今鏡 第四「藤波の上」 第30章
伏見の雪の朝
頼通の子たち。後継の師実、四条宮寛子、そして伏見に山荘を構えた修理大夫橘俊綱。俊綱は頼通の実子ながら上達部になれなかったが、風流で知られ、雪の朝に突然訪れた師実を、見事な趣向でもてなした。石田の山荘や泰憲の名簿の話も添えられる。
- 1大將殿大將殿だいしょうどのののの外外ほかののの公達公達きんだちははは、、、おほとのゝおほとのゝおおとののひとつひとつひとつ御御おんはははらにおはしましきらにおはしましきらにおわしましき。。。おほおほおお殿殿どのののの御末御末おおんすえこそこそこそははは、、、一一いちののの人人ひとつがせつがせつがせ給給たまふめれふめれうめれ。。。そのそのその御報御報おおんむくいににに押押おされてされてされて、、、大將殿大將殿だいしょうどのもとくかくれもとくかくれもとくかくれ給給たまひけるにこそひけるにこそいけるにこそ。。。
- 2女君女君おんなぎみははは後後のち朱朱す雀雀すずめノノノ院院いんののの中宮中宮ちゅうぐうににに奉奉たてまつりりり給給たまへりしへりしえりしははは、、、誠誠まことののの御子御子みこにおはしまさでにおはしまさでにおわしまさで、、、式部卿式部卿しきぶきょうののの宮宮みやののの御子御子みこなりしになりしになりしに、、、誠誠まことののの御御おんむすめむすめむすめははは、、、四條四條しじょうノノノ宮宮みやととと申申もうしきしきしき。。。
- 3大將殿大將殿だいしょうどののののひとつひとつひとつ御腹御腹おおんはらなりなりなり。。。伏見伏見ふしみののの修理修理すりのかみのかみのかみ、、、ときこえしときこえしときこえし人人ひとももも、、、ひとつひとつひとつ御御おんはははらにおはしきらにおはしきらにおわしき。。。其其そのののはははととと、、、あひぐしあひぐしあいぐし給給たまへりければへりければえりければ、、、俊綱俊綱としつなののの君君きみ、、、御子御子みこにておはしけれどにておはしけれどにておわしけれど、、、けざやかならぬけざやかならぬけざやかならぬ程程ほどなりければにやなりければにやなりければにや。。。
- 4猶俊遠猶俊遠なおとしとおのぬしののぬしののぬしの子子こののの定定じょうにてにてにて、、、橘橘たちばなののの俊綱俊綱としつなとてぞおはせしとてぞおはせしとてぞおわせし。。。後後のちになほになほになお殿殿どのののの御子御子みことてとてとて、、、藤原藤原ふじわらになりになりになり給給たまひきひきいき。。。直衣直衣のうしなどなどなど着着きられけるられけるられけるをもをもをも、、、橘直衣橘直衣たちばなのうしとぞとぞとぞ人人ひとははは申申もうしけるしけるしける。。。
- 5まめやかになりてまめやかになりてまめやかになりて後後のち、、、大殿大殿おおとの、、、ノノノ大大だい僧正僧正そうじょう、、、四條宮四條宮しじょうのみやなどなどなどははは、、、同同おなじじじ御御おんはははらなれどらなれどらなれど、、、修理修理すりのかみのかみのかみははは、、、下﨟下﨟げろうにてやみにてやみにてやみ給給たまひにしぞかしひにしぞかしいにしぞかし。。。上達部上達部かんだちめにだにえなられざりけるにだにえなられざりけるにだにえなられざりける、、、猶猶なお世世よのあがりたるにやのあがりたるにやのあがりたるにや。。。
- 6からくやおぼしけんとぞからくやおぼしけんとぞからくやおぼしけんとぞ、、、おぼえおぼえおぼえはべりしはべりしはべりし。。。されどもされどもされども近江守有佐近江守有佐おうみのかみありすけといひしといひしといいし人人ひとははは、、、後後のち三條三條さんじょうノノノ院院いんののの誠誠まことにににははは御子御子みこととと聞聞きこえしかどこえしかどこえしかど、、、讚岐守顯綱讚岐守顯綱さぬきのかみあきつなののの子子こにてこそにてこそにてこそ、、、やまれにしかやまれにしかやまれにしか。。。
- 7といふといふという名名なももも、、、みかどのみかどのみかどの御手御手おおんてにてにてにて、、、扇扇おうぎにかゝせたまひてにかゝせたまひてにかかせたまいて、、、母母ははのののノノノ內侍內侍ないしににに賜賜たまへりけるへりけるえりける。。。堀河堀河ほりかわののの右右みぎのおとゞのおとゞのおとどははは、、、中務中務なかつかさノノノ少輔少輔しょう有佐有佐ありすけががが道道みちにあひてにあひてにあいて、、、おりておりておりて居居いたりつるこそたりつるこそたりつるこそ、、、いとほしくおぼえつれいとほしくおぼえつれいとおしくおぼえつれ。。。
