今鏡 第五「藤波の中」 第46章
水茎
忠教の子、藤原教長。保元の乱で崇徳院に味方して常陸に流されたが、帰京後は高野山に住んだ。歌人で能書家として知られ、書は佐理の流れを好んだ。頼長に朝隆と教長の書の優劣を問われた人の話、定信の一切経一筆書写、教長の母の歌などが語られる。
- 1四條四條しじょうののの民部卿民部卿みんぶきょうののの御子御子みこははは、、、又又またののの大納言大納言だいなごんののの女女おんなののの腹腹はらににに、、、宰相中將宰相中將さいしょうのちゅうじょうときこえときこえときこえ給給たまひしひしいし、、、後後のちにににははは左京左京さきょうのかみになりてのかみになりてのかみになりて、、、讚岐讚岐さぬきノノノ院院いんのことゞもおはしましゝにのことゞもおはしましゝにのことどもおわしまししに、、、かしらおろしかしらおろしかしらおろし給給たまひてひていて、、、常陸常陸ひたちのののとかやにとかやにとかやに、、、流流ながされされされ給給たまへりしへりしえりし、、、歸歸かえりのぼりりのぼりりのぼり給給たまひてひていて、、、高野高野こうやにすみにすみにすみ給給たまふときこえふときこえうときこえ給給たまふふう。。。
- 2和歌和歌わかののの道道みちにすぐれておはするなるべしにすぐれておはするなるべしにすぐれておわするなるべし。。。手手てかきにもおはすとぞかきにもおはすとぞかきにもおわすとぞ、、、ところ〴〵のところ〴〵のところどころの額額がくなどもかきなどもかきなどもかき給給たまふなりふなりうなり。。。御堂御堂みどうののの色紙色紙しきしがたなどもかきがたなどもかきがたなどもかき給給たまふとぞふとぞうとぞ聞聞きこゆるこゆるこゆる。。。
- 3ノノノ兵部卿兵部卿ひょうぶきょうをぞをぞをぞ、、、好好このみてかきみてかきみてかき給給たまふときこゆふときこゆうときこゆ。。。且且かつははは法性寺法性寺ほっしょうじのおとゞののおとゞののおとどの御筋御筋おおんすじなるべしなるべしなるべし。。。花園花園はなぞののおとゞのものおとゞのものおとどのも、、、さやうのさやうのさようの筋筋すじにかゝせにかゝせにかかせ給給たまふとぞふとぞうとぞ、、、聞聞きこえさせこえさせこえさせ給給たまひしひしいし。。。
- 4宇治宇治うじののの左左ひだりのおとゞののおとゞののおとどの、、、、、、敎長敎長のりなが、、、いづれかまさりたるといづれかまさりたるといずれかまさりたると、、、聞聞きこえしこえしこえし人人ひとににに、、、問問とひひい給給たまはせければはせければわせければ、、、定定さだめめめ聞聞きこえんもよしなくてこえんもよしなくてこえんもよしなくて、、、とり〴〵にとり〴〵にとりどりに能能よくくく書書ふみききき侍侍はべるとぞるとぞるとぞ、、、答答こたへへえ申申もうしてししてししてし。。。
- 5ののの君君きみ、、、人人ひとににに語語かたられけるられけるられけるををを、、、たび〳〵たび〳〵たびたび問問とはせはせわせ給給たまひけるにやひけるにやいけるにや。。。申申もうしきられにけりともしきられにけりともしきられにけりとも聞聞きこえこえこえ侍侍はべりりり。。。はだへとはだへとはだえと、、、骨骨ほねとにとにとに喩喩たとへたるとかやへたるとかやへたるとかや。。。そのそのその入道入道にゅうどうははは人人ひとにかたられけるにかたられけるにかたられける。。。
- 6朝隆朝隆ともたかののの中納言中納言ちゅうなごんははわ、、、行成大納言行成大納言ゆきなりだいなごんののの消息消息しょうそこゆゝしくうつしにせられたるとぞゆゝしくうつしにせられたるとぞゆゆしくうつしにせられたるとぞ聞聞きこえこえこえ侍侍はべるめるるめるるめる。。。そのそのその消息消息しょうそこもたぬもたぬもたぬ人人ひとなしなしなし。。。世世よににに多多おおくくく侍侍はべるなりるなりるなり。。。敎長敎長のりながののの御手御手おおんてももも、、、さま〴〵さま〴〵さまざま京京きょうゐなかゐなかいなか傳傳つたはははりりり侍侍はべるなりるなりるなり。。。
