今鏡 第三「すべらぎの下」 第26章
花園のにほひ
二条天皇は、母を早く失い、美福門院に養われて仁和寺で学んだ。美福門院の養子として東宮・天皇となり、末世の賢王とたたえられたが、二十三歳で病に倒れ、幼い六条天皇に譲位して崩じた。六条天皇はわずか二歳で即位した。
- 1そのみかどのそのみかどのそのみかどの御母御母おおんはは、、、生生うみおきみおきみおき奉奉たてまつりりり給給たまひてひていて、、、うせうせうせ給給たまひにしよりひにしよりいにしより、、、鳥羽鳥羽とばののの女院女院にょういん養養やしなひたてまつりひたてまつりいたてまつり給給たまひてひていて、、、幼幼おさなくおはしましゝくおはしましゝくおわしましし時時ときははは、、、仁和寺仁和寺にんなじにおはしましてにおはしましてにおわしまして、、、ののの宮宮みやののの御弟子御弟子おおんでしにてにてにて、、、ノノノ頌頌しょうなどなどなど、、、さとくさとくさとく讀讀よませたまひてませたまひてませたまいて、、、ぢく〳〵ぢく〳〵じくじく讀讀よみつくさせみつくさせみつくさせ給給たまひてひていて、、、そのこゝろそのこゝろそのこころ說說ときあらはせるきあらはせるきあらわせるふみどもふみどもふみどもをををさへさへさへ、、、傳傳つたへへえうけさせうけさせうけさせ給給たまひてひていて、、、智惠智惠ちえ深深ふかくおはしましけりくおはしましけりくおわしましけり。。。
- 2院院いん位位くらいににに卽卽つかせかせかせ給給たまひしかばひしかばいしかば、、、當今當今とうぎんののの一一いちののの宮宮みやにておはしますにておはしますにておわします上上うえににに、、、美福門院美福門院びふくもんいんののの御養御養おおんやしなひひい子子こにてにてにて、、、近衞近衞こんえのみかどののみかどののみかどの御御おんかはりともおぼしめしてかはりともおぼしめしてかわりともおぼしめして、、、このこのこの宮宮みやににに位位くらいをもをもをも讓讓ゆずらせらせらせ給給たまへらんとへらんとえらんと、、、計計はからはせらはせらわせ給給たまひければひければいければ、、、都都みやこへへへかへりかへりかえり出出いでさせでさせでさせ給給たまひてひていて、、、みこのみやみこのみやみこのみや、、、たからのたからのたからの位位くらいなどなどなど、、、傳傳つたへさせへさせえさせ給給たまへりきへりきえりき。。。
- 3末末すえののの世世よのののにおはしますとこそにおはしますとこそにおわしますとこそ、、、うけうけうけ給給たまはははりしかりしかりしか。。。御心御心みこころばへもばへもばえも深深ふかくおはしましくおはしましくおわしまし、、、動動うごかしかしかし難難がたくなむおはしましけるくなむおはしましけるくなむおわしましける。。。廿三廿三にじゅうさんにおはしましゝにおはしましゝにおわしましし御年御年おおんとし、、、御病御病おおんやまい重重おもくてくてくて、、、若宮若宮わかみやにゆづりにゆづりにゆずり申申もうさせさせさせ給給たまひてひていて、、、幾幾いくばくもおはしまさゞりきばくもおはしまさゞりきばくもおわしまさざりき。。。
- 4よきよきよき人人ひとははは、、、時世時世ときよにもあはせにもあはせにもあわせ給給たまはははででで、、、久久ひさしくもおはしまさゞりけるにやしくもおはしまさゞりけるにやしくもおわしまさざりけるにや。。。末末すえののの世世よ、、、いとくちをしくいとくちをしくいとくちおしく、、、みかどのみかどのみかどの御位御位おおんくらいははは限限かぎりあるりあるりある事事ことなれどなれどなれど、、、あまりあまりあまり世世よををを疾疾とくくく受受うけけけ取取とりておはしましけるにやりておはしましけるにやりておわしましけるにや。。。
