今鏡 第四「藤波の上」 第37章
宇治の川瀬
師通の子、富家殿藤原忠実。白河院と親しかったが、娘泰子の入内をめぐって院の怒りを買い、内覧を止められた。院の寵愛した祇園女御、その養女待賢門院の話、忠実の人柄と晩年、そして祇園女御のゆかりで栄えた平正盛・忠盛父子と、殿上をめぐる人々の逸話が語られる。
- 1後後のちののの二條二條にじょう殿殿どのののの御御おんつぎにつぎにつぎにははは、、、近近ちかくくくとておはしましゝとておはしましゝとておわしましし、、、入道入道にゅうどうおとゞおほぢのおとゞおほぢのおとどおおじの大殿大殿おおとの、、、御子御子みこにしにしにし參參まいらせらせらせ給給たまふとふとうと聞聞きこえこえこえ給給たまひきひきいき。。。御母御母おおんはははははののの右右みぎのおとゞののおとゞののおとどの御御おんむすめなりむすめなりむすめなり。。。
- 2此此このおとゞののおとゞののおとどの御名御名みなははは忠實忠實ただざねとぞきこえとぞきこえとぞきこえ給給たまひしひしいし。。。康康やす和和わ元年元年がんねん閏閏うるう九月九月くがつ廿八日廿八日にじゅうはちにち、、、內覽內覽ないらんののの宣旨宣旨せんじかうぶりかうぶりこうぶり給給たまひきひきいき。。。御御おんとしとしとし廿二廿二にじゅうに、、、同同おなじじじ二年二年にねん七月七月しちがつ十七日十七日じゅうしちにち、、、右大臣右大臣うだいじんにならせたまひきにならせたまひきにならせたまいき。。。
- 3大將大將だいしょうももも猶猶なおかけさせかけさせかけさせ給給たまへりきへりきえりき。。。天天てん永永えい三年三年さんねん十二月十二月じゅうにがつ十四日十四日じゅうよっか、、、太政大臣太政大臣だいじょうだいじんになりになりになり給給たまひきひきいき。。。はじめはじめはじめははは宇治宇治うじののの川瀨波川瀨波かわせなみしづかにてしづかにてしずかにて、、、白河白河しらかわののの水水みずへへへだてなくおはしましゝかばだてなくおはしましゝかばだてなくおわしまししかば、、、富家殿富家殿ふけどのつくりつくりつくり給給たまひてひていて、、、院院いんわたらせわたらせわたらせ給給たまひけるにひけるにいけるに、、、宇治川宇治川うじがわにあそびのにあそびのにあそびの船船ふね、、、歌歌うたうたひてうたひてうたいて、、、波波なみににに浮浮うかびなどしてびなどしてびなどして、、、いといといと面白面白おもしろくあそばせくあそばせくあそばせ給給たまひけるひけるいける。。。
- 4といひしといひしといいしをををのこのこのこ、、、歌歌うたうたひうたひうたい、、、そのそのその時時ときこうたうなどいひしこうたうなどいひしこうとうなどいいし、、、船船ふねににに乘乘のりりり具具ぐしてしてして、、、うたつかうまつりけるとかやうたつかうまつりけるとかやうたつこうまつりけるとかや。。。其其そのたびのたびのたび人々人々ひとびとににに、、、歌歌うたよませさせよませさせよませさせ給給たまはざりけるはざりけるわざりけるをぞをぞをぞ、、、くちをしくなどくちをしくなどくちおしくなど申申もうすすす人人ひともありけるもありけるもありける。。。
- 5かやうのかやうのかようの所所ところにわたらせにわたらせにわたらせ給給たまひてひていて、、、何何なにとなきとなきとなき御御おんあそびもあそびもあそびも、、、古古ふるききき跡跡あとにもにもにも似似にぬぬぬ御心御心みこころなるべしなるべしなるべし。。。かやうにてかやうにてかようにて過過すぎさせぎさせぎさせ給給たまひしにひしにいしに、、、保保ほう安安やす元年元年がんねん十一月十一月じゅういちがつ十二日十二日じゅうににちにやありけんにやありけんにやありけん。。。
- 6夜夜よをををこめてこめてこめて院院いんよりとてよりとてよりとて「「「のおとゞのおとゞのおとど俄俄にわかにまゐりにまゐりにまいり給給たまへへえ」」」。。。ととと御使御使おおんつかいありてありてありて、、、おとゞおとゞおとど內覽內覽ないらんとゞむべきとゞむべきとどむべき由由よしををを、、、仰仰おおせせせ下下くだししし給給たまひけりひけりいけり。。。白河白河しらかわノノノ院院いんうせさせうせさせうせさせ給給たまひてひていて、、、鳥羽鳥羽とばノノノ院院いん世世よををを知知しらせらせらせ給給たまひしひしいし時時ときにぞにぞにぞ、、、富家富家ふけよりよりより出出いでさせでさせでさせ給給たまひしひしいし。。。
- 7待賢門院待賢門院たいけんもんいんをををさなくおはしましゝさなくおはしましゝさなくおわしまししををを、、、白河白河しらかわノノノ院院いん養養やしなひひい奉奉たてまつりりり給給たまひてひていて、、、鳥羽鳥羽とばノノノ院院いん位位くらいにおはしましゝにおはしましゝにおわしましし、、、女御女御にょうごにたてまつりにたてまつりにたてまつり給給たまふふうほどにほどにほどに、、、入道入道にゅうどうおほきおとゞのおほきおとゞのおおきおとどの御御おんむすめむすめむすめ、、、女御女御にょうごににに奉奉たてまつらんとらんとらんと、、、せさせせさせせさせ給給たまふとふとうと聞聞きこゆるによりてこゆるによりてこゆるによりて、、、關白關白かんぱくうちとめうちとめうちとめ申申もうさせさせさせ給給たまふとぞふとぞうとぞ聞聞きこえこえこえ侍侍はべりしりしりし。。。
- 8白河白河しらかわノノノ院院いんののの御世御世みよににに、、、きさききさききさき御息所御息所みやすんどころなどかくれさせなどかくれさせなどかくれさせ給給たまひてひていて、、、さるさるさるかた〴〵もおはせざりしにかた〴〵もおはせざりしにかたがたもおわせざりしに、、、ときこえときこえときこえ給給たまふふう人人ひとおはしましきおはしましきおわしましき。。。そのそのその人人ひと待賢門院待賢門院たいけんもんいんをばをばをば、、、養養やしなひひい奉奉たてまつりりり給給たまひてひていて、、、院院いんももも御御おんむすめとてむすめとてむすめとて、、、もてなしきこえさせもてなしきこえさせもてなしきこえさせ給給たまひしなりひしなりいしなり。。。
