今鏡 第四「藤波の上」 第32章
白川のわたり
頼通の弟、大二条殿藤原教通。兄の譲りで関白となり、八十歳で没した。家司の但馬守能通は有職に明るく、冬の御遊に一人だけ半臂を着けた教通を誇らせた。笏をめぐる故実、御倚子の勾欄の話のあと、小式部内侍の白河の花の歌が引かれる。
- 1鷹司殿鷹司殿たかつかさどのののの御御おんはははらのらのらの、、、第二第二だいにののの御子御子みこにてにてにてははは、、、二條二條にじょう殿殿どのとておはしましゝとておはしましゝとておわしましし、、、關白太政大臣敎通關白太政大臣敎通かんぱくだいじょうだいじんのりみちのおとゞとのおとゞとのおとどと申申もうしきしきしき。。。御堂御堂みどうののの君君きみたちのたちのたちの御中御中おおんなかにににははは、、、第三第三だいさん郞郞ろうにおはしけんかしにおはしけんかしにおわしけんかし。。。
- 2さささはははあれどもあれどもあれども、、、宇治殿宇治殿うじどののつぎにのつぎにのつぎに關白關白かんぱくもせさせもせさせもせさせ給給たまふふう。。。第二第二だいにののの御子御子みこにてぞおはしましゝにてぞおはしましゝにてぞおわしましし。。。大臣大臣おとどののの位位くらいにてにてにて五十五年五十五年ごじゅうごねんにおはしましきにおはしましきにおわしましき。。。治治じ曆曆りやく四年四年よねん四月四月しがつ十七日十七日じゅうしちにち、、、後冷泉後冷泉ごれいぜいノノノ院院いんののの御時御時おおんとき、、、兄兄あにののの宇治殿宇治殿うじどのののの御御おんゆづりによりてゆづりによりてゆずりによりて、、、關白關白かんぱくにならせにならせにならせ給給たまひきひきいき。。。
- 3七十七十しちじゅう三三さんののの御年御年おおんとしにやありけんにやありけんにやありけん。。。みかどみかどみかど程程ほどなくかはりゐさせなくかはりゐさせなくかわりいさせ給給たまひてひていて、、、後後のち三條三條さんじょうノノノ院院いんののの代代よのののはじめのはじめのはじめの關白關白かんぱく、、、やがてやがてやがて同同おなじじじ月月つきののの十九日十九日じゅうくにちににに、、、更更さらにならせにならせにならせ給給たまひきひきいき。。。
- 4延延の久久ひさ二年二年にねん三月三月さんがつににに、、、太政大臣太政大臣だいじょうだいじんにのぼらせにのぼらせにのぼらせ給給たまふふう。。。承承うけたまわ保保ほう二年二年にねん九月九月くがつ廿五日廿五日にじゅうごにちにぞにぞにぞ、、、うせさせうせさせうせさせ給給たまひにしひにしいにし。。。御年御年おおんとし八十八十やそ、、、兄兄あにののの宇治殿宇治殿うじどのははは申申もうすべきならずすべきならずすべきならず。。。
- 5このおとゞもこのおとゞもこのおとども、、、世世よおぼえなどおぼえなどおぼえなど、、、とり〴〵になむおはしましゝとり〴〵になむおはしましゝとりどりになむおわしましし。。。女御女御にょうごきさきなどきさきなどきさきなど、、、たび〳〵たてまつらせたび〳〵たてまつらせたびたびたてまつらせ給給たまふふう。。。家家いえののの賞賞じょうかぶりかぶりかぶり給給たまふふう事事こともももたび〳〵にてたび〳〵にてたびたびにて、、、御御おんひきいでひきいでひきいで物物もの、、、御馬御馬みまなどたてまつりなどたてまつりなどたてまつり給給たまふふう。。。
