今鏡 第六「藤波の下」 第48章
絵合の歌
巻六「藤波の下」の始まり。道長の高松殿腹の子、堀川右大臣頼宗は歌人として知られた。娘の麗景殿女御の萩の歌、その子孫の系譜が語られる。孫の宗俊大納言は笙の名手で、師の時光から秘曲「大食調の入調」を授かる夜、大極殿の柱の陰に笛の名手武能が立ち聞きしていたという逸話が伝わる。
- 1ののの御御おんはははらのらのらの公達公達きんだちののの御流御流おおんながれれれれ皆皆みな申申もうししし侍侍はべりぬりぬりぬ。。。ののの御腹御腹おおんはらののの、、、堀川堀川ほりかわののの右大臣右大臣うだいじん宗宗そうのおとゞこそのおとゞこそのおとどこそ、、、關白關白かんぱくにににはははなりなりなり給給たまはざりしかどもはざりしかどもわざりしかども、、、女御女御にょうごたてまつりなどしたてまつりなどしたてまつりなどし給給たまひひい、、、末末すえののの公達公達きんだちももも、、、近近ちかくまでくまでくまで位位くらい高高たかくおはするくおはするくおわする、、、あまたあまたあまた聞聞きこえたまひしかこえたまひしかこえたまいしか。。。
- 2このおとゞこのおとゞこのおとど、、、御堂御堂みどうののの第二第二だいにののの御子御子みこにおはすにおはすにおわす。。。御御おんはゝはゝははははは、、、西西にしノノノ宮宮みやののの左大臣左大臣さだいじん明明あけのおとゞののおとゞののおとどの御御おんむすめむすめむすめ也也なり。。。永永えい承承うけたまわ二年二年にねん八月八月はちがつ一日一日ついたち、、、內大臣內大臣ないだいじんになりになりになり給給たまふふう。。。
- 3御年御年おおんとし五十四五十四ごじゅうし、、、大將大將だいしょうもとのまゝにかけもとのまゝにかけもとのままにかけ給給たまひきひきいき。。。康康やす平平へい三年三年さんねんににに右大臣右大臣うだいじんになりになりになり給給たまひきひきいき。。。御年御年おおんとし七十七十しちじゅう三三みととと聞聞きこえきこえきこえき。。。和歌和歌わかののの道道みちむかしにむかしにむかしに耻耻はぢずおはしきぢずおはしきじずおわしき。。。
- 4歌歌うたよみよみよみははは兼兼かね盛盛もり、、、堀川堀川ほりかわのおのおのおほいほいほい殿殿どの、、、千載千載せんざいののの一一ひと遇遇あとかやとかやとかや、、、あるあるある人申人申ひともうししし侍侍はべりけるとりけるとりけると申申もうししし出出いだしたるだしたるだしたる、、、人人ひとはははえええ聞聞きききき侍侍はべらずらずらず。。。御集御集ぎょしゅうにもすぐれたるにもすぐれたるにもすぐれたる歌歌うた多多おおくきこえくきこえくきこえ、、、撰集撰集せんしゅうにもあまたにもあまたにもあまた入入いりりり給給たまへりへりえり。。。
- 5いたくいたくいたく人人ひとののの口口くちならしならしならし侍侍はべるるる御歌御歌みゅうたははわ、、、花紅葉花紅葉はなもみじ七夕七夕たなばた千鳥千鳥ちどりなどなどなど、、、數數かず知知しらずらずらず聞聞きこえこえこえ侍侍はべるめりるめりるめり。。。中中なかにもにもにも戀戀こいののの歌歌うたははわ、、、いたくいたくいたく人人ひとののの口口くちずさびにもずさびにもずさびにも侍侍はべるるる、、、多多おおくよみくよみくよみ給給たまへりきへりきえりき。。。
- 6「「「はははうらなしうらなしうらなし」」」などよみなどよみなどよみ給給たまへるぞかしへるぞかしえるぞかし。。。このこのこの御歌御歌みゅうたのさまのさまのさまははは、、、めづらしきめづらしきめずらしき心心こころををを先先さきにしにしにし給給たまへるなるべしへるなるべしえるなるべし。。。