- 5又又また太上天皇太上天皇だいじょうてんのう朝朝あしたにのぞませにのぞませにのぞませ給給たまふふう、、、常常つねののの事事ことなるになるになるに、、、御心御心みこころにもかなはせにもかなはせにもかなわせ給給たまはずはずわず、、、世世よのみだれのみだれのみだれ直直なおさせさせさせ給給たまふふう程程ほどといひながらといひながらといいながら、、、あまりにあまりにあまりに侍侍はべりけるにやりけるにやりけるにや。。。
- 6善善よくおはしましゝみかどとてくおはしましゝみかどとてくおわしまししみかどとて、、、世世よももも惜惜おしみみみ奉奉たてまつるときこえるときこえるときこえ侍侍はべりりり。。。ノノノ院院いんとぞとぞとぞ申申もうすなるすなるすなる。。。古古ふるききき后后きさきののの御名御名みななれどなれどなれど、、、をとこをとこおとこ女女おんなかはらせかはらせかわらせ給給たまへればへればえれば、、、混混まがはははせせせ給給たまふまじきなるべしふまじきなるべしうまじきなるべし。。。されどされどされど同同おなじじじ御名御名みなははは古古ふるくもくもくも侍侍はべらぬにやらぬにやらぬにや。。。
- 7此此このみかどののみかどののみかどの御母御母おおんははははは大納言大納言だいなごん經實經實つねざねののの御御おんむすめむすめむすめ、、、そのそのその御母御母おおんはは、、、東宮東宮とうぐう大夫大夫だいぶののの御御おんむすめなりむすめなりむすめなり。。。そのそのその大納言大納言だいなごんののの中中なかののの君君きみははは、、、ののの右右みぎのおとゞののおとゞののおとどの北北きたののの方方かたなればなればなれば、、、あねのあねのあねの姫宮姫宮ひめみやををを子子こにしてにしてにして、、、院院いんののの今今いま宮宮みやとておはしましゝにとておはしましゝにとておわしまししに、、、たてまつられたりしなりたてまつられたりしなりたてまつられたりしなり。。。
- 8このみかどこのみかどこのみかど、、、生生うみおきみおきみおき奉奉たてまつりてりてりてうせたまひにきうせたまひにきうせたまいにき。。。后后きさきののの位位くらい贈贈おくられられられ給給たまひてひていて、、、贈贈ぞう皇太后宮皇太后宮こうたいこうぐうととと申申もうすなるべしすなるべしすなるべし。。。御御おんおやのおやのおやの按察大納言按察大納言あぜちのだいなごんももも、、、おほきおとゞおほきおとゞおおきおとど、、、おほきおほきおおき一一ひとつのつのつの位位くらいおくられおくられおくられ給給たまへるとなむうけへるとなむうけえるとなむうけ給給たまはるはるわる。。。
- 9さるさるさる事事ことやあらんともやあらんともやあらんとも知知しらでらでらで、、、うせうせうせ給給たまひにしかどもひにしかどもいにしかども、、、やんごとなきやんごとなきやんごとなき位位くらいそへられそへられそえられ給給たまへりへりえり。。。御末御末おおんすえののの盛盛さかりなるべしりなるべしりなるべし。。。はかなくてはかなくてはかなくて、、、消消きえさせえさせえさせ給給たまひにしひにしいにし露露つゆののの御命御命おおんいのちももも、、、后贈后贈きさきおくられられられ給給たまへばへばえば、、、いきていきていきて成成なりりり給給たまへるもへるもえるも昔昔むかしがたりになりぬればがたりになりぬればがたりになりぬれば、、、殘殘のこりりり給給たまふふう御名御名みなははは、、、同同おなじじじ事事ことなるべしなるべしなるべし。。。
- 10彼彼かののの讓讓ゆずられておはしましゝみかどられておはしましゝみかどられておわしまししみかどははは、、、ととと申申もうしてしてして、、、まだまだまだ幼幼おさなくてくてくて、、、太上天皇太上天皇だいじょうてんのうとておはしますとておはしますとておわします也也なり。。。二條二條にじょうノノノ院院いんののの御子御子みこ、、、ふたりふたりふたりおはしますなるおはしますなるおわしますなる御中御中おおんなかににに、、、第二第二だいにのみこにおはしますなるべしのみこにおはしますなるべしのみこにおわしますなるべし。。。
