今鏡 第五「藤波の中」 第41章
浜千鳥
忠通の子女。北の方宗子は嫉妬深く、他腹の子を遠ざけたが、晩年には改めた。北の方の産んだ聖子(皇嘉門院)は崇徳天皇の中宮となり、小弓の遊びの賭物に添えた「浜千鳥」の歌のやりとりが優雅に語られる。
- 1此此こののの近近ちかくおはしましゝくおはしましゝくおわしましし入道入道にゅうどうおほきおとゞおほきおとゞおおきおとど、、、御心御心みこころののの色色いろめきておはしまししかばめきておはしまししかばめきておわしまししかば、、、ときめきときめきときめき給給たまふふうかた〴〵かた〴〵かたがた多多おおくてくてくて、、、ののの方方かたははは、、、きびしくものしきびしくものしきびしくものし給給たまひしかどもひしかどもいしかども、、、はら〴〵にはら〴〵にはらばらに公達公達きんだちおほくおはしましきおほくおはしましきおおくおわしましき。。。
- 2ののの僧正僧正そうじょう、、、ののの大大だい僧正僧正そうじょう、、、このこのこのふたりふたりふたりははは、、、をとこにおはしまさばをとこにおはしまさばおとこにおわしまさば、、、今今いまははは老老おいいい給給たまへるへるえる上達部上達部かんだちめにておはすべきにておはすべきにておわすべきををを、、、北北きたののの方方かたののの御御おんはははらにらにらに、、、をのこをのこおのこ君君きみたちもおはしまさでたちもおはしまさでたちもおわしまさで、、、女院女院にょういんばかりもちたてまつりばかりもちたてまつりばかりもちたてまつり給給たまひつるにつけてもひつるにつけてもいつるにつけても、、、大方大方おおかたももも嫉嫉ねたましきましきましき御心御心みこころののの深深ふかくおはしましけるにやくおはしましけるにやくおわしましけるにや。。。
- 3御房御房ごぼうたちのたちのたちの、、、幼幼おさなくおはしましゝよりくおはしましゝよりくおわしまししより、、、おとなまでおとなまでおとなまで、、、近近ちかくもよせくもよせくもよせ申申もうさせたまはずさせたまはずさせたまわず。。。虫虫むしののの心心こころををを、、、すこしすこしすこし持持もたせたせたせ給給たまはゞはゞわば能能よくくく侍侍はべらましらましらまし。。。
- 4后后きさきなどなどなどははは、、、かのかのかの虫虫むしのやうにのやうにのように、、、妬妬ねたむむむ心心こころなければなければなければ、、、御子御子みこもももうまごもうまごもうまごも多多おおくいできくいできくいでき給給たまふとこそふとこそうとこそ申申もうすなれすなれすなれ。。。關白關白かんぱく攝政攝政せっしょうののの北北きたののの方方かたももも、、、同同おなじじじ事事ことにこそおはすべかめれにこそおはすべかめれにこそおわすべかめれ。。。
- 5されどされどされど年年としよりてよりてよりてははは、、、思思おもほしほしおし直直なおしたりけるにやしたりけるにやしたりけるにや。。。公公きんだちだちだち外外ほかばらなれどばらなれどばらなれど、、、殿殿どのののの內內うちにもにもにも多多おおくおはしましきくおはしましきくおわしましき。。。源中納言源中納言げんちゅうなごんののの姫君姫君ひめぎみたちたちたちふたりふたりふたりににに、、、ひとりのひとりのひとりのははは、、、故故こ攝政攝政せっしょう殿殿どの、、、今一今一いまひと人人ひとのにのにのにははは、、、當時當時とうじののの殿殿どの、、、又又また山山やまににに法印法印ほういん御房御房ごぼうとておはしましきとておはしましきとておわしましき。。。
- 6又又また奈良奈良ならににに僧都僧都そうずとておはしますなりとておはしますなりとておわしますなり。。。またまたまた女房女房にょうぼうののの御御おんはははらにらにらに、、、のおのおのおほいほいほい殿殿どの、、、三井寺三井寺みいでらのあやのあやのあや僧都僧都そうずのきみのきみのきみ、、、又又また殿殿とのなどなどなど申申もうしておはしますなりしておはしますなりしておわしますなり。。。
- 7又又また山山やまののの法印法印ほういんなどきこえたまふなどきこえたまふなどきこえたまう。。。又又また末末すえつかたにつかたにつかたに、、、時時ときめかせめかせめかせ給給たまひしひしいしはらはらはらにおにおにおはははするするする、、、山山やまののの法眼法眼ほうげんなどなどなど申申もうしてきこえしてきこえしてきこえ給給たまふふう。。。
