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今鏡 第四「藤波の上」 第29章

梅のにほひ

道長の長男、宇治殿藤原頼通の生涯。二十六歳で摂政となり、三代の天皇の摂関として五十年余り政治をとった。後三条天皇の即位後は宇治に籠もり、八十三歳で没した。紅梅を詠んだ歌が伝わる。長男通房は将来の関白と期待されながら十八歳で早世した。

  1. 1關白くわんぱく關白くわんぱくかんぱく前さきの前さきのさきのノノノ太政大臣だいじやうだいじん太政大臣だいじやうだいじんだいじょうだいじん通つう通つうつうのおとゞのおとゞのおとどははは、、、法成寺ほふじやうじ法成寺ほふじやうじほうじょうじ入道にふだう入道にふだうにゅうどうおほきおとゞのおほきおとゞのおおきおとどの太郞たらう太郞たらうたろうにおはしますにおはしますにおわします。。。御母おほんはは御母おほんははおおんはは、、、宮みや宮みやみやたちにたちにたちに同おな同おなおなじじじ。。。從一位源じゆいちゐみなもと從一位源じゆいちゐみなもとじゅいちいみなもとノノノ倫子りんし倫子りんしりんしととと申まう申まうもうすすす。。。一條いちでう一條いちでういちじょうののの右大臣うだいじん右大臣うだいじんうだいじん信のぶ信のぶのぶのおとゞののおとゞののおとどの御おん御おんおんむすめなりむすめなりむすめなり。。。
  2. 2鷹司殿たかつかさどの鷹司殿たかつかさどのたかつかさどのととと申まう申まうもうすすす。。。このこのこの宇治うぢ宇治うぢうじののの大おほ大おほおおきおとゞきおとゞきおとど大臣おとど大臣おとどおとどののの位くらゐ位くらゐくらいにてにてにて五十いそぢ五十いそぢいそじ六年ろくねん六年ろくねんろくねんまでおはしましきまでおはしましきまでおわしましき。。。後一條ごいちでう後一條ごいちでうごいちじょうノノノ院ゐん院ゐんいんののの御おん御おんおんをををぢにてぢにてじにて、、、御年おほんとし御年おほんとしおおんとし二十にじふ二十にじふにじゅう六ろく六ろくろくにてにてにて、、、寬仁くわんにん寬仁くわんにんかんにん元年ぐわんねん元年ぐわんねんがんねん三月さんぐわつ三月さんぐわつさんがつ十六日じふろくにち十六日じふろくにちじゅうろくにち、、、攝政せつしやう攝政せつしやうせっしょうにならせにならせにならせ給たま給たまたまふふう。。。
  3. 3其そ其そそののの十九日じふくにち十九日じふくにちじゅうくにち、、、ののの宣旨せんじ宣旨せんじせんじかうぶらせかうぶらせこうぶらせ給たま給たまたまひてひていて、、、やがてそのやがてそのやがてその廿二日にじふににち廿二日にじふににちにじゅうににち、、、三人さんにん三人さんにんさんにんのかみにつかせのかみにつかせのかみにつかせ給たま給たまたまふふう宣旨せんじ宣旨せんじせんじかうぶりかうぶりこうぶり給たま給たまたまふふう。。。帝みかど帝みかどみかどおとなにならせおとなにならせおとなにならせ給たま給たまたまひぬればひぬればいぬれば、、、關白くわんぱく關白くわんぱくかんぱくととと申まう申まうもうしきしきしき。。。
  4. 4後のち後のちのち朱す朱すす雀すずめ雀すずめすずめノノノ院ゐん院ゐんいん位くらゐ位くらゐくらいにつかせにつかせにつかせ給たま給たまたまふにもふにもうにも、、、猶御なほおほん猶御なほおほんなおおおんをををぢにてぢにてじにて長元ちやうげん長元ちやうげんちょうげん九年くねん九年くねんくねん四月しぐわつ四月しぐわつしがつ廿九日にじふくにち廿九日にじふくにちにじゅうくにち、、、さらにさらにさらに關白くわんぱく關白くわんぱくかんぱくせさせせさせせさせ給たま給たまたまふふう。。。そのそのその後のち後のちのち、、、太政大臣だいじやうだいじん太政大臣だいじやうだいじんだいじょうだいじんにならせにならせにならせ給たま給たまたまふふう。。。御おん御おんおんとしとしとし七十しちじふ七十しちじふしちじゅう一ひと一ひとひととぞきこえとぞきこえとぞきこえ給たま給たまたまひしひしいし。。。
  5. 5治ぢ治ぢじ曆りやく曆りやくりやく三年さんねん三年さんねんさんねん七月七日しちぐわつなぬか七月七日しちぐわつなぬかしちがつなのか、、、宇治うぢ宇治うぢうじののの平等院びやうどうゐん平等院びやうどうゐんびょうどういんににに行幸ぎやうかう行幸ぎやうかうぎょうこうありてありてありて、、、准三后じゆさんぐう准三后じゆさんぐうじゅさんぐうののの宣旨せんじ宣旨せんじせんじかうぶりかうぶりこうぶり給たま給たまたまふふう。。。白河しらかは白河しらかはしらかわのおとゞののおとゞののおとどの如ごと如ごとごとくにくにくに、、、などもなどもなども御隨身みずいじん御隨身みずいじんみずいじんにたまはらせにたまはらせにたまわらせ給たま給たまたまひきひきいき。。。
