少弁能忠と申した方で、詩などをよくお作りになりました。聡明な人でいらっしゃいました。若くて早く亡くなられました。少将入道有家と申した人の子に、この弁と同じ名のついた者が病気になったので、公伊法印という人に祈祷を頼んだところ、同じ名なので取り替えられてしまったのだと、世間では言い合いました。その取り替えられた人(有家の子)は、まだご存命とか。大蔵卿の弟に、比叡山の座主仁豪と申し上げる方もいらっしゃいました。南勝坊と申しました。また律師などといって、二人ほどいらっしゃいました。また四位の侍従宗信と申し上げる方もいらっしゃいました。その子は仁和寺に禎喜僧正といって、東寺の長者として今いらっしゃるとか。尹の中納言と同じ腹でいらした三条の大臣の御娘は、白河院が東宮でいらした時に御息所と申し上げた方で、帝が即位なさって、延久五年に女御の宣旨をこうむられました。道子の女御と申し上げました。姫宮をお産みして後、内裏へも参られなくなりました。承香殿の女御と申したでしょうか。御娘の善子内親王が伊勢の斎宮として下られた時に、お連れ申し上げていらっしゃいました。七十を過ぎて亡くなられました。この女御には、また何とか申す御名がおありでした。
春宮大夫(能信)の御弟で同じ高松殿の御腹の、無動寺の右馬頭入道顕信の君と申し上げた方は、その法名を長禅と申すそうです。十八歳でこの世をお捨てになって比叡山に籠られたのは、尊くしみじみとしてなどと申すのも言い足りません。昔の物語どもに詳しくございますので、そうむやみに繰り返し申し上げることもありますまい。長家の民部卿と申し上げる方も、やはり高松殿の御腹です。御歌をいくつも承りました。「庭しろたへの霜と見えつつ」などとお詠みになったのも、この方の御歌だと聞いております。この大納言の御子に、忠家大納言、祐家中納言などと申していらっしゃいました。母は皆美濃守基貞の娘とか。(忠家)大納言の御子として、基忠・俊忠のお二人の中納言がいらっしゃいました。それは経輔大納言の娘の御腹です。俊忠の中納言は、この方も歌をお詠みになると聞こえました。堀河院の御代に、男女の恋文の交わし合い(艶書合)にもお詠みになったと聞きました。その中納言の公達は、民部大輔忠成と申し上げた方、また俊成三位という方もいらっしゃるそうです。伊予守敦家の娘の腹とか。その三位の御歌も、今の名手でいらっしゃるとか。歌合の判などもなさると聞いております。この三位は、讃岐の帝(崇徳)の御代に殿上人でいらっしゃったが、帝が譲位なさって後、院の殿上をお許しにならなかったので、
宮中から通い慣れた山路を、今さら霞に隔てられて(院の御所に昇れずに)嘆く春であることです。
と詠んで、教長卿に託して差し上げられたところ、お返事はなくて、すぐに(院の)殿上を仰せ下されたとか。撰集には、「あやしや何の暮を待つらむ」とかいう歌が入っているそうです。その兄に比叡山の大僧正(快修)といって、経を尊くお読みになる方がいらっしゃると聞こえます。
意訳
道長と明子(高松殿)の子能信は、頼通・教通と対立して後三条天皇を支え、養女茂子が産んだ白河天皇の外祖父となった。章題の「ますみの影」は、伊勢大輔が白河天皇の世を曇りない鏡にたとえた歌と、能信の返歌による。
後三条天皇の皇女たち(聡子・俊子・佳子・篤子)、能信の養子能長の子孫(基長・長忠・能忠ら)、能長の娘で白河天皇の女御となった道子など、閑院流以前の能信の系統が語られる。同名の病人の身代わりに死んだと噂された能忠の話は、今鏡には珍しい怪異譚である。
高松殿腹の顕信は十八歳で出家した(『大鏡』『栄花物語』に詳しい)。長家の子孫からは俊忠、そして俊成が出て、御子左家として歌の家となる。俊成が崇徳院に歌を奉って院の殿上を許された話は、今鏡が書かれた当時の歌壇の第一人者を伝えて興味深い。
