今鏡 第五「藤波の中」 第38章
みかさの松
巻五「藤波の中」。忠実の子、法性寺殿藤原忠通。四代の天皇の摂関を務め、詩文・和歌・書にすぐれた。母は白河院から賜った源顕房の娘。忠通の書いた額を奥州の藤原基衡から取り返させた話、冷泉院の物の怪を描いた絵の色紙形をあえて書かなかった話など、その人柄が語られる。
- 1近近ちかくおはしましゝくおはしましゝくおわしまししのおとゞのおとゞのおとどははは、、、富家富家ふけののの入道入道にゅうどうおとゞのおとゞのおとどの御子御子みこにおはしますにおはしますにおわします。。。六條六條ろくじょうののの右右みぎのおとゞののおとゞののおとどの御御おんむすめむすめむすめ、、、仁和寺仁和寺にんなじのののととと申申もうしゝしゝしし、、、一一ひとつつつ御御おんはははらからにおはしましゝかばらからにおはしましゝかばらからにおわしまししかば、、、其其そののの北北きたのまんどころのまんどころのまんどころ、、、昔昔むかしははは白河白河しらかわノノノ院院いんにもにもにも參參まいりりり給給たまひけるにこそひけるにこそいけるにこそ。。。
- 2仁和寺仁和寺にんなじののの法法ほう親王親王しんのうをばをばをば師子王師子王ししおうののの宮宮みやとぞとぞとぞ世世よにににははは申申もうしゝしゝしし。。。御母御母おおんははののの童名童名わらわなにやおはしけんにやおはしけんにやおわしけん。。。さてさてさて此此このおとゞのおとゞのおとど仁和寺仁和寺にんなじののの宮宮みやととと親親したしくしくしく申申もうしかはしたまひきしかはしたまひきしかわしたまいき。。。
- 3富家富家ふけのおとゞののおとゞののおとどの北北きたののの方方かたにてにてにてははは、、、堀川堀川ほりかわののの左左ひだりのおとゞののおとゞののおとどの御御おんむすめおはせしかどもむすめおはせしかどもむすめおわせしかども、、、それそれそれははは御子御子みこおはしまさでおはしまさでおわしまさで、、、くちをしきくちをしきくちおしき事事ことどもありけるにやよりけんどもありけるにやよりけんどもありけるにやよりけん。。。
- 4後後のちにににははは踈踈うとくなりくなりくなり給給たまひきひきいき。。。其其そののの六條六條ろくじょうのおとゞののおとゞののおとどの御御おんむすめのむすめのむすめの、、、ののの北北きたのまんどころにさぶらひのまんどころにさぶらひのまんどころにさぶらい給給たまひけるひけるいけるををを、、、始始はじめめめははは院院いんにめしてにめしてにめして宮生宮生みやうみみみ奉奉たてまつりりり給給たまへりけるへりけるえりける程程ほどににに、、、富家富家ふけのおとゞのおとゞのおとど若若わかくおはしけるくおはしけるくおわしける時時ときににに、、、はつかにはつかにはつかに覗覗のぞきてきてきて見見み給給たまへることありけるよりへることありけるよりえることありけるより、、、御病御病おおんやまいひになりてひになりてひになりて、、、惱惱なやみたまひけるみたまひけるみたまいけるををを、、、命命いのちももも絕絕たえぬべくおぼゆるえぬべくおぼゆるえぬべくおぼゆる事事ことののの侍侍はべれどれどれど、、、心心こころににに叶叶かなふべきならねばふべきならねばうべきならねば、、、世世よににに永永ながらへらへらへ侍侍はべらんらんらん事事こともえもえもえ侍侍はべるまじるまじるまじ。。。
- 5またまたまた心心こころのまゝにのまゝにのままに侍侍はべらばらばらば、、、いかなるいかなるいかなる重重おもききき罪罪つみももも、、、かうぶるかうぶるこうぶる身身みにもなりにもなりにもなり侍侍はべりぬべしりぬべしりぬべし。。。いづれにてかいづれにてかいずれにてか、、、能能よくくく侍侍はべらんなどらんなどらんなど、、、京極京極きょうごくののの北北きたののの方方かたににに申申もうししし給給たまひけるにやひけるにやいけるにや。。。