  6. 6關白くわんぱく關白くわんぱくかんぱくははは讓ゆづ讓ゆづゆずりりり給たま給たまたまひてひていて、、、のかせのかせのかせ給たま給たまたまへれどへれどえれど、、、ののの職事しきじ職事しきじしきじまゐりまゐりまいり、、、物申ものまう物申ものまうものもうすことすことすこと同おな同おなおなじことなりきじことなりきじことなりき。。。後のち後のちのち三條さんでう三條さんでうさんじょうノノノ院ゐん院ゐんいん位くらゐ位くらゐくらいににに卽つ卽つつかせかせかせ給たま給たまたまひてぞひてぞいてぞ、、、年とし年としとしごろのごろのごろの御心みこころ御心みこころみこころよからぬよからぬよからぬ事こと事ことことどもにてどもにてどもにて、、、宇治うぢ宇治うぢうじにこもりゐさせにこもりゐさせにこもりいさせ給たま給たまたまひてひていて、、、延の延のの久ひさ久ひさひさ四年よねん四年よねんよねん正月しやうぐわつ正月しやうぐわつしょうがつ廿九日にじふくにち廿九日にじふくにちにじゅうくにち御おん御おんおんぐしおろさせぐしおろさせぐしおろさせ給たま給たまたまひてひていて、、、同おな同おなおなじじじ六年ろくねん六年ろくねんろくねん二月にぐわつ二月にぐわつにがつ二日ふつか二日ふつかふつか八十やそ八十やそやそ三さん三さんさんにてにてにてうせうせうせ給たま給たまたまひにきひにきいにき。。。
  7. 7このこのこの大臣おとど大臣おとどおとど、、、歌うた歌うたうたなどもよくよませなどもよくよませなどもよくよませ給たま給たまたまひしにこそひしにこそいしにこそ侍はべ侍はべはべるめれるめれるめれ。。。そのそのその中なか中なかなかににに堀川ほりかは堀川ほりかはほりかわののの右みぎ右みぎみぎのおとゞにのおとゞにのおとどに、、、梅うめ梅うめうめののの花はな花はなはなをををりてりてりて奉たてまつ奉たてまつたてまつりりり給たま給たまたまふとてふとてうとて、、、
  8. 8折を折をおられけりくれなゐられけりくれなゐられけりくれない匂にほ匂にほにおふふう梅うめ梅うめうめののの花はな花はなはなけさけさけさ白妙しろたへ白妙しろたへしろたえににに雪ゆき雪ゆきゆきはははふれゝどふれゝどふれれど
  9. 9とよませとよませとよませ給たま給たまたまひたるいとやさしくひたるいとやさしくいたるいとやさしく、、、末すゑ末すゑすえののの世よ世よよまでとゞまりまでとゞまりまでとどまり侍はべ侍はべはべるめりるめりるめり。。。このこのこの大臣おとど大臣おとどおとどののの御子みこ御子みこみこ、、、太郞たらう太郞たらうたろうにてにてにて右大將うだいしやう右大將うだいしやううだいしょうととと申まう申まうもうしゝしゝしし、、、十八じふはち十八じふはちじゅうはちにてにてにてうせうせうせ給たま給たまたまひにきひにきいにき。。。
  10. 10御母おほんはは御母おほんははおおんはは右う右うう兵衞督ひやうゑのかみ兵衞督ひやうゑのかみひょうえのかみ定ぢやう定ぢやうじょうののの女をんな女をんなおんななりなりなり。。。まうけのまうけのもうけの關白くわんぱく關白くわんぱくかんぱく、、、一いち一いちいちののの人ひと人ひとひとののの太郞君たらうぎみ太郞君たらうぎみたろうぎみにてにてにて、、、あへなくなりあへなくなりあえなくなり給たま給たまたまひにしかばひにしかばいにしかば、、、世よ世よよもくれふたがりたるけしきなりしぞかしもくれふたがりたるけしきなりしぞかしもくれうたがりたるけしきなりしぞかし。。。
  11. 11年とし年としとしもまたもまたもまた二十はたち二十はたちはたちにだにならせにだにならせにだにならせ給たま給たまたまはぬにはぬにわぬに、、、和歌わか和歌わかわかなどをかしくよませなどをかしくよませなどおかしくよませ給たま給たまたまひけるさへひけるさへいけるさえ、、、いとあはれにいとあはれにいとあわれに思おも思おもおもひひい出い出いいでられさせでられさせでられさせ給たま給たまたまふふう。。。「「「ばかりばかりばかりををを七夕たなばた七夕たなばたたなばたののの」」」などよませなどよませなどよませ給たま給たまたまひたるひたるいたる、、、後拾遺ごしふゐ後拾遺ごしふゐごしゅういにいりてにいりてにいりて侍はべ侍はべはべるめりるめりるめり。。。

