今鏡 第四「藤波の上」 第35章
薄花桜
頼通の子、京極殿藤原師実。容姿も人柄もすぐれ、白河・堀河二代の摂関を務めた。高陽院の歌合で負けた筑前の「薄花桜」の歌をかばう優しさを見せ、蹴鞠では淡路守盛長と猿楽の名手信濃守行綱の滑稽な張り合いを楽しんだ。
- 1昔昔むかしははは世世よもあがりてもあがりてもあがりて、、、打打うちつゞきすぐれちつゞきすぐれちつづきすぐれ給給たまへるへるえるははは申申もうすべきならずすべきならずすべきならず。。。またとりわきたるまたとりわきたるまたとりわきたる御能御能おおんのうなどなどなどははは次次つぎののの事事ことにてにてにて、、、近近ちかききき世世よののの關白關白かんぱくにににははは、、、大殿大殿おおとのとてとてとてをををぢのぢのじの大大だい二條二條にじょう殿殿どののつぎにのつぎにのつぎに、、、一一いちののの人人ひとにおはしましゝこそにおはしましゝこそにおわしまししこそ、、、御御おんみめもみめもみめも善善よくくく、、、御心御心みこころばへもばへもばえも末末すえ榮榮さかえさせえさせえさせ給給たまふこともふこともうことも、、、すぐれておはしましゝかすぐれておはしましゝかすぐれておわしまししか。。。
- 2そのそのその御名御名みなははは、、、とぞとぞとぞ聞聞きこえさせこえさせこえさせ給給たまひしひしいし。。。宇治宇治うじのおほきおとゞののおほきおとゞののおおきおとどの、、、第二第二だいにののの御子御子みこにおはしましきにおはしましきにおわしましき。。。御母御母おおんはは贈贈ぞう從二位從二位じゅにい藤原藤原ふじわらののの祇子祇子ぎしととと申申もうしきしきしき。。。四條四條しじょうののの宮宮みやとととひとつひとつひとつ御御おんはははらなりらなりらなり。。。
- 3大臣大臣おとどののの位位くらいにてにてにて四十四十よそじ二年二年にねんおはしましきおはしましきおわしましき。。。承承うけたまわ保保ほう二年二年にねん九月九月くがつ、、、內覽內覽ないらんののの宣旨宣旨せんじかうぶりかうぶりこうぶり給給たまひてひていて、、、十月十月じゅうがつ三日三日みかののの長者長者ちょうじゃにならせにならせにならせ給給たまふふう。。。十五日十五日じゅうごにちににに關白關白かんぱくにならせにならせにならせ給給たまひきひきいき。。。
- 4御年御年おおんとし三十四三十四さんじゅうし、、、白河白河しらかわノノノ院院いんののの御時御時おおんときなりなりなり。。。大將大將だいしょうはははのかせたまひてのかせたまひてのかせたまいて、、、御隨身御隨身みずいじんなほなほなお賜賜たまはははらせたまひてらせたまひてらせたまいて、、、牛車牛車ぎっしゃののの宣旨宣旨せんじかうぶらせかうぶらせこうぶらせ給給たまふふう。。。承承うけたまわ曆曆りやく四年四年よねん十月十月じゅうがつににに、、、太政大臣太政大臣だいじょうだいじんののの上上うえにつらなりにつらなりにつらなり給給たまふべきふべきうべき宣旨宣旨せんじありきありきありき。。。
- 5堀河堀河ほりかわノノノ院院いんくらゐにくらゐにくらいに卽卽つかせかせかせ給給たまひしひしいし日日ひ、、、攝政攝政せっしょうにならせにならせにならせ給給たまふふう。。。同同おなじじじ四年四年よねん內舍人內舍人うどねり隨身隨身ずいじんたまはりたまはりたまわり給給たまふふう。。。寬寬かん治治じ二年二年にねん十二月十二月じゅうにがつににに、、、太政大臣太政大臣だいじょうだいじんになりになりになり給給たまふふう。。。