- 6いかにもいかにもいかにも御命御命おおんいのちおはしまさんおはしまさんおわしまさん事事ことににに、、、まさることまさることまさることはははあるまじければとてあるまじければとてあるまじければとて、、、院院いんににに申申もうさせさせさせ給給たまひたりけれひたりけれいたりけれははは、、、免免ゆるししし賜賜たまはははらせらせらせ給給たまひたりけるとかやひたりけるとかやいたりけるとかや。。。
- 7ひがことにやひがことにやひがことにや侍侍はべらんらんらん。。。人人ひとののの傳傳つたへへえ語語かたりりり侍侍はべりしなりりしなりりしなり。。。さてさてさて住住すみたまひけるみたまひけるみたまいけるほどにほどにほどに、、、まづまづまずははは姫君姫君ひめぎみうみうみうみ給給たまひひい、、、又又また此此このおとゞのおとゞのおとどをもをもをも、、、生生うみみみ奉奉たてまつりりり給給たまひてのちひてのちいてのち、、、さてさてさてうるはしくうるはしくうるわしく住住すみみみ給給たまひけるとぞひけるとぞいけるとぞうけうけうけ給給たまはははりしりしりし。。。
- 8此此このおとゞのおとゞのおとど保保ほう安安やす二年二年にねんのとしのとしのとし關白關白かんぱくにならせにならせにならせ給給たまふふう。。。御御おんとしとしとし廿五廿五にじゅうごにぞおはしましゝにぞおはしましゝにぞおわしましし。。。同同おなじじじ四年四年よねん正月正月しょうがつににに、、、讃岐讃岐さぬきのみかどのみかどのみかど位位くらいににに卽卽つかせかせかせ給給たまひしかばひしかばいしかば、、、攝政攝政せっしょうととと申申もうしきしきしき。。。
- 9帝帝みかどおとなにおとなにおとなに成成ならせらせらせ給給たまひてひていて、、、關白關白かんぱくととと申申もうしゝしゝししほどにほどにほどに、、、近衞近衞こんえのみかどのみかどのみかど位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たまひしかばひしかばいしかば、、、又又また攝政攝政せっしょうにならせにならせにならせ給給たまひきひきいき。。。久壽二年久壽二年きゅうじゅにねん七月七月しちがつ、、、近衞近衞こんえののの帝帝みかど、、、かくれさせたまひてかくれさせたまひてかくれさせたまいて、、、このこのこの一一ひとノノノ院院いん位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たまひしにもひしにもいしにも、、、又又また關白關白かんぱくにならせにならせにならせ給給たまひしかばひしかばいしかば、、、四代四代しだいのみかどののみかどののみかどの關白關白かんぱくにてにてにて、、、ふたゝびふたゝびふたたび攝政攝政せっしょうととと申申もうしきしきしき。。。
- 10昔昔むかしもいともいともいと類類たぐひなきひなきひなき事事ことにこそにこそにこそ侍侍はべりけめりけめりけめ。。。おほきおとゞにもおほきおとゞにもおおきおとどにも、、、再再ふたたびびび成成なりりり給給たまへりしへりしえりし。。。いとありがたくいとありがたくいとありがたく侍侍はべりきりきりき。。。藤氏藤氏とうじののの長者長者ちょうじゃさまたげられさまたげられさまたげられ給給たまひしもひしもいしも、、、左左ひだりのおとゞののおとゞののおとどの、、、事事ことにあひにあひにあい給給たまひしかばひしかばいしかば、、、保保ほう元元げん々々びと年年とし七月七月しちがつににに、、、更更さらにかへりならせにかへりならせにかえりならせ給給たまひにきひにきいにき。。。
