今鏡 第四「藤波の上」 第28章
藤波
巻四「藤波の上」の始まり。天皇の歴史に続いて、藤原氏の大臣たちの列伝に移る。まず流れの源として道長と、その娘たち――上東門院彰子・三条天皇の中宮妍子・後一条天皇の中宮威子・東宮妃嬉子――と孫娘たちの生涯が語られる。
- 1世繼世繼よつぎははは、、、入道入道にゅうどうおほきおとゞのおほきおとゞのおおきおとどの御榮御榮おおんさかえええ申申もうさんとてさんとてさんとて、、、そのそのその御事御事おおんことこまかにこまかにこまかに申申もうしたればしたればしたれば、、、そのそのその後後のちよりよりより申申もうすべけれどすべけれどすべけれど、、、水上水上みなかみあらはれぬあらはれぬあらわれぬははは流流ながれのおぼつかなければれのおぼつかなければれのおぼつかなければ、、、まづまづまず入道入道にゅうどうおとゞのおとゞのおとどの御有樣御有樣おおんありさま、、、おろ〳〵おろ〳〵おろおろ申申もうししし侍侍はべるべきなりるべきなりるべきなり。。。
- 2入道入道にゅうどう前前さきのノノノ太政大臣太政大臣だいじょうだいじん道長道長みちながのおとゞのおとゞのおとどははは、、、ののの五郞五郞ごろう、、、ののの右右みぎのおとゞののおとゞののおとどの御孫御孫おおんうまごなりなりなり。。。一條一條いちじょうノノノ院院いん、、、三條三條さんじょうノノノ院院いん、、、後一條後一條ごいちじょうノノノ院院いん、、、三代三代さんだいののの關白關白かんぱくにおはしますにおはしますにおわします。。。
- 3五十四五十四ごじゅうしののの御御おんとしとしとし御御おんぐしおろさせぐしおろさせぐしおろさせ給給たまひてひていて、、、萬壽萬壽まんじゅ四年四年よねん十二月十二月じゅうにがつ四日四日よか、、、六十六十ろくじゅう二二ににてかくれさせにてかくれさせにてかくれさせ給給たまふふう。。。をのこをのこおのこ君君きみ、、、女君女君おんなぎみ、、、あまたおはしましきあまたおはしましきあまたおわしましき。。。女君女君おんなぎみ、、、第一第一だいいちのののははは、、、上東門院上東門院じょうとうもんいんととと申申もうしてしてして、、、後一條後一條ごいちじょうノノノ院院いん、、、後後のち朱朱す雀雀すずめノノノ院院いん、、、二代二代にだいのみかどののみかどののみかどの御母御母おおんははなりなりなり。。。
- 4つぎにつぎにつぎに第二第二だいにののの御御おんむすめむすめむすめははは、、、三條三條さんじょうノノノ院院いんののの中宮中宮ちゅうぐう妍子妍子けんしととと申申もうしきしきしき。。。陽明門院陽明門院ようめいもんいんののの御母御母おおんははなりなりなり。。。第四第四だいしははは後一條後一條ごいちじょうノノノ院院いんののの中宮中宮ちゅうぐう威子威子いしととと申申もうすすす。。。二條二條にじょうノノノ院院いんととと、、、後後のち三條三條さんじょうノノノ院院いんののの皇后宮皇后宮こうごうぐうとのとのとの御母御母おおんははなりなりなり。。。
- 5第六第六だいろくののの君君きみははは、、、後冷泉後冷泉ごれいぜいノノノ院院いんののの御母御母おおんはは、、、內侍內侍ないしのかみのかみのかみ嬉子嬉子きしととと申申もうしきしきしき。。。これこれこれ皆皆みなののの御御おんはははらなりらなりらなり。。。男君男君おとこぎみだちだちだち、、、太郞太郞たろうははは宇治宇治うじのおほきおとゞのおほきおとゞのおおきおとど、、、次次つぎははは二條二條にじょう殿殿どの、、、またおなじまたおなじまたおなじ御御おんはははらからなりらからなりらからなり。。。
