今鏡 第五「藤波の中」 第40章
藤の初花
忠通の子たち。長男の六条摂政基実は十六歳で関白となったが二十四歳で早世した。弟の今の摂政基房は、叔父頼長やその子たちが失脚したため、二十二歳で摂政・氏長者となった。語り手は、摂関家の母方が多く源氏であることに注目し、藤原氏の繁栄を祝う。
- 1前前さきのノノノ右大臣右大臣うだいじんとてとてとて、、、近近ちかくおはしましゝくおはしましゝくおわしまししははは、、、法性寺法性寺ほっしょうじのおとゞののおとゞののおとどの太郞太郞たろうにぞおはしましゝにぞおはしましゝにぞおわしましし。。。御母御母おおんはは從二位從二位じゅにい源源げんノノノととと申申もうしきしきしき。。。國信國信くにざねととと申申もうしゝしゝしし、、、中納言中納言ちゅうなごんのむすめにぞおはしますなるのむすめにぞおはしますなるのむすめにぞおわしますなる。。。
- 2このおとゞのこのおとゞのこのおとどの御名御名みなははは、、、とぞとぞとぞ申申もうすとすとすとうけうけうけ給給たまはははりしりしりし。。。いづれのいづれのいずれの御時御時おおんときののの例例れいとかとかとか。。。左衞門左衞門さえもんノノノ督督かみなどなどなど聞聞きこえさせこえさせこえさせ給給たまひしにひしにいしに、、、其其そののの後後のち大納言大納言だいなごん右大臣右大臣うだいじんなどになどになどに、、、成成ならせらせらせ給給たまへりきへりきえりき。。。
- 3折折おりふしふしふし、、、あきあはざりけるにやあきあはざりけるにやあきあわざりけるにや。。。大將大將だいしょうにににはははならせならせならせ給給たまはざりしかとよはざりしかとよわざりしかとよ。。。二條二條にじょうのみかどのみかどのみかど、、、位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たまひしにひしにいしに、、、父父ちちおとゞのおとゞのおとどの讓讓ゆずりにてりにてりにて、、、保保ほう元元げん三年三年さんねん八月八月はちがつ十六日十六日じゅうろくにち、、、關白關白かんぱくになりになりになり給給たまふふう。。。
- 4御御おんとしとしとし十六十六じゅうろくとぞきこえとぞきこえとぞきこえ侍侍はべりしりしりし。。。昔昔むかしよりかくきびよりかくきびよりかくきびはははにてにてにて、、、なりなりなり給給たまへるへるえる一一いちののの人人ひと、、、これやこれやこれや始始はじめにておはしますらんめにておはしますらんめにておわしますらん。。。からからから國國くににににといひけるといひけるといいける人人ひとははは、、、十二十二じゅうににてぞにてぞにてぞ大臣大臣おとどになりになりになり給給たまひけるひけるいける。。。
- 5世世よののの人人ひとをををさなしともさなしともさなしとも申申もうさゞりけりさゞりけりさざりけり。。。人人ひとがらによるべきがらによるべきがらによるべき事事ことにこそにこそにこそ侍侍はべるめれるめれるめれ。。。永永えい曆曆りやく元年元年がんねん八月八月はちがつ十一日十一日じゅういちにち右大臣右大臣うだいじんにのぼりにのぼりにのぼり給給たまふふう。。。永永えい萬萬よろず元年元年がんねん六月六月ろくがつみかどのみかどのみかどの御位御位おおんくらいみこにみこにみこに讓讓ゆずりりり奉奉たてまつらせらせらせ給給たまひしひしいし日日ひ、、、攝政攝政せっしょうにならせにならせにならせ給給たまふふう。。。
- 6同同おなじじじ二年二年にねん七月七月しちがつ廿六日廿六日にじゅうろくにち、、、御年御年おおんとし二十二十にじゅう四四しにてにてにて、、、かくれさせかくれさせかくれさせ給給たまひにきひにきいにき。。。大臣大臣おとどのくらゐにてのくらゐにてのくらいにて十年十年じゅうねんおはしましきおはしましきおわしましき。。。このおとゞこのおとゞこのおとど御御おんみめもみめもみめも肥肥こえきよらにおはしましきえきよらにおはしましきえきよらにおわしましき。。。