- 11同同おなじじじ三年三年さんねん八月八月はちがつ十六日十六日じゅうろくにち、、、二條二條にじょうのみかどのみかどのみかど位位くらいにつかせたまひしにつかせたまひしにつかせたまいし時時とき、、、今今いまのとのゝのとのゝのとのの御兄御兄おおんあににおはしましゝにおはしましゝにおわしましし、、、右右みぎのおのおのおほいまうちぎみにほいまうちぎみにほいもうちぎみに、、、關白關白かんぱくゆづりゆづりゆずり聞聞きこえさせこえさせこえさせ給給たまひてひていて、、、大殿大殿おおとのとておはしましゝにとておはしましゝにとておわしまししに、、、應應おう保保ほう二年二年にねんににに御御おんぐしおろさせぐしおろさせぐしおろさせ給給たまひてきひてきいてき。。。
- 12御年御年おおんとし六十六十ろくじゅう六六ろくとぞとぞとぞうけうけうけ給給たまはははりしりしりし。。。長長なが寬寬かん二年二年にねん二月二月にがつ十九日十九日じゅうくにち、、、六十六十ろくじゅう八八やととと聞聞きこえさせこえさせこえさせ給給たまひしひしいし年年としかくれさせかくれさせかくれさせ給給たまひにきひにきいにき。。。昔昔むかしまだまだまだ幼幼おさなくおはしましゝくおはしましゝくおわしましし時時とき、、、春日春日かすがののの祭祭まつりののの使使つかいせさせせさせせさせ給給たまひしにひしにいしに、、、內侍內侍ないしノノノののの御參御參ごまいりてりてりて、、、行事行事ぎょうじノノノ辨辨べん隆隆たかににに申申もうしおくりけるしおくりけるしおくりける、、、
- 13いかばかりいかばかりいかばかり神神かみももも山二葉山二葉やまふたばののの松松まつののの千代千代ちよのけしきのけしきのけしきををを
- 14そのそのその返返かえしししははは、、、劣劣おとりたりけるにやりたりけるにやりたりけるにや。。。きこえきこえきこえはべらざりきはべらざりきはべらざりき。。。祈祈いのりりり奉奉たてまつりたるしるしありてりたるしるしありてりたるしるしありて、、、めでたくめでたくめでたく久久ひさしくせさせしくせさせしくせさせ給給たまひきひきいき。。。法性寺法性寺ほっしょうじののの御堂御堂みどうののの御所御所ごしょなどなどなど作作つくりてりてりて、、、ののの御堂御堂みどうのかたはらにのかたはらにのかたわらに、、、住住すませたまひしかばませたまひしかばませたまいしかば、、、法性寺殿法性寺殿ほっしょうじどのとぞとぞとぞ申申もうすめるすめるすめる。。。
- 15昔昔むかしよりよりより攝政攝政せっしょう關白關白かんぱくつゞきておはしませどつゞきておはしませどつづきておわしませど、、、身身みののの御才御才おおんざえははは類類たぐひなくおはしましきひなくおはしましきひなくおわしましき。。。才學才學さいがくもすぐれておはしましけるもすぐれておはしましけるもすぐれておわしましける上上うえににに、、、詩詩しなどなどなど作作つくらせらせらせ給給たまふふう事事ことははは、、、いにしへのいにしへのいにしえのなどにもなどにもなどにも劣劣おとらせたまはずやおはしけんらせたまはずやおはしけんらせたまわずやおわしけん。。。
- 16歌歌うたよませよませよませ給給たまふふう事事ことももも、、、心心こころたかくたかくたかく昔昔むかしののの跡跡あとをををねがひねがひねがい給給たまひたるさまなりけりひたるさまなりけりいたるさまなりけり。。。管絃管絃かんげんのかたのかたのかた心心こころにしめさせにしめさせにしめさせ給給たまひてひていて、、、箏箏そうのことのことのことををを、、、むねとむねとむねと御遊御遊おおんあそびびなどにもびなどにもびなどにも、、、ひかせひかせひかせ給給たまふとぞふとぞうとぞ聞聞きききき侍侍はべりしりしりし。。。
- 17父父ちちおとゞばかりおとゞばかりおとどばかりははは、、、おはしまさずやありけんおはしまさずやありけんおわしまさずやありけん。。。手手てかゝせかゝせかかせ給給たまふふう事事ことははは、、、昔昔むかしののの上手上手じょうずにもにもにも耻耻はぢずおはしましけりぢずおはしましけりじずおわしましけり。。。まなもまなもまなも假名假名かなももも、、、このもしくこのもしくこのもしく今今いまめかしきめかしきめかしき方方かたさへそひてさへそひてさえそいて、、、すぐれておはしましきすぐれておはしましきすぐれておわしましき。。。
