今鏡 第五「藤波の中」 第42章
使合
皇嘉門院聖子は、崇徳天皇の譲位後も近衛天皇の母后として内裏にいた。中宮と東宮の女房たちが手紙の使者の格を競い合い、ついに関白忠通や頼長まで使者に立った話、崇徳天皇と交わした「うらみぬ袖」の機知が語られる。忠通の養女呈子・育子の話も添えられる。
- 1彼彼かのみかどのみかどのみかど位位くらいおりさせおりさせおりさせ給給たまひしかばひしかばいしかば、、、ににに登登のぼらせらせらせ給給たまへりきへりきえりき。。。近衞近衞こんえのみかどののみかどののみかどの御時御時おおんときももも、、、母后母后ははきさきにてにてにて、、、內內うちににに猶猶なおおはしましきおはしましきおわしましき。。。中宮中宮ちゅうぐうととと申申もうしゝしゝしし時時とき、、、近衞近衞こんえのみかどののみかどののみかどの東宮東宮とうぐうにおはしましゝににおはしましゝににおわしまししに、、、ふたふたふた宮宮みやののの女房達女房達にょうぼうたち、、、常常つねにきこえかはしてにきこえかはしてにきこえかわして、、、をかしきをかしきおかしき事事ことどもどもども侍侍はべりけるにりけるにりけるに、、、文文ふみののの使使つかいいかなるものにいかなるものにいかなるものに侍侍はべりけるにかりけるにかりけるにか。。。
- 2わろしとてわろしとてわろしとて、、、始始はじめめめははは藏人藏人くろうどををを、、、東宮東宮とうぐうよりやられたりければよりやられたりければよりやられたりければ、、、してしてして送送おくりたりけりりたりけりりたりけり。。。其其そののの返返かえりごとりごとりごと、、、東宮東宮とうぐうよりよりよりののの少將少將しょうしょうもちておはしたりけりもちておはしたりけりもちておわしたりけり。。。
- 3かやうにするかやうにするかようにする程程ほどににに、、、左左ひだりのおとゞのおとゞのおとど、、、中宮中宮ちゅうぐうののの女房女房にょうぼうののの文文ふみもちてもちてもちて、、、わたりわたりわたり給給たまひたるにひたるにいたるに東宮東宮とうぐうののの女房女房にょうぼうなげきになりてなげきになりてなげきになりて、、、宮司宮司みやずかさなどといかゞせむずるとなどといかゞせむずるとなどといかがせむずると、、、さま〴〵ものさま〴〵ものさまざまもの歎歎なげきにしあへるにきにしあへるにきにしあえるに、、、「「「ののの殿殿どののおはしましたるのおはしましたるのおわしましたるははは、、、このこのこの宮人宮人みやびとにおはしませばにおはしませばにおわしませば、、、ことつけにてこそあれことつけにてこそあれことつけにてこそあれ」」」。。。
- 4などいへどもなどいへどもなどいえども、、、からくしまけてわぶるからくしまけてわぶるからくしまけてわぶる程程ほどににに、、、關白殿關白殿かんぱくどのわれわれわれ使使つかいせんとてせんとてせんとて、、、ふみかゝせてふみかゝせてふみかかせて、、、中宮中宮ちゅうぐうののの御方御方おおんかたにわたらせにわたらせにわたらせ給給たまへるにへるにえるに、、、女房女房にょうぼう皆皆みなかくれてかくれてかくれて心得心得こころえてさしいでねばてさしいでねばてさしいでねば、、、とかくしてとかくしてとかくして、、、うちかけてうちかけてうちかけて歸歸かえらせらせらせ給給たまひぬひぬいぬ。。。
- 5中宮中宮ちゅうぐうにににははは又又また「「「これにまさるこれにまさるこれにまさる使使つかははわ、、、院院いんこそおはしまさめこそおはしまさめこそおわしまさめ」」」。。。とてとてとて、、、「「「かゝるかゝるかかる事事ことこそさぶらへこそさぶらへこそさぶらえ」」」とてとてとて、、、內內うちののの御使御使おおんつかいにやありけんにやありけんにやありけん。。。頭頭かしらノノノ中將中將ちゅうじょうとてとてとてののの君君きみ、、、鳥羽鳥羽とばノノノ院院いんののの六條六條ろくじょうにおはしましゝににおはしましゝににおわしまししに、、、申申もうされければされければされければ、、、「「「いかにもいかにもいかにも侍侍はべるべきにるべきにるべきに、、、女房女房にょうぼうののの取取とりつぎてせためりつぎてせためりつぎてせため侍侍はべればればれば、、、えなんしえなんしえなんし侍侍はべるまじきるまじきるまじき」」」。。。