- 7ののの內內うちのおとゞののおとゞののおとどの御御おんむすめのむすめのむすめの腹腹はらににに、、、君君きみたちあまたおはしきたちあまたおはしきたちあまたおわしき。。。後後のち朱朱す雀雀すずめノノノ院院いんののの御時御時おおんとき、、、女御女御にょうごににに奉奉たてまつりりり給給たまへりしへりしえりし、、、ののの女御女御にょうごととと申申もうすなるべしすなるべしすなるべし。。。
- 8みかどかくれさせみかどかくれさせみかどかくれさせ給給たまひてひていて後後のち、、、里里さとにまかりいでにまかりいでにまかりいで給給たまへりけるにへりけるにえりけるに、、、植植うゑおきゑおきえおき給給たまへりけるへりけるえりける萩萩はぎををを、、、またのまたのまたの年年としののの秋秋あき、、、人人ひとのののをををりてりてりて侍侍はべりけるりけるりけるををを見見み給給たまひてひていて、、、よみよみよみ給給たまひけるひけるいける、、、
- 9こぞよりもこぞよりもこぞよりも色色いろこそこそこそ濃濃こけれけれけれ萩萩はぎののの花花はな淚淚なみだののの雨雨あめのかゝるのかゝるのかかる秋秋あきにににははは
- 10そのそのその女御女御にょうごののの生生うみみみ奉奉たてまつりりり給給たまへりけるへりけるえりける姫君姫君ひめぎみ、、、のいつきとのいつきとのいつきと聞聞きこえこえこえ給給たまひきひきいき。。。このこのこの宮宮みや繪繪え合合あわせししし給給たまひしにひしにいしに、、、「「「卯卯うののの花花はなさけるさけるさける玉玉たま川川がわののの里里さと」」」とととがよめるがよめるがよめるははは名高名高なたかききき歌歌うたにににはべるなりはべるなりはべるなり。。。
- 11三三さんののの君君きみははは後後のち三條三條さんじょうノノノ院院いんののの東宮東宮とうぐうととと申申もうしゝしゝしし時時とき、、、御息所御息所みやすんどころにまゐりにまゐりにまいり給給たまへりきへりきえりき。。。このおとゞのこのおとゞのこのおとどの太郞太郞たろうにてにてにてははは、、、賴賴たの中納言中納言ちゅうなごんおはしきおはしきおわしき。。。御御おんはゝはゝははははは、、、女御女御にょうごのののひとつひとつひとつ御御おんはははらなりらなりらなり。。。
- 12いといといと末末すえのののはははかばかしきもかばかしきもかばかしきも、、、おはせぬなるべしおはせぬなるべしおわせぬなるべし。。。次次つぎにににははは右大臣右大臣うだいじん家家いえのおとゞのおとゞのおとど、、、大宮大宮おおみやののの右右みぎのおとゞときこえのおとゞときこえのおとどときこえ給給たまひきひきいき。。。このこのこの御末御末おおんすえ多多おおくくく榮榮さかえさせえさせえさせ給給たまふめりふめりうめり。。。
- 13そのそのその御子御子みこははは俊俊しゅんののの大納言大納言だいなごん、、、御母御母おおんははははは宇治宇治うじ大納言大納言だいなごん國國くにののの女女おんななりなりなり。。。管絃管絃かんげんののの道道みちすぐれておはしけるすぐれておはしけるすぐれておわしける、、、といふといふという笙笙しょうののの笛笛ふえふきにふきにふきに習習ならひひい給給たまひけるにひけるにいけるに、、、調調じょうののの入入い調調ちょうをををいま〳〵とていま〳〵とていまいまとて、、、年年とし經經へててて敎敎おしへへへ申申もうさゞりけるさゞりけるさざりける程程ほどににに雨雨あめかぎりなくふりてかぎりなくふりてかぎりなくうりて、、、くらやみしげかりけるくらやみしげかりけるくらやみしげかりける夜夜よいできていできていできて、、、今宵今宵こよいかのものかのものかのもの敎敎おしへたてまつらんとへたてまつらんとえたてまつらんと申申もうしければしければしければ、、、歡歡よろこびてとくとびてとくとびてとくと、、、ののの給給たまひけるひけるいけるををを、、、「「「殿殿どののののうちにてうちにてうちにてははは、、、おのづからおのづからおのずから聞聞きくくく人人ひともももはべらんはべらんはべらん。。。へへへわたらせわたらせわたらせ給給たまへへえ」」」。。。