- 8院院いんにたがはずにたがはずにたがわず似似に奉奉たてまつりたるさまなどりたるさまなどりたるさまなど有有ありけりとりけりとりけりと聞聞きこえしかどこえしかどこえしかど、、、それそれそれはははさてこそやまれにしかさてこそやまれにしかさてこそやまれにしか。。。此此このすりのかみのすりのかみのすりのかみははは、、、橘橘たちばなをををかへられしかばかへられしかばかえられしかば、、、なほなほなお關白關白かんぱくののの御子御子みこなるべしなるべしなるべし。。。
- 9このこのこの修理修理すりのかみののかみののかみの、、、昔尾張昔尾張むかしおわりノノノ國國くにににに俊綱俊綱としつなといひけるといひけるといいけるひじりにておはしけるひじりにておはしけるひじりにておわしけるををを、、、ののの社社やしろのつかさののつかさののつかさの、、、ないがしろなることのないがしろなることのないがしろなることの有有ありければりければりければ、、、生生うまれかはりてまれかはりてまれかわりて、、、そのそのその國國くにののの守守かみになりてになりてになりて、、、かのかのかの國國くにににに下下くだるまゝにるまゝにるままに、、、熱田熱田あつたにまうでてにまうでてにもうでて、、、そのそのその大宮大宮おおみや司司つかさとかとかとかををを、、、かなしくかなしくかなしく、、、せためられなどしければせためられなどしければせためられなどしければ、、、過過あやまちなきちなきちなき者者ものををを、、、かくつかまつるよとかくつかまつるよとかくつかまつるよと、、、神神かみににに申申もうしけるしけるしける夢夢ゆめににに、、、昔昔むかしすんがすんがすんがうといひてうといひてうといいて有有ありしりしりし、、、ひじりのひじりのひじりの法施法施ほうせををを、、、年年としごろごろごろ得得えさせざりしかばさせざりしかばさせざりしかば、、、いかにもえいかにもえいかにもえ咎咎とがむまじきとぞむまじきとぞむまじきとぞ見見みたりけるたりけるたりける。。。
- 10然然しかならんためにならんためにならんために、、、國國くにののの司司つかさのしなにのしなにのしなに、、、生生うまれたまひけるにこそまれたまひけるにこそまれたまいけるにこそ。。。さすがさすがさすが昔昔むかしののの行行おこなひのひのいの力力ちからににに、、、關白關白かんぱくののの御子御子みこにてもおはするなるべしにてもおはするなるべしにてもおわするなるべし。。。「「「われもわれもわれも昔昔むかしそのそのその物物ものをををさめたりきさめたりきさめたりき」」」などいひてなどいひてなどいいて、、、鏡鏡かがみとりとりとり出出いださせなどせられけるださせなどせられけるださせなどせられける、、、たゞたゞただ人人ひとにににはははおはせざるべしおはせざるべしおわせざるべし。。。
- 11大殿大殿おおとのののの伏見伏見ふしみへへへおはしましたりけるもおはしましたりけるもおわしましたりけるも、、、すゞろなるすゞろなるすずろなる所所ところへへへおはしますまじきにおはしますまじきにおわしますまじきに、、、雪雪ゆきのののふりたりけるつとめてふりたりけるつとめてふりたりけるつとめて、、、俊綱俊綱としつながいたくがいたくがいたく伏見伏見ふしみふけらかすにふけらかすにふけらかすに、、、俄俄にわかににに行行ゆきてきてきて見見みんとてんとてんとて、、、播磨守師信播磨守師信はりまのかみもろのぶといふといふという人人ひとばかりばかりばかり御供御供おおんともにてにてにて、、、俄俄にわかにわたらせにわたらせにわたらせ給給たまひたりければひたりければいたりければ、、、思思おもひもよらぬひもよらぬいもよらぬ事事ことにてにてにて、、、門門もんををを叩叩たたきけれどきけれどきけれど、、、むごにあけざりければむごにあけざりければむごにあけざりければ、、、人々人々ひとびといかにといかにといかにと思思おもひけりひけりいけり。。。