- 7又又また、、、手手てなどもなどもなども昔昔むかしののの跡跡あとつぎまさせつぎまさせつぎまさせ給給たまへりけりへりけりえりけり。。。いとめでたくいとめでたくいとめでたく聞聞ききたてまつりしきたてまつりしきたてまつりしほどにほどにほどに、、、夢夢ゆめのやうにてかくれさせのやうにてかくれさせのようにてかくれさせ給給たまひにしひにしいにし、、、いとかなしくこそいとかなしくこそいとかなしくこそ。。。
- 8去年去年こぞははは二條二條にじょうのみかどのみかどのみかど、、、ことしことしことしはははこのこのこの殿殿どのののの御事御事おおんこと、、、折折おりふしふしふし心心こころあらんあらんあらん人人ひとははは、、、思思おもひひい知知しりぬべきりぬべきりぬべき世世よなるべしなるべしなるべし。。。贈贈ぞう太政大臣太政大臣だいじょうだいじん正正じょう一一ひと位位くらいなどなどなど、、、後後のちににに添添そへへえ奉奉たてまつられられられはべりとぞはべりとぞはべりとぞ、、、聞聞きこえたまふこえたまふこえたまう。。。
- 9きのきのきのふふふ今日今日きょうのちごにのちごにのちごに、、、おはしますおはしますおわしますををを、、、昔語昔語むかしがたりりにりにりにうけうけうけ給給たまはるやうにはるやうにわるように覺覺おぼえてえてえて、、、いとあはれにかなしくいとあはれにかなしくいとあわれにかなしく侍侍はべりりり。。。六條六條ろくじょうノノノ攝政攝政せっしょうととと申申もうすなるべしすなるべしすなるべし。。。又又また中中なかののの攝政攝政せっしょう殿殿どのととと申申もうすすす人人ひとももも侍侍はべりりり。。。
- 10太郞太郞たろうにおはせしかどもにおはせしかどもにおわせしかども、、、ノノノ關白關白かんぱくととと申申もうしゝしゝしし樣樣さまなるべしなるべしなるべし。。。
- 11このこのこの次次つぎののの一一いちののの人人ひとははは、、、今今いまののの攝政攝政せっしょうのおとゞにおはしますのおとゞにおはしますのおとどにおわします。。。御母御母おおんはははははこれもこれもこれも國信國信くにざねののの中納言中納言ちゅうなごんののの三三さんののの君君きみにぞおはするにぞおはするにぞおわする。。。御名御名みなはははととと聞聞きこえこえこえ給給たまふふう。。。三位三位さんみししし給給たまへるとぞへるとぞえるとぞ。。。
- 12一一いちののの人人ひと藤氏藤氏とうじののの御御おんはははららら、、、多多おおくくくははは源氏源氏げんじにおはしますにおはしますにおわします。。。然然しかるべきるべきるべき事事ことにぞにぞにぞ侍侍はべるるる。。。宇治殿宇治殿うじどの二條二條にじょう殿殿どのののの御母御母おおんははははは、、、一條一條いちじょうののの左大臣左大臣さだいじんののの御御おんむすめむすめむすめ、、、後後のちののの二條二條にじょうののの關白殿關白殿かんぱくどのははは、、、土御門土御門つちみかどののの右右みぎのおとゞののおとゞののおとどの御御おんむすめむすめむすめ、、、法性寺殿法性寺殿ほっしょうじどのははは六條六條ろくじょうののの右大臣右大臣うだいじん、、、此此こののの殿殿どのふたところふたところふたところははは、、、源中納言源中納言げんちゅうなごんののの姫君姫君ひめぎみふたところにおはしませばふたところにおはしませばふたところにおわしませば、、、藤氏藤氏とうじははは一一いちののの人人ひとにてにてにて、、、源氏源氏げんじははは御母御母おおんはは方方かたやんごとなしやんごとなしやんごとなし。。。
- 13御流御流おおんながれれかたがたあらまほしくもれかたがたあらまほしくもれかたがたあらまほしくも侍侍はべるかなるかなるかな。。。今今いまののの世世よののの事事こと、、、新新あたらしくしくしく申申もうさでもさでもさでも侍侍はべるべけれどるべけれどるべけれど、、、ことのことのことの續續つづきなればきなればきなれば、、、申申もうししし侍侍はべるになんるになんるになん。。。
