今鏡 第三「すべらぎの下」 第27章
二葉の松
巻三の終わりは、今上高倉天皇。後白河院の皇子で、母は平時信の娘滋子(建春門院)。八歳で即位し、院の政治のもとで母后も栄えた。語り手は、藤原氏以外から国母が出たことに注目し、桓武平氏の栄えを語って、天皇の歴史を結ぶ。
- 1さてさてさて、、、後一條後一條ごいちじょうノノノ院院いんののの御御おんときよりときよりときより、、、近近ちかきやうにきやうにきょうに侍侍はべれどれどれど、、、十代十代じゅうだいににに御世餘御世餘みよあまらせらせらせ給給たまひけりひけりいけり。。。今今いまははは當今當今とうぎんののの御事御事おおんこと、、、申申もうすもすもすも憚憚はばかりりり多多おおくくく侍侍はべれどれどれど、、、事事ことつゞきにおはしませばつゞきにおはしませばつづきにおわしませば、、、ことことこと新新あたらしくしくしく侍侍はべれどれどれど、、、申申もうすになむすになむすになむ。。。
- 2帝帝みかどははは一院一院いちいんののの御子御子みこ、、、御母御母おおんははははは皇后宮皇后宮こうごうぐう子子こときこえさせときこえさせときこえさせ給給たまふふう。。。贈贈ぞう左大臣左大臣さだいじん時時とき信信のぶのおとゞののおとゞののおとどの御女御女おおんむすめなりなりなり。。。みかどみかどみかど應應おう保保ほう元年元年がんねんかのとのかのとのかのとの巳巳みののの年年としゅ生生うまれさせまれさせまれさせ給給たまひてひていて、、、仁安元年仁安元年にんあんがんねん十月十月じゅうがつ十日十日とおか東宮東宮とうぐうにたゝせにたゝせにたたせ給給たまふふう。。。
- 3御御おんとしとしとし五五いつつつつ、、、みかどよりもみかどよりもみかどよりも、、、二年二年にねんののの兄兄このかみにておはしますにておはしますにておわします。。。あにあにあに東宮東宮とうぐうはははノノノ院院いんののの例例れいなるべしなるべしなるべし。。。同同おなじじじ三年三年さんねん二月二月にがつ十九日十九日じゅうくにち、、、位位くらいににに卽卽つかせかせかせ給給たまふふう。。。御年御年おおんとし八八やつにおはしますつにおはしますつにおわします。。。
- 4同同おなじみかどとじみかどとじみかどと申申もうせどもせどもせども、、、ののの中中なか隔隔へだてあるてあるてある事事こともなくもなくもなく、、、一院一院いちいんあめのあめのあめの下知下知したしろしめしろしめしろしめし、、、御母御母おおんははぎさきぎさきぎさき、、、盛盛さかりにおはしませばりにおはしませばりにおわしませば、、、いとめでたきいとめでたきいとめでたき御榮御榮おおんさかえなるべしえなるべしえなるべし。。。
- 5然然しかあればあればあれば、、、松松まつののの千代千代ちよのののはじめはじめはじめ、、、いとめでたくいとめでたくいとめでたく傳傳つたへへえうけたまはりうけたまはりうけたまわり侍侍はべりきりきりき。。。御母御母おおんははぎさきぎさきぎさき此此このみかどのみかどのみかど生生うみみみ奉奉たてまつりりり給給たまひてひていて、、、五六年五六年ごろくねんばかりにやばかりにやばかりにや。。。
- 6女御女御にょうごときこえさせときこえさせときこえさせ給給たまひてひていて、、、仁仁にん安安やす三年三年さんねんととと申申もうしゝやよひのしゝやよひのししやよいの頃頃ころ、、、皇太后宮皇太后宮こうたいこうぐうににに立立たたせたせたせ給給たまへりへりえり。。。今今いまははは女院女院にょういんととと申申もうすとぞすとぞすとぞ。。。いとめでたきいとめでたきいとめでたき、、、御榮御榮おおんさかえにおはしますえにおはしますえにおわします。。。
- 7多多おおくのくのくの、、、女御女御にょうごきさきおはしますにきさきおはしますにきさきおわしますに、、、みかどみかどみかど生生うみみみ奉奉たてまつりたまへりけるりたまへりけるりたまえりける御御おんすぐせすぐせすぐせ、、、申申もうすもおろかなりすもおろかなりすもおろかなり。。。先先さきのみかどののみかどののみかどの御時御時おおんときもこのもこのもこの御世御世みよにもにもにも、、、御產御產ごさんののの御祈御祈おおんいのりとのみりとのみりとのみ聞聞きこえてこえてこえて、、、誠誠まことにににはははあらぬあらぬあらぬ事事ことのみのみのみ聞聞きこえこえこえ給給たまひしにひしにいしに、、、いとありがたくきこえさせいとありがたくきこえさせいとありがたくきこえさせ給給たまふふう。。。