- 12かばかりのかばかりのかばかりの雪雪ゆきのあしたにのあしたにのあしたに、、、さらぬさらぬさらぬ人人ひとののの家家いえならんにてだにならんにてだにならんにてだに、、、かやうのかやうのかようの折節折節おりふしなどなどなどははは、、、そのそのその用意用意よういあるべきにあるべきにあるべきに、、、いいいはははんやんやんや殿殿どののわたりのわたりのわたり給給たまへるにへるにえるに、、、かた〴〵かた〴〵かたがた思思おもはずにはずにわずに思思おもへるにへるにえるに、、、あけたるあけたるあけたる者者ものににに、、、おそくあけたるおそくあけたるおそくあけたる由由よしかうづありければかうづありければこうずありければ、、、「「「雪雪ゆきををを踏踏ふみみみ侍侍はべらじとてらじとてらじとて、、、山山やまをををめぐりめぐりめぐり侍侍はべるるる」」」ととと申申もうしければしければしければ、、、元元もとよりあけよりあけよりあけ設設もうけけけ、、、又又またとりあへずとりあへずとりあえず急急いそぎあけたらむよりもぎあけたらむよりもぎあけたらむよりも、、、ねんにねんにねんに興興きょうあるあるある由由よし、、、人々人々ひとびといひけるとかいひけるとかいいけるとか。。。
- 13修理修理すりのかみさわぎいでのかみさわぎいでのかみさわぎいで、、、雪雪ゆき御覽御覽ごらんじてじてじて、、、御物語御物語おおんものがたりなどせさせなどせさせなどせさせ給給たまふふうほどにほどにほどに、、、「「「かくかくかくわたらせわたらせわたらせ給給たまひたるにひたるにいたるに、、、いでいでいで然然しかるべきあるじなどつかまつれるべきあるじなどつかまつれるべきあるじなどつかまつれ」」」。。。
- 14ととと催催もよおしければしければしければ、、、俊綱俊綱としつな、、、「「「今贄殿參今贄殿參いまにえどのまいりりり侍侍はべりなんりなんりなん」」」。。。ととと申申もうしければしければしければ、、、「「「人人ひとにもにもにも知知しられでられでられで、、、わたらせわたらせわたらせ給給たまひたればひたればいたれば、、、まゐるまゐるまいる事事ことあるまじあるまじあるまじ。。。日日ひもももやう〳〵たけてやう〳〵たけてようようたけて、、、いかでかいかでかいかでか御設御設おおんもうけなくてあらんけなくてあらんけなくてあらん」」」。。。
- 15といひければといひければといいければ、、、殿笑殿笑とのわらはせはせわせ給給たまひてひていて、、、「「「たゞせめよたゞせめよただせめよ」」」などなどなど仰仰おおせられけるせられけるせられける程程ほどににに、、、家家いえののの司司つかさなるあきまさといひてなるあきまさといひてなるあきまさといいて、、、光俊有重光俊有重みつとしありしげなどいふなどいふなどいう學生學生がくしょうののの親親おやなりしなりしなりしをををのこのこのこ、、、けしきけしきけしき聞聞きこえければこえければこえければ、、、修理修理すりのかみのかみのかみ立立たちちち出出いでてでてでて、、、かへりかへりかえり參參まいりてりてりて「「「あるじしてあるじしてあるじして、、、きこしめさすべききこしめさすべききこしめさすべきやうやうよう侍侍はべらざるなりらざるなりらざるなり。。。御臺御臺みだいなどのなどのなどの新新あたらしきもしきもしきも、、、かくかくかく御覽御覽ごらんずるずるずる山山やまのあなたののあなたののあなたの庫庫くらにおきこめてにおきこめてにおきこめて侍侍はべればればれば便便びんなくなくなく、、、とりいづべきとりいづべきとりいずべきやうやうよう侍侍はべらずらずらず。。。あらあらあらはははににに侍侍はべるるるははは、、、皆人皆人みなひとののの用用もちゐたるゐたるいたる」」」よしよしよし申申もうしければしければしければ、、、「「「何何なにののの憚憚はばかりかあらんりかあらんりかあらん。。。