- 6同同おなじじじ四年四年よねん攝政攝政せっしょうののの御名御名みなはははかはりてかはりてかわりて、、、關白關白かんぱくととと申申もうしゝかどもしゝかどもししかども、、、猶猶なお司召司召つかさめしなどのなどのなどの事事ことははは、、、同同おなじことなりきじことなりきじことなりき。。。嘉嘉か保保ほう元年元年がんねん三月三月さんがつ關白關白かんぱくのかせのかせのかせ給給たまひてもひてもいても、、、御隨身御隨身みずいじんはもはもはもとのやうにつかはせとのやうにつかはせとのようにつかわせ給給たまひきひきいき。。。
- 7同同おなじじじ三年三年さんねん正月正月しょうがつ重重へののの手手て車車くるまののの宣旨宣旨せんじありきありきありき。。。康康やす和和わ三年三年さんねん正月正月しょうがつ廿九日廿九日にじゅうくにち、、、御御おんぐしおろさせぐしおろさせぐしおろさせ給給たまふふう。。。二月二月にがつ十三日十三日じゅうさんにち宇治宇治うじにてにてにて、、、うせさせうせさせうせさせ給給たまふふう。。。御年御年おおんとし六十六十ろくじゅうにおはしましきにおはしましきにおわしましき。。。
- 8大殿大殿おおとのととと申申もうししし、、、又又また後後のちののの宇治宇治うじののの入道入道にゅうどう殿殿どのともともとも、、、又又また京極殿京極殿きょうごくどのともともとも申申もうすなるべしすなるべしすなるべし。。。
- 9寬治八年寬治八年かんじはちねん、、、高陽院高陽院かやのいんにてにてにてせさせせさせせさせ給給たまひしひしいし、、、時時ときののの歌歌うたよみどもよみどもよみども昔昔むかしにもにもにも耻耻はぢぬぢぬじぬ御御おんあそびなるべしあそびなるべしあそびなるべし。。。ののの御御ごののの、、、「「「うすうすうすはははなさくらなさくらなさくら」」」ののの歌歌うた、、、匡房匡房まさふさののの中納言中納言ちゅうなごんののの「「「白雲白雲しらくものみゆるにしるしのみゆるにしるしのみゆるにしるし」」」。。。といふといふという歌歌うたにまけにまけにまけ侍侍はべりしりしりしををを、、、殿殿どのよりよりより、、、
- 10しらしらしら雲雲くもはははたちかくせどもくれなゐのたちかくせどもくれなゐのたちかくせどもくれないのうすうすうす花花はなさくらさくらさくら心心こころにぞそむにぞそむにぞそむ
- 11ととと仰仰おおせられたりしかばせられたりしかばせられたりしかば、、、筑前筑前ちくぜんののの御御ごののの御返御返おおんかえししたてまつるにしたてまつるにしたてまつるに、、、
- 12白雲白雲しらくもはははさもたゝばたてくれなゐのさもたゝばたてくれなゐのさもたたばたてくれないの今一今一いまひとしほしほしおををを君君きみしそむればしそむればしそむれば
- 13ととと申申もうしたりししたりししたりし、、、いとやさしくこそいとやさしくこそいとやさしくこそ侍侍はべりしかりしかりしか。。。御心御心みこころばへなどのなつかしくばへなどのなつかしくばえなどのなつかしく、、、おはしましけるにこそおはしましけるにこそおわしましけるにこそ。。。