語釈・文法注
- 贈太政大臣能信
- 藤原能信(995〜1065)。道長の子。後三条天皇の擁立に尽くし、閑院春宮大夫と呼ばれた。
- 贈皇后宮
- 藤原茂子(?〜1062)。能信の養女。後三条天皇の妃で、白河天皇の母。
- 吳漢
- 後漢の光武帝の功臣。
- 伊勢ノ大輔
- 平安中期の女流歌人。「いにしへの奈良の都の八重桜」の作者。
- 聰子內親王
- 聡子内親王(1050〜1131)。後三条天皇の皇女。
- つかさくらゐ
- 年官・年爵。皇族などに与えられた、官職や位を推薦する権利。
- 俊子ノ內親王
- 俊子内親王(1056〜1132)。後三条天皇の皇女。伊勢斎宮。
- 佳子ノ內親王
- 佳子内親王(1057〜1130)。後三条天皇の皇女。賀茂斎院。
- 篤子ノ內親王
- 篤子内親王(1060〜1114)。後三条天皇の皇女。堀河天皇の中宮。天皇より十九歳年上だった。
- おばの女院
- 陽明門院禎子内親王。後三条天皇の母。
- 准三后
- 太皇太后・皇太后・皇后に准じる待遇。
- 三條の內大臣能長
- 藤原能長(1022〜1082)。頼宗の子で、能信の養子。
- 中納言基長
- 藤原基長(1043〜1107)。能長の子。
- 大藏卿長忠
- 藤原長忠(1047〜1126)。能長の子。
- 左少辨能忠
- 藤原能忠。長忠の子。
- 山の座主仁豪
- 仁豪(1051〜1121)。能長の子。天台座主。
- 禎喜僧正
- 禎喜(1099〜1183)。東寺長者。
- 道子の女御
- 藤原道子(1042〜1132)。能長の娘。白河天皇の女御。
- 善子ノ內親王
- 善子内親王(1077〜1132)。白河天皇の皇女。伊勢斎宮。
- 顯信
- 藤原顕信(994〜1027)。道長の子。十九歳で出家した(諸説ある)。
- 長家の民部卿
- 藤原長家(1005〜1064)。道長の子。御子左家の祖。
- 俊忠
- 藤原俊忠(1073〜1123)。歌人。俊成の父。
- 男をんなの文かはし
- 堀河院艶書合(1102)。男女が恋文の歌を贈答した歌合。
- 俊成三位
- 藤原俊成(1114〜1204)。歌人。『千載和歌集』の撰者。定家の父。
- あやしや何の暮を待つらむ
- 俊成の歌「思ひ寝の夢の浮橋…」とは別。詞花集の恋歌の句か。
- 山の大僧正
- 快修(1100〜1172)。俊忠の子。天台座主。
文法
- かくれざらめや
- 隠れないことがあろうか、いや隠れる(恩恵をこうむる)。反語。
- さのみやは繰りかへし申し侍らん
- そうむやみに繰り返し申しましょうか、いや申しません。
和歌
くもりなき鏡の光ます〳〵に照らさん影にかくれざらめや
- 詠者
- 藤原能信
- 状況
- 伊勢大輔が白河天皇の御代を詠んだ歌への返歌。
修辞
- 見立て
- 天皇の徳を曇りのない鏡の光に見立てる。
- 掛詞
- 「ます〳〵」に「真澄(ますみ)」の鏡を響かせる。
雲井よりなれし山路を今更にかすみへだてゝなげく春かな
- 詠者
- 藤原俊成
- 状況
- 崇徳院の譲位後、院の殿上を許されなかった時に、藤原教長を通じて奉った歌。
修辞
- 掛詞
- 「雲井」に空と宮中をかける。
- 比喩
- 霞に隔てられることで、院の御所に昇れない身を表す。
解説
俊成は今鏡成立の嘉応二年(1170)ごろ、歌壇の中心にいた。語り手が「此の頃の上手」と言うのは、まさに同時代の評価である。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、253〜258頁(コマ141–144)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日