たゞたゞただ取取とりりり出出いだせだせだせ」」」ととと仰仰おおせられければせられければせられければ、、、さばとてさばとてさばとて立立たちちち出出いでてでてでて、、、取取とりりり出出いだされけるにだされけるにだされけるに、、、色々色々いろいろののの狩裝束狩裝束かりしょうぞくしたるしたるしたる、、、伏見伏見ふしみさぶらひさぶらひさぶらい十人十人じゅうにん、、、、、、いひしらぬいひしらぬいいしらぬ染染そめまぜしたるかたびらめまぜしたるかたびらめまぜしたるかたびら、、、くゝりくゝりくくり、、、かけとぢなどしたるかけとぢなどしたるかけとじなどしたる雜仕雜仕ぞうし、、、十人十人じゅうにんひきつれてひきつれてひきつれて、、、倉倉くらのかぎのかぎのかぎ持持もちたるちたるちたるをををのこのこのこ、、、先先さきにたちてわたるにたちてわたるにたちてわたる程程ほどににに、、、雪雪ゆきにににはははえてえてえて、、、わざとかねてしたるやうなりけりわざとかねてしたるやうなりけりわざとかねてしたるようなりけり。。。
- 16先先さきににに跡跡あとふみつけたるふみつけたるふみつけたるををを、、、しりにつゞきたるしりにつゞきたるしりにつづきたる男女男女なんにょ、、、同同おなじあとじあとじあとをををふみてゆきけりふみてゆきけりふみてゆきけり。。。かへさにかへさにかえさにははは、、、御臺高坏御臺高坏みだいたかつき、、、しろがねのしろがねのしろがねの銚子銚子ちょうしなどなどなど、、、一一ひとつづつさげてつづつさげてつづつさげて持持もちたるちたるちたるははは、、、このたびこのたびこのたびはははしりにたちてかへりぬしりにたちてかへりぬしりにたちてかえりぬ。。。
- 17かゝるかゝるかかる程程ほどににに、、、上達部上達部かんだちめ殿上人殿上人てんじょうびと、、、藏人所藏人所くろうどどころののの家司家司けいし、、、職事職事しきじ御隨身御隨身みずいじんなどなどなど、、、さま〴〵にさま〴〵にさまざまに參參まいりこみたりけるにりこみたりけるにりこみたりけるに、、、このこのこの里里さとかのかのかの里里さと、、、所々所々ところどころにいひしらぬにいひしらぬにいいしらぬ供供そなへへへどもどもども、、、目目めもあやなりけりもあやなりけりもあやなりけり。。。
- 18師信師信もろのぶ「「「いかにかくいかにかくいかにかくははは俄俄にわかにせられにせられにせられ侍侍はべるぞるぞるぞ。。。かねてかねてかねて夢夢ゆめなどなどなど見侍見侍みわべりけるかりけるかりけるか」」」。。。などなどなど、、、戲戲たわぶれれれ申申もうしければしければしければ、、、俊綱俊綱としつなののの君君きみははは、、、「「「いかでかゝるいかでかゝるいかでかかる山里山里やまざとににに、、、かやうのかやうのかようの事事こと、、、侍侍はべらんらんらん用意用意よういなくてなくてなくてははは侍侍はべるべきるべきるべき」」」。。。などぞなどぞなどぞ申申もうされけるされけるされける。。。
- 19伏見伏見ふしみにてにてにてははは、、、時時ときののの歌歌うたよみどもよみどもよみども集集つどへてへてへて、、、和歌和歌わかののの會會えたゆるよなかりけりたゆるよなかりけりたゆるよなかりけり。。。伏見伏見ふしみののの會會えとてとてとて、、、幾幾いくらともなくらともなくらともなく積積つもりてなんあなるもりてなんあなるもりてなんあなる。。。「「「音羽音羽おとわののの山山やまのけさのけさのけさはははかすめるかすめるかすめる」」」などよまれたるなどよまれたるなどよまれたる、、、いといといと優優ゆうににに侍侍はべるかしるかしるかし。。。
- 20かやうにかやうにかように、、、もてもてもて興興きょうぜらるゝぜらるゝぜらるる餘餘あまりにりにりに、、、ふけらかしふけらかしふけらかし參參まいらせられけるにこそらせられけるにこそらせられけるにこそ。。。四條四條しじょうノノノ宮宮みやののの女房女房にょうぼうあまたあまたあまた、、、あそびてあそびてあそびて、、、暮暮くれぬさきにかへりれぬさきにかへりれぬさきにかえり給給たまひければひければいければ、、、修理修理すりのかみのかみのかみ、、、
- 21都都みやこ人人ひとくるればかへるくるればかへるくるればかえる今今いまよりよりよりはははふしみのふしみのふしみの里里さとののの名名なをもをもをもたのまじたのまじたのまじ