- 14御鞠御鞠おおんまり御覽御覽ごらんぜさせぜさせぜさせ給給たまひけるにひけるにいけるに、、、盛長淡路守盛長淡路守もりながあわじのかみといひしといひしといいしををを、、、殊殊ことののの外外ほかにににほめさせほめさせほめさせ給給たまひけるひけるいけるほどにほどにほどに、、、信濃守行綱信濃守行綱しなののかみゆきつなももも、、、心心こころにににははは劣劣おとらずらずらず思思おもひてひていて、、、羨羨うらやましくましくましく、、、ねたくねたくねたく思思おもひけるにひけるにいけるに、、、御足御足おおんあしすまさせすまさせすまさせ給給たまひけるにひけるにいけるに、、、つみつみつみ奉奉たてまつるやうにるやうにるようにたび〳〵しければたび〳〵しければたびたびしければ、、、「「「いかにかくいかにかくいかにかくははは」」」ととと仰仰おおせられければせられければせられければ「「「鞠鞠まりももも見見みしらぬしらぬしらぬはははぎのぎのぎの」」」といひつゝといひつゝといいつつ、、、洗洗あらひひい參參まいらするらするらするををを、、、「「「もよしもよしもよし」」」。。。
- 15とぞとぞとぞ仰仰おおせられけるせられけるせられける。。。御御おんかへりごとにかへりごとにかえりごとに、、、こそ〳〵とこそ〳〵とこそこそと撫撫なででで奉奉たてまつりけるりけるりける、、、うなれどもうなれどもうなれども、、、ものこちなきしうにものこちなきしうにものこちなきしゅうにははは、、、さもえまさじかしさもえまさじかしさもえまさじかし。。。
- 16ととと覺覺おぼえてえてえて」」」。。。またまたまたのぬしのぬしのぬし、、、花花はなざかりにざかりにざかりに、、、鞠鞠まりもたせてもたせてもたせて、、、へへへまかりけるにまかりけるにまかりけるに、、、行綱行綱ゆきつなさそひにやりたりければさそひにやりたりければさそいにやりたりければ、、、「「「御物忌御物忌おおんものいみにこもりてにこもりてにこもりて、、、人人ひともなければもなければもなければ、、、けふけふきょうはははえええ參參まいらじらじらじ」」」ととと、、、返事返事かえりごとしけるしけるしけるをををきゝつけさせきゝつけさせききつけさせ給給たまひてひていて、、、たゞいけとてたゞいけとてただいけとて、、、薄色薄色うすいろののの指貫指貫さしぬきのののはりたるはりたるはりたる、、、香香こうのそめのそめのそめ布布ぬのなどなどなど、、、よりとりよりとりよりとり出出いださせてださせてださせて、、、俄俄にわかににに縫縫ぬはせてはせてわせて、、、御鞠御鞠おおんまり、、、花花はなののの枝枝えだにつけてにつけてにつけて、、、みまやのみまやのみまやの御馬御馬みまににに、、、うつしうつしうつし置置おきてきてきて、、、出出いだしたてゝつかはしければだしたてゝつかはしければだしたててつかわしければ、、、けふけふきょうこそこそこそ此此このついでにのついでにのついでに、、、女女おんなににに見見みえめえめえめ。。。
- 17とおもひてとおもひてとおもいて、、、日日ひごろあはぬごろあはぬごろあわぬ女女おんなののの家家いえのさじきにのさじきにのさじきに馬馬うまうちよせてうちよせてうちよせて、、、かたらふかたらふかたらうほどにほどにほどに、、、御馬御馬みまにににはははかにかにかにはははねおとしてねおとしてねおとして、、、まへのまへのまえのほりけにほりけにほりけにうちいれてけりうちいれてけりうちいれてけり。。。
- 18かしらくだりのこるかしらくだりのこるかしらくだりのこる所所ところなくなくなく、、、土土つちかたにかたにかたに浴浴あみたりけるみたりけるみたりけるををを、、、女家女家おんないえにいれてにいれてにいれて、、、あらひあげてあらひあげてあらいあげて、、、いとほしさにこそあひにけれいとほしさにこそあひにけれいとおしさにこそあいにけれ。。。御馬走御馬走みまはしりてみまやにりてみまやにりてみまやに立立たちにけりちにけりちにけり。。。