- 6堀川堀川ほりかわののの右右みぎのおとゞのおとゞのおとど、、、閑院閑院かんいんののの東宮東宮とうぐう大夫大夫だいぶ、、、のののうまのかみうまのかみうまのかみ、、、三條三條さんじょうのののこのこのこの四四よところところところははは、、、殿殿どのののの御御おんはははらのらのらの君君きみだちなりだちなりだちなり。。。このこのこの御御おんはははらにらにらに女君二所女君二所おんなぎみふたところおはしきおはしきおわしき。。。
- 7ひとりひとりひとりははは一條一條いちじょうノノノ院院いんとてとてとて、、、東宮東宮とうぐうよりよりより院院いんにならせにならせにならせ給給たまへりしへりしえりし、、、女御女御にょうごににに參參まいりりり給給たまへりきへりきえりき。。。今今いまひとりひとりひとりははは、、、土御門土御門つちみかどののの右右みぎのおとゞののおとゞののおとどの北北きたののの方方かたなりなりなり。。。昔昔むかしももも今今いまももも、、、かゝるかゝるかかる御榮御榮おおんさかえええはははありがたきなるべしありがたきなるべしありがたきなるべし。。。
- 8上東門院上東門院じょうとうもんいんははは、、、一條一條いちじょうノノノ院院いんのきさきのきさきのきさき、、、二代二代にだいののの帝帝みかどののの御母御母おおんははなりなりなり。。。御有樣御有樣おおんありさまさきにこまかにさきにこまかにさきにこまかに申申もうししし侍侍はべりぬりぬりぬ。。。次次つぎににに妍子妍子けんしととと申申もうすすすははは、、、女院女院にょういんとおなじとおなじとおなじ御御おんはははらからにおはしますらからにおはしますらからにおわします。。。
- 9寬弘寬弘かんこう元年元年がんねん十一月十一月じゅういちがつ、、、內侍內侍ないしのかみになりのかみになりのかみになり給給たまひてひていて、、、やがてやがてやがて正四位下正四位下じょうしいのげせさせせさせせさせ給給たまふふう。。。十二月十二月じゅうにがつににに三位三位さんみにあがらせにあがらせにあがらせ給給たまふふう。。。七年七年しちねん正月正月しょうがつににに二位二位にいにのぼりにのぼりにのぼり給給たまひてひていて、、、同同おなじじじ年二月年二月としにがつににに、、、三條三條さんじょうノノノ院院いん東宮東宮とうぐうととと申申もうしゝしゝしし女御女御にょうごににに參參まいりりり給給たまふふう。。。
- 10位位くらいににに卽卽つかせかせかせ給給たまひてひていて、、、寬弘寬弘かんこう八年八年はちねん八月八月はちがつににに、、、女御女御にょうごののの宣旨宣旨せんじかうぶりかうぶりこうぶり給給たまふふう。。。長和長和ちょうわ元年元年がんねん二月二月にがつ十四日十四日じゅうよっか、、、中宮中宮ちゅうぐうににに立立たちちち給給たまふふう。。。みかどみかどみかど位位くらいさらせさらせさらせ給給たまひてひていて、、、寬仁寬仁かんにん二年二年にねん十月十月じゅうがつ十六日十六日じゅうろくにち、、、皇太后宮皇太后宮こうたいこうぐうにあがりにあがりにあがり給給たまふふう。。。
- 11萬壽萬壽まんじゅ四年四年よねん九月九月くがつ十四日十四日じゅうよっか、、、三十四三十四さんじゅうしにてにてにて御御おんぐしおろしてぐしおろしてぐしおろして、、、やがてそのやがてそのやがてその日日ひかくれさせかくれさせかくれさせ給給たまひにきひにきいにき。。。ののの皇太后宮皇太后宮こうたいこうぐうととと申申もうすすす。。。ののの帥帥そつくだりくだりくだり給給たまひけるにひけるにいけるに、、、このこのこの宮宮みやよりよりより扇扇おうぎたまはすとてたまはすとてたまわすとて、、、