- 14このおとゞこのおとゞこのおとど永永えい曆曆りやく元年元年がんねん八月八月はちがつ十一日十一日じゅういちにち、、、內大臣內大臣ないだいじんにならせにならせにならせ給給たまひてひていて、、、同同おなじじじ月左大將月左大將つきさだいしょうかけさせかけさせかけさせ給給たまひきひきいき。。。同同おなじじじ二年二年にねん九月十三日九月十三日くがつじゅうさんにち、、、左大臣左大臣さだいじんにのぼらせにのぼらせにのぼらせ給給たまひてひていて、、、永永えい萬萬よろず二年二年にねん七月七月しちがつ二十七日二十七日にじゅうしちにち、、、攝政攝政せっしょうにならせにならせにならせ給給たまふふう。。。
- 15御御おんとしとしとし廿二廿二にじゅうににおはしましきにおはしましきにおわしましき。。。やがてやがてやがて藤氏藤氏とうじののの長者長者ちょうじゃにならせにならせにならせ給給たまひきひきいき。。。仁仁にん安安やす三年三年さんねん二月二月にがつ、、、當今當今とうぎん位位くらいににに卽卽つかせかせかせ給給たまひしにひしにいしに、、、又又また攝政攝政せっしょうにならせにならせにならせ給給たまふふう。。。いとやんごとなくいとやんごとなくいとやんごとなく、、、おはしましけるおはしましけるおわしましける御榮御榮おおんさかえなりえなりえなり。。。
- 16御兄御兄おおんあにののの攝政攝政せっしょう殿殿どのももも、、、宇治宇治うじののの左左ひだりのおとゞものおとゞものおとども、、、其其そののの御子御子みこのののももも、、、長者長者ちょうじゃつぎつぎつぎ給給たまひてひていて、、、久久ひさしくおはしまさばしくおはしまさばしくおわしまさば、、、一一いちののの人人ひとののの御子御子みこなりともなりともなりとも、、、大臣大臣おとどにこそならせにこそならせにこそならせ給給たまふともふともうとも、、、必必かならずしもしもしも、、、家家いえのあとつがせのあとつがせのあとつがせ給給たまふふう事事ことかたきかたきかたきををを、、、このこのこの御報御報おおんむくいにやにやにや、、、押押おされさせされさせされさせ給給たまひけんひけんいけん。。。
- 17皆皆みな夢夢ゆめになりてになりてになりて、、、かくかくかく忽忽たちまちににに攝政攝政せっしょうにならせたまひにならせたまひにならせたまい、、、藤氏藤氏とうじののの長者長者ちょうじゃにおはしますにおはしますにおわします。。。「「「ののの山山やまののの朝日朝日あさい」」」ははは、、、かねてかねてかねて照照てらさせらさせらさせ給給たまひけんひけんいけん。。。御身御身おおんみののの才才さい幼幼おさなくよりすぐれておはしますとてくよりすぐれておはしますとてくよりすぐれておわしますとて、、、內宴內宴ないえんののの詩詩しなどもなどもなども、、、兄兄このかみをををさしおきさしおきさしおき奉奉たてまつりてりてりて、、、そのそのその席席むしろにさしいらせにさしいらせにさしいらせ給給たまひきひきいき。。。
- 18御心御心みこころばへあるべかしくばへあるべかしくばえあるべかしく、、、まだまだまだ若若わかくおはしますにくおはしますにくおわしますに、、、公事公事くじをもをもをも能能よくくく行行おこなはせたまふはせたまふわせたまう。。。おとなしくおはしますなりおとなしくおはしますなりおとなしくおわしますなり。。。ほどなくほどなくほどなく作作つくりいださせりいださせりいださせ給給たまひてひていて、、、上達部上達部かんだちめ殿上人殿上人てんじょうびとなどなどなど詩詩しつくりつくりつくり歌歌うたたてまつりなどしてたてまつりなどしてたてまつりなどして、、、昔昔むかしののの一一いちののの人人ひとののの御有樣御有樣おおんありさまにににははは、、、いつしかおはしますいつしかおはしますいつしかおわします。。。