- 6ととと申申もうさせさせさせ給給たまひなどしてありときゝひなどしてありときゝいなどしてありときき侍侍はべりしりしりし、、、後後のちにににははは、、、いかゞなりいかゞなりいかがなり侍侍はべりけんりけんりけん。。。
- 7このこのこの女院女院にょういん始始はじめつめつめつ方方かたははは、、、上上うえ常常つねにおはしましてにおはしましてにおわしまして、、、よるよるよる晝遊晝遊ひるあそびせさせたまひけるにびせさせたまひけるにびせさせたまいけるに、、、末末すえつつつ方方かたにににははは、、、のすけなどいふのすけなどいふのすけなどいう人人ひといできていできていできて、、、めづらしきめづらしきめずらしき折折おりももも、、、多多おおくおはしましけるにくおはしましけるにくおわしましけるに、、、上上うえふとふとふと渡渡わたらせらせらせ給給たまひけるにひけるにいけるに、、、しばししばししばし短短みじかききき御御おん屛風屛風びょうぶのののうへよりうへよりうえより、、、御覽御覽ごらんじければじければじければ、、、きさききさききさき十五重十五重とおかさなりたるなりたるなりたる、、、白白しろききき御御おんぞたてまつりたるぞたてまつりたるぞたてまつりたる御袖口御袖口おおんそでぐちののの、、、白浪白浪しらなみたちたるやうにたちたるやうにたちたるように、、、匂匂におひたりけるひたりけるいたりけるををを、、、「「「浪浪なみののの寄寄よりたるりたるりたるををを見見みるやうなるるやうなるるようなる御袖御袖おおんそでかなかなかな」」」。。。
- 8ととと仰仰おおせられければせられければせられければ、、、「「「袖袖そでにもやにもやにもや」」」ととと、、、いらへいらへいらえ申申もうさせさせさせ給給たまひけるとひけるといけると聞聞きこえこえこえ侍侍はべりしりしりし。。。「「「うらみぬうらみぬうらみぬ袖袖そでももも、、、浪浪なみははは立立たちけりちけりちけり」」」。。。といふといふという古古ふるきこときこときこと、、、なにゝなにゝなにに侍侍はべるとかやるとかやるとかや。。。
- 9「「「折折おりふしいとやさしくふしいとやさしくふしいとやさしく侍侍はべりけることなどこそりけることなどこそりけることなどこそ、、、傳傳つたへへえうけうけうけ給給たまはははりしかりしかりしか。。。ひがことにやひがことにやひがことにや侍侍はべりけんりけんりけん。。。人人ひとののの傳傳つたへへえ侍侍はべることることることははは知知しりがたくぞりがたくぞりがたくぞ。。。新院新院しんいん遠遠とおくおはしましてのちくおはしましてのちくおわしましてのち、、、このこのこの女院女院にょういんははは御御おんぐしおろさせぐしおろさせぐしおろさせ給給たまひてけりとなんひてけりとなんいてけりとなん、、、聞聞きこえさせたまふこえさせたまふこえさせたまう。。。同同おなじじじ事事ことととと申申もうしながらもしながらもしながらも、、、いとあはれにいとあはれにいとあわれに悲悲かなししし。。。
- 10近衞近衞こんえののの帝帝みかどののの御時御時おおんときののの中宮中宮ちゅうぐう、、、呈子呈子ていしととと申申もうしゝもしゝもししも、、、太政大臣太政大臣だいじょうだいじん伊伊い通通つうのおとゞののおとゞののおとどの御御おんむすめむすめむすめををを、、、このこのこの法性寺殿法性寺殿ほっしょうじどのののの御子御子みことてぞとてぞとてぞ、、、たてまつりたてまつりたてまつり給給たまへるへるえる。。。此此このののノノノ院院いんととと申申もうすなるべしすなるべしすなるべし。。。