- 12すゞしさすゞしさすずしさははは松原松原まつばらまさるともそふるまさるともそふるまさるともそうる扇扇おうぎののの風風かぜななな忘忘わすれそれそれそ
- 13このこのこの宮宮みやののの御御おんはははらにらにらに、、、三條三條さんじょうノノノ院院いんののの姫宮姫宮ひめみやおはしますおはしますおわします。。。そのそのその宮宮みや禎子禎子ていしノノノ內親王內親王ないしんのうととと申申もうしてしてして、、、治安治安じあん三年三年さんねん一品一品いっぽんののの宮宮みやととと申申もうすすす。。。萬壽萬壽まんじゅ四年四年よねん三月三月さんがつ廿三日廿三日にじゅうさんにち、、、後朱雀院後朱雀院ごすざくいんののの東宮東宮とうぐうととと申申もうしゝしゝしし時時とき、、、參參まいらせらせらせ給給たまひきひきいき。。。
- 14御年御年おおんとし十五十五じゅうごにぞおはしましゝにぞおはしましゝにぞおわしましし。。。みかどみかどみかど位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たまひてひていて、、、皇后宮皇后宮こうごうぐうにたゝせにたゝせにたたせ給給たまふふう。。。後後のちにあらためてにあらためてにあらためて中宮中宮ちゅうぐうととと申申もうしきしきしき。。。帝帝みかどののの御御おんついでについでについでに且且かつははは申申もうししし侍侍はべりぬりぬりぬ。。。
- 15後後のち三條三條さんじょうノノノ院院いんののの御母御母おおんはは、、、陽明門院陽明門院ようめいもんいんととと申申もうすすす、、、このこのこの御事御事おおんことなりなりなり。。。このこのこの女院女院にょういんののの御御おんはははらにらにらに、、、女宮女宮おんなみやたちおはしましきたちおはしましきたちおわしましき。。。ノノノ內親王內親王ないしんのうとてとてとて、、、長元長元ちょうげん九年九年くねん十一月十一月じゅういちがつ二十八日二十八日にじゅうはちにち、、、伊勢伊勢いせのいつきとのいつきとのいつきと聞聞きこえさせこえさせこえさせ給給たまへりしへりしえりし、、、一品一品いっぽんにのぼらせにのぼらせにのぼらせ給給たまへりきへりきえりき。。。
- 16次次つぎののの姫宮姫宮ひめみやははは、、、ノノノ內親王內親王ないしんのうととと申申もうしきしきしき。。。長元長元ちょうげん九年九年くねん霜月霜月しもつきののの頃頃ころ、、、賀茂賀茂かものいつきとのいつきとのいつきと聞聞きこえしこえしこえしほどにほどにほどに、、、まかりまかりまかり出出いででで給給たまひけるひけるいける後後のち、、、天喜五年天喜五年てんぎごねんなどにやありけむなどにやありけむなどにやありけむ。。。
- 17ながながなが月月つきののの比比ごろ、、、いづこともなくいづこともなくいずこともなく失失うせせせ給給たまひにければひにければいにければ、、、宮宮みやののの內內うちののの人人ひと、、、いかにすべしともなくていかにすべしともなくていかにすべしともなくて、、、明明あかししし暮暮くらしけるしけるしける程程ほどににに、、、三條三條さんじょうわたりなるわたりなるわたりなる所所ところににに住住すみみみ給給たまふなりけりふなりけりうなりけり。。。