- 8代々代々よよのみかどののみかどののみかどの御母御母おおんはは、、、藤藤ふじなみのなみのなみの御流御流おおんながれにおはしますににおはしますににおわしますに、、、ののの帝帝みかどののの御母御母おおんははぎさきもぎさきもぎさきも、、、關白關白かんぱくののの御御おんむすめになりてむすめになりてむすめになりて、、、女御女御にょうごににに參參まいりりり給給たまへれどもへれどもえれども、、、誠誠まことにににははは源氏源氏げんじにおはしませばにおはしませばにおわしませば、、、ひきかへたるやうにひきかへたるやうにひきかえたるように聞聞きこえさせこえさせこえさせ給給たまひしにひしにいしに、、、いまいまいま又又また平平たいらののの氏氏うじののの國母國母こくも、、、かくかくかく榮榮さかえさせえさせえさせ給給たまふうへにふうへにううえに、、、同同おなじじじ氏氏うじののの、、、上達部上達部かんだちめ、、、殿上人殿上人てんじょうびと、、、近衞近衞こんえづかさなどづかさなどずかさなど、、、多多おおくきこえくきこえくきこえ給給たまふふう。。。
- 9此此こののの氏氏うじののの、、、然然しかるべくるべくるべく榮榮さかえええ給給たまふふう時時ときのいたれるなるべしのいたれるなるべしのいたれるなるべし。。。平平たいらののの氏氏うじのののはじめはじめはじめははは、、、一一ひとつにおはしましけれどつにおはしましけれどつにおわしましけれど、、、家家いえととと、、、世世よののの固固かためにおはするめにおはするめにおわする筋筋すじとととははは、、、久久ひさしくかはりてしくかはりてしくかわりて、、、かた〴〵かた〴〵かたがた聞聞きこえこえこえ給給たまふふうををを、、、いづいづいず方方かたももも同同おなじじじ御世御世みよににに、、、みかどみかどみかど后后きさきおなじおなじおなじ氏氏うじににに榮榮さかえさせえさせえさせ給給たまふめるふめるうめる。。。
- 10ははは、、、あまたのあまたのあまたの家家いえののの氏神氏神うじがみにておはすなれどにておはすなれどにておわすなれど、、、御名御名みなもとりわきてもとりわきてもとりわきて、、、此此こののの神垣神垣かみがきののの榮榮さかえええ給給たまふふう時時ときなるべしなるべしなるべし。。。このきさきのこのきさきのこのきさきの御母御母おおんはは、、、顯賴顯賴あきよりののの民部卿民部卿みんぶきょうののの御御おんむすめにおはしますなるべしむすめにおはしますなるべしむすめにおわしますなるべし。。。
- 11ののの帝帝みかどののの御母御母おおんはは方方かたののの家家いえにておはしますのみにあらずにておはしますのみにあらずにておわしますのみにあらず、、、君君きみににに仕仕つかへへえ奉奉たてまつりりり給給たまふふう家家いえ、、、かた〴〵かた〴〵かたがた然然しかるべくるべくるべく、、、かさなりかさなりかさなり給給たまへるなるべしへるなるべしえるなるべし。。。今今いまののの世世よののの事事ことはははゆかしくゆかしくゆかしく侍侍はべるるるををを、、、えうけたまはらでえうけたまはらでようけたまわらで、、、おぼつかなきおぼつかなきおぼつかなき事事こと多多おおくくくはははべりべりべり。。。
現代語訳
さて、後一条院の御時から、近いことのようでございますが、十代あまりの御代を重ねられました。今は今上の御事で、申し上げるのも憚りが多うございますが、話の続きでいらっしゃるので、事新しいことではございますが申し上げます。今上は一院(後白河)の御子で、御母は皇后宮滋子と申し上げます。贈左大臣平時信公の御娘です。帝は応保元年辛巳の年にお生まれになって、仁安元年十月十日に東宮にお立ちになります。御年五歳で、帝(六条)よりも二歳年上の兄でいらっしゃいます。年上の東宮というのは三条院の例でありましょう。同じ三年二月十九日に位におつきになります。御年八歳でいらっしゃいます。同じ帝と申しても、世の中に隔てもなく、一院が天下をお治めになり、御母后も盛りでいらっしゃるので、まことにめでたいお栄えでありましょう。ですから、二葉の松の千代の初めとして、まことにめでたく伝え承りました。御母后はこの帝をお産みになって、五、六年ほどでしょうか、女御と申し上げるようになって、仁安三年と申した三月ごろ、皇太后宮にお立ちになりました。今は女院と申し上げるそうです。まことにめでたいお栄えでいらっしゃいます。多くの女御や后がいらっしゃる中で、帝をお産みになったご宿運は申すまでもありません。先の帝の御時もこの御代にも、御産の御祈祷とばかり聞こえて、本当ではないことばかり聞こえておられたのに、まことにめったにないこととお聞きします。