- 9そのそのその白川殿白川殿しらかわどのあさましきあさましきあさましき御御おんすぐせおはしけるすぐせおはしけるすぐせおわしける人人ひとなるべしなるべしなるべし。。。宣旨宣旨せんじなどなどなどははは下下くだされざりけれどもされざりけれどもされざりけれども、、、世世よののの人人ひとははは祇園祇園ぎおんののの女御女御にょうごとぞとぞとぞ申申もうすめりしすめりしすめりし。。。もとよりかのもとよりかのもとよりかの院院いんののの、、、うちのうちのうちの局局つぼねわたりにおはしけるわたりにおはしけるわたりにおわしけるををを、、、はつかにはつかにはつかに御覽御覽ごらんじつけさせじつけさせじつけさせ給給たまひてひていて、、、ののの寵愛寵愛ちょうあいひとりのみなりひとりのみなりひとりのみなり。。。
- 10たゞたゞただ人人ひとにおはせざるべしにおはせざるべしにおわせざるべし。。。賀茂賀茂かもののの女御女御にょうごととと世世よにににはははいひていひていいて、、、うれしきうれしきうれしき、、、いはひいはひいわいをををとてとてとて、、、姉弟後姉弟後あねおとうとのちにつゞきてにつゞきてにつづきて、、、聞聞きこえしがこえしがこえしが、、、それそれそれははは彼彼かのやしろのつかさのやしろのつかさのやしろのつかさ、、、がむすめどもにてがむすめどもにてがむすめどもにて、、、女房女房にょうぼうににに參參まいりたりしかばりたりしかばりたりしかば、、、御目御目おおんめ近近ちかかりしかりしかりしををを、、、これこれこれははは、、、はつかにはつかにはつかに御覽御覽ごらんじつけられてじつけられてじつけられて、、、それがやうにそれがやうにそれがようにはははなくてなくてなくて、、、これこれこれははは殊殊ことののの外外ほかににに、、、おもきさまにおもきさまにおもきさまに聞聞きこえこえこえ給給たまひきひきいき。。。
- 11かのかのかの御御おんさだにてさだにてさだにて、、、そのそのその女院女院にょういんもならびなくおはしましきもならびなくおはしましきもならびなくおわしましき。。。代々代々よよののの國母國母こくもにておはしましければにておはしましければにておわしましければ、、、理理ことわりとりとりとははは申申もうしながらしながらしながら、、、いかばかりかいかばかりかいかばかりかははは榮榮さかえさせえさせえさせ給給たまひしひしいし。。。
- 12をさなくてをさなくておさなくてははは、、、白河白河しらかわノノノ院院いんののの御御おんふところにふところにふところに御足御足おおんあしさしいれてさしいれてさしいれて、、、ひるもひるもひるも御殿御殿おおとのごもりたればごもりたればごもりたれば、、、殿殿とのなどまゐらせなどまゐらせなどまいらせ給給たまひたるにもひたるにもいたるにも、、、「「「こゝにずちなきこゝにずちなきここにずちなき事事ことののの侍侍はべりてりてりて、、、えええ自自おのづからづからずから申申もうさずさずさず」」」。。。
- 13などいらへてぞおはしましけるなどいらへてぞおはしましけるなどいらえてぞおわしましける。。。おとなにならせおとなにならせおとなにならせ給給たまひてもひてもいても、、、類類たぐひなくひなくひなく聞聞きこえこえこえ侍侍はべりきりきりき。。。白河白河しらかわノノノ院院いんかくれさせかくれさせかくれさせ給給たまひてこそひてこそいてこそ、、、ほいのほいのほいの如如ごとくくく、、、殿殿どののののたてまつりたてまつりたてまつり給給たまひてひていて、、、女御女御にょうごののの宣旨宣旨せんじかうぶりかうぶりこうぶり給給たまふふう。。。
- 14皇后宮皇后宮こうごうぐうにたちにたちにたち給給たまひてのちひてのちいてのちははは、、、院號院號いんごう聞聞きこえさせこえさせこえさせ給給たまひてひていて、、、高陽高陽かやノノノ院院いんととと申申もうしきしきしき。。。院院いんののの後後のちまゐりまゐりまいり給給たまへるにへるにえるに、、、女御女御にょうごののの宣旨宣旨せんじははは、、、これやこれやこれや始始はじめにてめにてめにて侍侍はべりけんりけんりけん。。。
- 15后后きさきののの宮宮みやのののはじめつはじめつはじめつ方方かたももも、、、宇治宇治うじののの御幸御幸みゆきありてありてありて、、、皇后宮皇后宮こうごうぐうひきつゞきていらせひきつゞきていらせひきつづきていらせ給給たまひしひしいし、、、うるはしきうるはしきうるわしき行啓行啓ぎょうけいのやうにのやうにのようにははは侍侍はべらでらでらで、、、皆皆みな狩衣狩衣かりぎぬににに風流風流ふりゅうなどしてなどしてなどして、、、女房女房にょうぼうののの車車くるまいろ〳〵にいろ〳〵にいろいろに、、、もみぢのもみぢのもみじの匂匂におひひい出出いだしてだしてだして、、、雜仕雜仕ぞうしなどもなどもなども皆皆みな車車くるまにのりてなんにのりてなんにのりてなん侍侍はべりしりしりし。。。
- 16さき〴〵さき〴〵さきざき白河白河しらかわノノノ院院いんののの御時御時おおんときははは、、、雜仕雜仕ぞうしははは皆皆みな馬馬うまにのりてにのりてにのりて、、、透笠透笠すかしがさたゞのたゞのただの笠笠かさなどきてなどきてなどきて、、、いくらともなくこそつゞきていくらともなくこそつゞきていくらともなくこそつづきて侍侍はべりしかりしかりしか。。。これこれこれははは車車くるまにてにてにて、、、これぞこれぞこれぞはじめてはじめてはじめて侍侍はべりしりしりし。。。