- 8女女おんなきんだちきんだちきんだちははは、、、女院女院にょういん、、、中宮中宮ちゅうぐうなどおはしますなどおはしますなどおわします。。。讚岐讚岐さぬきのみかどののみかどののみかどの御時御時おおんときののの中宮中宮ちゅうぐう聖聖ひじり子子こととと申申もうすすすははは、、、北北きたののの政所政所まんどころのののひとりひとりひとり生生うみみみ奉奉たてまつらせたまへるぞかしらせたまへるぞかしらせたまえるぞかし。。。
- 9そのそのその御母御母おおんははははは、、、宗通宗通むねみちののの大納言大納言だいなごんののの御御おんむすめむすめむすめ、、、顯季顯季あきすえののの修理修理すりのかみののかみののかみの御御おんむすめのむすめのむすめの腹腹はらなるなるなるををを、、、法性寺殿法性寺殿ほっしょうじどのににに奉奉たてまつりりり給給たまへりきへりきえりき。。。かのかのかの女院女院にょういん、、、讚岐讚岐さぬきののの帝帝みかどくらゐにおはしましくらゐにおはしましくらいにおわしまし、、、父父ちちのおとゞものおとゞものおとども時時ときののの關白關白かんぱくにおはしましゝかばにおはしましゝかばにおわしまししかば、、、宮宮みやののの御方御方おおんかた御御おんあそびあそびあそび常常つねにせさせにせさせにせさせ給給たまふふう、、、をり〳〵につけつゝをり〳〵につけつゝおりおりにつけつつ、、、昔昔むかしおぼしおぼしおぼし出出いづることもづることもずることも、、、いかにおほくいかにおほくいかにおおく侍侍はべらんらんらん。。。
- 10卯月卯月うずきのころのころのころ、、、みかどみかどみかど宮宮みやののの御方御方おおんかたにににののの御御おんあそびにあそびにあそびに、、、殿上人殿上人てんじょうびとかたわかちてかたわかちてかたわかちて、、、などなどなど出出いだされだされだされ侍侍はべりけるにりけるにりけるに、、、扇扇おうぎののの紙紙かみををを册子册子そうしのかたにのかたにのかたに作作つくりてりてりて、、、歌歌うたかきつけられたりけりかきつけられたりけりかきつけられたりけり。。。そのそのその歌歌うたははわ、、、
- 11これこれこれををを見見みててて思思おもひもひもいも出出いでよでよでよ濱千鳥濱千鳥はまちどりあとなきあとなきあとなき跡跡あとををを尋尋たずねけりとねけりとねけりとははは
- 12ととと侍侍はべりけるりけるりける返返かえししし、、、ののの宰相宰相さいしょう、、、右中辨右中辨うちゅうべんとておはせしぞしたまひけるとておはせしぞしたまひけるとておわせしぞしたまいける。。。
- 13はまはまはま千鳥千鳥ちどり跡跡あとなきなきなき跡跡あとををを思思おもひひい出出いでてでてでて尋尋たずねけりともねけりともねけりともけふけふきょうこそこそこそははは知知しれれれ
- 14とぞとぞとぞうけうけうけ給給たまはははりしりしりし。。。歌歌うたははは殿殿どののよませのよませのよませ給給たまへるにやへるにやえるにや侍侍はべりけんりけんりけん。。。拾遺抄拾遺抄しゅういしょうにににはべるはべるはべる、、、のおとゞののおとゞののおとどの故事故事こじ、、、思思おもひいでられてひいでられていいでられて、、、いとやさしくこそきこえいとやさしくこそきこえいとやさしくこそきこえ侍侍はべりしかりしかりしか。。。
現代語訳
近ごろまでいらした入道太政大臣(忠通)は、色好みのお心でいらしたので、時めかれる女性が多くて、北の方(宗子)は厳しくいらしたけれども、それぞれの腹に公達が多くいらっしゃいました。奈良の僧正(覚信)、三井寺の大僧正(覚忠)、このお二人は、男(俗人)でいらしたら、今は年老いた公卿でいらっしゃるはずですが、北の方の腹に男君もいらっしゃらず、女院(皇嘉門院)だけを持っていらしたにつけても、一般にも嫉妬深いお心が深くいらしたのでしょうか、御房たちが幼くていらした時から大人になるまで、近くにもお寄せにならなかったのです。いなごなどという虫の心を少しお持ちになっていたらよかったでしょうに。后などはあの虫のように妬む心がないので、御子も孫も多くお生まれになると申すそうです。関白・摂政の北の方も同じことでいらっしゃるはずのようです。けれども年をとってからは、思い直されたのでしょうか、公達は外腹であるけれども、殿の内にも多くいらっしゃいました。源中納言(国信)の姫君たち二人のうち、一人の腹には故摂政殿(基実)、もう一人の腹には今の殿(基房)、また比叡山に法印御房(慈円?)としていらっしゃいました。また奈良に僧都としていらっしゃるそうです。また女房の腹に、右大臣殿(兼実)、三井寺のあや僧都の君、また三位中将殿(兼房)などと申していらっしゃるそうです。また比叡山の法印などと申し上げます。また晩年に時めかれた女性の腹にいらっしゃる、比叡山の法眼などと申し上げます。