- 6公達公達きんだちなどなどなど加階加階かかいせさせせさせせさせ給給たまひてひていて、、、もとよりもとよりもとより一一いちののの人人ひとにもにもにも劣劣おとらずなんおはしましゝらずなんおはしましゝらずなんおわしましし。。。御後見御後見おおんうしろみにてにてにて但馬守能通但馬守能通たじまのかみよしみちといふがといふがというが、、、はか〴〵しきにてはか〴〵しきにてはかばかしきにて、、、うしろうしろうしろ見見みたてまつりければたてまつりければたてまつりければ、、、御家御家おおんいえのののうちもうちもうちも、、、いといといと心心こころにくきにくきにくき事事ことおおおほかりけりほかりけりほかりけり。。。
- 7いつのいつのいつの事事ことににに侍侍はべりけるにかやりけるにかやりけるにかや。。。おほみあそびにおほみあそびにおおみあそびに、、、冬冬ふゆののの束帶束帶そくたいにににをををきさせきさせきさせ給給たまへりけるへりけるえりけるををを、、、ぬがせぬがせぬがせ給給たまふときふときうとき、、、宇治殿宇治殿うじどのよりよりよりはじめてはじめてはじめて、、、のみのみのみ白白しろくくく見見みえけるにえけるにえけるに、、、このこのこの大臣大臣おとどひとりひとりひとりははは、、、半臂半臂はんぴををを著著きたまへりければたまへりければたまえりければ、、、御日記御日記おおんにっきにににはべるなるはべるなるはべるなるははは、、、「「「予予よひとりひとりひとり半臂半臂はんぴののの衣衣きぬをををきたりきたりきたり。。。衆人耻衆人耻しゅうじんはぢたるぢたるじたる色色いろありありあり」」」とぞとぞとぞ侍侍はべるなるるなるるなる。。。
- 8かやうなるかやうなるかようなる事事こともぞもぞもぞ多多おおくくく侍侍はべりけるりけるりける。。。のぬしのぬしのぬし、、、宇治殿宇治殿うじどのにまゐりてにまゐりてにまいりて、、、御前御前おまえににに召召めされてされてされて參參まいるとてるとてるとて、、、持持もちてちてちて參參まいらんとてらんとてらんとて、、、藏人所藏人所くろうどどころののの御厨子御厨子みずしさぐりてさぐりてさぐりて、、、「「「しやくもしやくもしやくも置置おかれぬみづしかなかれぬみづしかなかれぬみずしかな。。。衣冠衣冠いかんにておまへににておまへににておまえに參參まいるものるものるものははは、、、把把とりてこそりてこそりてこそ參參まいることにてあるにることにてあるにることにてあるに」」」。。。
- 9とつぶやきければとつぶやきければとつぶやきければ、、、殿殿どのきかせきかせきかせ給給たまひてひていて、、、「「「かくかくかく常常つねににに耻耻はぢしめらるゝぢしめらるゝじしめらるる」」」などぞなどぞなどぞ仰仰おおせられけるせられけるせられける。。。しやくしやくしやくははは、、、束帶束帶そくたいにてぞにてぞにてぞ持持もつつつ事事ことにてにてにて侍侍はべるるるををを、、、裝束裝束しょうぞくにもにもにも、、、事事ことにしたがひにしたがひにしたがい、、、人人ひとによるべきにやによるべきにやによるべきにや。。。
- 10撿非違使撿非違使けびいしなどなどなどははは、、、常常つねににに持持もちちち侍侍はべるめりるめりるめり。。。又高光又高光またたかみつとかきこえしとかきこえしとかきこえし人人ひと、、、誰誰たれにあひれにあひれにあい奉奉たてまつりたりけるとかやりたりけるとかやりたりけるとかや。。。車車くるまよりおりてよりおりてよりおりて、、、懷紙懷紙かいしをををたかくたゝみなしてたかくたゝみなしてたかくたたみなして、、、笏笏しゃくになしてなんになしてなんになしてなん把把とれりけるとぞれりけるとぞれりけるとぞ聞聞きききき侍侍はべりしりしりし。。。