- 18內裏內裏だいりののの額額がくどもどもども、、、古古ふるきききをばをばをばうつしうつしうつし、、、失失うせたるせたるせたるをばをばをば、、、更更さらにかゝせにかゝせにかかせ給給たまふとぞふとぞうとぞうけうけうけ給給たまはははりしりしりし。。。院宮院宮いんみやののの御堂御堂みどう御所御所ごしょなどのなどのなどの色紙形色紙形しきしがたははは、、、いかばかりかいかばかりかいかばかりかははは多多おおくかゝせくかゝせくかかせ給給たまひしひしいし。。。
- 19御願御願ごがんよりよりよりはじめてはじめてはじめて、、、寺々寺々てらでらののの額額がくなどなどなど、、、數數かずしらずかゝせしらずかゝせしらずかかせ給給たまひきひきいき。。。橫河橫河よかわのののなどなどなどははは、、、古古ふるききき所所ところののの額額がくももも、、、講講こうすゝめけるすゝめけるすすめけるひじりのひじりのひじりの申申もうしたるとてしたるとてしたるとて、、、かゝせかゝせかかせ給給たまへりとぞへりとぞえりとぞ山山やまののの僧僧そうははは申申もうしゝしゝしし。。。
- 20又又また人人ひとののの仁和寺仁和寺にんなじとかよりとかよりとかより、、、額申額申がくもうしたりければしたりければしたりければ、、、かゝせかゝせかかせ給給たまひけるひけるいける程程ほどににに、、、奧奧おくのえびすのえびすのえびすとかとかとか云云いふがふがうが寺寺てらなりとなりとなりと聞聞きかせかせかせ給給たまひてひていて、、、みちのみちのみちの奧奧おくへへへ、、、取取とりりり返返かえしにしにしに遣遣つかはしたりけるはしたりけるわしたりけるををを、、、返返かえししし奉奉たてまつらじとしけるらじとしけるらじとしけるををを、、、女女おんなののの心心こころかしこくやありけんかしこくやありけんかしこくやありけん。。。
- 21かへしかへしかへし奉奉たてまつらざらんらざらんらざらんははは、、、しれごとなりとしれごとなりとしれごとなりと諫諫いさめければめければめければ、、、返返かえししし奉奉たてまつりけるにりけるにりけるに、、、御厩舍人御厩舍人みまやとねりとかやとかやとかや、、、遣遣つかはしたりけるはしたりけるわしたりける御使御使おおんつかいののの、、、心心こころやたけかりけんやたけかりけんやたけかりけん。。。三三みつにつにつにうちわりてぞうちわりてぞうちわりてぞ、、、もてのぼりけるもてのぼりけるもてのぼりける。。。
- 22をををにらみけんにもにらみけんにもにらみけんにも、、、劣劣おとらぬらぬらぬ使使つかいなるべしなるべしなるべし。。。えびすまでもえびすまでもえびすまでも、、、なびきなびきなびき奉奉たてまつりけるにこそりけるにこそりけるにこそ。。。又又またいづれのいづれのいずれの御願御願ごがんとかのとかのとかの繪繪えににに、、、ののの僧正僧正そうじょうたふとたふととうとくおはするくおはするくおわする事事ことかくとてかくとてかくとて、、、冷泉院冷泉院れいぜいいんののの御御おん太刀太刀たちぬかせぬかせぬかせ給給たまへるにへるにえるに、、、僧正僧正そうじょうにげにげにげ給給たまへるあとにへるあとにえるあとに、、、とゞまれるとゞまれるとどまれる三衣筥三衣筥さんえばこのもとにてのもとにてのもとにて、、、みかどのみかどのみかどの物物ものののの怪怪かいにににうたせうたせうたせ給給たまひたるひたるいたる所所ところののの色紙形色紙形しきしがた、、、これこれこれはははえかゝじとてえかゝじとてえかかじとて、、、もじもかゝれでいまだもじもかゝれでいまだもじもかかれでいまだ侍侍はべるなりるなりるなり。。。