- 18初初はじめめめははは人人ひとののの扇扇おうぎににに、、、ひとひとひと文字文字もじをををののの書書ふみきたまへりけるきたまへりけるきたまえりけるををを、、、女女おんなののの書書ふみききき添添そへさせへさせえさせ給給たまへりければへりければえりければ、、、をとこをとこおとこ又又また見見みててて、、、ひとつひとつひとつ添添そへへえ給給たまふにふにうに、、、たがひにたがひにたがいに添添そへたまひけるへたまひけるえたまいけるほどにほどにほどに、、、歌歌うたひとつにひとつにいとつに、、、かきかきかきはははてたまひけるよりてたまひけるよりてたまいけるより心心こころ通通かよひてひてひて、、、「「「夢夢ゆめかうつゝかかうつゝかこうつつか」」」なるなるなる事事こともいできてもいできてもいできて、、、心心こころややや合合あわせせせ給給たまへりけんへりけんえりけん。。。
- 19負負おひひい出出いだしたてまつりてだしたてまつりてだしたてまつりて、、、やがてさてやがてさてやがてさて住住すみみみ給給たまひけりひけりいけり。。。おとこおとこおとこ咎咎とがあるべしなどあるべしなどあるべしなど聞聞きこえけれどこえけれどこえけれど、、、人人ひとがらのがらのがらの品品しなももも、、、身身みののの才才さいなどもおはしてなどもおはしてなどもおわして、、、世世よもゆるしもゆるしもゆるし聞聞きこゆるばかりなりけるにやこゆるばかりなりけるにやこゆるばかりなりけるにや。。。
- 20もろともにもろともにもろともに心心こころををを合合あわせせせ給給たまへればにやありけんへればにやありけんえればにやありけん。。。さてこそさてこそさてこそ住住すみみみ給給たまひけれひけれいけれ。。。男男おとこそのそのその程程ほどははは、、、宰相中將宰相中將さいしょうのちゅうじょうなどなどなど申申もうしけるとかやしけるとかやしけるとかや。。。後後のちにににははは、、、右右みぎのおとゞまでなりのおとゞまでなりのおとどまでなり給給たまへりきへりきえりき。。。
- 21入道入道にゅうどうおとゞのおとゞのおとどの第四第四だいしののの御御おんむすめむすめむすめ、、、後一條後一條ごいちじょうノノノ院院いんののの中宮中宮ちゅうぐう威子威子いしととと申申もうしきしきしき。。。これもこれもこれも同同おなじじじ御御おんはははららら、、、鷹司殿鷹司殿たかつかさどのののの御御おんむすめなりむすめなりむすめなり。。。寬弘寬弘かんこう九年九年くねんににに、、、內侍內侍ないしのかみになりたまひてのかみになりたまひてのかみになりたまいて、、、後一條後一條ごいちじょうノノノ院院いんくらゐのくらゐのくらいの御時御時おおんとき、、、女御女御にょうごににに參參まいりりり給給たまふふう。。。
- 22寬仁寬仁かんにん二年二年にねん十月十月じゅうがつににに、、、きさきにたちきさきにたちきさきにたち給給たまふふう。。。長元長元ちょうげん九年九年くねんににに、、、御御おんぐしおろさせぐしおろさせぐしおろさせ給給たまふふう。。。同同おなじじじ九月九月くがつにかくれさせにかくれさせにかくれさせ給給たまひにきひにきいにき。。。帝帝みかどははは四月四月しがつにににうせさせうせさせうせさせ給給たまひひい。。。
- 23后后きさきははは九月九月くがつにかくれさせにかくれさせにかくれさせ給給たまひしひしいし、、、いといといと悲悲かなしかりししかりししかりし御事御事おおんことぞかしぞかしぞかし。。。そのそのその御御おんはははてにてにてに、、、さはるさはるさわる事事こと有有ありてりてりて、、、江侍從江侍從ごうじじゅう參參まいらざりけるらざりけるらざりけるををを、、、人人ひとののの、、、などまゐらざりしぞとなどまゐらざりしぞとなどまいらざりしぞと申申もうしたりければしたりければしたりければ、、、