- 17后后きさきののの宮宮みやにににははは、、、冠冠こうぶりにてこそにてこそにてこそ、、、常常つねははは人々候人々候ひとびとそうろうふふうををを、、、これこれこれははは侍侍はべりしりしりし。。。
- 18此此こののの富家富家ふけのおとゞのおとゞのおとどははは、、、御御おんみめもみめもみめもふとりふとりふとり、、、淸淸きよらかにらかにらかに、、、御聲御聲おおんこえいといといとうつくしくてうつくしくてうつくしくて、、、年老年老としおいさせいさせいさせ給給たまふまでふまでうまで、、、細細ほそくきよらかにおはしましきくきよらかにおはしましきくきよらかにおわしましき。。。朗詠朗詠ろうえいなどえならずなどえならずなどえならず、、、せさせせさせせさせ給給たまふふう。。。
- 19又箏又箏またそうのことのことのことははは、、、すべてならびなくおはしましきすべてならびなくおはしましきすべてならびなくおわしましき。。。歌歌うたはさまでもはさまでもわさまでも聞聞きこえさせこえさせこえさせ給給たまはざりしにはざりしにわざりしに、、、宇治宇治うじにこもりゐさせにこもりゐさせにこもりいさせ給給たまへりしへりしえりし時時ときぞぞぞ、、、
- 20さほさほさお川川がわののの流流ながれたえせぬれたえせぬれたえせぬ身身みなれどもなれどもなれどもうきうきうき瀨瀨せにあひてにあひてにあいて沈沈しずみぬるかなみぬるかなみぬるかな
- 21とよませとよませとよませ給給たまひけるとかやひけるとかやいけるとかや。。。ふみのさたなどふみのさたなどふみのさたなどははは、、、常常つねにせさせにせさせにせさせ給給たまふともきこえざりしかどもふともきこえざりしかどもうともきこえざりしかども、、、天台止觀天台止觀てんだいしかんとかいふとかいふとかいう文文ふみをぞをぞをぞ、、、とかいひてとかいひてとかいいて、、、杉生杉生すぎうののの法橋法橋ほっきょうといひしにといひしにといいしに、、、本本ほん書書ふみばかりばかりばかりははは傳傳つたへさせへさせえさせ給給たまひてけりひてけりいてけり。。。
- 22日毎日毎ひごとににに參參まいりてりてりて候候そうらひければひければいければ、、、まぎらはしきまぎらはしきまぎらわしき日日ひももも、、、よふけてなどよふけてなどようけてなど思思おもひひい出出いださせださせださせ給給たまひつゝひつゝいつつ、、、年年としをををわたりてぞわたりてぞわたりてぞ、、、よみよみよみはははてさせてさせてさせ給給たまひけるひけるいける。。。眞言眞言しんごんももも好好このみみみ、、、さだせさせさだせさせさだせさせ給給たまひけるとひけるといけると聞聞きこえきこえきこえき。。。
- 23年年としよらせよらせよらせ給給たまひてひていてははは、、、御足御足おおんあしのかなはせのかなはせのかなわせ給給たまはざりしかばはざりしかばわざりしかば、、、乘乘のりてりてりて、、、ひかれひかれひかれ給給たまひひい、、、又又また御輿御輿みこしなどにてぞなどにてぞなどにてぞ院院いんにもにもにも參參まいりりり給給たまひけるひけるいける。。。御御おんぐしおろさせぐしおろさせぐしおろさせ給給たまひてひていて、、、奈良奈良ならにてもにてもにても、、、御受戒御受戒ごじゅかいせさせせさせせさせ給給たまひきひきいき。。。
- 24御名御名みなはははとぞとぞとぞ聞聞きこえさせこえさせこえさせ給給たまひしひしいし。。。いづれのたびもいづれのたびもいずれのたびも、、、院院いんののの御御おんともにぞともにぞともにぞ、、、御受戒御受戒ごじゅかいせさせせさせせさせ給給たまひけるひけるいける。。。御子御子みこののののおとゞののおとゞののおとどの事事ことおはせしゆかりにおはせしゆかりにおわせしゆかりに、、、奈良奈良ならにおはしましゝがにおはしましゝがにおわしまししが、、、宇治殿宇治殿うじどのへへへははは入入いらせらせらせ給給たまはははででで、、、おはしましゝおはしましゝおわしまししををを、、、法性寺殿法性寺殿ほっしょうじどのににに、、、御消息御消息おおんしょうそこありければありければありければ、、、とくとくとく京京きょうののの方方かたへへへいらせいらせいらせ給給たまへとへとえと、、、御御おんかへりごとかへりごとかえりごと申申もうさせさせさせ給給たまひければひければいければ、、、よろこびよろこびよろこび給給たまひてひていて、、、年年としごろのごろのごろの御中御中おおんなかももも直直なおらせらせらせ給給たまひてひていて、、、とてときめかせとてときめかせとてときめかせ給給たまひしひしいし人人ひとののの、、、都都みやこののの北北きたににに、、、雲林院雲林院うりんいんかかか知足院知足院ちそくいんかにかにかに侍侍はべるなるるなるるなる堂堂どうにぞおはしてにぞおはしてにぞおわして、、、うせさせうせさせうせさせ給給たまひにしひにしいにし。。。
- 25そのそのその播磨播磨はりまとかとかとか聞聞きこえしこえしこえし人人ひとははは、、、世世よにたぐひなきにたぐひなきにたぐいなき、、、さいはひさいはひさいわい人人ひとになむおはすめるになむおはすめるになむおわすめる。。。白川殿白川殿しらかわどのににに、、、唯同唯同ただおなじさまなるはしめにやおはしけんじさまなるはしめにやおはしけんじさまなるわしめにやおわしけん。。。後後のちにににははは女院女院にょういんののの、、、はしたものなどいふはしたものなどいふはしたものなどいう事事ことになりになりになり、、、つぎにつぎにつぎに女房女房にょうぼうになりなどしておはすとぞになりなどしておはすとぞになりなどしておわすとぞ聞聞きこえられしこえられしこえられし。。。