- 19あやしくあやしくあやしく聞聞きこしめしけるこしめしけるこしめしけるほどにほどにほどに、、、追追おひつきてひつきていつきて、、、かくとかくとかくと申申もうしければしければしければ、、、いかにあさましくいかにあさましくいかにあさましく、、、をかしくおぼしめしけんをかしくおぼしめしけんおかしくおぼしめしけん。。。さてしばしさてしばしさてしばしははは、、、えさしえさしえさし出出いでもせざりけるとぞでもせざりけるとぞでもせざりけるとぞ、、、聞聞きこえこえこえ侍侍はべりしりしりし。。。
現代語訳
昔は世も上代で、続けてすぐれていらしたことは申すまでもありません。また格別の才能などは二の次として、近ごろの関白では、大殿といって、叔父の大二条殿の次に摂関でいらした方こそ、お顔立ちもよく、お心ばえも子孫の繁栄も、すぐれていらっしゃいました。その御名は師実と申し上げました。宇治の太政大臣(頼通)の第二の御子でいらっしゃいました。御母は贈従二位藤原祇子と申しました。四条宮と同じ腹です。大臣の位に四十二年いらっしゃいました。承保二年九月に内覧の宣旨をお受けになって、十月三日に氏の長者におなりになります。十五日に関白におなりになりました。御年三十四。白河院の御時です。大将は退かれて、御随身はなお賜って、牛車の宣旨をお受けになります。承暦四年十月に、太政大臣の上に連なるべき宣旨がありました。堀河院が位におつきになった日、摂政におなりになります。同じ四年に内舎人の随身を賜りました。寛治二年十二月に太政大臣におなりになります。同じ四年、摂政の名は改まって関白と申し上げたけれども、やはり司召などのことは同じでした。嘉保元年三月に関白を退かれても、御随身は元のように使っていらっしゃいました。同じ三年正月に中重の輦車の宣旨がありました。康和三年正月二十九日に出家なさいます。二月十三日に宇治でお亡くなりになります。御年六十でいらっしゃいました。大殿と申し、また後の宇治入道殿とも、また京極殿とも申すのでしょう。
寛治八年、高陽院で歌合をなさったのは、当時の歌詠みたちが集まった、昔にも恥じないお遊びでありましょう。筑前の御の「うす花桜」の歌が、匡房中納言の「白雲のみゆるにしるし」という歌に負けましたのを、殿から、
しら雲はたちかくせどもくれなゐのうす花さくら心にぞそむ
とおっしゃったので、筑前の御がお返しを差し上げるのに、
白雲はさもたゝばたてくれなゐの今一しほを君しそむれば
と申し上げたのは、たいそう優雅なことでした。お心ばえなどの慕わしくていらしたからでしょう。
蹴鞠をご覧になった時、淡路守盛長という者をことのほかお褒めになったところ、信濃守行綱も心では劣らないと思って、うらやましくねたましく思っていたので、(師実の)おみ足を洗わせなさった時、たびたびつねり申し上げるようにしたので、「どうしてこうするのか」とおっしゃったところ、「鞠も見知らぬ脛の」と言いながら洗い申し上げるのを、「行綱もよい」とおっしゃいました。そのお返しに、こそこそと撫で申し上げたのは、もとからの猿楽者ではあるけれども、無骨な主人には、とてもそうはできないだろう、と思われて。また盛長が花盛りに鞠を持たせて、鞠場へ出かけた時、行綱を誘いにやったところ、「御物忌に籠もっていて人もいないので、今日は参れない」と返事したのを(師実が)お聞きつけになって、ともかく行けと言って、薄色の指貫の糊のきいたのや香染めの布などを納殿から取り出させて、急いで縫わせて、御鞠を花の枝につけて、御厩の御馬に移し置いて、送り出させなさったので、(行綱は)今日こそこのついでに女に会おうと思って、日ごろ会ってくれない女の家の桟敷に馬を寄せて語らっているうちに、御馬が急に跳ねて落として、前の堀に落としてしまいました。