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今鏡 第四「藤波の上」 第31章

雲のかへし

頼通の娘たち。養女の中宮嫄子が産んだ祐子内親王・禖子内親王はそれぞれ歌合を催し、実の娘の四条宮寛子は後冷泉天皇の皇后となって、天喜四年に歌合を催した。頼通は臨終に、平等院と四条宮のことを師実に託した。

  1. 1宇治うぢ宇治うぢうじのおほきおとゞののおほきおとゞののおおきおとどの御おん御おんおんむすめむすめむすめははは、、、大殿おほとの大殿おほとのおおとのののの一ひと一ひとひとつつつ御おん御おんおんはははらにてらにてらにて、、、四條しでう四條しでうしじょうののの宮みや宮みやみやになんおはしましけるになんおはしましけるになんおわしましける。。。そのさきにそのさきにそのさきに、、、式部卿しきぶきやう式部卿しきぶきやうしきぶきょうのみこののみこののみこの女君をんなぎみ女君をんなぎみおんなぎみををを子こ子ここにしたてまつりてにしたてまつりてにしたてまつりて、、、後のち後のちのち朱す朱すす雀すずめ雀すずめすずめノノノ院ゐん院ゐんいんののの御時おほんとき御時おほんときおおんときたてまつらせたてまつらせたてまつらせ給たま給たまたまへりしへりしえりしははは、、、弘徽殿こきでん弘徽殿こきでんこきでんののの中宮ちゆうぐう中宮ちゆうぐうちゅうぐう嫄子げんし嫄子げんしげんしととと申まう申まうもうしきしきしき。。。
  2. 2そのそのその御事おほんこと御事おほんことおおんことはははさきにさきにさきに申まう申まうもうしししはべりぬはべりぬはべりぬ。。。いつしかいつしかいつしか、、、みや〴〵みや〴〵みやみや生う生ううみたてまつりてみたてまつりてみたてまつりて、、、あへなくかくれさせあへなくかくれさせあえなくかくれさせ給たま給たまたまひにしひにしいにし、、、いといといと悲かな悲かなかなしくしくしく侍はべ侍はべはべりしりしりし事こと事ことことぞかしぞかしぞかし。。。
  3. 3誠まこと誠まことまことののの御おん御おんおんむすめならねどもむすめならねどもむすめならねども、、、いかにくちをしくおぼしめされけんいかにくちをしくおぼしめされけんいかにくちおしくおぼしめされけん。。。秋あき秋あきあきのあはれいかばかりかのあはれいかばかりかのあわれいかばかりかははは悲かな悲かなかなしくしくしく侍はべ侍はべはべりしりしりし。。。このこのこの中宮ちゆうぐう中宮ちゆうぐうちゅうぐうののの生う生ううみたてまつりみたてまつりみたてまつり給たま給たまたまへるへるえる姫宮ひめみや姫宮ひめみやひめみやははは、、、ノノノ內親王ないしんわう內親王ないしんわうないしんのうととと申まう申まうもうしきしきしき。。。
  4. 4長曆ちやうりやく長曆ちやうりやくちょうりゃく二年にねん二年にねんにねん四月しぐわつ四月しぐわつしがつ廿一日にじふいちにち廿一日にじふいちにちにじゅういちにち生う生ううまれたまふまれたまふまれたまう。。。長久ちやうきう長久ちやうきうちょうきゅう元年ぐわんねん元年ぐわんねんがんねんししし給たま給たまたまひきひきいき。。。延の延のの久ひさ久ひさひさ四年よねん四年よねんよねん御おん御おんおんぐしおろしぐしおろしぐしおろし給たま給たまたまふふう。。。後のち後のちのちににに二品にほん二品にほんにおんののの宮みや宮みやみやととと申まう申まうもうしきしきしき。。。このこのこの宮みや宮みやみやののの歌合うたあはせ歌合うたあはせうたあわせににに、、、宇治うぢ宇治うぢうじのおほきおとゞののおほきおとゞののおおきおとどの御おん御おんおんうたうたうた、、、
  5. 5有明ありあけ有明ありあけありあけののの月つき月つきつきだにあれやほとゝぎすたゞだにあれやほとゝぎすたゞだにあれやおととぎすただ一ひと一ひとひと聲こゑ聲こゑこえのゆくかたものゆくかたものゆくかたも見み見みみんんん
  6. 6とよみたまへるなりとよみたまへるなりとよみたまえるなり。。。大貳三位だいにのさんみ大貳三位だいにのさんみだいにのさんみ、、、
  7. 7秋あき秋あきあきぎりのぎりのぎりの晴は晴ははれせぬれせぬれせぬ峯みね峯みねみねにたつにたつにたつ鹿しか鹿しかしかははは聲こゑ聲こゑこえばかりこそばかりこそばかりこそ人ひと人ひとひとににに知し知ししらるれらるれらるれ
  8. 8とぞよめりけるとぞよめりけるとぞよめりける。。。又また又またまたノノノ內親王ないしんわう內親王ないしんわうないしんのうととと申まう申まうもうすこそすこそすこそははは、、、このこのこの中宮ちゆうぐう中宮ちゆうぐうちゅうぐう生う生ううみおきみおきみおき給たま給たまたまへるへるえる宮みや宮みやみやにおはしませにおはしませにおわしませ。。。寬德くわんとく寬德くわんとくかんとく三年さんねん三年さんねんさんねん三月さんぐわつ三月さんぐわつさんがつ、、、賀茂かも賀茂かもかものいつきとのいつきとのいつきと申まう申まうもうしきしきしき。。。天喜てんぎ天喜てんぎてんぎ六年ろくねん六年ろくねんろくねん御おん御おんおんなやみによりてなやみによりてなやみによりて出い出いいででで給たま給たまたまふふう。。。