- 26今今いまにかしこきにかしこきにかしこき人人ひとにてにてにて、、、法性寺殿法性寺殿ほっしょうじどのののの、、、三井寺三井寺みいでらののの僧都僧都そうずののの君君きみ、、、養養やしなひましてひましていまして、、、昔昔むかしににに變變かわらぬらぬらぬ有樣有樣ありさまにてなんにてなんにてなん、、、聞聞きこえこえこえ侍侍はべるなるるなるるなる。。。
- 27かのかのかの白川殿白川殿しらかわどのとてとてとて祇園祇園ぎおんにおはせしにおはせしにおわせしははは、、、ゆかりまでさりがたくゆかりまでさりがたくゆかりまでさりがたく、、、院院いんにおぼしめされておはせしににおぼしめされておはせしににおぼしめされておわせしに、、、始始はじめつかためつかためつかた、、、平氏平氏へいじのののといひしといひしといいし、、、參參まいりりり仕仕つこうまつりければうまつりければうまつりければ、、、隱岐守隱岐守おきのかみなどいひけるもなどいひけるもなどいいけるも、、、後後のちにににははは然然しかるべきるべきるべき國々國々くにぐにのつかさなどのつかさなどのつかさなど、、、なりたりけれどなりたりけれどなりたりけれど、、、なほなほなおののの人人ひとにてありけれどにてありけれどにてありけれど、、、そのそのその子子こよりぞよりぞよりぞ院院いんののの殿上人殿上人てんじょうびとにてにてにて、、、四位四位しい五位五位ごいののの舞人舞人まいびとなどしけれどもなどしけれどもなどしけれども、、、內內うちののの殿上殿上てんじょうははは、、、えせざりけるにえせざりけるにえせざりけるに、、、五節五節ごせちたてまつりけるたてまつりけるたてまつりける年年とし、、、受領受領ずりょういまいまいまひとりひとりひとり、、、などいひしがなどいひしがなどいいしが父父ちちなりしなりしなりし、、、殿上殿上てんじょうゆるされたりしかばゆるされたりしかばゆるされたりしかば、、、忠盛忠盛ただもり、、、
- 28おもひきやおもひきやおもいきや雲井雲井くもいののの月月つきをををよそによそによそに見見みててて心心こころのやみにのやみにのやみに迷迷まよふべしとふべしとうべしとははは
- 29とぞきこえしとぞきこえしとぞきこえし。。。其其そののの殿上殿上てんじょうゆるされたりしゆるされたりしゆるされたりしははは、、、院院いんののの御御おんめのとごめのとごめのとご、、、知綱知綱ともつなといひしがといひしがといいしがうまごなればうまごなればうまごなれば、、、いとほしみあるべきいとほしみあるべきいとおしみあるべき上上うえににに、、、近近ちかくつかはせくつかはせくつかわせ給給たまふふう女房女房にょうぼうののの、、、心心こころばへなどおぼしめしゆるされたるばへなどおぼしめしゆるされたるばえなどおぼしめしゆるされたる者者ものにてありしがにてありしがにてありしが、、、子子こなどあまたなどあまたなどあまた生生うみたりければみたりければみたりければ、、、殿上殿上てんじょうせさせんとせさせんとせさせんと思思おぼしめしながらしめしながらしめしながら、、、辨辨べん近衞近衞こんえのすけなどにもあらでのすけなどにもあらでのすけなどにもあらで、、、忽忽たちまちににに殿上殿上てんじょうせんもせんもせんも、、、いかゞとおぼしめしていかゞとおぼしめしていかがとおぼしめして、、、ののの使使つかいにつかはしけるにつかはしけるにつかわしけるををを、、、鳥羽鳥羽とばノノノ院院いんののの新院新院しんいんととと申申もうしておはしましゝしておはしましゝしておわしましし程程ほどににに、、、長輔長輔ながすけときこえしときこえしときこえし兵衞兵衞ひょうえノノノ佐佐すけをををつかつかつかはははさんとさんとさんと、、、申申もうさせさせさせ給給たまひければひければいければ、、、かのかのかの御方御方おおんかたににに申申もうさせさせさせ給給たまふことさりがたくてふことさりがたくてうことさりがたくて、、、さらばさらばさらば爲忠爲忠ためただははは、、、今年今年ことしののの五節五節ごせちをををたてまつれとてぞたてまつれとてぞたてまつれとてぞ殿上殿上てんじょうはははゆるされけるゆるされけるゆるされける。。。
- 30餘餘あまりふとれりしかばにやりふとれりしかばにやりうとれりしかばにや。。。口口くちかわくかわくかわく病病やまひしてひしてひして、、、十年十年じゅうねんばかりこもりゐながらばかりこもりゐながらばかりこもりいながら、、、四位四位しいののの正下正下しょうげまでのぼりしもまでのぼりしもまでのぼりしも、、、三條三條さんじょう烏烏え丸殿丸殿まろどの作作つくりたりしたびりたりしたびりたりしたびははは、、、男男おとここそこもりたれどもこそこもりたれどもこそこもりたれども、、、女女おんなののの宮仕宮仕みやずかへへえをををすればすればすれば、、、加階加階かかいはははゆるしたぶとゆるしたぶとゆるしたぶと仰仰おおせらるとてせらるとてせらるとて、、、顯賴顯賴あきよりののの中納言中納言ちゅうなごんははわ、、、大原大原おおはらうとくおぼゆとぞうとくおぼゆとぞうとくおぼゆとぞ、、、よろこびいふとてよろこびいふとてよろこびいうとて、、、戲戲たわぶれられけるれられけるれられける。。。
- 31左京左京さきょうのかみのかみのかみのいはれけるのいはれけるのいわれけるははは、、、大夫大夫だいぶののの大工大工だいくなるべしなるべしなるべし。。。二條二條にじょうののの大宮大宮おおみやつくりてもつくりてもつくりても加階加階かかいししし、、、そのそのその御堂造御堂造みどうつくりてもりてもりても、、、またまたまた院院いんののの御所御所ごしょつくりてもつくりてもつくりても加階加階かかいすすす。。。