引用の仕方

レポート・論文で引用する場合の表記例です。行番号を選んでから開くと、その行へのリンクになります。

現代語訳

関白前太政大臣頼通公は、法成寺入道太政大臣(道長)の長男でいらっしゃいます。御母は宮たちと同じで、従一位源倫子と申します。一条右大臣雅信公の御娘です。鷹司殿と申します。この宇治の太政大臣は、大臣の位に五十六年までいらっしゃいました。後一条院の御叔父として、御年二十六で、寛仁元年三月十六日に摂政におなりになります。その十九日に牛車の宣旨をお受けになって、すぐにその二十二日、三人の大臣の上座につかれる宣旨をお受けになります。帝が成人なさったので、関白と申し上げました。後朱雀院が位におつきになる時にも、やはり御叔父として、長元九年四月二十九日に改めて関白になられます。その後、太政大臣におなりになります。御年七十一と申しました。治暦三年七月七日(史実では十月)、宇治の平等院に行幸があって、准三后の宣旨をお受けになります。昔の白河の大臣(藤原良房)のように、内舎人なども御随身として賜りました。関白はお譲りになってお退きになったけれども、内覧の職事が参って、ものを申し上げることは同じことでした。後三条院が位におつきになってから、長年のご不快なことどもがあって、宇治に籠もっていらして、延久四年正月二十九日に出家なさって、同じ六年二月二日、八十三歳でお亡くなりになりました。この大臣は歌などもよくお詠みになったようです。その中に、堀川右大臣(頼宗)に梅の花を折って差し上げるとて、

折られけりくれなゐ匂ふ梅の花けさ白妙に雪はふれゝど

とお詠みになったのはたいそう優雅で、後の世まで残っているようです。この大臣の御子で、長男の右大将通房と申し上げた方は、十八歳でお亡くなりになりました。御母は右兵衛督憲定の娘です。将来の関白、摂関家の長男として、あっけなく亡くなってしまわれたので、世の中も真っ暗にふさがったような様子でした。年もまだ二十にもならないのに、和歌などを趣深くお詠みになったことまでも、たいそうしみじみと思い出されます。「一夜ばかりを七夕の」などとお詠みになった歌が、後拾遺集に入っているようです。

意訳

藤原頼通は、二十六歳で摂政となり、後一条・後朱雀・後冷泉の三代、五十年余りにわたって摂関の地位にあった。平等院を建立し、准三后の待遇を受けるなど、栄華をきわめたが、摂関家と外戚関係のない後三条天皇が即位すると、宇治に退いた。語り手はこれを「年ごろの御心よからぬ事ども」と控えめに記す。

頼通の歌「折られけり」は、雪が白く降り積もっていても、紅に匂う梅の色は隠れず、折られてしまった、と詠む。章題の「梅のにほひ」はこの歌による。長男通房の夭折は、頼通の家の継承に大きな影を落とした(次章)。

語釈・文法注

關白前ノ太政大臣賴通
藤原頼通(992〜1074)。道長の長男。宇治殿。
一條の右大臣雅信
源雅信(920〜993)。宇多天皇の孫。左大臣。
牛車の宣旨
宮中で牛車に乗ったまま出入りすることを許す宣旨。
大臣三人のかみ
左大臣・右大臣・内大臣の上座につくこと(一座の宣旨)。
むかしの白河のおとゞ
藤原良房(804〜872)。白河殿。人臣初の摂政で、准三后の待遇を受けた。
內舍人
天皇の身辺を警護する役人。
內覽
天皇に奏上する文書をあらかじめ見る職。関白に準じる。
右大將通房
藤原通房(1025〜1044)。頼通の長男。十八歳(二十歳とも)で早世した。
右兵衞督憲定
源憲定(?〜1017)。村上源氏。
一夜ばかりを七夕の
通房の歌「待ちえたる一夜ばかりを七夕の逢ひ見て後や久しかるらむ」(後拾遺集)の句。

文法

折られけり
「れ」は受身の助動詞「る」の連用形。(紅梅が)折られてしまった。
まうけの關白
「設けの関白」。将来関白となるべく用意された人。

和歌

折られけりくれなゐ匂ふ梅の花けさ白妙に雪はふれゝど

詠者
藤原頼通
状況
雪の朝、紅梅の枝を折って異母弟の頼宗に贈ったときの歌。

修辞

対比
紅の梅と、白妙の雪の色を対比する。

解説

頼通の摂関在任は五十年に及び、藤原氏の摂関政治の最後の盛期にあたる。しかし娘の寛子に皇子が生まれず、後三条天皇の即位を許したことで、摂関家の権勢は衰えに向かう。

今鏡は頼通の政治にはほとんど触れず、歌と家族の話を中心に描く。これは列伝全体に通じる今鏡の姿勢である。

関連

出典

底本
関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、139〜141頁(コマ84–85)。国立国会図書館デジタルコレクション
校訂・訳・注
古典ライブラリー編集部
更新日