- 11束帶束帶そくたいにもにもにも、、、上達部上達部かんだちめはははなちてなちてなちてははは、、、殿上殿上てんじょうにににははは持持もちてのぼりちてのぼりちてのぼり給給たまはぬとかやはぬとかやわぬとかや。。。ののの右右みぎのおとゞのおとゞのおとど、、、ののの大納言大納言だいなごん、、、藏人藏人くろうどノノノ頭頭とうにていさかひにていさかひにていさかい給給たまひけるひけるいける時時とき、、、笏笏しゃくしてしてしてうちうちうち給給たまひたりけるよりひたりけるよりいたりけるより、、、とゞめられとゞめられとどめられ侍侍はべりとぞきゝりとぞきゝりとぞきき侍侍はべりしりしりし。。。
- 12御座御座ござのおほひのおほひのおおい掛掛かくなるくなるくなる棹棹さおははは、、、とりとりとりはははなちになちになちに侍侍はべりけるりけるりけるををを、、、鳥羽鳥羽とばノノノ院院いんののの位位くらいののの御時御時おおんときにやにやにや。。。殿上人殿上人てんじょうびとのいさかひのいさかひのいさかい給給たまひてひていて、、、其其そののの棹棹さおをををぬきてぬきてぬきて打打うたんとしたんとしたんとし給給たまひけるよりひけるよりいけるより、、、うちつけられたるとなんうちつけられたるとなんうちつけられたるとなん聞聞きこえこえこえ侍侍はべるるる。。。
- 13もとなきもとなきもとなき事事ことももも、、、かゝるためしにかゝるためしにかかるためしに始始はじまれるなるべしまれるなるべしまれるなるべし。。。そのそのその御座御座ござととと申申もうすすすはははとてとてとて、、、殿上殿上てんじょうのおくののおくののおくの座座ざのかみにのかみにのかみに、、、たてられたてられたてられ侍侍はべるなりるなりるなり。。。紫檀紫檀したんにてにてにて作作つくられてられてられて侍侍はべるなるるなるるなるををを、、、むかしむかしむかしののの帝帝みかど、、、まだまだまだ殿上人殿上人てんじょうびとにおはしましてにおはしましてにおわしまして、、、ののの中將中將ちゅうじょうととと、、、すまひとらせすまひとらせすまいとらせ給給たまひてひていて、、、勾欄勾欄こうらんうちうちうち折折おらせらせらせ給給たまひけるひけるいけるををを、、、代々代々よよさてのみさてのみさてのみ折折おれながらこそれながらこそれながらこそ侍侍はべるなるにるなるにるなるに、、、近近ちかききき御世御世みよににに筑紫筑紫つくしののの肥後肥後ひご守守かみになれりけるになれりけるになれりける。。。
- 14何某何某なにがしとかやいふとかやいふとかやいう人人ひと、、、藏人藏人くろうどなりけるなりけるなりける時時とき、、、紫檀紫檀したんのきれのきれのきれ、、、とのにとのにとのに申申もうしてしてして、、、そのかうらんのそのかうらんのそのこうらんの折折おれたるれたるれたる、、、つくろつくろつくろはははんなどせられけるこそんなどせられけるこそんなどせられけるこそ、、、をこのをこのおこの事事ことににに侍侍はべりけれりけれりけれ。。。
- 15かのかのかの能通能通よしみちのぬしののぬしののぬしの、、、しかありけるしかありけるしかありける末末すえなればにやなればにやなればにや。。。通憲通憲みちのりといひしといひしといいし少納言少納言しょうなごんののの大大だいとこもとこもとこも、、、近近ちかくくくはははいみじくこそいみじくこそいみじくこそ、、、世世よののの中中なかしたゝむめりしかしたゝむめりしかしたたむめりしか。。。このおとゞこのおとゞこのおとど右衞門右衞門うえもんノノノ督督かみなどなどなど申申もうしけるしけるしけるほどにやほどにやほどにや。。。
- 16白川白川しらかわににに、、、花花はな見見みにわたりにわたりにわたり給給たまふとてふとてうとて、、、式部式部しきぶノノノ內侍內侍ないしににに、、、かくとかくとかくと仰仰おおせられければせられければせられければ、、、
- 17春春はるのこぬのこぬのこぬ所所ところはははなきなきなきををを白川白川しらかわのわたりにのみやのわたりにのみやのわたりにのみや花花はなははは咲咲さくらんくらんくらん
