今鏡 第四「藤波の上」 第33章
はちすの露
教通の子どもたち。山井大納言信家は頼通にも一目置かれた立派な人だったが子孫はなく、九条太政大臣信長にも続く家はなかった。小式部内侍の産んだ木幡僧正静円は歌人で、亡き後に上東門院の夢に現れて、極楽往生を告げる歌を詠んだ。
- 1ののの大納言大納言だいなごんのむすめののむすめののむすめの御御おんはははらにらにらに、、、御子御子みこどもどもども多多おおくおはしましきくおはしましきくおわしましき。。。太郞太郞たろうにてにてにてははは、、、山山やまノノノ井井いののの大納言大納言だいなごん家家いえののの君君きみおはしましきおはしましきおわしましき。。。いとよきいとよきいとよき人人ひとにおはしましきにおはしましきにおわしましき。。。
- 2宇治殿宇治殿うじどのははは山山やまノノノ井井いばかりのばかりのばかりの子子こををを、、、えもたぬとぞえもたぬとぞえもたぬとぞ仰仰おおせられけるせられけるせられける。。。いかばかりおはしましけるにかいかばかりおはしましけるにかいかばかりおわしましけるにか。。。何事何事なにごとにかにかにか侍侍はべりけんりけんりけん。。。宇治殿宇治殿うじどのののの御許御許おおんもとにおはしけるににおはしけるににおわしけるに、、、わざとすゑまさんとおぼしてわざとすゑまさんとおぼしてわざとすえまさんとおぼして、、、見見みかへりてかへりてかえりて、、、久久ひさしくものししくものししくものし給給たまひけるにもひけるにもいけるにも、、、遂遂ついににに居居い給給たまはざりけるとかやぞはざりけるとかやぞわざりけるとかやぞ聞聞きこえこえこえ侍侍はべりしりしりし。。。
- 3いといといと末末すえおはせぬにおはせぬにおわせぬに、、、土御門土御門つちみかどののの右右みぎのおとゞののおとゞののおとどのをぞをぞをぞ養養やしなひひい子子こにてにてにて、、、大殿大殿おおとのののの北北きたののの政所政所まんどころととと申申もうしゝしゝしし。。。二條二條にじょう殿殿どのののの次次つぎののの御子御子みこははは、、、とておはしましきとておはしましきとておわしましき。。。
- 4又九條又九條またくじょうののの太政太政だいじょうのおとゞのおとゞのおとど、、、とておはせしとておはせしとておわせし、、、それもそれもそれもはか〴〵しきはか〴〵しきはかばかしき末末すえもおはせぬなるべしもおはせぬなるべしもおわせぬなるべし。。。ののの僧正僧正そうじょう、、、谷谷たにののの法印法印ほういんなどいふなどいふなどいう僧僧そうきんだちおはしましききんだちおはしましききんだちおわしましき。。。
- 5僧正僧正そうじょうははは小小こ式部式部しきぶノノノ內侍內侍ないしのののはらなればにやはらなればにやはらなればにや。。。歌歌うたよみにてこそおはすめりしかよみにてこそおはすめりしかよみにてこそおわすめりしか。。。「「「のすぐろのすゝきつのぐめばのすぐろのすゝきつのぐめばのすぐろのすすきつのぐめば」」」などいふなどいふなどいう歌歌うた、、、撰集撰集せんしゅうにもにもにも見見みえええ侍侍はべるめりるめりるめり。。。
- 6うせうせうせ給給たまひてひていて後後のちももも、、、上東門院上東門院じょうとうもんいんののの御夢御夢おおんゆめににに御覽御覽ごらんじけるじけるじける、、、僧正僧正そうじょうののの御御おんうたうたうた、、、
- 7あだにしてあだにしてあだにして消消きえぬるえぬるえぬる身身みとやとやとや思思おもふらんふらんうらんはははちすのちすのちすの上上うえののの露露つゆぞわがぞわがぞわが身身みははは