- 23御手御手おおんてならびなくかゝせならびなくかゝせならびなくかかせ給給たまへどもへどもえども、、、さやうのさやうのさようの御用意御用意ごよういははは、、、ありがたきありがたきありがたき事事ことぞかしぞかしぞかし。。。
- 24まだまだまだ幼幼おさなくおはしましゝくおはしましゝくおわしましし時時ときよりよりより。。。歌合歌合うたあわせなどなどなど朝夕朝夕あさゆうののの御御おんあそびにてあそびにてあそびにて、、、基俊基俊もととし俊賴俊賴としよりなどいふなどいふなどいう、、、時時ときののの歌歌うたよみどもによみどもによみどもに、、、人人ひとののの名名なかくしてかくしてかくして、、、判判ほうぜさせなどせさせぜさせなどせさせぜさせなどせさせ給給たまふふう事絕事絕ことたえざりけりえざりけりえざりけり。。。御歌御歌おおんうたなどなどなど多多おおくきゝくきゝくきき侍侍はべりしりしりし中中なかににに、、、
- 25わだのわだのわだの原原はらこぎいでてこぎいでてこぎいでて見見みればればれば久方久方ひさかたののの雲雲くもゐにまがふおきつゐにまがふおきついにまがうおきつ白浪白浪しらなみ
- 26などよませなどよませなどよませ給給たまへるへるえる御歌御歌みゅうたははわ、、、ががが「「「島島しまかくれゆくかくれゆくかくれゆく舟舟ふねをををしぞしぞしぞ思思おもふふう」」」。。。などよめるにもなどよめるにもなどよめるにも耻耻はぢずやあらんとぞぢずやあらんとぞじずやあらんとぞ人人ひとははは申申もうししし侍侍はべりしりしりし。。。
- 27よしよしよし野山野山のやまみねのみねのみねの櫻櫻さくらややや咲咲さきぬらんふもとのきぬらんふもとのきぬらんうもとの里里さとににに匂匂におふふうはははるかぜるかぜるかぜ
- 28などよませなどよませなどよませ給給たまへるもへるもえるも、、、心心こころももも詞詞ことばもたへにしてもたへにしてもたえにして、、、などになどになどに、、、選選えらびのせられたるびのせられたるびのせられたる歌歌うたのつらになんのつらになんのつらになん、、、聞聞きこえこえこえ侍侍はべるなるるなるるなる。。。からのからのからのふみふみふみ作作つくらせらせらせ給給たまふふう事事こともかくぞありけるもかくぞありけるもかくぞありける。。。
- 29さればさればさればふみのふみのふみの心心こころばへしらせばへしらせばえしらせ給給たまふふう事事こと、、、深深ふかくなんおはしけるくなんおはしけるくなんおわしける。。。白河白河しらかわノノノ院院いんにもにもにも三卷三卷さんかんののの詩詩しえらびてえらびてえらびて奉奉たてまつりりり給給たまひひい、、、基俊基俊もととしののの君君きみにもにもにも、、、からやまとのをかしきことのからやまとのをかしきことのからやまとのおかしきことの葉葉はどもどもどもをぞをぞをぞ、、、えらびつかえらびつかえらびつかはははさせたまひけるさせたまひけるさせたまいける。。。
- 30かやうのかやうのかようの事事ことどもどもども多多おおくなんくなんくなん侍侍はべるなるるなるるなる。。。又又またつくらせつくらせつくらせ給給たまへるからのへるからのえるからの詞詞ことばどもどもども、、、御集御集ぎょしゅうとてとてとて、、、唐唐からののの氏氏うじののの文集文集もんじゅうなどのなどのなどの如如ごとくにくにくに、、、事事こと好好このむむむ人人ひと、、、もてあそぶとぞもてあそぶとぞもてあそぶとぞうけうけうけ給給たまはるはるわる。。。