- 24わがわがわが身身みにににははは悲悲かなしきしきしき事事ことのつきせねばのつきせねばのつきせねば昨日昨日きのうをををはははてとてとてと思思おもはざりけりはざりけりわざりけり
- 25とぞとぞとぞ聞聞きこえけるこえけるこえける。。。此此こののの后后きさきののの生生うみたてまつりみたてまつりみたてまつり給給たまへるへるえる姫宮姫宮ひめみや、、、章章しょう子子こノノノ內親王內親王ないしんのうととと申申もうしゝしゝしし、、、二條二條にじょうノノノ院院いんととと申申もうすすす、、、このこのこの御事御事おおんことなりなりなり。。。後冷泉後冷泉ごれいぜいノノノ院院いん東宮東宮とうぐうにおはしましゝにおはしましゝにおわしましし時時とき、、、參參まいらせらせらせ給給たまひてひていて永承元年永承元年えいしょうがんねん七月七月しちがつににに、、、中宮中宮ちゅうぐうにたゝせにたゝせにたたせ給給たまふふう。。。
- 26治治じ曆曆りやく四年四年よねん四月四月しがつににに皇太后皇太后こうたいこうにあがらせにあがらせにあがらせ給給たまひきひきいき。。。內內うちににに參參まいらせらせらせ給給たまひてひていて、、、藤壺藤壺ふじつぼにおはしましけるににおはしましけるににおわしましけるに、、、故故こ中宮中宮ちゅうぐうののの、、、これにおはしましゝこれにおはしましゝこれにおわしましし事事ことなどなどなど、、、思思おもひひい出出いだしてだしてだして、、、出羽出羽いでわノノノ辨辨べんががが涙涙なみだつゝみあへざりければつゝみあへざりければつつみあえざりければ、、、ノノノ三位三位さんみ、、、
- 27しのびねのしのびねのしのびねの涙涙なみだなかけそかくばかりせはしとなかけそかくばかりせはしとなかけそかくばかりせわしと思思おもふころのたもとにふころのたもとにうころのたもとに
- 28とよまれとよまれとよまれ侍侍はべりければりければりければ、、、出羽出羽いでわノノノ辨辨べん、、、
- 29春春はるののの日日ひにかへらざりせばいにしへのにかへらざりせばいにしへのにかえらざりせばいにしえの袂袂たもとながらやながらやながらや朽朽くちちちはははてなましてなましてなまし
- 30とぞとぞとぞ返返かえししし侍侍はべりけるりけるりける。。。
- 31ののの內親王內親王ないしんのうととと申申もうすもすもすも、、、又又また同同おなじじじ御御おんはははらにおはしますらにおはしますらにおわします。。。長元長元ちょうげん四年四年よねんににに、、、賀茂賀茂かものいつきにてのいつきにてのいつきにて、、、同同おなじじじ九年九年くねんににに出出いでさせたまひてでさせたまひてでさせたまいて、、、永永えい承承うけたまわ六年六年ろくねん十一月十一月じゅういちがつ、、、後後のち三條三條さんじょうノノノ院院いん東宮東宮とうぐうにおはしましゝにおはしましゝにおわしましし、、、女御女御にょうごににに參參まいらせたまひきらせたまひきらせたまいき。。。
- 32御御おんとしとしとし廿三廿三にじゅうさん、、、承承うけたまわ保保ほう元年元年がんねん六月六月ろくがつ廿二日廿二日にじゅうににち、、、皇后宮皇后宮こうごうぐうにたちにたちにたち給給たまふふう。。。延延の久久ひさ五年五年ごねん四月四月しがつ廿一日廿一日にじゅういちにち、、、御御おんぐしおろさせぐしおろさせぐしおろさせ給給たまひしひしいし同同おなじじじ日日ひ、、、やがてやがてやがて同同おなじやうにならせじやうにならせじょうにならせ給給たまひしひしいし、、、いとあはれにいとあはれにいとあわれに、、、契契ちぎりりり申申もうさせさせさせ給給たまひけるひけるいける御御おんすぐせなりすぐせなりすぐせなり。。。