- 8とととはべりけるはべりけるはべりける、、、淨土淨土じょうどににに往生往生おうじょうししし給給たまふにやふにやうにや。。。いといといとたふとたふととうとききき御歌御歌おおんうたなるべしなるべしなるべし。。。法印法印ほういんははは兄兄このかみたちのたちのたちの、、、同同おなじはらにておはすべしじはらにておはすべしじわらにておわすべし。。。
現代語訳
四条大納言(公任)の娘の腹に、(教通の)御子たちが多くいらっしゃいました。長男としては、山井大納言信家の君がいらっしゃいました。たいそう立派な人でいらっしゃいました。宇治殿は「山井ほどの子を持てないでいる」とおっしゃいました。どれほどの方でいらしたのでしょう。何の事でございましたか、宇治殿のお許にいらした時、(頼通が)わざわざ座らせようとお思いになって、振り返って長いことおいでになったのに、とうとうお座りにならなかったとか聞きました。たいそう子孫がいらっしゃらないので、土御門右大臣(師房)の姫君を養女にして、(その姫君が)大殿(師実)の北の政所と申し上げました。二条殿の次の御子は、三位侍従信基といらっしゃいました。また九条太政大臣信長といらした方も、それもしっかりした子孫はいらっしゃらないのでしょう。木幡の僧正(静円)、長谷の法印(静覚)などという僧の公達がいらっしゃいました。僧正は小式部内侍の腹だからでしょうか、歌詠みでいらしたようです。「粟津野のすぐろのすすきつのぐめば」などという歌が、撰集にも見えるようです。お亡くなりになった後も、上東門院の御夢に現れた僧正の御歌、
あだにして消えぬる身とや思ふらんはちすの上の露ぞわが身は
とあったのは、極楽浄土に往生なさったのでしょうか。たいそう尊い御歌でありましょう。法印は兄たち(信家ら)と同じ腹でいらっしゃるのでしょう。
意訳
教通の長男信家は、伯父の頼通が「山井ばかりの子をえもたぬ」とうらやむほどの人物だったが、子がなく、養女が師実の正室となった(麗子)。教通の家は、次男信長が太政大臣になったものの、摂関家として続くことはなかった。
小式部内侍の子静円は歌人で、死後に上東門院の夢に現れ、自分ははかなく消えたのではなく極楽の蓮の上の露となったのだと詠んだ。章題の「はちすの露」はこの歌による。
語釈・文法注
- 四條の大納言
- 藤原公任(966〜1041)。歌人・歌学者。『和漢朗詠集』の撰者。
- 山ノ井の大納言信家
- 藤原信家(1019〜1061)。教通の長男。
- ひめぎみ
- 源麗子(1040〜1114)。源師房の娘で信家の養女。師実の正室。
- 三位侍從信基
- 藤原信基。
- 九條の太政のおとゞ、信長
- 藤原信長(1022〜1094)。教通の子。太政大臣。
- 木幡の僧正
- 静円(1016〜1074)。教通と小式部内侍の子。歌人。
- なが谷の法印
- 静覚。教通の子。
- 粟津野のすぐろのすゝきつのぐめば
- 静円の歌の句。野焼きの跡の黒い芒が芽ぐむ情景を詠む。後拾遺集に入る。
文法
- えもたぬ
- 「え…ぬ」の不可能。持つことができない。
- 露ぞわが身は
- 倒置。わが身は(極楽の)蓮の上の露なのだ。
和歌
あだにして消えぬる身とや思ふらんはちすの上の露ぞわが身は
- 詠者
- 静円
- 状況
- 死後、上東門院の夢に現れて詠んだという歌。
修辞
- 見立て
- わが身を、はかなく消える露ではなく、極楽の蓮の上に置く露とする。
- 縁語
- 「消え」「露」。
解説
死者が夢に現れて歌で往生を告げる話は、往生伝や説話集に多く見られる。今鏡もこうした仏教説話的な要素をしばしば取り入れている。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、156〜157頁(コマ93)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日