- 31かくざえもおはしましてかくざえもおはしましてかくざえもおわしまして、、、日記日記にきなどもなどもなども鏡鏡かがみをををかけておはしませばかけておはしませばかけておわしませば、、、右大辨爲隆右大辨爲隆うだいべんためたかといひしといひしといいし宰相宰相さいしょうははは、、、「「「日本日本におんはははゆゝしくゆゝしくゆゆしく、、、てづつなるてづつなるてずつなる國國くにかなかなかな。。。さきのさきのさきの關白關白かんぱくををを一一いちののの人人ひとにてにてにて、、、このおとゞこのおとゞこのおとど、、、花園花園はなぞののおとゞのおとゞのおとどふたりふたりふたり、、、若若わかききき大臣大臣おとどよくつかへぬべきよくつかへぬべきよくつかえぬべきををを、、、うちうちうちはべつゝはべつゝはべつつ、、、公事公事くじもつとめさせでもつとめさせでもつとめさせで、、、このこのこの殿殿どの一一いちののの人人ひとなればなればなれば、、、いたづらにいたづらにいたずらに足足あしひきひきひき入入いれてゐれてゐれてい給給たまへるこそへるこそえるこそ惜惜おしけれしけれしけれ」」」。。。とぞいはれけるとなんとぞいはれけるとなんとぞいわれけるとなん、、、きこえきこえきこえ侍侍はべりしりしりし。。。
現代語訳
近ごろまでいらした法性寺の大臣(忠通)は、富家の入道殿(忠実)の御子でいらっしゃいます。御母は六条右大臣(顕房)の御娘で、仁和寺の御室(覚法法親王)と申し上げた方と同じご兄弟でいらしたので、その北の政所(母)は、昔は白河院にもお仕えしていらしたのです。仁和寺の法親王を、世間では師子王の宮と申しました。御母の幼名でいらしたのでしょうか。それでこの大臣は仁和寺の宮と親しく交際なさいました。富家の大臣の北の方としては、堀川左大臣(俊房)の御娘がいらしたけれども、その方は御子がいらっしゃらず、残念なことなどがあったからでしょうか、後には疎遠になられました。その六条大臣の御娘が京極の北の政所(師実の妻麗子)にお仕えしていらしたのを、初めは院(白河)が召して宮をお産みになったうちに、富家の大臣がお若くていらした時に、ちらりと覗いてご覧になったことから、病気になってお悩みになり、「命も絶えてしまいそうに思われることがありますが、思いどおりになることではないので、生き長らえることもできないでしょう。また思いのままにしたら、どんな重い罪をもこうむる身となるでしょう。どちらがよいのでしょう」などと、京極の北の方に申されたのでしょうか。「何にしても御命がおありになることにまさることはないだろう」というので、院に申し上げなさったところ、お許しをいただいたとか。間違いでございましょうか。人が伝え語ったことです。そうして住まわれるうちに、まず姫君(泰子)をお産みになり、またこの大臣(忠通)もお産みになってから、きちんと(正妻として)住まわれたと承りました。
この大臣は保安二年に関白におなりになります。御年二十五でいらっしゃいました。同じ四年正月に讃岐の帝(崇徳)が位におつきになったので、摂政と申し上げました。帝が成人なさって関白と申し上げていたころ、近衛天皇が位におつきになったので、また摂政におなりになりました。久寿二年七月に近衛天皇がお亡くなりになって、この一院(後白河)が位におつきになった時も、また関白におなりになったので、四代の帝の関白として、二度摂政と申し上げました。昔もまことに例のないことでございましたでしょう。太政大臣にも二度おなりになりました。まことにめったにないことでございました。藤氏の長者を奪われなさったのも、左大臣(頼長)が事件にあわれたので、保元元年七月に、また元どおりおなりになりました。同じ三年八月十六日、二条天皇が位におつきになった時、今の殿(基房)の兄でいらした右大臣(基実)に関白をお譲りになって、大殿としていらっしゃいましたが、応保二年に出家なさいました。御年六十六と承りました。長寛二年二月十九日、六十八と申し上げた年にお亡くなりになりました。昔まだ幼くていらした時、春日祭の使をなさった時に、内侍の周防の御が参って、行事の弁為隆に申し送った歌、
いかばかり神もうれしとみかさ山二葉の松の千代のけしきを
その返しは劣っていたのでしょうか、聞こえてきませんでした。お祈り申し上げたしるしがあって、めでたく長く(摂関を)なさいました。法性寺に御堂の御所などを造って、貞信公の御堂のかたわらにお住まいになったので、法性寺殿と申すようです。