- 18ととと申申もうしたりけるこそしたりけるこそしたりけるこそ、、、いとやさしくいとやさしくいとやさしく、、、とゞまりてとゞまりてとどまりて見見みえええ侍侍はべれれれ。。。和泉式部和泉式部いずみしきぶとかきたるもとかきたるもとかきたるも侍侍はべればればれば、、、母母ははのよみてのよみてのよみて侍侍はべるにやるにやるにや。。。
現代語訳
鷹司殿の腹の第二の御子としては、大二条殿といらした、関白太政大臣教通公と申しました。御堂の君たちの中では三男でいらしたでしょう。そうではあるけれども、宇治殿の次に関白もなさいます。(鷹司殿の腹の)第二の御子でいらっしゃいました。大臣の位に五十五年いらっしゃいました。治暦四年四月十七日、後冷泉院の御時、兄の宇治殿の御譲りによって関白におなりになりました。七十三の御年でしたでしょうか。帝がまもなく代わられて、後三条院の御代の初めの関白として、すぐに同じ月の十九日に改めておなりになりました。延久二年三月に太政大臣にお上りになります。承保二年九月二十五日にお亡くなりになりました。御年八十。兄の宇治殿は申すまでもありませんが、この大臣も、世の信望などそれぞれにいらっしゃいました。女御や后などもたびたび差し上げなさいます。家の賞をお受けになることもたびたびで、御引出物や御馬などを献上なさいます。公達なども位を上げられて、もとより摂関にも劣らずいらっしゃいました。御後見として但馬守能通という者が、てきぱきとした人で、お世話申し上げていたので、お家の内も、たいそう奥ゆかしいことが多くありました。いつのことでございましたか、御遊(管弦)の折、冬の束帯に半臂を着けていらしたのを、肩を脱がれる時に、宇治殿をはじめとして、下襲だけが白く見えたのに、この大臣一人は半臂を着ていらしたので、御日記にあるそうですのは、「予ひとり半臂の衣を着たり。衆人恥ぢたる色あり(私一人だけ半臂を着ていた。人々は恥じる様子だった)」とあるそうです。このようなことも多くございました。能通が宇治殿に参って、御前に召されて参るとて、笏を持って参ろうとして、蔵人所の御厨子を探って、「笏も置いていない御厨子だな。衣冠で御前に参る者は、笏を持って参るものなのに」とつぶやいたので、殿がお聞きになって、「(能通には)いつもこうして恥をかかされる」などとおっしゃいました。笏は束帯の時に持つものですが、宿直装束でも、事により人によるのでしょうか。検非違使などはいつも持っているようです。また高光とか申した人が、誰かにお会いしたとか、車から降りて、懐紙を高く畳んで笏にして持ったと聞きました。束帯でも、上達部以外は殿上には持って上らないとか。大宮右大臣(俊家)と経輔の大納言とが、蔵人頭のとき争われた時、笏で打たれたことから、(持ち込みが)止められたと聞きました。
御座の覆いを掛ける棹は、取り外しができるものでしたが、鳥羽院の在位の時でしょうか、殿上人が争って、その棹を抜いて打とうとなさったことから、打ちつけられたと聞いております。もとはなかったことも、このような例から始まるのでしょう。その御座と申すのは御倚子といって、殿上の間の奥の座の上座に立てられています。紫檀で作られていますのを、昔、宇多の帝がまだ殿上人でいらした時、業平の中将と相撲をとられて、勾欄を折ってしまわれたのを、代々そのまま折れたままでありますのに、近ごろ筑紫の肥後守になった何某とかいう人が、蔵人だった時、紫檀の切れ端を殿に申して、その勾欄の折れたのを繕おうなどとされたのは、愚かなことでございました。あの能通のような人がいた後のことだからでしょうか。通憲という少納言の大徳も、近ごろはまことに立派に世の中を治めたようでした。この大臣が右衛門督などと申し上げていたころでしょうか、白河に花見にお出かけになるとて、小式部内侍にこうとおっしゃったところ、