- 32といはれけるとといはれけるとといわれけると聞聞きこえしにあはせてこえしにあはせてこえしにあわせて、、、木工木工もくノノノ權頭權頭ごんのかみをぞをぞをぞ、、、かけづかさにしたりしかけづかさにしたりしかけずかさにしたりし。。。がつかさなればとてがつかさなればとてがつかさなればとて、、、なりたりけるとかやなりたりけるとかやなりたりけるとかや。。。
- 33そのそのその人人ひとまだまだまだ幼幼おさなきききほどなりけるにほどなりけるにほどなりけるに、、、白河白河しらかわののの法皇法皇ほうおうののの、、、六位六位ろくいののの殿上殿上てんじょうしたりけるにしたりけるにしたりけるに、、、それがしとそれがしとそれがしと召召めしけるしけるしけるををを、、、人人ひとののの召召めししし次次つぎければぎければぎければ、、、「「「藤原藤原ふじわらののの、、、異姓異姓いしょうになるになるになるははは、、、あしきあしきあしき事事ことなりなりなり」」」とてとてとて、、、もとのもとのもとの姓姓しょうになるべきになるべきになるべき由由よし、、、仰仰おおせられけるもせられけるもせられけるも、、、猶猶なおむかしのむかしのむかしの、、、御御おんいとほしみのいとほしみのいとおしみの、、、殘殘のこりけるとぞりけるとぞりけるとぞ聞聞きこえしこえしこえし。。。
- 34爲章爲章ためあきといひしといひしといいし人人ひとももも、、、本本もとはははためのりといひけるためのりといひけるためのりといいけるををを、、、白河白河しらかわノノノ院院いんのためあきらとのためあきらとのためあきらと召召めしたりけるよりしたりけるよりしたりけるより、、、かはりたるとかやかはりたるとかやかわりたるとかや。。。おほぢのおほぢのおおじの高大貳高大貳こうだいにははは、、、なりのりといひしかどもなりのりといひしかどもなりのりといいしかども、、、此此このころそののころそののころその末末すえははは、、、むねあきらなどいへるむねあきらなどいへるむねあきらなどいえるははは、、、召召めしけるよりしけるよりしけるより改改あらたまりたるとかやまりたるとかやまりたるとかや。。。
- 35白河白河しらかわノノノ院院いんははは、、、はかなきこともはかなきこともはかなきことも仰仰おおせらるゝせらるゝせらるる言言ことののの、、、かくぞとゞまりけるかくぞとゞまりけるかくぞとどまりける。。。又又また御心御心みこころののの敏敏びんくおはしましてくおはしましてくおわしまして、、、時時ときののの程程ほどににに、、、おもはしおもはしおもわし定定さだめけるめけるめけるははは、、、といひしがといひしがといいしが、、、式部式部しきぶノノノ丞丞じょうののの藏人藏人くろうどなりしなりしなりし時時とき、、、女房女房にょうぼうののの局局つぼねののの前前まえにゐてにゐてにいて、、、ものなどものなどものなど申申もうしけるにしけるにしけるに、、、殿殿どのまゐらせまゐらせまいらせ給給たまふとてふとてうとて、、、庭庭にわにおりてにおりてにおりて居居いければければければ、、、女房女房にょうぼうまゐりてまゐりてまいりて關白關白かんぱくののの參參まいりりり候候そうろうふなどふなどうなど申申もうしければしければしければ、、、「「「關白關白かんぱくならばさきこそならばさきこそならばさきこそ逐逐おはははめめめ。。。をこのものをこのものおこのものははは、、、兄兄あにののの知綱知綱ともつなががが參參まいるるるををを、、、いふにこそあらめいふにこそあらめいうにこそあらめ」」」。。。
- 36ととと仰仰おおせられけるにせられけるにせられけるに、、、伯耆守伯耆守ほうきのかみののの參參まいられたりけるとぞられたりけるとぞられたりけるとぞ、、、女房女房にょうぼう語語かたられけるられけるられける。。。かのかのかの雲井雲井くもいののの月月つきよめりしよめりしよめりし忠盛忠盛ただもりははは、、、中々中々なかなかににに院院いんかくれさせかくれさせかくれさせ給給たまひてのちにぞひてのちにぞいてのちにぞ、、、いつしかいつしかいつしか殿上殿上てんじょうゆるされたりしゆるされたりしゆるされたりし。。。
- 37そのそのその時時とき、、、殿上殿上てんじょうののの硯硯すずりのののはははこにこにこに、、、かきつけられたりけるかきつけられたりけるかきつけられたりける歌歌うたありけりとありけりとありけりと聞聞きこえしこえしこえしははは、、、みなもとなのるみなもとなのるみなもとなのる雲雲くもののの上上うえはははなにさへのぼるなりけりとかやなにさへのぼるなりけりとかやなにさえのぼるなりけりとかや。。。
- 38忘忘わすれておぼえれておぼえれておぼえ侍侍はべらずらずらず。。。山城山城やましろととと伊勢伊勢いせととと、、、源源みなもとととと平平たいらとととををを、、、對對たいしたるやうにぞしたるやうにぞしたるようにぞ聞聞きこえしこえしこえし。。。同同おなじじじ折折おりににに殿上殿上てんじょうしたりけるしたりけるしたりける人人ひとののの事事ことなるべしなるべしなるべし。。。そのそのその平氏平氏へいじののの子子こどもどもども、、、二人二人ふたりならびてならびてならびて藏人藏人くろうどになりなどせしもになりなどせしもになりなどせしも、、、平氏平氏へいじのおほきおとゞのおほきおとゞのおおきおとどははは、、、白河白河しらかわノノノ院院いんののの御時御時おおんときははは、、、などいひてなどいひてなどいいて、、、院院いんののの六位六位ろくいののの殿上殿上てんじょうしたりしかどもしたりしかどもしたりしかども、、、うるはしくうるはしくうるわしくはははなさせなさせなさせ給給たまはははででで、、、かうぶりかうぶりこうぶり給給たまはははりてりてりて、、、兵衞兵衞ひょうえノノノ佐佐すけになりたりしもになりたりしもになりたりしも、、、藏人藏人くろうどははは、、、なほかたきなほかたきなおかたき事事ことととと聞聞きこえこえこえ侍侍はべりきりきりき。。。