  9. 9ののの御おん御おんおんががが「「「ありしありしありし昔むかし昔むかしむかしののの同おな同おなおなじじじ聲こゑ聲こゑこえかとかとかと」」」とよめるとよめるとよめるははは、、、このこのこの宮みや宮みやみやのいつきののいつきののいつきの頃ころ頃ころころ侍はべ侍はべはべりてりてりて、、、思おも思おもおもひいだしてひいだしていいだして侍はべ侍はべはべりけるになんりけるになんりけるになん。。。
  10. 10このこのこの宮みや宮みやみやいつきといつきといつきと聞き聞ききこえけるこえけるこえける比ごろ比ごろごろ、、、ののの朝顏あさがほ朝顏あさがほあさがおををを見み見みみ給たま給たまたまひてひていて、、、
  11. 11神垣かみがき神垣かみがきかみがきにかゝるとならばにかゝるとならばにかかるとならば朝顏あさがほ朝顏あさがほあさがおのゆのゆのゆふかくるまでふかくるまでふかくるまで匂にほ匂にほにおはざらめやはざらめやわざらめや
  12. 12ととと侍はべ侍はべはべるもいとやさしくるもいとやさしくるもいとやさしく。。。
  13. 13宇治殿うぢどの宇治殿うぢどのうじどのののの誠まこと誠まことまことののの御おん御おんおんむすめむすめむすめ、、、四條しでう四條しでうしじょうのみやにおはしますのみやにおはしますのみやにおわします。。。後冷泉院ごれいぜいゐん後冷泉院ごれいぜいゐんごれいぜいいんののの中宮ちゆうぐう中宮ちゆうぐうちゅうぐう子こ子ここととと申まう申まうもうすすす。。。永承元年內えいしようぐわんねんうち永承元年內えいしようぐわんねんうちえいしょうがんねんうちへへへまゐりまゐりまいり給たま給たまたまひてひていて、、、同おな同おなおなじじじ六年ろくねん六年ろくねんろくねん皇后おほきさき皇后おほきさきおおきさきににに立た立たたちちち給たま給たまたまふふう。。。
  14. 14御年おほんとし御年おほんとしおおんとし十六じふろく十六じふろくじゅうろく、、、治ぢ治ぢじ曆りやく曆りやくりやく四年よねん四年よねんよねん四月しぐわつ四月しぐわつしがつににに、、、中宮ちゆうぐう中宮ちゆうぐうちゅうぐうととと申まう申まうもうすすす。。。同おな同おなおなじじじ十二月じふにぐわつ十二月じふにぐわつじゅうにがつににに、、、御おん御おんおんぐしおろさせぐしおろさせぐしおろさせ給たま給たまたまふふう。。。御おん御おんおんとしとしとし三十二さんじふに三十二さんじふにさんじゅうに、、、天喜四年てんきよねん天喜四年てんきよねんてんきよねん皇后宮くわうごうぐう皇后宮くわうごうぐうこうごうぐうにてにてにて、、、歌合うたあはせ歌合うたあはせうたあわせせさせせさせせさせ給たま給たまたまふにふにうに、、、堀川ほりかは堀川ほりかはほりかわののの右みぎ右みぎみぎのおとゞのおとゞのおとど、、、「「「のかへしののかへしののかえしの嵐あらし嵐あらしあらしもぞもぞもぞ吹ふ吹ふふくくく」」」などよみなどよみなどよみ給たま給たまたまふふう。。。
  15. 15此こ此ここのたびなりのたびなりのたびなり。。。またまたまた御身おほんみ御身おほんみおおんみにもにもにも得え得ええさせさせさせ給たま給たまたまへりけるへりけるえりける道みち道みちみちにこそにこそにこそ侍はべ侍はべはべるめれるめれるめれ。。。女房にようばう女房にようばうにょうぼうののの參まゐ參まゐまいらむとらむとらむと申まう申まうもうしけるしけるしけるほどにほどにほどに、、、身み身みみまかりけるまかりけるまかりけるををを聞き聞ききかせかせかせ給たま給たまたまひてひていて、、、
  16. 16くやしくぞくやしくぞくやしくぞ聞き聞きききならしけるなべてきならしけるなべてきならしけるなべて世よ世よよののの哀あはれ哀あはれあわれとばかりいとばかりいとばかりいはははましものましものましものををを」」」
  17. 17とよませたまひけむとよませたまひけむとよませたまいけむ、、、いとなさけいとなさけいとなさけ多おほ多おほおおくなんくなんくなん。。。宇治殿うぢどの宇治殿うぢどのうじどののかぎりにおはしましけるにのかぎりにおはしましけるにのかぎりにおわしましけるに、、、おほおほおお殿どの殿どのどのののの「「「おぼしめさんことおぼしめさんことおぼしめさんこと、、、仰おほ仰おほおおせられおかせせられおかせせられおかせ給たま給たまたまへへえ」」」。。。
  18. 18ととと申まう申まうもうさせさせさせ給たま給たまたまひければひければいければ、、、「「「宇治うぢ宇治うぢうじととと宮みや宮みやみやととと」」」とぞとぞとぞ、、、仰おほ仰おほおおせられけるせられけるせられける。。。宇治うぢ宇治うぢうじとととははは平等院びやうどうゐん平等院びやうどうゐんびょうどういんののの御堂みだう御堂みだうみどうののの事こと事ことこと、、、宮みや宮みやみやとととははは四條しでう四條しでうしじょうノノノ宮みや宮みやみやののの御事おほんこと御事おほんことおおんことなりなりなり。。。「「「かくてかくてかくて候さふら候さふらそうらはんすればはんすればわんすれば、、、御堂みだう御堂みだうみどうののの御事おほんこと御事おほんことおおんことははは、、、おぼつかなくおぼつかなくおぼつかなく覺おぼ覺おぼおぼしめすことしめすことしめすこと、、、つゆつゆつゆ侍はべ侍はべはべるまじきなりるまじきなりるまじきなり」」」。。。とぞよくとぞよくとぞよく申まう申まうもうさせさせさせ給たま給たまたまひけるとなむひけるとなむいけるとなむ。。。