- 7宮內宮內くない大輔大輔たいふももも、、、ひじりのすゝむるひじりのすゝむるひじりのすすむるふみふみふみ、、、何何なにかとすぐさずかきかとすぐさずかきかとすぐさずかきひろめひろめひろめ侍侍はべりけりりけりりけり。。。いかにいかにいかに本多本多ほんおおくくく侍侍はべらんらんらん。。。のぬしののぬしののぬしの、、、いますがりけるいますがりけるいますがりける世世よにこそにこそにこそ、、、ひとくだりもたぬひとくだりもたぬひとくだりもたぬ人人ひとははは、、、耻耻はじににに思思おもひひい侍侍はべりけれりけれりけれ。。。
- 8宮內宮內くないノノノ大輔大輔たいふははは、、、大納言大納言だいなごんのすゑなればのすゑなればのすえなれば、、、よくよくよく似似にらるべきにてらるべきにてらるべきにて侍侍はべれどれどれど、、、一一ひとつのつのつの樣樣さまををを傳傳つたへられたるにやへられたるにやえられたるにや。。。常常つねににに見見みゆるやうにゆるやうにゆるようにはははかはりてぞかはりてぞかわりてぞ侍侍はべりけるりけるりける。。。
- 9おほぢのおほぢのおおじの、、、すざかのすざかのすざかのののの御手御手おおんてにぞにぞにぞ、、、能能よくくく似似にててて侍侍はべるなるるなるるなる。。。そのそのその定信定信さだのぶののの君君きみははは、、、ををを一筆一筆ひとうでにかきたまへるにかきたまへるにかきたまえる、、、たゞたゞただ人人ひとともおぼえともおぼえともおぼえ給給たまへずへずえず。。。
- 10よになきよになきよになき事事ことにこそにこそにこそ侍侍はべるめれるめれるめれ。。。五五ご部部ぶののの大乘經大乘經だいじょうきょうなどだになどだになどだに、、、ありがたくありがたくありがたく侍侍はべるにるにるに、、、いといといと尊尊とうとききき契契ちぎりむすびりむすびりむすび給給たまへるへるえる人人ひとなるべしなるべしなるべし。。。敎長敎長のりながののの御御おんわらわらわらははは名名なははは、、、ととと聞聞きこえきこえきこえき。。。
- 11殿上人殿上人てんじょうびとにおはせしにもにおはせしにもにおわせしにも、、、道心道心どうしんおはしておはしておわして、、、をとこながらをとこながらおとこながら、、、ひじりにおはすときこえひじりにおはすときこえひじりにおわすときこえ給給たまひしかばひしかばいしかば、、、いかばかりいかばかりいかばかり尊尊とうとくおはすらんくおはすらんくおわすらん。。。そのそのその御弟御弟おおんおとうとにてにてにて、、、賀茂賀茂かもばらのばらのばらの公公きんだちだちだち、、、あまたおはすとあまたおはすとあまたおわすと聞聞きこえたまふこえたまふこえたまう。。。
- 12そのそのその御母御母おおんははこそこそこそ、、、歌歌うたよみにおはせしかよみにおはせしかよみにおわせしか。。。おほぢのおほぢのおおじの、、、名高名高なたかききき歌歌うたよみなりしかばなるべしよみなりしかばなるべしよみなりしかばなるべし。。。いとやさしくこそいとやさしくこそいとやさしくこそ。。。「「「月月つきやむかしのかたみなるらんやむかしのかたみなるらんやむかしのかたみなるらん」」」。。。
- 13とよみとよみとよみ侍侍はべへるぞかしへるぞかしえるぞかし。。。撰集撰集せんしゅうにににはははががが母母ははとていりとていりとていり給給たまへりへりえり。。。奈良仁和寺山奈良仁和寺山ならにんなじやまなどになどになどに、、、僧僧そうきんだちもきんだちもきんだちも多多おおくおはすとぞくおはすとぞくおわすとぞ聞聞きこえこえこえ給給たまふふう。。。民部卿民部卿みんぶきょうののの次次つぎににに、、、ととと聞聞きこえこえこえ給給たまひしひしいし、、、上達部上達部かんだちめにもならでやみにもならでやみにもならでやみ給給たまひにきひにきいにき。。。
現代語訳
四条の民部卿(忠教)の御子は、また俊明大納言の娘の腹に、宰相中将教長と申し上げた方が、後には左京大夫になって、讃岐院の事件がおありになった時に出家なさって、常陸の浮島とかに流されなさったが、帰り上られて、高野山に住んでいらっしゃると聞こえます。和歌の道にすぐれていらっしゃるのでしょう。能書でもいらっしゃるとか、あちこちの額などもお書きになるそうです。御堂の色紙形などもお書きになると聞こえます。佐理兵部卿の真書の様を好んでお書きになると聞こえます。一つには法性寺の大臣(忠通)の御筋でありましょう。花園の大臣(有仁)のも、そのような筋にお書きになると聞こえました。宇治の左大臣(頼長)が、朝隆と教長とどちらがまさっているかと、時忠と申した人にお尋ねになったところ、定めて申し上げるのもつまらないことで、「それぞれによく書きます」とお答え申し上げたのでした。定信の君が人に語られたのを、(頼長が)たびたびお尋ねになったのでしょうか。とうとう(定信が)言い切られてしまったとも聞きました。肌と骨とにたとえたとか。その入道(定信)は人に語られました。