女君たちは女院(皇嘉門院)・中宮(育子)などがいらっしゃいます。讃岐の帝(崇徳)の御時の中宮で聖子と申すのは、北の政所がお一人お産みになった方です。その御母(宗子)は、宗通大納言の御娘で、顕季修理大夫の御娘の腹ですが、法性寺殿に嫁がれたのです。あの女院は、讃岐の帝が在位でいらして、父大臣も時の関白でいらしたので、宮の御方でお遊びをいつもなさった折々につけて、昔を思い出されることも、どれほど多いことでしょう。四月ごろ、帝が宮の御方で小弓のお遊びをなさった時、殿上人が組に分かれて、賭物などを出されたところ、扇の紙を冊子の形に作って、歌が書きつけてありました。その歌は、
これを見て思ひも出でよ濱千鳥あとなき跡を尋ねけりとは
とありましたのへの返しは、公行の宰相で右中弁でいらした方がなさいました。
はま千鳥跡なき跡を思ひ出でて尋ねけりともけふこそは知れ
と承りました。歌は殿(忠通)がお詠みになったのでしょうか。拾遺抄にある小野宮大臣(実頼)の故事が思い出されて、たいそう優雅に聞こえました。
意訳
忠通の正室宗子は嫉妬深く、他の女性の産んだ子を身近に寄せなかった。語り手は、嫉妬しないので子孫が多いといういなご(螽斯)の故事を引いて、やんわりと批判している。それでも晩年には改め、外腹の子たちも摂関家に迎えられた。その中には、のちの九条兼実・慈円らが含まれる。
宗子の産んだ唯一の子聖子は崇徳天皇の中宮(皇嘉門院)となった。小弓の遊びの賭物に添えられた「浜千鳥」の歌は、浜千鳥の足跡に筆跡(手紙)をかけ、跡のない(行方の知れない)跡を尋ねたと詠む。拾遺抄に見える藤原実頼の故事をふまえた趣向で、章題の「浜千鳥」はこの歌による。
語釈・文法注
- 北の方
- 藤原宗子(1097〜1155)。藤原宗通の娘。忠通の正室。皇嘉門院の母。
- 奈良の僧正
- 覚信(1065〜1121?)。忠通の子。興福寺別当。
- 三井寺の大僧正
- 覚忠。忠通の子。第21章参照。
- いなご
- 「螽斯(しゅうし、いなご)」。『詩経』で、いなごは妬まないので子孫が多いとされ、后妃の徳のたとえとされた。
- 右のおほい殿
- 九条兼実(1149〜1207)。忠通の子。日記『玉葉』を残した。九条家の祖。
- 三位中將殿
- 藤原兼房(1153〜1217)。忠通の子。
- 小弓の御あそび
- 小さな弓で的を射る遊び。賭物を出して勝負した。
- 賭物
- 勝負事で賭ける品物。
- 公行の宰相
- 藤原公行(1105〜1148)。
- 小野宮のおとゞの故事
- 藤原実頼が、小弓の賭物に、紙を冊子のようにして何も書かずに渡し、開いて見たら「浜千鳥跡のなきこと」とあったという故事(拾遺抄)。
文法
- 持たせ給はゞ能く侍らまし
- 反実仮想。持っていらしたらよかったでしょうに。
- けふこそは知れ
- 「こそ…知れ」の係り結び。今日こそ知った。
和歌
これを見て思ひも出でよ濱千鳥あとなき跡を尋ねけりとは
- 詠者
- 藤原忠通か
- 状況
- 崇徳天皇が中宮聖子の御方で小弓の遊びをした時、扇の紙を冊子形にした賭物に書きつけた歌。
修辞
- 掛詞
- 「跡」に浜千鳥の足跡と筆跡(文字)をかける。
- 本説
- 藤原実頼の「浜千鳥跡のなきこと」の故事をふまえる。
はま千鳥跡なき跡を思ひ出でて尋ねけりともけふこそは知れ
- 詠者
- 藤原公行
- 状況
- 前の歌への返し。
修辞
- 掛詞
- 「跡」に足跡と筆跡をかける。
解説
忠通の子の中で、九条兼実と慈円は、のちの鎌倉時代初期の政治と文化に大きな足跡を残した。今鏡が成立した嘉応二年には、兼実はまだ二十二歳の右大臣で、語り手は「右のおほい殿」と簡単に触れるのみである。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、194〜197頁(コマ112–113)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日