- 22となむよみとなむよみとなむよみ給給たまひけるひけるいける。。。白河白河しらかわノノノ院院いん、、、「「「一一いちにおもしろきにおもしろきにおもしろき所所ところははは、、、いづこかあるいづこかあるいずこかある」」」。。。ととと問問とはせはせわせ給給たまひければひければいければ、、、「「「一一いちにににはははこそこそこそ侍侍はべれれれ」」」「「「次次つぎにににははは」」」ととと仰仰おおせられければせられければせられければ、、、「「「高陽高陽かやノノノ院院いんぞぞぞ候候そうろうふらんふらんうらん」」」。。。
- 23ととと申申もうすにすにすに「「「第三第三だいさんににに鳥羽鳥羽とばありなんやありなんやありなんや」」」。。。ととと仰仰おおせられければせられければせられければ、、、「「「鳥羽殿鳥羽殿とばどのははは君君きみのかくしなさせのかくしなさせのかくしなさせ給給たまひたればこそひたればこそいたればこそ侍侍はべれれれ。。。地形眺望地形眺望ちぎょうちょうぼうなどなどなど、、、いとなきいとなきいとなき所所ところなりなりなり。。。第三第三だいさんにににははは、、、俊綱俊綱としつなががが伏見候伏見候ふしみそうろうふらんふらんうらん」」」。。。
- 24とぞとぞとぞ申申もうされけるされけるされける。。。ことことこと人人ひとならばいとならばいとならばいと申申もうしにくきことなりかししにくきことなりかししにくきことなりかし。。。高陽高陽かやノノノ院院いんにににはははあらであらであらで、、、平等院平等院びょうどういんととと申申もうすすす人人ひともありもありもあり。。。伏見伏見ふしみにににははは、、、山山やまみちみちみちをををつくりてつくりてつくりて、、、然然しかるべきをりふしにるべきをりふしにるべきおりふしにははは、、、たびたびたび人人ひとをををしたてゝしたてゝしたてて、、、とほされければとほされければとおされければ。。。さるさるさる面白面白おもしろききき事事ことなかりけりなかりけりなかりけり。。。
- 25大大だい僧正僧正そうじょうまだまだまだ若若わかくおはしけるくおはしけるくおわしける時時とき、、、御母御母おおんはは贈贈ぞう二位二位にいののの、、、宇治殿宇治殿うじどのににに、、、「「「僧都僧都そうずののの御房御房ごぼうののの、、、まだまだまだ我我わががが房房ぼうももも持持もたせたせたせ給給たまはははででで、、、あひずみにておはしますなるにあひずみにておはしますなるにあいずみにておわしますなるに、、、房房ぼうをををさだしてさだしてさだして、、、たてまつらせたてまつらせたてまつらせ給給たまへかしへかしえかし」」」。。。
- 26ととと申申もうされければされければされければ、、、ののの民部卿民部卿みんぶきょう、、、近江近江おうみ守守かみなりけるがなりけるがなりけるが、、、參參まいりたりけるにりたりけるにりたりけるに、、、「「「こゝなるこゝなるここなる小小こ僧僧そうののの、、、房房ぼうををを持持もたざるにたざるにたざるに、、、草庵草庵そうあんひとつむすびてひとつむすびてひとつむすびて、、、とらせられなんやとらせられなんやとらせられなんや」」」。。。
- 27ととと仰仰おおせられければせられければせられければ、、、「「「作作つくりりり侍侍はべらんらんらん。。。いとやすきことにいとやすきことにいとやすきことに侍侍はべりりり。。。泰憲泰憲やすのりがたちにがたちにがたちに仕仕つこうまつるうまつるうまつる、、、石田石田いしだととと申申もうすすす家家いえこそこそこそ、、、寺寺てらももも近近ちかくてくてくて、、、おはしまさんにもおはしまさんにもおわしまさんにも、、、つれ〴〵なぐさみぬべきつれ〴〵なぐさみぬべきつれずれなぐさみぬべき所所ところはははさぶらへさぶらへさぶらえ。。。堂堂どうなどもなどもなども侍侍はべりてりてりて見見みよきよきよき所所ところなりなりなり」」」。。。