- 19心心こころあるあるある人人ひと、、、いかばかりかいかばかりかいかばかりかははは、、、賞賞ほめたてまつるらんめたてまつるらんめたてまつるらん。。。みかどにみかどにみかどに貸貸かししし奉奉たてまつらせらせらせ給給たまひてひていて、、、內裏內裏うちになりなどしになりなどしになりなどし侍侍はべらんもらんもらんも、、、世世よののの爲爲ためももも、、、いといといとはえ〴〵しきはえ〴〵しきはえばえしき事事ことにこそにこそにこそ侍侍はべるなれるなれるなれ。。。
- 20ゆくゆくゆく末末すえ思思おもひやられさせひやられさせいやられさせ給給たまひてひていて、、、然然しかるべきるべきるべき事事ことととと、、、世世よののの爲爲ためももも、、、たのもしくこそたのもしくこそたのもしくこそうけたまはれうけたまはれうけたまわれ。。。此此こののの二人二人ふたりののの攝政攝政せっしょう殿殿どのたちたちたち、、、皆皆みな御子御子みこおはしますなればおはしますなればおわしますなれば、、、藤藤ふじなみのあとなみのあとなみのあと絕絕たえずえずえず、、、ののの流流ながれれれ久久ひさしかるべきしかるべきしかるべき御有樣御有樣おおんありさまなるべしなるべしなるべし。。。
現代語訳
摂政前右大臣として近ごろまでいらしたのは、法性寺の大臣の長男でいらっしゃいました。御母は従二位源信子と申しました。国信と申した中納言の娘でいらっしゃるそうです。この大臣の御名は基実と申すと承りました。いつの御時の例でしょうか、左衛門督などと申し上げていた後に、大納言・右大臣などにおなりになりました。たまたま空きがなかったのでしょうか、大将にはおなりにならなかったでしょうか。二条天皇が位におつきになった時、父大臣の譲りで、保元三年八月十一日に関白になられます。御年十六と聞きました。昔からこれほど幼くておなりになった摂関は、これが初めてでいらっしゃるでしょうか。唐の国に甘羅という人は、十二歳で大臣になったそうです。世の人も幼いとは申さなかったそうです。人柄によるべきことのようです。永暦元年八月十一日に右大臣にお上りになります。永万元年六月、帝が位を皇子(六条)にお譲りになった日、摂政におなりになります。同じ二年七月二十六日、御年二十四でお亡くなりになりました。大臣の位に十年いらっしゃいました。この大臣はお顔立ちも太って美しくていらっしゃいました。また字なども昔の跡を継いで上手でいらっしゃいました。たいそうすばらしくお聞きしていたのに、夢のようにお亡くなりになったのは、まことに悲しいことです。去年は二条天皇、今年はこの殿のことと、折につけ心ある人は思い知るはずの世でありましょう。贈太政大臣正一位なども後に添えられたと聞こえます。昨日今日の幼子でいらっしゃる(御子)のを、昔語りに聞くように思われて、まことにしみじみと悲しいことです。六条摂政と申し上げるのでしょう。また中の摂政殿と申す人もいます。長男でいらしたけれども、中関白(道隆)と申したようなものでしょう。
この次の摂関は、今の摂政の大臣(基房)でいらっしゃいます。御母もこの国信中納言の三女でいらっしゃいます。御名は国子と申し上げます。三位に叙されたとか。摂関の藤原氏の御母は、多くは源氏でいらっしゃいます。しかるべきことです。宇治殿・二条殿の御母は一条左大臣(雅信)の御娘、後の二条関白殿は土御門右大臣(師房)の御娘、法性寺殿は六条右大臣(顕房)の御娘、この殿お二方は源中納言(国信)の姫君お二方でいらっしゃるので、藤原氏は摂関として、源氏は御母方として尊いのです。御流れはどちらも好ましいことでございますね。今の世のことは、改めて申さなくてもよいのですが、話の続きなので申し上げます。
