今鏡 第四「藤波の上」 第36章
波の上の盃
師実の子、後二条関白藤原師通。母は源師房の娘麗子。たけき心と容姿、すぐれた才能を持ち、匡房に唐の人にも見せたいとたたえられた。六条殿で曲水の宴を催したが、山の大衆の強訴などに心を痛め、三十八歳で早世した。
- 1このこのこの大殿大殿おおとのののの末末すえ、、、廣廣ひろくおはしますさまくおはしますさまくおわしますさまははは、、、をのこをのこおのこ公達公達きんだち、、、よによによに知知しらずらずらず多多おおくおはしましてくおはしましてくおわしまして、、、をのこをのこおのこ僧僧そうももも、、、あまたおはしますにあまたおはしますにあまたおわしますに、、、御御おんむすめぞおはしまさぬむすめぞおはしまさぬむすめぞおわしまさぬ。。。
- 2六條六條ろくじょうののの右右みぎのおとゞののおとゞののおとどの御御おんむすめむすめむすめををを、、、殿殿どのののの御子御子みことてとてとて、、、白河白河しらかわノノノ院院いんののの東宮東宮とうぐうととと申申もうしゝしゝしし時時ときよりよりより、、、御息所御息所みやすんどころにたてまつりにたてまつりにたてまつり給給たまへりしへりしえりし、、、賢子賢子けんしののの中宮中宮ちゅうぐうとてとてとて、、、堀河堀河ほりかわノノノ院院いんのののなりなりなり。。。
- 3宮々宮々みやみやおほくおほくおおく生生うみみみ奉奉たてまつりりり給給たまへりきへりきえりき。。。そのそのその御事御事おおんことはははみかどのみかどのみかどの御御おんついでについでについでに申申もうしししはべりぬはべりぬはべりぬ。。。さてさてさて一一いちののの人人ひとつがせつがせつがせ給給たまふふう。。。太郞太郞たろうにおはしましゝにおはしましゝにおわしましし後後のちののの二條二條にじょうののの關白關白かんぱくおとゞのおとゞのおとどの御流御流おおんながれれこそれこそれこそ、、、今今いまもつがせもつがせもつがせ給給たまふめれふめれうめれ。。。
- 4そのそのその御名御名みなははは關白關白かんぱく內大臣內大臣ないだいじん通通かよととと申申もうしきしきしき。。。御母御母おおんははははは土御門土御門つちみかどののの右右みぎのおとゞのおとゞのおとど師房師房もろうさととと申申もうしゝしゝしし御御おんむすめむすめむすめををを、、、山山やまノノノ井井いののの大納言大納言だいなごん信信のぶ家家いえととと申申もうしゝがしゝがししが、、、子子こにしたてまつりにしたてまつりにしたてまつり給給たまへりしへりしえりし御腹御腹おおんはらなりなりなり。。。
- 5永永えい保保ほう三年三年さんねん正月正月しょうがつ廿六日廿六日にじゅうろくにち、、、內大臣內大臣ないだいじんになりになりになり給給たまふふう、、、御年御年おおんとし廿一廿一にじゅういち。。。嘉嘉か保保ほう元年元年がんねん三月三月さんがつ九日九日ここのか關白關白かんぱくにならせにならせにならせ給給たまふふう。。。御年御年おおんとし卅卅さんじゅう三三さん。。。そのそのその三年三年さんねん正月正月しょうがつ、、、從一位從一位じゅいちいにのぼらせにのぼらせにのぼらせ給給たまふふう。。。
- 6右大臣右大臣うだいじんののの上上うえにつらなるべきにつらなるべきにつらなるべき宣旨宣旨せんじかうぶりかうぶりこうぶり給給たまふふう。。。承承うけたまわ德德とく三年三年さんねん六月六月ろくがつ廿八日廿八日にじゅうはちにち、、、御年御年おおんとし三十三十みそじ八八はちにてにてにて、、、うせさせうせさせうせさせ給給たまひにきひにきいにき。。。大臣大臣おとどののの位位くらいにてにてにて十七十七じゅうしち年年としおはしましきおはしましきおわしましき。。。