引用の仕方

レポート・論文で引用する場合の表記例です。行番号を選んでから開くと、その行へのリンクになります。

現代語訳

宇治の太政大臣(頼通)の御娘は、大殿(師実)と同じ腹で、四条宮でいらっしゃいました。それより前に、式部卿宮(敦康親王)の姫君を養女にして、後朱雀院の御時に差し上げなさったのは、弘徽殿の中宮嫄子と申し上げました。そのことは先に申し上げました。早くも宮々をお産みになって、あっけなくお亡くなりになったのは、まことに悲しいことでした。本当の御娘ではないけれども、どれほど残念にお思いになったことでしょう。秋の哀れはどれほど悲しかったことでしょう。この中宮がお産みになった姫宮は、祐子内親王と申し上げました。長暦二年四月二十一日にお生まれになります。長久元年に裳着をなさいました。延久四年に出家なさいます。後に二品の宮と申し上げました。この宮の歌合に、宇治の太政大臣の御歌、

有明の月だにあれやほとゝぎすたゞ一聲のゆくかたも見ん

とお詠みになったのです。大弐三位は、

秋ぎりの晴れせぬ峯にたつ鹿は聲ばかりこそ人に知らるれ

と詠みました。また禖子内親王と申すのこそ、この中宮が産み残された宮でいらっしゃいます。寛徳三年三月に賀茂の斎院と申し上げました。天喜六年にご病気によって退下なさいます。美作の御が「ありし昔の同じ聲かと」と詠んだのは、この宮が斎院でいらした頃お仕えしていて、思い出して詠んだのです。この宮が斎院と申し上げていた頃、本院の朝顔をご覧になって、