- 33后后きさきののの位位くらいはもはもはもとにかはらせとにかはらせとにかわらせ給給たまはずはずわず。。。入道入道にゅうどう殿殿どのののの第六第六だいろくののの君君きみははは、、、後冷泉後冷泉ごれいぜいノノノ院院いんののの御母御母おおんははにおはしますにおはしますにおわします。。。みかどのみかどのみかどの御御おんついでについでについでに申申もうししし侍侍はべりぬりぬりぬ。。。
現代語訳
世継は、入道太政大臣(道長)の御栄えを申そうとして、そのことを詳しく申しましたので、その後のことから申すべきですが、水源がはっきりしないと流れがわかりにくいので、まず入道殿のご様子を、おおよそ申し上げましょう。
入道前太政大臣道長公は、大入道殿(兼家)の五男で、九条右大臣(師輔)の御孫です。一条院・三条院・後一条院の三代の関白(内覧・摂政)でいらっしゃいます。五十四歳で出家なさって、万寿四年十二月四日、六十二歳でお亡くなりになります。男君・女君が大勢いらっしゃいました。女君の第一は上東門院と申して、後一条院・後朱雀院の二代の帝の御母です。次に第二の御娘は三条院の中宮で妍子と申しました。陽明門院の御母です。第四の御娘は後一条院の中宮で威子と申します。二条院(章子内親王)と、後三条院の皇后宮(馨子内親王)との御母です。第六の君は後冷泉院の御母で、尚侍嬉子と申しました。これは皆鷹司殿(倫子)の腹です。男君たちは、長男は宇治の太政大臣(頼通)、次は二条殿(教通)で、これも同じ腹のご兄弟です。堀川右大臣(頼宗)・閑院の東宮大夫(能信)・無動寺の馬頭(顕信)・三条の民部卿(長家)の四人は、高松殿(明子)の腹の君たちです。この腹に女君がお二人いらっしゃいました。一人は、小一条院が東宮から院におなりになった方の女御として入内なさいました(寛子)。もう一人は土御門右大臣(師房)の北の方です(尊子)。昔も今も、これほどのお栄えはめったにないことでしょう。
上東門院は一条院の后で、二代の帝の御母です。そのご様子は先に詳しく申し上げました。次に妍子と申すのは、女院と同じご兄弟でいらっしゃいます。寛弘元年十一月に尚侍になられて、すぐに正四位下に叙されます。十二月に三位にお上りになります。七年正月に二位にのぼられて、同じ年の二月に、三条院が東宮と申し上げていた時の女御として入内なさいます。(三条院が)位におつきになって、寛弘八年八月に女御の宣旨をお受けになります。長和元年二月十四日、中宮にお立ちになります。帝が位をお退きになって、寛仁二年十月十六日、皇太后宮にお上りになります。万寿四年九月十四日、三十四歳で出家して、その日のうちにお亡くなりになりました。枇杷殿の皇太后宮と申します。隆家の帥が(大宰府に)下られた時、この宮から扇をお与えになるとて、
すゞしさはいきの松原まさるともそふる扇の風な忘れそ
この宮の腹に三条院の姫宮がいらっしゃいます。その宮は禎子内親王と申して、治安三年に一品の宮と申し上げます。万寿四年三月二十三日、後朱雀院が東宮と申し上げていた時に入内なさいました。御年十五でいらっしゃいました。帝が位におつきになって、皇后宮にお立ちになります。後に改めて中宮と申し上げました。帝のお話のついでにも一部申し上げました。後三条院の御母、陽明門院と申すのはこの方です。この女院の腹に女宮たちがいらっしゃいました。良子内親王といって、長元九年十一月二十八日に伊勢の斎宮と申し上げた方で、一品にお上りになりました。