- 14といひければといひければといいければ、、、さらにさらにさらにうしなどうしなどうしなど取取とりりり寄寄よせておはしけるにせておはしけるにせておわしけるに、、、「「「御供御供おおんともにににははは人人ひと侍侍はべらでありなんらでありなんらでありなん。。。時光時光ときみつひとりひとりひとり」」」とてとてとて、、、簑笠簑笠みのかさきてなむきてなむきてなむ有有ありけるりけるりける。。。
- 15大極殿大極殿だいごくでんにおはしたるににおはしたるににおわしたるに、、、「「「猶猶なおおぼつかなくおぼつかなくおぼつかなく侍侍はべりりり」」」。。。とてとてとて續續つづ松松まつとりてとりてとりて、、、更更さらににに火火ひともしてともしてともして見見みければければければ、、、柱柱はしらににに簑簑みのきたるきたるきたる者者ものののの立立たちそひたるちそひたるちそいたる有有ありけりりけりりけり。。。
- 16彼彼かれれれははは誰誰たれぞとれぞとれぞと、、、問問とひければひければいければ、、、能能よしとなのりければとなのりければとなのりければ、、、さればこそとてさればこそとてさればこそとて、、、そのそのその夜夜よははは敎敎おしへへへ申申もうさでさでさで歸歸かえりにけりとりにけりとりにけりと申申もうすすす人人ひともありきもありきもありき。。。又又またかばかりかばかりかばかり心心こころざしざしざし有有ありとてりとてりとて、、、敎敎おしへけりともきこえへけりともきこええけりともきこえ侍侍はべりきりきりき。。。それはひがごとにやそれはひがごとにやそれわいがごとにや侍侍はべりけんりけんりけん。。。
- 17かのかのかの武武む能能よしももも其其そののの道道みちののの上手上手じょうずなりけるになりけるになりけるに、、、誰誰たれにかおはしけんれにかおはしけんれにかおわしけん。。。一一いちののの人人ひとののの「「「誰誰たれにれにれに習習ならひたるぞひたるぞいたるぞ」」」。。。ととと問問とはせたまひければはせたまひければわせたまいければ、、、「「「道道みちのものにもあらぬのものにもあらぬのものにもあらぬ法師法師ほうしとかとかとか。。。能能よくくく習習ならひたるものありけるになんひたるものありけるになんいたるものありけるになん、、、傳傳つたへてへてえて侍侍はべるるる」」」。。。
- 18などなどなど申申もうしければしければしければ、、、「「「なほなほなお時光時光ときみつががが弟子弟子でしになるべきなりになるべきなりになるべきなり」」」。。。ととと仰仰おおせせせうけうけうけ給給たまはははりてりてりて、、、かきてかきてかきて彼彼かれがれがれが家家いえにいたりてにいたりてにいたりて、、、それがしそれがしそれがし參參まいりたりといはせければりたりといはせければりたりといわせければ、、、いどみていどみていどみて、、、年年としごろかやうにもごろかやうにもごろかようにも見見みえぬえぬえぬ者者ものとてとてとて、、、驚驚おどろきてきてきて呼呼よびびび入入いれければれければれければ、、、時光時光ときみつははは出出でににに、、、ふえつくろひてふえつくろひてふえつくろいて居居いたりけるにたりけるにたりけるに、、、武武む能能よし庭庭にわにゐてのぼらざりければにゐてのぼらざりければにいてのぼらざりければ、、、袖袖そでのののはははたたたをををひきてひきてひきて、、、のぼせていかにとのぼせていかにとのぼせていかにと問問とひければひければいければ、、、「「「殿殿どののおほせにてのおほせにてのおおせにて、、、御弟子御弟子おおんでしににに參參まいりたるなりりたるなりりたるなり」」」。。。