- 11誠誠まことののの御子御子みこならねどならねどならねど、、、院號院號いんごうももも關白關白かんぱくののの御子御子みことてとてとてはべるとかやはべるとかやはべるとかや。。。このこのこの法性寺殿法性寺殿ほっしょうじどのははは、、、二條二條にじょうのみかどののみかどののみかどの御時御時おおんときももも、、、女御女御にょうごたてまつらせたてまつらせたてまつらせ給給たまひてひていて、、、中宮中宮ちゅうぐうにたちたまひきにたちたまひきにたちたまいき。。。
- 12みかどかくれさせみかどかくれさせみかどかくれさせ給給たまひてもひてもいても、、、いまのいまのいまの新院新院しんいんくらゐのくらゐのくらいの御時御時おおんとき、、、國母國母こくもとてとてとて、、、猶猶なおうちにおはしましきうちにおはしましきうちにおわしましき。。。みかどみかどみかど位位くらいさらせさらせさらせ給給たまひしかばひしかばいしかば、、、里里さとにおはしませどもにおはしませどもにおわしませども、、、猶猶なお中宮中宮ちゅうぐうととと申申もうすなるべしすなるべしすなるべし。。。
- 13御御おんぐしおろさせぐしおろさせぐしおろさせ給給たまへるとかやへるとかやえるとかや。。。まだまだまだ御年御年おおんとし廿三廿三にじゅうさん四四しなどにやなどにやなどにや。。。おはしますらんおはしますらんおわしますらん。。。此此こののの頃頃ころばかりばかりばかり、、、上﨟上﨟じょうろうののの入道入道にゅうどうノノノ宮宮みや、、、院院いんたちたちたち、、、多多おおくおはしますくおはしますくおわします折折おりははは、、、ありがたくやありがたくやありがたくや侍侍はべらんらんらん。。。
- 14女院女院にょういん、、、いつところおはしますいつところおはしますいつところおわします。。。おほみやおほみやおおみや、、、中宮中宮ちゅうぐう、、、二所二所ふたところのきさきののきさきののきさきの宮宮みや、、、齋宮齋宮さいぐうさいさいさい院院いんなどなどなどかた〴〵きこえさせかた〴〵きこえさせかたがたきこえさせ給給たまふふう。。。且且かつはははよのよのよのはははかなきによらせかなきによらせかなきによらせ給給たまふふう。。。佛佛ほとけののの道道みちのののひろまりひろまりひろまり給給たまへるなるべしへるなるべしえるなるべし。。。
現代語訳
あの帝(崇徳)が位をお下りになったので、(聖子は)皇太后宮にお上りになりました。近衛天皇の御時も母后として、内裏になおいらっしゃいました。中宮と申し上げていた時、近衛天皇が東宮でいらしたので、両宮の女房たちがいつも文を交わして、おもしろいことなどがありましたが、文の使者はどのような者だったのでしょうか。「身分が低い」といって、初めは蔵人を東宮から遣わしたところ、返事はまた少将為通を使って送りました。その返事は、東宮から公通の少将が持っていらっしゃいました。このようにするうちに、左大臣(頼長)が中宮の女房の文を持っておいでになったので、東宮の女房は困ってしまって、宮司などとどうしようかと、さまざまに嘆き合っていたところ、「東宮傅の殿(頼長)がいらしたのは、この(東宮の)宮人でいらっしゃるのだから、ことづけ(ついで)にすぎないのだ」などと言うけれども、ひどく負けてしょげていたところ、関白殿(忠通)が「私が使者をしよう」と言って、文を書かせて中宮の御方にお出かけになったところ、女房は皆隠れて、心得て出てこなかったので、あれこれして、(文を)うち掛けてお帰りになりました。中宮の方ではまた「これにまさる使者は、院(鳥羽)でいらっしゃるでしょう」と言って、「このようなことでございます」と、内裏の御使でしたでしょうか、頭中将として教長の君が、鳥羽院が六条にいらしたところに申し上げたところ、「何でもいたしましょうが、女房が取り次いで責め立てるので、とてもできそうにありません」と(院が)おっしゃったりなどしたと聞きましたが、後にはどうなったのでしょう。