神垣にかゝるとならば朝顏のゆふかくるまで匂はざらめや

とあるのも、たいそう優雅です。

宇治殿の本当の御娘は四条宮でいらっしゃいます。後冷泉院の中宮で寛子と申します。永承元年に入内なさって、同じ六年に皇后にお立ちになります。御年十六。治暦四年四月に中宮と申します。同じ十二月に出家なさいます。御年三十二。天喜四年、皇后宮として歌合をなさった時、堀川右大臣(頼宗)が「雲のかへしの嵐もぞ吹く」などとお詠みになったのは、この時です。また御自身も得意とされた道でいらっしゃるようです。女房が参ろうと申していたうちに、亡くなってしまったのをお聞きになって、

くやしくぞ聞きならしけるなべて世の哀とばかりいはましものを

とお詠みになったのは、まことに情け深いことです。宇治殿がご臨終でいらした時、大殿(師実)が「お思いになることを、おっしゃっておいてください」と申し上げなさったので、「宇治と宮と」とおっしゃいました。宇治とは平等院の御堂のこと、宮とは四条宮のことです。「こうしてお仕えいたしますので、御堂のことは、ご心配なさることは少しもございません」と、よく申し上げなさったということです。

意訳

頼通には男子は多かったが、天皇の后となるべき実の娘は寛子一人で、皇子に恵まれなかったことが摂関家の衰えにつながった。養女嫄子の産んだ祐子・禖子の二人の内親王は、いずれも歌合を盛んに催し、後宮歌壇の中心となった。

頼通の「有明の月だにあれや」は、ほととぎすの一声の飛び去る方を有明の月の光で見たいという歌、大弐三位の「秋ぎりの」は、霧に隠れて姿の見えない鹿を詠む歌。章題の「雲のかへし」は、寛子の歌合で頼宗が詠んだ「雲のかへしの嵐もぞ吹く」による。

頼通の臨終の言葉「宇治と宮と」は、自らの建てた平等院と、ただ一人の実の娘寛子への思いを、わずか四語で伝えている。

語釈・文法注

祐子ノ內親王
祐子内親王(1038〜1105)。後朱雀天皇と嫄子の皇女。高倉一宮。歌合を催した。
裳着
女子の成人式。初めて裳を着ける儀式。
禖子ノ內親王
禖子内親王(1039〜1096)。六条斎院。二十五回以上の歌合を催した。
美作の御
禖子内親王に仕えた女房。
本院
賀茂斎院の御所。紫野にあった。
寬子
藤原寛子(1036〜1127)。頼通の娘。後冷泉天皇の皇后。四条宮。
雲のかへしの嵐もぞ吹く
頼宗の歌の句。「雲のかへし」は雲を吹き返す(翻す)こと。

文法

有明の月だにあれや
「だに」は最小限の願望。せめて有明の月だけでもあってほしい。
匂はざらめや
反語。匂わないことがあろうか(いや、匂うだろう)。
いはましものを
反実仮想。言ったであろうに。

和歌

有明の月だにあれやほとゝぎすたゞ一聲のゆくかたも見ん

詠者
藤原頼通
状況
祐子内親王家の歌合で詠んだ歌。

修辞

願望
せめて有明の月があってくれたら、一声鳴いて去るほととぎすの行方を見よう。

秋ぎりの晴れせぬ峯にたつ鹿は聲ばかりこそ人に知らるれ

詠者
大弐三位
状況
祐子内親王家の歌合で詠んだ歌。

修辞

掛詞
「たつ」に霧が立つ意と、鹿が立つ意をかける。

神垣にかゝるとならば朝顏のゆふかくるまで匂はざらめや

詠者
禖子内親王
状況
斎院のころ、本院の朝顔を見て詠んだ歌。

修辞

掛詞
「ゆふ」に「夕」と、神事に用いる「木綿(ゆふ)」をかける。
縁語
「神垣」「木綿」。

くやしくぞ聞きならしけるなべて世の哀とばかりいはましものを

詠者
皇后寛子
状況
出仕しようとしていた女房が亡くなったと聞いて詠んだ歌。

修辞

反実仮想
ふだん聞き慣れていなかったなら、世間並みの哀れとだけ言ったであろうに。

解説

天喜四年(1056)の皇后宮寛子春秋歌合は、後冷泉朝を代表する歌合の一つ。祐子内親王・禖子内親王家の歌合とともに、女房たちを中心とする後宮歌壇の隆盛を示している。

寛子は九十二歳まで長生きし、摂関家の長老として重んじられた。今鏡が成立したころにはすでに亡くなっていたが、その御所四条宮は、後の時代まで文化の中心の一つであった。

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出典

底本
関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、149〜152頁(コマ89–91)。国立国会図書館デジタルコレクション
校訂・訳・注
古典ライブラリー編集部
更新日