- 19といへばといへばといえば、、、いといといと心心こころゆきてゆきてゆきて「「「何何なにをををかかか習習ならひひい給給たまふべきふべきうべき」」」。。。といふにといふにというに「「「大食大食たいしょく調調じょうののの入入い調調ちょうなんなんなん、、、まだまだまだ知知しらぬものにてらぬものにてらぬものにて、、、うけうけうけ給給たまはははらんとらんとらんと、、、思思おもひたまふるひたまふるいたまうる」」」。。。
- 20といふにといふにというに、、、けしきかはりてけしきかはりてけしきかわりて、、、太郞太郞たろう子子こににに侍侍はべりけるりけるりける里里さとががが前前まえなりけるなりけるなりけるををを、、、「「「此此このわらのわらのわらはははににに敎敎おしへへへ侍侍はべりてりてりて後後のちにこそにこそにこそ、、、ことことこと人人ひとにににははは授授さずけたてまつらめけたてまつらめけたてまつらめ。。。これこれこれははは忽忽たちまちにおぼしよるまじきにおぼしよるまじきにおぼしよるまじき事事こと」」」。。。
- 21ととと云云いひければひければいければ、、、このこのこの君君きみ傳傳つたへられんことへられんことえられんこと、、、たちまちのたちまちのたちまちの事事ことにあらじとてにあらじとてにあらじとて、、、名簿名簿みょうぶとりかへしてとりかへしてとりかえして、、、歸歸かえりりり出出いでてでてでて、、、年年とし經經へけるけるける後後のち、、、心心こころ深深ふかくうかゞひてくうかゞひてくうかがいて、、、聞聞きかんとするなりけりかんとするなりけりかんとするなりけり。。。
- 22昔昔むかしののの物物ものののの師師しははは、、、かくなんかくなんかくなん心心こころ深深ふかくてくてくて、、、たたたはやはやはやすくもすくもすくも授授さずけざりけるけざりけるけざりける。。。そのそのその大納言大納言だいなごんははわ、、、さやうにさやうにさように道道みちをををたしなみてたしなみてたしなみて、、、やんごとなくなんおはしけるやんごとなくなんおはしけるやんごとなくなんおわしける。。。
現代語訳
鷹司殿(倫子)の御腹の公達の御流れは、皆申し上げました。高松殿(明子)の御腹の、堀川の右大臣頼宗の大臣こそ、関白にはなられなかったけれども、女御を入内させなどなさり、末の公達も、近ごろまで位が高くていらっしゃる方が、大勢聞こえなさいました。この大臣は、御堂(道長)の第二の御子でいらっしゃいます。御母は西宮の左大臣高明の大臣の御娘です。永承二年(1047)八月一日、内大臣になられました。御年五十四で、大将も元のままに兼ねていらっしゃいました。康平三年(1060)に右大臣になられました。御年七十三と聞こえました。和歌の道では昔にも恥じない方でいらっしゃいました。「歌詠みは貫之・兼盛、堀川のおおい殿(頼宗)は千載一遇の人」とかいうことを、ある人が申したと話す人がいましたが、(その人が誰かは)私は聞いておりません。御家集にもすぐれた歌が多く聞こえ、勅撰集にも大勢入っていらっしゃいます。たいそう人が口ずさみ慣れている御歌は、花・紅葉・七夕・千鳥など数知れず聞こえるようです。中でも恋の歌は、たいそう人の口ずさみにもなっているものを、多くお詠みになりました。「恋はうらなし」などとお詠みになったのですよ。この御歌の様子は、珍しい趣向を第一になさったのでしょう。