次の姫宮は娟子内親王と申しました。長元九年十一月ごろ、賀茂の斎院と申し上げていましたが、退下なさった後、天喜五年ごろでしたでしょうか、九月ごろ、どこへともなく姿を消してしまわれたので、宮の内の人々はどうしたらよいかもわからずに日を送っていたところ、三条あたりの所に住んでいらっしゃるのでした。初めは人の扇に、一文字を男がお書きになったのを、女(娟子)が書き添えなさったので、男がまた見て一字添えなさり、互いに書き添えていくうちに、歌一首を書き上げてしまわれたことから心が通じて、「夢かうつつか」というようなこと(逢瀬)もあって、心を合わせなさったのでしょうか、(男が娟子を)背負い出し申し上げて、そのまま住まわれたのでした。男にはとがめがあるはずだなどと噂されたけれども、人柄の品格も身の才などもおありになって、世間も許して差し上げるほどだったのでしょうか。お二人で心を合わせていらしたからでしょうか、そのまま住まわれたのでした。男はその時は宰相中将などと申したとか。後には右大臣にまでおなりになりました。
入道殿の第四の御娘は、後一条院の中宮で威子と申し上げました。これも同じ腹、鷹司殿の御娘です。寛弘九年に尚侍になられて、後一条院の在位の時に女御として入内なさいます。寛仁二年十月に后にお立ちになります。長元九年に出家なさいます。同じ九月にお亡くなりになりました。帝は四月にお亡くなりになり、后は九月にお亡くなりになったのは、まことに悲しいことでした。その一周忌に、差し障りがあって江侍従が参らなかったのを、ある人が「どうして参らなかったのか」と申したので、
わが身には悲しき事のつきせねば昨日をはてと思はざりけり
と申しました。この后がお産みになった姫宮で、章子内親王と申し上げた方は、二条院と申し上げるこの方のことです。後冷泉院が東宮でいらした時に入内なさって、永承元年七月に中宮にお立ちになります。治暦四年四月に皇太后にお上りになりました。内裏に入られて藤壺にいらした時、故中宮(威子)がここにいらしたことなどを思い出して、出羽弁が涙をこらえきれずにいたので、大弐三位が、
しのびねの涙なかけそかくばかりせはしと思ふころのたもとに
と詠まれたので、出羽弁は、
春の日にかへらざりせばいにしへの袂ながらや朽ちはてなまし
と返しました。
馨子内親王と申すのも、また同じ腹でいらっしゃいます。長元四年に賀茂の斎院となって、同じ九年に退下なさって、永承六年十一月、後三条院が東宮でいらした時の女御として入内なさいました。御年二十三。承保元年六月二十二日、皇后宮にお立ちになります。延久五年四月二十一日、(後三条院が)出家なさった同じ日に、すぐに同じように(出家)なさったのは、まことにしみじみとした、契り合われたご宿縁です。后の位はもとのままお変わりになりませんでした。入道殿の第六の君は、後冷泉院の御母でいらっしゃいます。帝のお話のついでに申し上げました。
意訳
巻四から巻六「藤波」は、藤原氏の摂関家とその諸流の列伝である。語り手は、『大鏡』の世継がすでに道長の栄華を語ったことを断りつつ、「水上あらはれぬは流れのおぼつかなければ」と、源流としての道長から語り始める。章題の「藤波」は、藤原氏を藤の花の波にたとえた言葉。
道長の娘たちは、彰子・妍子・威子・嬉子と、次々に天皇・東宮の后妃となり、さらにその娘たち(禎子・章子・馨子)も后となった。語り手は「昔も今もかかる御栄えはありがたき」と、その栄華の大きさをたたえる。