春のこぬ所はなきを白川のわたりにのみや花は咲くらん
と申したのは、たいそう優雅で、(歌集に)残っているようです。和泉式部と書いたものもありますので、母が詠んだのでしょうか。
意訳
藤原教通は兄頼通から関白を譲られたが、まもなく後三条天皇の時代となった。今鏡は教通の政治にはほとんど触れず、家司藤原能通の有職故実の確かさを通して、教通家の奥ゆかしさを描く。一人だけ半臂を着けていて人々を恥じ入らせた日記の記事、笏の置かれていない御厨子に対する能通のつぶやきは、儀礼の細部にこだわる王朝貴族の姿をよく伝える。
話は笏の故実から、御倚子の覆いの棹、さらに宇多天皇が在原業平と相撲をとって折ったという御倚子の勾欄の話へと広がる。代々折れたまま大切にされてきた勾欄を修繕しようとした人を「をこの事」と評するのは、古い由緒を重んじる語り手の価値観の表れである。
章題の「白川のわたり」は、小式部内侍の歌による。白河にしか花が咲かないかのようにお出かけになるのですね、と機知で応じた歌で、母和泉式部の作とする説も紹介される。
語釈・文法注
- 大二條殿
- 藤原教通。道長の三男で、頼通の同母弟。
- 但馬守能通
- 藤原能通。教通の家司。有職故実に通じた。
- 半臂
- 束帯で、袍の下、下襲の上に着る袖なしの短い衣。
- 肩ぬがせ給ふ
- 舞や管弦の際に、袍の右肩を脱ぐこと。下の衣が見える。
- 下襲
- 束帯で、半臂の下に着る衣。後ろの裾を長く引く。
- しやく
- 笏。束帯の時に右手に持つ細長い板。
- 殿居裝束
- 宿直装束。衣冠や直衣など、束帯より略式の装束。
- 大宮の右のおとゞ
- 藤原俊家(1019〜1082)。頼宗の子。右大臣。
- 經輔の大納言
- 藤原経輔(1006〜1081)。隆家の子。
- 御倚子
- 天皇の座る椅子。清涼殿の殿上の間に置かれた。
- 宇多の帝
- 宇多天皇(867〜931)。臣籍に降下していた時期に殿上人として仕えていた。
- 業平の中將
- 在原業平(825〜880)。歌人。『伊勢物語』の主人公とされる。
- 小式部ノ內侍
- 小式部内侍(?〜1025)。和泉式部の娘。「大江山」の歌で知られる。教通の子静円を産んだ。
文法
- 衆人耻ぢたる色あり
- 漢文日記の訓読。人々は恥じる様子があった。
- をこの事
- 愚かなこと、ばかげたこと。
- わたりにのみや花は咲くらん
- 「や…らん」の疑問。白河あたりにだけ花は咲くのでしょうか。
和歌
春のこぬ所はなきを白川のわたりにのみや花は咲くらん
- 詠者
- 小式部内侍(和泉式部とも)
- 状況
- 教通が白河へ花見に出かけると告げたのに対して詠んだ歌。
修辞
- 皮肉
- 春は至る所に来ているのに、白河にだけ花が咲くのですか、と、自分のもとに来ない恋人を軽くなじる。
- 掛詞
- 「わたり」に「辺り」と「渡り(行くこと)」をかける。
解説
教通は小式部内侍との間に静円(木幡僧正)をもうけた。小式部内侍の「春のこぬ」の歌は、恋人である教通に対する機知に富んだ応答として読める。
御倚子の勾欄の話は、『大鏡』にも見える宇多天皇と業平の相撲の逸話をふまえている。今鏡は前代の歴史物語の記事を受け継ぎつつ、その後日譚を加えている。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、152〜156頁(コマ91–93)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日