- 39さてさてさて又又またかのかのかの宇佐使宇佐使うさのつかいににに下下くだられしられしられし、、、兵衞兵衞ひょうえノノノ佐佐すけははは在方在方ありかたととと聞聞きこえしこえしこえし人人ひとののの聟聟むこなりしがなりしがなりしが、、、心心こころざしやなかりけんざしやなかりけんざしやなかりけん。。。離離はなれにしかばれにしかばれにしかば、、、いとくちをしくていとくちをしくていとくちおしくて、、、なほなほなお御御おんきそくにてきそくにてきそくにて、、、ふたゝびまでふたゝびまでふたたびまで、、、とりよせたりしかどもとりよせたりしかどもとりよせたりしかども、、、えええ住住すみみみ果果はてざりしかばてざりしかばてざりしかば、、、世世よににに歌歌うたにさへにさへにさえうたひてありしうたひてありしうたいてありしををを、、、院院いんののの御御おんめのとめのとめのと子子こののの、、、帥帥そつののの子子こなれどもなれどもなれども、、、ふたゝびまでふたゝびまでふたたびまで床床とこさりたるあやまりにやさりたるあやまりにやさりたるあやまりにや。。。
- 40國國くにののの司司つかさなりしなりしなりしをもをもをもとらせとらせとらせ給給たまひてひていて、、、ふるふるふる里里さとのせうとにのせうとにのしょうとに、、、天天あめののの橋立橋立はしだてもわたりにしもわたりにしもわたりにしははは、、、かのかのかの宮內卿宮內卿くないきょう平氏平氏へいじののの、、、むこになれりしいとほしみのむこになれりしいとほしみのむこになれりしいとおしみの、、、殘殘のこれるなるべしれるなるべしれるなるべし。。。
- 41そのそのそのふるふるふる里里さとににに、、、住住すみわたるみわたるみわたる人人ひとときこえしもときこえしもときこえしも、、、世世よののの中中なかによめるによめるによめる歌歌うたなどなどなど、、、きこえきこえきこえ侍侍はべりきりきりき。。。歌歌うたははは忘忘わすれておぼえれておぼえれておぼえ侍侍はべらずらずらず。。。
現代語訳
後の二条殿の御次には、近ごろ富家殿といらした入道殿(忠実)を、祖父の大殿(師実)が御子になさったと聞こえました。御母は大宮右大臣(俊家)の御娘です。この大臣の御名は忠実と申し上げました。康和元年閏九月二十八日に内覧の宣旨をお受けになりました。御年二十二。同じ二年七月十七日に右大臣におなりになりました。大将もなお兼ねていらっしゃいました。天永三年十二月十四日に太政大臣におなりになりました。初めは宇治の川瀬の波も静かで、白河の水にも隔てなく(院とも親しく)いらしたので、富家殿をお造りになって、院がお出ましになった時、宇治川に遊びの船を出し、歌をうたって波に浮かんだりして、たいそう趣深くお遊びになりました。盛定という男が歌をうたい、その時「こうたう」などと言った者を船に乗せて連れて、歌をお仕えしたとか。その時、人々に歌を詠ませなさらなかったのを、残念だなどと申す人もありました。このような所にお出ましになって、何ということもないお遊びも、古い例にも似ないお心でありましょう。このように過ごしておられたのに、保安元年十一月十二日でしたでしょうか、夜明け前に院からといって「堀川大臣(俊房)は急いで参られよ」とお使いがあって、大臣(忠実)の内覧を止めるべき旨を仰せ下されました。白河院がお亡くなりになって、鳥羽院が世をお治めになった時に、富家から出仕なさいました。待賢門院が幼くていらしたのを白河院が養育なさって、鳥羽院が位にいらした時に女御として差し上げなさったころ、入道太政大臣(忠実)の御娘を女御に差し上げようとなさると聞こえたことによって、関白(の内覧)を止め申し上げなさったと聞きました。
白河院の御代に、后や御息所などがお亡くなりになって、そういう方々もいらっしゃらなかったところに、白川殿と申し上げる方がいらっしゃいました。その人が待賢門院を養育なさって、院も御娘として大切にお扱いになったのです。その白川殿は、あきれるほどのご宿運がおありになった方なのでしょう。宣旨などは下されなかったけれども、世の人は祇園女御と申したようです。もとからあの院の内裏の局のあたりにいらしたのを、ちらりとお見つけになって、三千の寵愛を一身に受けたのです。普通の人ではいらっしゃらないのでしょう。賀茂女御と世に言われて、「うれしき」「いはひ」といって、姉妹が後に続いて評判になりましたが、それはあの社の神官重助の娘たちで、女房として参っていたので、お目に近かったのを、こちらはちらりとお見つけになって、それとは違って、ことのほか重々しく評判になられました。その方のお計らいで、あの女院(待賢門院)も並ぶ者なくいらっしゃいました。代々の国母でいらっしゃったので、当然とは申しながら、どれほど栄えなさったことでしょう。幼い時は白河院の御懐に御足を差し入れて、昼もお休みになっていたので、殿(忠実)などが参られた時にも、「ここにどうしようもない事情がありまして、自分からは申せません」などとお答えになっていました。成人なさっても、比べるもののないほどと評判でした。白河院がお亡くなりになってからこそ、ご本意どおり、殿の姫君(泰子)を差し上げなさって、女御の宣旨をお受けになります。皇后宮にお立ちになった後は、院号を受けられて高陽院と申し上げました。院(鳥羽)が退位なさった後に入内なさったのに、女御の宣旨というのは、これが初めてでしたでしょうか。后の宮の初めのころも、宇治への御幸があって、皇后宮も引き続いていらっしゃいましたが、正式の行啓のようではなく、皆狩衣に風流などをして、女房の車は色とりどりに紅葉の匂いの衣を出して、雑仕女なども皆車に乗っていました。前々の白河院の御時は、雑仕女は皆馬に乗って、透笠や普通の笠などを着て、数知れず続いていたものでした。これは車で、これが初めてでした。后の宮では、いつもは人々は冠でお仕えするのに、これは布衣になさっていました。