この大臣は永暦元年八月十一日に内大臣になられて、同じ月に左大将を兼ねられました。同じ二年九月十三日に左大臣にお上りになって、永万二年七月二十七日に摂政におなりになります。御年二十二でいらっしゃいました。すぐに藤氏の長者におなりになりました。仁安三年二月、今上(高倉)が位におつきになった時も、また摂政におなりになります。まことに尊くていらっしゃるお栄えです。御兄の摂政殿(基実)も、宇治の左大臣(頼長)も、その御子の大将殿(兼長)も、長者を継いで長く生きていらしたら、摂関の御子であっても、大臣にこそおなりになっても、必ずしも家の跡をお継ぎになることは難しいのに、この方の御運に押されなさったのでしょうか、皆夢となって、このようにたちまち摂政におなりになり、藤氏の長者でいらっしゃいます。「三笠の山の朝日」は、前もって照らしていらしたのでしょう。ご自身の学才は幼いころからすぐれていらっしゃるとて、内宴の詩なども、兄をさしおいて、その席に加わられました。お心ばえもしっかりしていて、まだお若いのに、公事をもよく行われます。大人びていらっしゃるのです。閑院をまもなく造り上げられて、公卿・殿上人などが詩を作り歌を奉ったりして、昔の摂関のご様子に早くもなっていらっしゃいます。心ある人はどれほどほめ申し上げることでしょう。帝にお貸し申し上げて内裏になったりするのも、世のためにもまことに晴れがましいことでございます。将来が思いやられて、しかるべきことと、世のためにも頼もしく承ります。このお二人の摂政殿たちは、皆御子がいらっしゃるので、藤波の跡は絶えず、佐保川の流れも長く続くはずのご様子でありましょう。
意訳
忠通の長男基実は、保元三年(1158)十六歳で関白となり、六条天皇の摂政を務めたが、仁安元年(1166)二十四歳で没した。近衛家の祖である。弟基房は二十二歳で摂政・氏長者を継いだ(松殿家の祖)。章題の「藤の初花」は、若い二人の摂政の家を、藤の花の咲き初めにたとえたもの。
語り手は、摂関家の母方が源雅信・源師房・源顕房・源国信と、代々源氏であることに注目し、「藤氏は一の人にて、源氏は御母方やんごとなし」と、両家の結びつきを好ましいものとして語る。
基房については、兄基実や叔父頼長、その子兼長らが早世・失脚したことで摂関の地位が転がり込んだことを「この御報にや押されさせ給ひけん」と運命の巡りとして語り、閑院の造営などの事績をたたえ、藤原氏の繁栄が続くことを祝って章を結ぶ。
語釈・文法注
- 基實
- 藤原基実(1143〜1166)。忠通の長男。近衛家の祖。六条摂政。
- 從二位源ノ信子
- 源信子。源国信の娘。基実の母。
- 甘羅
- 戦国時代の秦の人。十二歳で上卿に任じられたという。
- 中ノ關白
- 藤原道隆。兼家の長男。
- 今の攝政のおとゞ
- 藤原基房(1145〜1230)。忠通の子。松殿家の祖。今鏡成立時の摂政。
- 國子
- 源国子。源国信の娘。基房の母。
- 其の御子の大將殿
- 藤原兼長(1138〜1158)。頼長の子。保元の乱で流され、配所で没した。
- 三笠の山の朝日
- 藤原氏の繁栄をたとえる言葉。
- 閑院
- 基房が造営した邸宅。のちに内裏(里内裏)として用いられた。
- 佐保川の流れ
- 藤原氏の流れのたとえ。佐保川は春日山から流れる川。
文法
- ならせ給はざりしかとよ
- 「とよ」は詠嘆。おなりにならなかったのだったよ。
- あらまほしくも侍るかな
- 理想的である。好ましい。
解説
今鏡は嘉応二年(1170)時点での「今」を語るため、基房は現職の摂政として描かれる。のちの治承三年(1179)の平清盛のクーデターで、基房は解任・配流されることになるが、ここではまだ前途洋々たる若い摂政である。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、190〜194頁(コマ110–112)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日