昔から摂政・関白は続いていらっしゃるけれども、ご自身の学才は比べるものがないほどでいらっしゃいました。学才もすぐれていらした上に、詩などをお作りになることは、昔の宮帥殿(伊周)などにも劣られなかったでしょうか。歌をお詠みになることも、心高く昔の跡を慕われたご様子でした。管弦の方にも心を寄せられて、箏の琴を主に御遊などでもお弾きになったと聞きました。父大臣ほどではいらっしゃらなかったでしょうか。字をお書きになることは、昔の名人にも恥じないほどでいらっしゃいました。漢字も仮名も、好ましく現代風な趣まで加わって、すぐれていらっしゃいました。内裏の額なども、古いものは写し、失われたものは改めてお書きになったと承りました。院や宮の御堂・御所などの色紙形は、どれほど多くお書きになったことでしょう。御願寺をはじめとして、寺々の額など数知れずお書きになりました。横川の花台院などは、古い所の額も、迎講を勧めた聖が申したといってお書きになったと、比叡山の僧が申しました。また人が仁和寺とかから額を申したので、お書きになったところ、奥州の蝦夷の基衡とかいう者の寺だとお聞きになって、陸奥へ取り返しに遣わしたところ、返すまいとしたのを、女が賢かったのでしょうか、「お返し申し上げないのは愚かなことだ」と諫めたので、お返ししたところ、御厩舎人とかいう、遣わした御使が気が強かったのでしょうか、三つに打ち割って持って上りました。柱をにらんだ(藺相如)にも劣らない使いでありましょう。蝦夷までもなびき申し上げたのです。またどの御願寺の絵とか、飯室の僧正(尋禅)が尊くていらっしゃることを描くといって、冷泉院が太刀をお抜きになったところ、僧正が逃げられた跡に残った三衣箱のもとで、帝が物の怪に打たれなさった場面の色紙形は、「これは書けない」といって、文字も書かれずに今もそのままあるそうです。御手跡は並びなくお書きになるけれども、このようなお心づかいは、めったにないことです。
まだ幼くていらした時から、歌合などを朝夕のお遊びとして、基俊・俊頼などという当時の歌詠みたちに、作者の名を隠して判定させたりなさることが絶えませんでした。御歌などを多く聞きました中に、
わだの原こぎいでて見れば久方の雲ゐにまがふおきつ白浪
などとお詠みになった御歌は、人麻呂が「島かくれゆく舟をしぞ思ふ」などと詠んだのにも恥じないだろうと人は申しました。
よし野山みねの櫻や咲きぬらんふもとの里に匂ふはるかぜ
などとお詠みになったのも、心も言葉も絶妙で、金玉集などに選び載せられた歌の列に並ぶと評判だそうです。漢詩をお作りになることもこのようでした。ですから詩文の心をご存じであることは深くていらっしゃいました。白河院にも三巻の詩を選んで差し上げなさり、基俊の君にも、漢詩や和歌のすばらしい言葉を選んで贈られました。このようなことが多くあったそうです。またお作りになった漢詩文は、御集として、唐の白氏文集などのように、風流を好む人が愛読していると承っています。このように学才もおありで、日記などにも通じていらしたので、右大弁為隆という宰相は、「日本はまったく不器用な国だな。前の関白(忠実)を第一の人として、この大臣と花園の大臣(有仁)の二人の若い大臣がよく仕えるべきなのに、押し込めておいて、公事もお勤めさせずに、この殿が第一の人なので、むなしく引きこもっていらっしゃるのは惜しいことだ」と言われたと聞きました。
意訳
冒頭は忠通の両親の話。忠実は、白河院の寵愛した源顕房の娘(師子)を垣間見て恋の病となり、院に許されて妻とした。生まれたのが泰子(高陽院)と忠通である。『源氏物語』を思わせる恋物語として語られる。