頭から下まで残る所なく泥を浴びたのを、女が家に入れて洗い上げて、気の毒さに(とうとう)逢ったのでした。御馬は走って御厩に戻って立っていました。(師実が)不審にお思いになっていると、飼育係が追いついて、こうと申し上げたので、どれほどあきれて、おかしくお思いになったことでしょう。それでしばらくは、(行綱は)顔も出せなかったと聞きました。
意訳
藤原師実は、兄通房の早世により頼通の後を継ぎ、白河・堀河二代の摂関を務めた。京極殿・後宇治殿と呼ばれる。語り手は、容姿・心ばえ・子孫の繁栄のすべてにすぐれた関白とたたえる。
寛治八年(1094)の高陽院殿七番歌合で、筑前の「薄花桜」の歌が匡房の歌に負けたとき、師実は「心にぞ染む」と慰めの歌を贈った。章題の「薄花桜」はこの歌による。
蹴鞠の名手盛長をほめられて嫉妬した行綱が、師実の足をつねりながら「鞠も見しらぬはぎの」と洗った話、師実が仕立てた装束と馬で行綱を送り出したところ、女の家の前で馬に振り落とされて堀にはまり、かえって女と逢えたという話は、猿楽の名手行綱らしい滑稽譚で、師実の鷹揚な人柄を伝えている。
語釈・文法注
- 師實
- 藤原師実(1042〜1101)。頼通の子。京極殿・後宇治殿。
- 氏の長者
- 藤原氏一門の長。氏寺・氏社などを管理した。
- 中重
- 内裏の内郭の門の内側。ここまで輦車で入ることを許された。
- 高陽院にて歌合
- 寛治八年(1094)八月の高陽院殿七番歌合。
- 筑前の御
- 筑前。康資王母とも。歌人。
- 盛長淡路守
- 源盛長。蹴鞠の名手。
- 信濃守行綱
- 藤原行綱。猿楽(滑稽な芸)に長じた。
- さるがう
- 猿楽。滑稽なしぐさや言葉で人を笑わせる芸。
- かゝり
- 鞠場。四隅に桜・柳・楓・松を植えた蹴鞠の場所。
- 納殿
- 衣服・調度などを納めておく所。
- ゐかひ
- 居飼。馬の世話をする下人。
文法
- ものこちなきしうには
- 「こちなし」は無骨だ、不作法だ。「しう」は「主(しゅう)」。
- 女に見えめ
- 「見ゆ」は(女に)会う、結婚する。
- と覺えて」。
- 底本はここに閉じ括弧を置くが、対応する開き括弧はない。
和歌
しら雲はたちかくせどもくれなゐのうす花さくら心にぞそむ
- 詠者
- 藤原師実
- 状況
- 高陽院歌合で、筑前の「薄花桜」の歌が匡房の「白雲」の歌に負けたのを慰めて贈った歌。
修辞
- 掛詞
- 「白雲」に匡房の歌をかけ、白雲が隠しても薄花桜の歌は心に染みている、と筑前の歌をたたえる。
- 縁語
- 「くれなゐ」「そむ(染む)」。
白雲はさもたゝばたてくれなゐの今一しほを君しそむれば
- 詠者
- 筑前
- 状況
- 師実の歌への返し。
修辞
- 縁語
- 「くれなゐ」「一しほ(一入・一度染め)」「そむ」。
- 掛詞
- 「一しほ」に、染め汁に一度浸すことと、いっそうの意をかける。
解説
師実の時代は白河院政の始まりと重なり、摂関の権力は次第に院に移っていった。それでも今鏡は、師実を「すぐれておはしましし」関白として描き、その風雅と人柄を伝えることに力を注いでいる。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、161〜165頁(コマ95–97)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日