- 28ととと申申もうしけれしけれしけれははは、、、殿殿どのははは「「「ゆゆしきゆゆしきゆゆしき報報むくありけるありけるありける小小こ僧僧そうかなかなかな。。。それそれそれははは、、、こよなきこよなきこよなき事事ことにこそあらめにこそあらめにこそあらめ」」」。。。とてすゑたてまつりとてすゑたてまつりとてすえたてまつり給給たまへりけるとぞへりけるとぞえりけるとぞ。。。泰憲泰憲やすのりののの民部卿民部卿みんぶきょうははは、、、おほとのゝおほとのゝおおとのの中將中將ちゅうじょうなどなどなど申申もうしてしてして、、、いいいはははけなくおはしけるにけなくおはしけるにけなくおわしけるに、、、大將殿大將殿だいしょうどのなどまだなどまだなどまだ世世よにおはしましけるにおはしましけるにおわしましける程程ほどははは、、、殿殿どのももも人人ひともおもりかにもおもりかにもおもりかに思思おもひたてまつらるゝひたてまつらるゝいたてまつらるる事事こともなかりけるもなかりけるもなかりける折折おり、、、をををとりいだしてとりいだしてとりいだして、、、手手てうつしにたてまつりてうつしにたてまつりてうつしにたてまつりて、、、「「「泰憲泰憲やすのりががが名簿名簿みょうぶえさせえさせえさせ給給たまへらんへらんえらんははは、、、さりともよしあるべきさりともよしあるべきさりともよしあるべき事事ことなりなりなり。。。思思おもふやうありてふやうありてうようありて、、、たてまつるなりたてまつるなりたてまつるなり」」」。。。
- 29ととと申申もうしけれしけれしけれははは、、、宇治宇治うじにまゐらせにまゐらせにまいらせ給給たまひてひていて、、、「「「かくこそかくこそかくこそ仕仕つこうまつりたれうまつりたれうまつりたれ」」」。。。ととと申申もうさせさせさせ給給たまひけるにこそひけるにこそいけるにこそ、、、おぼえおぼえおぼえはははつかせつかせつかせ給給たまひけれひけれいけれ。。。とぞきゝとぞきゝとぞきき侍侍はべりしりしりし。。。誠誠まことにやにやにやはべりけんはべりけんはべりけん。。。
現代語訳
大将殿(通房)以外の公達は、大殿(師実)と同じ腹でいらっしゃいました。大殿の御子孫こそが、摂関を継いでいらっしゃるようです。その御運勢に押されて、大将殿も早くお亡くなりになったのでしょう。女君で後朱雀院の中宮に差し上げなさった方(嫄子)は、本当の御子ではなく、式部卿宮(敦康親王)の御子でしたが、本当の御娘は四条宮と申し上げました。大殿と同じ腹です。伏見の修理大夫で俊綱と申し上げた人も、同じ腹でいらっしゃいました。その御母(祇子)は、贈二位で讃岐守俊遠と夫婦になっていらしたので、俊綱の君は、(頼通の)御子でいらしたけれども、はっきりしない時だったからでしょうか、やはり俊遠の子ということで、橘俊綱としていらっしゃいました。後にやはり殿の御子ということで、藤原におなりになりました。直衣などを着ておられたのも、人は「橘直衣」と申しました。正式に(頼通の子と)なった後も、大殿・宇治大僧正(覚円)・四条宮などは同じ腹ですのに、修理大夫は下臈のままで終わってしまわれたのです。上達部にさえなれなかったのは、やはり世の中が昔とは変わったからでしょうか。つらくお思いになったことだろうと思われました。けれども近江守有佐という人は、後三条院の本当の御子と噂されたけれども、讃岐守顕綱の子のままで終わってしまわれました。有佐という名も、帝の御手で扇にお書きになって、母の侍従内侍にお与えになったのです。堀河右大臣(頼宗)が、「中務少輔有佐が道で会って、(馬から)降りて控えていたのが、たいそう気の毒に思われた。院にそっくりに似申し上げた様子などがあった」と言われたと聞きましたが、その人はそのままで終わってしまったのです。この修理大夫は、橘(の姓)を変えられたので、やはり関白の御子なのでしょう。この修理大夫が、昔、尾張国で俊綱(すんがう)という聖でいらしたのを、熱田の社の神官がないがしろにしたことがあったので、生まれ変わって、その国の守となって、その国に下るとすぐ熱田に参詣して、その大宮司とかを手ひどく責めたりしたので、(大宮司が)「罪のない者をこのような目にあわせるとは」と神に訴えたところ、夢に、「昔すんがうといった聖の法施を、長年受け取らせなかったのだから、とても咎めることはできない」と見たのでした。そうなるために、国司の身分に生まれなさったのでしょう。さすがに昔の修行の力で、関白の御子でもいらっしゃるのでしょう。「私も昔その物を納めた」などと言って、鏡を取り出させたりなさったのは、普通の人ではいらっしゃらないのでしょう。