- 7このおとゞこのおとゞこのおとど、、、御心御心みこころばへたけくばへたけくばえたけく、、、すがたもすがたもすがたも御能御能おおんのうももも、、、すぐれてなんおはしましけるすぐれてなんおはしましけるすぐれてなんおわしましける。。。御御おん卽卽つ位位くらいなどにやなどにやなどにや侍侍はべりけんりけんりけん。。。匡房匡房まさふさののの中納言中納言ちゅうなごん、、、このこのこの殿殿どのののの御有樣御有樣おおんありさまををを、、、ほめたてまつりてほめたてまつりてほめたてまつりて、、、「「「あはれこれあはれこれあわれこれををを、、、もろこしのもろこしのもろこしの人人ひとににに見見みせせせ侍侍はべべらばやべらばやべらばや。。。一一いちののの人人ひととてさしとてさしとてさし出出いだしだしだし奉奉たてまつりたらんにりたらんにりたらんに、、、いかにいかにいかにほめほめほめ聞聞きこえんこえんこえん」」」。。。
- 8などぞなどぞなどぞ、、、まのあたりまのあたりまのあたり申申もうしけるしけるしける。。。といふといふという琵琶琵琶びわをををひきひきひき給給たまひければひければいければ、、、おほきなるおほきなるおおきなる琵琶琵琶びわののの、、、ちりばかりにぞちりばかりにぞちりばかりにぞ見見みえええ侍侍はべりけるりけるりける。。。手手てなどもよくかゝせなどもよくかゝせなどもよくかかせ給給たまひけりひけりいけり。。。
- 9「「「うまごのうまごのうまごの殿殿とのなどばかりなどばかりなどばかりははは、、、おはしまさずやあらんおはしまさずやあらんおわしまさずやあらん、、、手手てかきにおはしましきかきにおはしましきかきにおわしましき」」」とぞとぞとぞ、、、ののの君君きみははは人人ひとににに語語かたられけるられけるられける。。。三月三月さんがつ三日三日みかノノノ宴宴えんといふといふという事事こと、、、六條六條ろくじょう殿殿どのにてにてにて、、、このこのこの殿殿どのせさせせさせせさせ給給たまふとふとうと聞聞きこえこえこえ侍侍はべりきりきりき。。。
- 10からからから人人ひとのみぎのみぎのみぎはははになみになみになみ居居いててて、、、ののの盃盃さかずきうかべてうかべてうかべて、、、桃桃ももののの花花はなののの宴宴えんとてするとてするとてする事事ことををを、、、東三條東三條ひがしさんじょうにてにてにて、、、御堂御堂みどうのおとゞせさせのおとゞせさせのおとどせさせ給給たまひきひきいき。。。そのそのその古古ふるききき跡跡あとををを尋尋たずねさせねさせねさせ給給たまふなるべしふなるべしうなるべし。。。
- 11このたびのこのたびのこのたびの詩詩しののの序序じょはははといひしぞかきけるといひしぞかきけるといいしぞかきける。。。ときゝときゝときき侍侍はべりしりしりし。。。四十四十よそじにだににだににだに足足たらせたまはぬらせたまはぬらせたまわぬををを、、、然然しかるべきるべきるべき御御おんよはひなりよはひなりよわいなり。。。かぎりあるかぎりあるかぎりある御御おんいのちといのちといのちと申申もうしながらしながらしながら、、、御御おんにきみのにきみのにきみのほどほどほど、、、人人ひとののの申申もうししし侍侍はべりしりしりしははは、、、「「「常常つねののの事事ことととと申申もうしながらしながらしながら、、、山山やまのののののの、、、おどろ〳〵しくおどろ〳〵しくおどろおどろしく申申もうしけるもむづかしくしけるもむづかしくしけるもむずかしく、、、世世よののの中中なか心心こころよからぬつもりにやありけんよからぬつもりにやありけんよからぬつもりにやありけん」」」。。。ともともとも申申もうししし侍侍はべりきりきりき。。。
現代語訳
この大殿(師実)の子孫の広くいらっしゃる様子は、男の公達が数知れず多くいらして、男の僧も大勢いらっしゃるのに、御娘はいらっしゃいません。六条右大臣(顕房)の御娘を殿の御子として、白河院が東宮と申し上げた時から御息所として差し上げなさったのが、賢子の中宮といって、堀河院の御母です。宮々を多くお産みになりました。そのことは帝のついでに申し上げました。さて摂関をお継ぎになります。長男でいらした後の二条の関白殿の御流れこそが、今も継いでいらっしゃるようです。その御名は関白内大臣師通と申しました。御母は土御門右大臣師房と申した方の御娘を、山井大納言信家と申した方が養女になさった方の腹です。永保三年正月二十六日に内大臣におなりになります。御年二十一。嘉保元年三月九日に関白におなりになります。御年三十三。その三年正月、従一位にお上りになります。右大臣の上に連なるべき宣旨をお受けになります。承徳三年六月二十八日、御年三十八でお亡くなりになりました。大臣の位に十七年いらっしゃいました。