中で異彩を放つのが、禎子の娘娟子内親王の話である。元斎院の娟子が、扇に一字ずつ書き添えて歌を詠み合ったことから源俊房と恋に落ち、背負われて駆け落ちしたという。物語のような恋愛譚を、語り手は「世もゆるし聞こゆるばかり」と寛容に記している。
語釈・文法注
- 大入道殿
- 藤原兼家(929〜990)。道長の父。摂政・関白。
- 九條の右のおとゞ
- 藤原師輔(908〜960)。兼家の父。右大臣。
- 鷹司殿
- 源倫子(964〜1053)。道長の正妻。左大臣源雅信の娘。
- 高松殿
- 源明子(?〜1049)。道長の妻。源高明の娘。
- 無動寺のうまのかみ
- 藤原顕信(994〜1027)。右馬頭のとき出家し、比叡山無動寺に住んだ。
- 三條の民部卿
- 藤原長家(1005〜1064)。御子左家の祖。
- 小一條ノ院とて
- 小一条院の女御となった道長の娘、寛子(999〜1025)。
- 隆家の帥
- 藤原隆家(979〜1044)。伊周の弟。大宰権帥として刀伊の入寇を撃退した。
- いきの松原
- 筑前国の歌枕。生の松原。大宰府に下る隆家にちなむ。
- 批把殿
- 枇杷殿。妍子の御所。底本は「批把殿」と刷る。
- 良子ノ內親王
- 良子内親王(1029〜1077)。後朱雀天皇と禎子内親王の皇女。伊勢斎宮。
- 娟子ノ內親王
- 娟子内親王(1032〜1103)。賀茂斎院を退いたのち、源俊房と密通し、駆け落ちした。
- 男
- 源俊房。師房の子。のちに左大臣(底本は「右のおとど」)。
- 大貳ノ三位
- 大弐三位。紫式部の娘、藤原賢子。後冷泉天皇の乳母。
- 馨子の內親王
- 馨子内親王(1029〜1093)。後一条天皇と威子の皇女。後三条天皇の皇后。
文法
- 水上あらはれぬは
- 「水上」は水源。源がはっきりしないと流れ(子孫)がわかりにくい、というたとえ。
- 負ひ出だしたてまつりて
- 背負って連れ出し申し上げて。『伊勢物語』六段の芥川の話を思わせる。
- 批把殿
- 底本の表記のまま。「枇杷殿」。
和歌
すゞしさはいきの松原まさるともそふる扇の風な忘れそ
- 詠者
- 皇太后妍子
- 状況
- 大宰権帥として筑紫に下る藤原隆家に扇を与えたときの歌。
修辞
- 掛詞
- 「いき」に地名の「生の松原」と「行き」をかける。
わが身には悲しき事のつきせねば昨日をはてと思はざりけり
- 詠者
- 江侍従
- 状況
- 中宮威子の一周忌に参らなかったわけを問われて詠んだ歌。
修辞
- 掛詞
- 「はて」に一周忌の「果て」と、悲しみの「果て」をかける。
しのびねの涙なかけそかくばかりせはしと思ふころのたもとに
- 詠者
- 大弐三位
- 状況
- 章子内親王が藤壺に入り、亡き威子をしのんで涙する出羽弁に詠みかけた歌。
春の日にかへらざりせばいにしへの袂ながらや朽ちはてなまし
- 詠者
- 出羽弁
- 状況
- 大弐三位の歌への返し。
修辞
- 反実仮想
- 「せば…まし」。春の日(章子の入内)に返らなかったら、昔の涙の袂のまま朽ちてしまっただろう。
解説
今鏡の列伝の部(巻四〜巻八)は、『大鏡』の大臣列伝にならうものだが、政治家としての事績よりも、人物の逸話や和歌を中心に描く点に特徴がある。
娟子内親王と源俊房の駆け落ちは、康平元年(1058)ごろのことで、『栄花物語』にも見える。俊房は一時勅勘を受けたが、のちに左大臣に至った。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、133〜139頁(コマ81–84)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日