朝隆中納言は、行成大納言の手紙をみごとに写されたと聞こえるようです。その手紙を持たない人はいません。世に多くございます。教長の御手跡も、さまざまに都にも田舎にも伝わっております。宮内大輔(定信)も、聖の勧進の文書なども、何かと見過ごさずに書き広めました。どれほど手本が多いことでしょう。道風が生きていらした世にこそ、一行も持たない人は恥と思ったものです。宮内大輔は(行成)大納言の子孫なので、よく似ているはずなのに、一つの様式を伝えられたのでしょうか、いつも見る(行成の)書とは違っていました。祖父の朱雀の治部卿(伊房)の御手跡に、よく似ているそうです。その定信の君は、一切経を一筆でお書きになったのは、普通の人とも思われません。世にまたとないことのようです。五部の大乗経などでさえめったにないのに、たいそう尊い仏縁を結ばれた人なのでしょう。教長の幼名は文殊君と申しました。殿上人でいらした時も道心があって、俗人のまま聖でいらっしゃると聞こえたので、どれほど尊くいらっしゃることでしょう。その御弟で、賀茂(の娘)腹の公達が大勢いらっしゃると聞こえます。その御母こそ歌詠みでいらっしゃいました。祖父が名高い歌詠みだったからでしょう。まことに優雅なことです。「月やむかしのかたみなるらん」と詠まれたのですよ。撰集には「有教が母」として入っていらっしゃいます。奈良・仁和寺・比叡山などに、僧の公達も多くいらっしゃると聞こえます。民部卿の次に宮内卿と申し上げた方(忠長)は、公卿にもならずに終わられました。
意訳
藤原教長は崇徳院の近臣で、保元の乱で常陸に流された。帰京後は高野山に住み、歌人・能書家として知られた。章題の「水茎」は筆跡のこと。教長・朝隆・定信ら当代の能書の人々と、その書風の系譜が語られる。
頼長に朝隆と教長の書の優劣を問われた時忠は、どちらもよいと答えて明言を避けたが、定信はついに言い切った、という。「肌と骨とに喩へたる」は、一方を肉付きの豊かな書、一方を骨格の確かな書と評したものであろう。
世尊寺流の定信が一切経(数千巻)を一人で書写したことは、驚くべき偉業として語られる。教長の母(賀茂成助の娘)が歌人で、「月やむかしのかたみなるらん」の歌が勅撰集に入ったことも記される。
語釈・文法注
- 宰相中將敎長
- 藤原教長。崇徳院の近臣。歌人・能書家。歌学書『古今集註』を著した。第42章参照。
- 俊明の大納言
- 源俊明(1044〜1114)。
- 常陸の浮島
- 常陸国の霞ヶ浦の浮島。
- 佐理ノ兵部卿
- 藤原佐理(944〜998)。三蹟の一人。
- しんのやう
- 真書(楷書)の書風。
- 朝隆
- 藤原朝隆(1097〜1159)。行成の書風を写した能書。
- ときたゞ
- 藤原時忠か。伝未詳。
- 定信
- 藤原定信。世尊寺流の能書家。行成の子孫。宮内大輔。第36章参照。
- 道風
- 小野道風(894〜967)。三蹟の一人。
- すざかの治部卿
- 藤原伊房(1030〜1096)。行成の孫。能書家。
- 一切經を一筆に
- 定信は一切経五千余巻を一人で書写したと伝えられる。
- 文珠君
- 教長の幼名。
- 有敎が母
- 賀茂成助の娘。忠教の妻。歌人。
- 宮內卿
- 藤原忠長。忠教の子。
文法
- 申しきられにけり
- 言い切られてしまった。
- たゞ人ともおぼえ給へず
- 「給へ」は謙譲の補助動詞。普通の人とも思われません。
解説
平安末期の書道は、行成に始まる世尊寺流と、忠通に始まる法性寺流とが並び立っていた。今鏡のこの章は、当時の書の世界を伝える貴重な証言である。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、220〜222頁(コマ125–126)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日