大殿(師実)が伏見へおいでになったのも、何でもない所へいらっしゃるはずもないのに、雪の降った翌朝、俊綱がひどく伏見を自慢するので、急に行って見ようとして、播磨守師信という人だけをお供に、急にお移りになったので、思いもよらないことで、門を叩いたけれども、なかなか開けなかったので、人々はどうしたことかと思いました。これほどの雪の朝に、ほかの人の家でさえ、このような折には用意があるはずなのに、まして殿がおいでになったのにと、それぞれ意外に思っていたところ、開けた者に、遅く開けたわけを問いただしたところ、「雪を踏むまいとして、山を回ってまいりました」と申したので、もとから開けて待っているよりも、また取るものも取りあえず急いで開けるよりも、格別に興があることだと人々が言ったとか。修理大夫が慌てて出て来て、雪をご覧になり、お話などなさるうちに、師信が「こうしておいでになったのだから、さあ、しかるべきもてなしなどをせよ」と促したので、俊綱が「今、贄殿(料理の係)が参りましょう」と申したところ、「人にも知られずにおいでになったのだから、贄殿が参ることはあるまい。日もだんだん高くなって、どうしてもてなしがなくてよいものか」と言ったので、殿はお笑いになって、「ただ責めよ」などとおっしゃるうちに、家司のあきまさといって、光俊・有重などという学生の父親だった男が、様子を伝えたので、修理大夫は立って出て、帰って参って「おもてなしをして召し上がっていただけるようなことはございません。御膳台なども新しいものは、ご覧のとおり山の向こうの蔵にしまいこんでありますので、具合が悪く、取り出すこともできません。表に出ているものは、皆人の使い古したものです」と申したので、「何の遠慮があろう。ただ取り出せ」とおっしゃったので、それではといって立って出て、取り出されたところ、色とりどりの狩装束を着た伏見の侍十人と、色とりどりの袙に、言いようもなく染め分けた帷子を、括り・掛け綴じなどした雑仕女十人を引き連れて、蔵の鍵を持った男が先に立って渡っていくと、雪に映えて、わざわざ前もって用意したかのようでした。先に足跡を踏みつけたのを、後に続く男女が同じ跡を踏んで行きました。帰りには、御膳台・高坏・銀の銚子などを一つずつ提げて持った者は、今度は後ろに立って帰りました。そうするうちに、公卿・殿上人・蔵人所の家司・職事・御随身などが、さまざまに参り込んできたので、この里あの里、あちこちで言いようもない御膳が目もまばゆいほどでした。師信が「どうしてこうも急にできたのですか。前もって夢でも見たのですか」などと冗談を申したところ、俊綱の君は「どうしてこのような山里に、こうしたことのための用意がなくてよいでしょうか」などと申されました。
伏見では、当時の歌詠みたちを集めて、和歌の会が絶える時がありませんでした。伏見の会といって、数え切れないほど積もっているそうです。「音羽の山のけさはかすめる」などと詠まれたのは、たいそう優雅なことですね。このように風流を楽しまれるあまりに、(大殿にも)自慢申し上げられたのでしょう。四条宮の女房が大勢遊びに来て、日が暮れないうちに帰られたので、修理大夫が、
都人くるればかへる今よりはふしみの里の名をもたのまじ
とお詠みになりました。白河院が「第一に趣深い所はどこか」とお尋ねになったので、「第一には石田でございます」。「次には」とおっしゃったので、「高陽院でございましょう」と申したところ、「第三に鳥羽はどうか」とおっしゃったので、「鳥羽殿は君がこのようにお造りになったからこそでございます。地形や眺望などは、何ということもない所です。第三には、俊綱の伏見でございましょう」と申されました。ほかの人ならたいそう申し上げにくいことですね。高陽院ではなく、平等院と申す人もあります。伏見には山道を造って、しかるべき折には旅人を仕立てて通らせたので、これほど趣深いことはありませんでした。