この女院は、初めのころは帝(崇徳)がいつもいらして、夜も昼もお遊びになっていましたが、晩年には兵衛佐などという人が現れて、(帝のおいでが)珍しい折も多くいらしたところ、帝がふとおいでになって、しばらく短い御屏風の上からご覧になったところ、后が十五枚重ねた白い御衣をお召しになった御袖口が、白波が立っているように美しく見えたので、「浪が寄せているのを見るような御袖だね」とおっしゃると、「恨みぬ袖にもや(恨んでもいない袖にも浪が立つのでしょうか)」とお答え申し上げなさったと聞きました。「うらみぬ袖も浪は立ちけり」という古歌が、何かにあるとか。折にかなってたいそう優雅なことだと伝え承りました。間違いでございましょうか。人が伝えることはわかりにくいものです。新院(崇徳)が遠く(讃岐に)いらしてから、この女院は出家なさったと聞こえます。同じことと申しながら、まことにしみじみと悲しいことです。
近衛天皇の御時の中宮で呈子と申し上げた方も、太政大臣伊通公の御娘を、この法性寺殿の御子として差し上げなさったのです。このごろ九条院と申し上げるのでしょう。本当の御子ではないけれども、院号も関白の御子としてあるとか。この法性寺殿は、二条天皇の御時も女御(育子)を差し上げなさって、中宮にお立ちになりました。帝がお亡くなりになっても、今の新院(六条)在位の御時、国母として、なお内裏にいらっしゃいました。帝が位をお退きになったので、里にいらっしゃるけれども、やはり中宮と申し上げるのでしょう。出家なさったとか。まだ御年二十三、四などでいらっしゃるでしょうか。このごろほど、高貴な入道の宮や女院たちが多くいらっしゃる折は、めったにないでしょう。女院は五人いらっしゃいます。大宮・中宮の二人の后の宮、斎宮・斎院など、それぞれ(出家されたと)聞こえます。一つには世のはかなさによるのでしょう。仏の道が広まったのでしょう。
意訳
中宮聖子と東宮体仁(近衛)の女房たちが、手紙の使者の格を競い合ううちに、使者が蔵人から少将へ、さらに東宮傅の頼長、関白忠通へとせり上がり、最後には鳥羽院にまで頼もうとした、という話は、王朝の宮廷の遊び心をよく伝える。章題の「使合」はこれによる。
崇徳天皇が、十五枚重ねの白い袖口を見て「浪の寄りたる」と言ったのに対し、聖子が「うらみぬ袖にもや」と答えた話は、天皇の寵が兵衛佐に移ったことへのさりげない恨みを、古歌の一句でやわらかく返した機知である。
最後に、忠通の養女として后となった呈子(九条院)・育子のことが記され、多くの女院・后が出家している当時の宮廷を、語り手は「仏の道の広まり給へる」と受けとめている。
語釈・文法注
- 皇太后宮
- 藤原聖子。皇嘉門院。
- 少將爲通
- 藤原為通(1112〜1154)。
- 公通の少將
- 藤原公通(1117〜1173)。
- 傳の殿
- 東宮傅。頼長は東宮傅を兼ねていた。
- 敎長
- 藤原教長(1109〜1180?)。崇徳院の近臣。歌人・能書家。
- 兵衞のすけ
- 兵衛佐局。崇徳天皇の寵愛を受け、重仁親王を産んだ。第19章参照。
- うらみぬ袖も、浪は立ちけり
- 古歌の句。「恨み」に「浦見」をかけ、恨んでもいない袖にも涙の浪が立つ、の意。
- 九條ノ院
- 藤原呈子。近衛天皇の中宮。第20章参照。
文法
- からくしまけて
- 「からし」はひどい。ひどく負けて。
- えなんし侍るまじき
- 「え…まじ」の不可能推量。とてもできそうにない。
解説
使者の格を競う話の結末で、鳥羽院が「女房の取りつぎてせため侍れば」と断ったというくだりは、院さえ女房たちに一目置いていたことを示すユーモラスな一場面である。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、197〜200頁(コマ113–115)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日