代々の帝の御母は藤原氏のご一族でいらっしゃいますが、堀河天皇の御母后も、関白の御娘になって女御として入内なさったけれども、本当は源氏でいらっしゃったので、これまでと違ったことのように聞こえましたのに、今また平氏の国母がこのように栄えられる上に、同じ氏の公卿・殿上人・近衛の官人なども多く聞こえていらっしゃいます。この氏が、そうなるべくして栄えられる時が来たのでありましょう。平氏のはじめは一つでいらっしゃったけれども、日記の家と、世の守りでいらっしゃる(武士の)筋とは、長く分かれて、それぞれ聞こえていらっしゃるのを、どちらも同じ御代に、帝も后も同じ氏に栄えていらっしゃるようです。平野社は多くの家の氏神でいらっしゃるけれども、御名もとりわけて、この神垣の栄えなさる時でありましょう。この后の御母は、顕頼の民部卿の御娘でいらっしゃるのでしょう。醍醐天皇の御母方の家(勧修寺流)でいらっしゃるだけでなく、君にお仕え申し上げる家として、あれこれとしかるべく重なっていらっしゃるのでありましょう。今の世のことは知りたく思いますが、承ることができずに、はっきりしないことが多くございます。
意訳
後一条天皇から数えて十三代目、今上の高倉天皇で、天皇の歴史(すべらぎ)が結ばれる。高倉天皇は仁安三年(1168)に八歳で即位し、父後白河院が院政を行い、母平滋子(建春門院)が栄えていた。甥の六条天皇より年上の東宮となったのは、三条天皇の例にならう。章題の「二葉の松」は、幼い天皇の千年の御代の初めを祝う言葉による。
語り手は、藤原氏の娘が天皇の母となるのが常であった中で、村上源氏の賢子(堀河天皇の母)に続き、平氏の滋子が国母となったことを特筆する。しかも滋子の一族(堂上平氏)だけでなく、「世の固め」である武家平氏(清盛の一門)も同じ御代に栄えていることに、時代の変化を見ている。
結びの「今の世の事はゆかしく侍るを、えうけたまはらで」は、語り手が嘉応二年(1170)の時点で語っていることを確認させる言葉で、平氏の全盛期に今鏡が書かれたことを示している。
語釈・文法注
- 當帝
- 第八十代高倉天皇(1161〜1181)。名は憲仁。今鏡成立時の天皇。
- 滋子
- 平滋子(1142〜1176)。建春門院。平時信の娘で、清盛の妻時子の妹。
- 平時信
- 平時信(?〜1149)。堂上平氏(高棟流)。
- あに東宮は三條ノ院の例
- 三条天皇は一条天皇より四歳年上で東宮となった。
- ふたばの松の千代のはじめ
- 芽生えたばかりの松が千年の寿命を始めること。幼い天皇の長い御代を祝う。
- 堀河の帝の御母ぎさき
- 藤原賢子。実は源顕房の娘。第15章参照。
- にきの家
- 日記の家。朝廷の記録や儀式に通じた文官の家。堂上平氏(高棟王の流れ)。
- 世の固めにおはする筋
- 武家平氏(高望王の流れ)。平清盛の一門。
- 平野
- 平野神社。京都の北野にある。桓武天皇の母方の神を祀り、平氏・源氏などの氏神とされた。
- 醍醐の帝の御母方の家
- 醍醐天皇の母藤原胤子の実家、勧修寺流。顕頼もこの流れ。
文法
- 御世餘らせ給ひけり
- 十代あまり御代を重ねられた。
- こと新しく侍れど
- 事新しいことではありますが。
解説
今鏡の天皇の歴史(巻一〜巻三)は、ここで今上高倉天皇に至って終わる。巻四からは、藤原氏の摂関家と諸流、村上源氏、皇子たちの列伝へと移る。
平滋子の立后(仁安三年〈1168〉)と高倉天皇の即位は、平氏政権の確立を象徴する出来事であった。のちに高倉天皇には清盛の娘徳子(建礼門院)が入内し、安徳天皇が生まれる。今鏡は、その直前の平氏の上り坂の時期を「此の氏の、然るべく栄え給ふ時のいたれるなるべし」と記している。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、130〜133頁(コマ80–81)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日