大僧正(覚円)がまだお若くていらした時、御母の贈二位(祇子)が宇治殿に、「僧都の御房が、まだご自分の僧房もお持ちにならず、相住みでいらっしゃるそうなので、房をお世話して差し上げてください」と申されたので、泰憲の民部卿が近江守であったのが参上したところに、(頼通が)「ここにいる小僧が房を持っていないので、草庵を一つ結んで与えてくれないか」とおっしゃったところ、「お造りしましょう。たやすいことでございます。泰憲の館としてお仕えしております石田と申す家こそ、寺も近くて、お住まいになるにも所在なさが慰められそうな所でございます。堂などもあって見栄えのよい所です」と申したので、殿は「たいそうな果報のある小僧だな。それはこの上ないことだろう」と言って、(覚円を)住まわせなさったということです。泰憲の民部卿は、大殿(師実)が中将などと申し上げてまだ幼くていらした時、大将殿(通房)などがまだ生きていらした間は、殿(頼通)も人々も(師実を)重く思い申し上げることもなかった折に、名簿を取り出して、手ずから差し上げて、「泰憲の名簿をお受け取りくださったら、きっとよいことがあるはずです。思うところがあって差し上げるのです」と申したので、(師実が)宇治に参って「このようにお仕えしてくれました」と申し上げなさったので、(頼通の)信任がつかれたのでした、と聞きました。本当でございましたでしょうか。
意訳
頼通の子のうち、通房は早世し、摂関家は師実が継いだ。一方、同じ母祇子から生まれた橘俊綱は、母が橘俊遠の妻であったため俊遠の子として育てられ、のちに頼通の子と認められたものの、上達部にはなれなかった。語り手は「猶世のあがりたるにや(世が下ったからか)」と、その不遇に同情している。後三条天皇の落胤とされる有佐の話も並べられる。
俊綱の前世を熱田の聖とする話は、仏教的な因果応報の考え方をよく示している。
章題の「伏見の雪の朝」は、雪の朝に突然訪れた師実を、俊綱が見事にもてなした話による。雪を踏むまいと山を回って門を開けた門番、蔵まで雪の中に一筋の足跡をつけて往復する侍と雑仕女の列、たちまち整うもてなし――そのすべてが計算された趣向であり、俊綱の風流の極みを示している。白河院に名所を問われて、自分の伏見を第三に挙げた話も、その自負をよく伝える。
語釈・文法注
- 其の御母
- 藤原祇子(?〜1053)。頼通の妻。師実・寛子・覚円・俊綱の母。
- 伏見の修理のかみ、俊綱
- 橘俊綱(1028〜1094)。頼通の子で、橘俊遠の養子。伏見に山荘を営み、歌人たちと交流した。作庭記の作者とも。
- 讃岐守俊遠
- 橘俊遠。俊綱の養父。
- 宇治ノ大僧正
- 覚円(1031〜1098)。頼通の子。天台座主。
- 近江守有佐
- 藤原有佐(?〜1099)。後三条天皇の落胤といわれた。藤原顕綱の子として育った。
- 侍從ノ內侍
- 後三条天皇に仕えた女房。有佐の母。
- 熱田の社
- 尾張国の熱田神宮。
- 播磨守師信
- 藤原師信。師実の家司。
- 贄殿
- 食物を調える所。またその係。
- あこめ
- 袙。表着と下着の間に着る衣。
- 石田
- 山城国宇治郡石田(いしだ)。今の京都市伏見区。泰憲の山荘があった。
- 泰憲の民部卿
- 藤原泰憲(1007〜1081)。近江守・民部卿。
- 名簿
- 主従関係を結ぶとき、自分の名や官位を記して差し出す札。
文法
- けざやかならぬ程
- はっきりしない時期。俊綱の実父が誰か公にされていなかったころ。
- ねんに興ある
- 「念に」か。格別に、ことさらに。
- 猶世のあがりたるにや
- 「世があがる」は、時代が昔になる、の意だが、ここは世が下って(変わって)、の意か。
和歌
都人くるればかへる今よりはふしみの里の名をもたのまじ
- 詠者
- 橘俊綱
- 状況
- 四条宮の女房たちが伏見に遊びに来て、日暮れ前に帰ってしまったので詠んだ歌。
修辞
- 掛詞
- 「ふしみ」に地名の「伏見」と「伏し見(共寝)」をかけ、名を頼りにできないと戯れる。
解説
橘俊綱は、平安時代後期を代表する数寄者の一人で、伏見の山荘は歌会の場として名高かった。日本最古の庭園書『作庭記』の著者とする説もある。今鏡の雪の朝の話は、その美意識を具体的に伝える貴重な逸話である。
泰憲が若い師実に名簿を差し出して主従を結んだ話は、まだ兄通房の陰にいた師実の将来を見込んだ先見の明を示すとともに、摂関家の家人関係の成り立ちを伝えている。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、142〜149頁(コマ86–89)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日