帥の内大臣(伊周)の御娘の腹に、君たちが大勢いらっしゃいました。後朱雀院の御代に、女御として入内させなさった方は、麗景殿の女御と申し上げたのでしょう。帝がお亡くなりになった後、里に退出なさっていたところ、(宮中に)植えておかれた萩を、翌年の秋、人が折って持ってきましたのをご覧になって、お詠みになった歌、
去年よりも色が濃いことだ、萩の花よ。涙の雨がかかるこの秋には。
その女御がお産みになった姫君は、賀茂の斎院と申し上げました。この宮(禖子内親王)が歌合をなさった時に、「卯の花さける玉川の里」と相模が詠んだのは、名高い歌でございます。三の君は、後三条院が東宮と申し上げた時に、御息所として参られました。この大臣(頼宗)の長男としては、兼頼中納言がいらっしゃいました。御母は女御と同じ御腹です。(その)末にはかばかしい方もいらっしゃらないのでしょう。次には右大臣俊家の大臣で、大宮の右大臣と申し上げました。この方の御末は多く栄えていらっしゃるようです。
その(俊家の)御子は宗俊の大納言で、御母は宇治大納言隆国の娘です。管絃の道にすぐれていらっしゃったが、時光という笙の笛の吹き手に習っておられたところ、(時光は)大食調の入調(という秘曲)を、今か今かと(待たせて)年を経ても教え申し上げなかったが、雨がこの上なく降って真っ暗な夜にやって来て、「今夜あの曲をお教えいたしましょう」と申したので、(宗俊は)喜んで「早く」とおっしゃったところ、「お邸の中では、自然と聞く人もおりましょう。大極殿へお出でください」と言ったので、改めて牛車などを取り寄せてお出かけになったところ、「お供には人がいなくてよいでしょう。時光一人で」といって、蓑笠を着て(お供して)いました。大極殿にいらしたところ、「やはり気がかりでございます」といって、松明を取って改めて火をともして見たところ、柱に蓑を着た者が寄り添って立っていたのでした。「あれは誰だ」と問うたところ、武能と名のったので、「やはりそうか」といって、その夜はお教え申し上げずに帰ってしまった、と申す人もいました。また、これほどの志があるのならといって教えた、とも聞こえました。それは間違いだったのでしょうか。
その武能もその道の名手だったが、どなたでしたでしょうか、一の人(摂関)が「誰に習ったのか」とお尋ねになったところ、「その道の専門家でもない法師とかで、よく習った者がおりましたので、その者から伝えております」などと申したので、「やはり時光の弟子になるべきだ」という仰せを承って、名簿を書いて時光の家に行き、「誰それが参りました」と取り次がせたところ、(時光は)張り合って、長年このように訪ねても来なかった者だといって驚いて呼び入れたところ、時光は放出の間で笛の手入れをして座っていたが、武能が庭にいて上がらなかったので、袖の端を引いて上がらせ、「どうしたのか」と問うと、「殿の仰せで、御弟子に参ったのです」と言うので、たいそう満足して「何をお習いになりたいのか」と言うと、「大食調の入調を、まだ知らない曲なので、教えていただきたいと存じます」と言うと、顔色が変わって、長男でございました公里が前にいたのを(指して)、「この子に教えました後でこそ、ほかの人にはお授け申しましょう。これはすぐにお考えになるべきことではありません」と言ったので、「この君に伝えられるのは、すぐのことではあるまい」と思って、名簿を取り返して帰って行き、何年も経った後に、心深く機会をうかがって聞こうとしたのでした。