忠通は保安二年(1121)から長寛二年(1164)まで、崇徳・近衛・後白河・二条の四代にわたって摂政・関白を務めた。弟頼長との対立で氏長者を奪われたが、保元の乱で頼長が敗死したのち取り戻した。章題の「みかさの松」は、幼い忠通が春日祭の使を務めた時の周防内侍の歌「いかばかり神もうれしとみかさ山二葉の松の千代のけしきを」による。
忠通は詩・歌・書にすぐれ、法性寺流の書の祖とされる。奥州藤原氏の基衡の寺の額を書いたと知って取り返させた話、冷泉院の物の怪の場面だけはあえて色紙形を書かなかった話は、その矜持と思慮深さを示している。「わだの原」の歌は百人一首にも採られた代表作である。
語釈・文法注
- 法性寺のおとゞ
- 藤原忠通(1097〜1164)。忠実の子。法性寺殿。
- 御母
- 源師子(1070〜1148)。源顕房の娘。はじめ白河院に仕えて覚法法親王を産み、のちに忠実の妻となった。
- 仁和寺の御室
- 覚法法親王(1091〜1153)。白河院の皇子。仁和寺の門跡。母は師子。
- 京極の北のまんどころ
- 源麗子。師実の正室。第33章参照。
- 內侍ノ周防
- 周防内侍。第14章参照。
- 行事ノ辨爲隆
- 藤原為隆(1070〜1130)。
- みかさ山
- 三笠山。奈良の春日社の背後の山。藤原氏の氏神の地。
- 貞信公の御堂
- 藤原忠平(貞信公)が建てた法性寺。
- 宮帥殿
- 藤原伊周。詩文にすぐれた。
- 橫河の花臺院
- 比叡山横川の寺院。
- むかへ講
- 迎講。阿弥陀仏が来迎する様子を演じる法会。
- 奧のえびす基衡
- 藤原基衡(?〜1157)。奥州藤原氏の二代目。毛越寺を建てた。
- 柱をにらみけん
- 戦国時代の趙の藺相如が、秦王から和氏の璧を取り戻すため、璧とともに柱に頭を打ちつけようとした故事。
- 飯室の僧正
- 尋禅(943〜990)。師輔の子。天台座主。冷泉天皇の物の怪を調伏したという。
- 人丸
- 柿本人麻呂。「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島がくれゆく舟をしぞ思ふ」の歌で知られる。
- 金玉集
- 藤原公任撰の秀歌選。
- 白氏の文集
- 唐の白居易の詩文集『白氏文集』。平安貴族に愛読された。
文法
- ひがことにや侍らん
- 語り手の慎重な断り。間違いでございましょうか。
- てづつなる國かな
- 「てづつ」は不器用なこと。
- うちはべつゝ
- 「うちはむ(打ち嵌む)」か。押し込めておいて。
和歌
いかばかり神もうれしとみかさ山二葉の松の千代のけしきを
- 詠者
- 周防内侍
- 状況
- 幼い忠通が春日祭の使を務めた時、行事の弁藤原為隆に贈った歌。
修辞
- 掛詞
- 「みかさ山」に「見」をかけ、春日の神がどれほどうれしく見るかと詠む。
- 見立て
- 幼い忠通を「二葉の松」にたとえ、千年の繁栄を祝う。
わだの原こぎいでて見れば久方の雲ゐにまがふおきつ白浪
- 詠者
- 藤原忠通
- 状況
- 崇徳天皇の内裏歌合で「海上遠望」の題で詠んだ歌。百人一首七十六番。
修辞
- 枕詞
- 「久方の」は「雲ゐ」にかかる。
- 見立て
- 沖の白波を、空の雲と見まがうほどの遠景として描く。
よし野山みねの櫻や咲きぬらんふもとの里に匂ふはるかぜ
- 詠者
- 藤原忠通
- 状況
- 花の歌。
修辞
- 推量
- 麓の里に匂う春風から、峰の桜の開花を推し量る。
解説
忠通の摂関在任は四十年近くに及び、院政期の摂関家を代表する人物である。弟頼長との対立は保元の乱の一因となったが、今鏡は忠通を学才と風雅の人として高く評価している。
奥州藤原氏の基衡の名が今鏡に現れることは、都の貴族の目に映った「みちのくのえびす」の姿として興味深い。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、179〜186頁(コマ104–108)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日