この富家の大臣は、お顔立ちも太り、清らかで、お声がたいそう美しくて、年をお取りになるまで細く清らかでいらっしゃいました。朗詠などもこの上なくみごとになさいます。また箏の琴は、まったく並ぶ者がないほどでいらっしゃいました。歌はそれほど評判ではなかったのに、宇治に籠もっていらした時に、
さほ川の流れたえせぬ身なれどもうき瀨にあひて沈みぬるかな
とお詠みになったとか。学問のことなどは、いつもなさっているとも聞こえなかったけれども、天台止観とかいう書を、皇覚とかいって杉生の法橋といった僧に、本文だけはお伝え受けになりました。毎日参ってお仕えしたので、忙しい日も夜が更けてからなどと思い出されて、年をまたいで読み終えられたのでした。真言もお好みになって、修法をなさったと聞きました。年をお取りになってからは、おみ足がご不自由だったので、円座に乗って引かれたり、また御輿などで院にも参られました。出家なさって、奈良でも御受戒なさいました。御名は円理と申し上げました。どの時も、院のお供として御受戒なさいました。御子の左大臣(頼長)の事件があったゆかりで奈良にいらしたのが、宇治殿には入られずにいらしたのを、法性寺殿(忠通)にお手紙があったので、早く京の方へお入りくださいとお返事を申し上げなさったので、喜ばれて、長年の御仲も直られて、播磨といって寵愛なさった人の、都の北の雲林院か知足院かにあるという堂においでになって、お亡くなりになりました。その播磨とか申した人は、世に比べるもののない幸運の人でいらっしゃるようです。白川殿とまったく同じような始まりでいらしたのでしょうか。後には女院の端女などということになり、次には女房になったりしていらっしゃると聞こえました。今も立派な人で、法性寺殿の御子の三井寺の僧都の君(覚忠か)を養育なさって、昔に変わらないご様子でいると聞いております。
あの白川殿といって祇園にいらした方は、ゆかりの人々まで(院に)大切にされていらしたところ、初めのころ、平氏の正盛という者が参ってお仕えしたので、隠岐守などと言っていたのも、後にはしかるべき国々の国司などにもなったけれども、なお下北面の人であったが、その子(忠盛)からは院の殿上人となって、四位・五位の舞人などをしたけれども、内裏の昇殿はできなかったところ、五節の舞姫を奉った年、受領のもう一人、為盛・為業などといった者の父(為忠)が昇殿を許されたので、忠盛が、
おもひきや雲井の月をよそに見て心のやみに迷ふべしとは
と申したと聞きました。その昇殿を許された人(為忠)は、院の御乳母子の知綱という者の孫なので、かわいがられるはずである上に、(院が)近くお使いになっていた女房で、心ばえなどをお認めになっていた者が、子などを大勢産んだので、昇殿させようとお思いになりながら、弁官や近衛次将などでもなくて、いきなり昇殿させるのもどうかとお思いになって、宇佐の使に遣わそうとしたところ、鳥羽院が新院と申し上げていらしたころ、長輔と申した兵衛佐を遣わそうと申されたので、あちらのお申し出は断りがたくて、それならば為忠は今年の五節の舞姫を奉れということで、昇殿を許されたのでした。あまりに太っていたからでしょうか、口が渇く病気になって、十年ほど籠もっていながら、四位の正下にまで上ったのも、三条烏丸殿を造った時は、「男は籠もっているけれども、女が宮仕えをしているので、加階は許してやる」とおっしゃったということで、顕頼の中納言は「大原(為忠の住まい)を疎く思う(いや、大いにありがたいだろう)」と、喜びを言うといって冗談を言われました。左京大夫顕輔の言われたことには、「大夫の大工というべきだ。二条の大宮(令子)の御所を造っても加階し、その御堂を造っても、また院の御所を造っても加階する」と言われたと聞こえたのに合わせて、木工権頭を兼官にしていました。貫之の官職だからといって、なったとか。
その人がまだ幼いころ、白河法皇が六位の殿上をしていた時に、「それがし」と召したのを、人が取り次いだところ、「藤原(に改めて)異姓になるのはよくないことだ」といって、もとの姓に戻るべきだとおっしゃったのも、やはり昔のかわいがりが残っていたのだと聞こえました。為章といった人も、もとはためのりといったのを、白河院がためあきらと呼ばれたことから変わったとか。祖父の高大弐はなりのりといったけれども、このごろその子孫がむねあきらなどと言っているのは、(院が)呼ばれたことから改まったとか。白河院は、何気なくおっしゃるお言葉も、このように残ったのです。またお心が鋭くていらして、とっさに見当をつけられたことには、信濃守惟明という者が式部丞の蔵人だった時、女房の局の前に座って何か申していたところ、「殿がお参りになる」といって庭に下りて控えていたので、女房が参って「関白が参られます」などと申し上げたところ、「関白ならば先払いをするはずだ。愚か者は、兄の知綱が参るのを言っているのだろう」とおっしゃったところ、(本当に)伯耆守(知綱)が参られたのだと女房が語られました。あの雲井の月を詠んだ忠盛は、かえって院がお亡くなりになった後に、早くも昇殿を許されたのでした。その時、殿上の硯箱に書きつけられた歌があったと聞いたのは、「みなもとなのる雲の上は名にさへのぼるなりけり」とかいうものでした。(上の句は)忘れて覚えておりません。山城と伊勢、源と平とを対にしたように聞こえました。同じ折に昇殿した人のことでしょう。