この大臣は、お心ばえが勇ましく、お姿も才能もすぐれていらっしゃいました。御即位の時でしたでしょうか、匡房中納言がこの殿のご様子をほめ申し上げて、「ああ、この方を唐の人に見せたいものです。摂関として差し出し申し上げたら、どれほどほめ申し上げることでしょう」などと、目の前で申しました。玄上という琵琶をお弾きになったところ、大きな琵琶が塵ほど(小さく)に見えました。字などもよくお書きになりました。「孫の殿(忠通)ほどではいらっしゃらないかもしれないが、能書でいらっしゃいました」と、定信の君は人に語られました。三月三日に曲水の宴ということを、六条殿でこの殿が催されたと聞きました。唐の人が水辺に並んで座り、鸚鵡杯を浮かべて、桃の花の宴としてすることを、東三条殿で御堂の大臣(道長)が催されたのです。その古い跡をお尋ねになったのでしょう。このたびの詩の序は孝言という者が書いたと聞きました。四十にもならずに(お亡くなりになったのは)、そういう定めのお年なのです。限りある御命とは申しながら、ご病気のころ、人が申しましたのは、「よくあることとは申しながら、比叡山の大衆がすさまじく訴え出たのも煩わしく、世の中の不快なことが積もったからであろうか」とも申しました。
意訳
師実には娘がなく、師房の娘で村上源氏の賢子を養女として白河天皇に入内させ、堀河天皇の母とした。摂関家の娘でない女性が摂関家の養女として国母となる時代になっていたことがわかる。
師実の後を継いだ師通は、気性が激しく、白河院の院政にも対抗する姿勢を見せた(第12章の「おり位のみかどの門に車立つるやうやはある」)。大江匡房に唐の人にも見せたいとたたえられた容姿、玄上の琵琶、能書と、すぐれた才能の持ち主だった。
章題の「波の上の盃」は、六条殿の曲水の宴で、流れに浮かべた鸚鵡杯による。師通は康和元年(1099)、比叡山の強訴に悩まされる中、三十八歳で急逝した。山門の衆徒を武力で退けたことの報いとも噂された。
語釈・文法注
- 關白內大臣師通
- 藤原師通(1062〜1099)。師実の子。後二条殿。日記『後二条師通記』を残した。
- 御母
- 源麗子。源師房の娘で、藤原信家の養女。師実の正室。
- 玄上
- 宮中に伝わる名器の琵琶。
- 定信
- 藤原定信(1088〜1156以後)。世尊寺流の能書家。
- 曲水ノ宴
- 三月三日、庭の曲がりくねった流れに盃を浮かべ、それが自分の前を過ぎないうちに詩歌を作る宴。
- 鸚鵡の盃
- 鸚鵡杯。オウムガイの殻で作った盃。
- 孝言
- 惟宗孝言。文章生出身の学者。
- 山の大衆
- 比叡山延暦寺の衆徒。嘉保二年(1095)、師通の命で強訴の衆徒が射られ、山門は師通を呪詛したと伝えられる。
文法
- 見せ侍べらばや
- 「ばや」は自己の願望。見せたいものです。
- 御にきみのほど
- 「にきみ」は腫れ物。師通は悪性の腫れ物で亡くなったという。
解説
師通の早世により、摂関家は若い忠実が継ぐことになり、白河院の院政がいっそう強まった。今鏡は、師通の死を山門の強訴と結びつける世評を伝えている。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、166〜168頁(コマ98–99)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
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