昔の芸道の師は、このように用心深くて、たやすくは授けなかったものです。その大納言(宗俊)は、そのように道に励んで、尊くいらっしゃいました。
意訳
巻六「藤波の下」は、道長のもう一人の妻、源明子(高松殿)の子孫を語る。その筆頭が堀川右大臣頼宗で、関白にはならなかったが、歌人として名高かった。章題の「絵合の歌」は、頼宗の孫娘禖子内親王の歌合で相模が詠んだ名歌にちなむ。
頼宗の娘、麗景殿女御延子は後朱雀天皇の女御。天皇の崩御後、宮中に植えた萩を見て、涙の雨に色が濃くなったと詠んだ。
頼宗の孫、宗俊は笙の名手。師の時光が秘曲を伝えようとした雨の夜、大極殿まで出かけたところ、柱の陰に笛の名手武能が蓑を着て立ち聞きしていた。後に武能が正式に弟子入りを願っても、時光は長男公里に教えるまではと断った。芸道の秘伝がいかに大切にされたかを伝える逸話である。
語釈・文法注
- 鷹司殿
- 源倫子。道長の正妻。頼通・教通・彰子らの母。
- 高松の御腹
- 源明子。道長のもう一人の妻。高松殿と呼ばれた。
- 堀川の右大臣賴宗
- 藤原頼宗(993〜1065)。道長の子。歌人。
- 西ノ宮の左大臣高明
- 源高明(914〜983)。醍醐天皇の皇子。安和の変で失脚した。
- 貫之兼盛
- 紀貫之と平兼盛。ともに著名な歌人。
- 戀はうらなし
- 頼宗の恋の歌の句。
- 帥の內のおとゞ
- 藤原伊周(974〜1010)。道隆の子。大宰権帥に左遷された。
- 麗景殿の女御
- 藤原延子(1016〜1095)。頼宗の娘。後朱雀天皇の女御。
- 賀茂のいつき
- 禖子内親王(1039〜1096)。後朱雀天皇の皇女。歌合を多く催した。
- 相模
- 平安中期の女流歌人。「卯の花さける玉川の里」は「見渡せば波のしがらみかけてけり卯の花さける玉川の里」。
- 兼賴中納言
- 藤原兼頼(1014〜1063)。頼宗の子。
- 右大臣俊家
- 藤原俊家(1019〜1082)。頼宗の子。大宮右大臣。
- 宗俊の大納言
- 藤原宗俊(1046〜1097)。俊家の子。笙の名手。
- 宇治大納言隆國
- 源隆国(1004〜1077)。『宇治大納言物語』の編者とされる。
- 時光
- 豊原時光。笙の名手。
- 大食調の入調
- 大食調(雅楽の調子の一つ)の秘曲。
- 大極殿
- 大内裏の正殿。夜は人けがなかった。
- 武能
- 大神武能か。笛の名手。
- 名簿
- 弟子入りや臣従の際に差し出す、名を書いた札。
- 放出
- 寝殿造で、母屋から外へ張り出した部屋。
- 公里
- 豊原公里。時光の子。
文法
- いま〳〵とて
- 「今教えよう、今教えよう」と言って延ばしているうちに。
- さればこそ
- やはりそうだったか。予想が当たった時の言葉。
和歌
こぞよりも色こそ濃けれ萩の花淚の雨のかゝる秋には
- 詠者
- 麗景殿女御(藤原延子)
- 状況
- 後朱雀天皇の崩御後、宮中に植えておいた萩を折って見せられて詠んだ歌。
修辞
- 見立て
- 悲しみの涙を雨に見立て、その雨で萩の色が濃くなったとする。
解説
今鏡には芸道の秘伝をめぐる逸話が多い。この章の時光と武能の話は、雨の夜の大極殿という舞台設定もあいまって、物語的な緊張感にあふれている。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、226〜231頁(コマ128–130)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日