その平氏の子どもが二人並んで蔵人になったりしたのも、平氏の太政大臣(清盛)は白河院の御時には非蔵人などといって、院の六位の殿上をしたけれども、正式にはおさせにならず、叙爵して兵衛佐になったのも、蔵人はやはり難しいことと聞きました。さてまた、あの宇佐使に下られた兵衛佐(長輔)は、在方と申した人の聟でしたが、愛情がなかったのでしょうか、離れてしまったので、たいそう残念がって、なお院のご意向で二度まで呼び戻したけれども、住み通せなかったので、世間で歌にまでうたわれていたのを、院の御乳母子で帥の子ではあるけれども、二度まで床を去った過ちのためでしょうか、国司であったのも取り上げられて、古里の兄弟に天の橋立(丹後)も渡したのは、あの宮内卿平氏の聟になっていたかわいがりが残っていたからでしょう。その古里に住み続けている人と聞こえた人も、世の中で詠んだ歌などが聞こえました。歌は忘れて覚えておりません。
意訳
藤原忠実は、父師通の早世で二十二歳で内覧となったが、白河院の院政のもとで実権は弱かった。娘泰子の入内をめぐって白河院の不興を買い、保安元年(1120)に内覧を止められ、宇治に籠居した。章題の「宇治の川瀬」は、「宇治の川瀬波しづかにて、白河の水へだてなく」と、院との良好な関係を川の流れにたとえた言葉による。
白河院の寵愛を受けた祇園女御(白川殿)は、待賢門院璋子を養女として育てた。幼い璋子が白河院の懐に足を入れて昼寝をしていたという話は、二人の親密さを示す有名な逸話である。白河院の死後、泰子はようやく入内して高陽院となった。
忠実は美声で朗詠や箏にすぐれ、天台止観を学ぶなど仏教にも熱心だった。保元の乱で子の頼長が敗れたのち、長年不和だった長男忠通と和解し、寵愛した播磨のもとで没した。
後半は祇園女御のゆかりで栄えた人々。平正盛は女御に仕えたことから受領となり、その子忠盛は院の殿上人となった。内裏の昇殿をめぐる忠盛の「おもひきや」の歌、太った体で病に籠もりながら妻の宮仕えのおかげで昇進した為忠、白河院の命名でかわった名、院の鋭い勘、清盛の非蔵人時代の話などが、次々と語られる。平氏台頭の前史として興味深い記事である。
語釈・文法注
- 富家殿
- 藤原忠実(1078〜1162)。師通の子で、祖父師実の養子。宇治の富家殿に住んだので富家殿と呼ばれる。
- 大宮の右のおとゞ
- 藤原俊家。忠実の母全子の父。
- 盛定
- 歌うたい(今様の歌い手)。伝未詳。
- 堀川のおとゞ
- 源俊房。忠実の内覧停止の宣下を務めた。
- 白川殿
- 祇園女御。白河院の寵愛を受けた女性。出自は未詳。待賢門院を養女とし、平忠盛(清盛の実母を女御の妹とする説もある)を後援した。
- 三千の寵愛ひとりのみなり
- 白居易「長恨歌」の「後宮の佳麗三千人、三千の寵愛一身に在り」による。
- 重助
- 賀茂社の神官。娘たちが白河院に仕え、賀茂女御と呼ばれた。
- 殿の姫君
- 藤原泰子。忠実の娘。鳥羽上皇の皇后。高陽院。
- ほうい
- 布衣。狩衣。冠ではなく烏帽子をかぶる略装。
- 皇覺
- 杉生法橋皇覚。天台の学僧。
- わらふだ
- 円座。わらなどで編んだ丸い敷物。
- 圓理
- 忠実の法名。
- 御子の左のおとゞ
- 藤原頼長(1120〜1156)。忠実の次男。保元の乱で敗死。
- 播磨
- 忠実の寵愛した女性。
- 平氏の正盛
- 平正盛(?〜1121?)。清盛の祖父。白河院の北面の武士として受領を歴任した。
- 下北面
- 院の御所の北面に詰めて警護にあたる武士のうち、身分の低い者。
- 爲盛爲業などいひしが父
- 藤原為忠(?〜1136)。為業(寂念)・為経(寂超、今鏡の作者とされる)の父。
- 宇佐の使
- 宇佐八幡宮への勅使。
- 左京のかみ顯輔
- 藤原顕輔(1090〜1155)。顕季の子。歌人。『詞花和歌集』の撰者。
- 貫之がつかさ
- 紀貫之が木工権頭であったこと。
- 信濃守惟明
- 藤原惟明。
- 非藏人
- 蔵人所で見習いとして仕える者。
文法
- いと面白くあそばせ給ひける
- 係り結びではなく、連体形で終わる余情の表現。
- え自づから申さず
- 自分からは申し上げることができない。
- 大原うとくおぼゆ
- 戯れの言葉。為忠の住む大原(大いにの意をかけるか)を疎く思う、と反語的に喜びを言うか。意未詳。
和歌
さほ川の流れたえせぬ身なれどもうき瀨にあひて沈みぬるかな
- 詠者
- 藤原忠実
- 状況
- 内覧を止められ、宇治に籠居していたときの歌。
修辞
- 掛詞
- 「うき瀬」に「憂き瀬」をかけ、「沈み」に不遇に沈む意をかける。
- 縁語
- 「流れ」「瀬」「沈み」。
- さほ川
- 佐保川。藤原氏の氏神春日社に近い川で、藤原氏の家の流れをたとえる。
おもひきや雲井の月をよそに見て心のやみに迷ふべしとは
- 詠者
- 平忠盛
- 状況
- 他の受領が昇殿を許されたのに、自分は許されなかったときの歌。
修辞
- 掛詞
- 「雲井」に空と宮中をかける。
- 対比
- 「雲井の月」と「心のやみ」。
解説
藤原為忠は、今鏡の作者とされる藤原為経(寂超)の父である。今鏡がこの章で為忠の昇殿の事情や、太った体での病気、妻の宮仕えのおかげの昇進など、身内の話を詳しく、ややおかしみをこめて記しているのは、作者自身に近い人物だからとも考えられる。
平正盛・忠盛父子が院の近臣として台頭した経緯は、平氏政権の成立を考えるうえで重要である。今鏡は、その始まりを祇園女御とのゆかりに求めている。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、168〜178頁(コマ99–104)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日