- 11御母御母おおんははこと〴〵にこと〴〵にことごとに聞聞きこえさせこえさせこえさせ給給たまひきひきいき。。。このこのこの帝帝みかどののの御母御母おおんはは、、、德大寺德大寺とくだいじののの左大臣左大臣さだいじんののの御御おんむすめとむすめとむすめと申申もうすめりしもすめりしもすめりしも、、、うるはしきうるはしきうるわしき女御女御にょうごなどになどになどに、、、參參まいりりり給給たまへるにあらでへるにあらでえるにあらで、、、忍忍しのびてびてびて僅僅わずかににに參參まいりりり給給たまへるなるべしへるなるべしえるなるべし。。。
- 12さればさればされば、、、たしかにもえうけたしかにもえうけたしかにもようけ給給たまはははりりり侍侍はべらずらずらず。。。帝帝みかど尋尋たずねいでねいでねいで奉奉たてまつりてりてりて後後のち、、、中宮中宮ちゅうぐう養養やしなひひい奉奉たてまつりりり給給たまひてひていて、、、母后母后ははきさきにおはしますなりにおはしますなりにおわしますなり。。。永永えい萬萬よろず元年元年がんねん六月六月ろくがつ廿五日廿五日にじゅうごにち、、、位位くらいににに卽卽つかせかせかせ給給たまふふう。。。
- 13御御おんとしとしとし二二ふたつつつ、、、世世よをををたもたせたもたせたもたせ給給たまふふう事事こと三年三年さんねんにやおはしますらむにやおはしますらむにやおわしますらむ。。。一院一院いちいんおぼしめしおきつるおぼしめしおきつるおぼしめしおきつる事事ことにてにてにて、、、東宮東宮とうぐうににに位位くらいををを讓讓ゆずりりり奉奉たてまつりりり給給たまひてひていて、、、まだまだまだ、、、幼幼おさなくおはしますにくおはしますにくおわしますに、、、太上天皇太上天皇だいじょうてんのうととと申申もうすもすもすも、、、いとやんごとなしいとやんごとなしいとやんごとなし。。。
- 14御年御年おおんとし二二ふたつにてつにてつにて、、、位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たまふふう事事こと、、、これやこれやこれや初初はじめにておはしますらんめにておはしますらんめにておわしますらん。。。近衞近衞こんえののの帝帝みかどははは、、、三三みつにてつにてつにて初初はじめてめてめて卽卽つかせかせかせ給給たまふとふとうと申申もうしゝもしゝもししも、、、はじめたるはじめたるはじめたる事事こととこそとこそとこそうけたまはりしかうけたまはりしかうけたまわりしか。。。
- 15多多おおくくくははは五五いつつなどにてぞつなどにてぞつなどにてぞ卽卽つかせかせかせ給給たまふふう、、、からからから國國くににににははは、、、一一ひとつなるつなるつなる例例れいもおはしましけりとかもおはしましけりとかもおわしましけりとか聞聞きこえきこえきこえき。。。
- 16このみかどのこのみかどのこのみかどの御母御母おおんはは、、、いまのいまのいまの中宮中宮ちゅうぐう子子こととと申申もうしてしてして、、、法性寺法性寺ほっしょうじののの入道入道にゅうどう、、、前前さきのおほきおとゞののおほきおとゞののおおきおとどの御御おんむすめにおはしますむすめにおはしますむすめにおわします。。。前前さきののの上上うえ野野ののかみのかみのかみ源源げんノノノ顯俊顯俊あきとしのむすめののむすめののむすめの御腹御腹おおんはらとなんとなんとなん。。。
- 17みかどのみかどのみかどの誠誠まことののの御母御母おおんははののの事事ことははは、、、さきにさきにさきに申申もうししし侍侍はべりぬりぬりぬ。。。このこのこの中宮中宮ちゅうぐう、、、二條二條にじょうのみかどおはしまさねどものみかどおはしまさねどものみかどおわしまさねども、、、今今いまのこくもとてのこくもとてのこくもとて、、、猶猶なお內內うちにおはしませばにおはしませばにおわしませば、、、昔昔むかしにかはれるにかはれるにかわれる事事ことなくなむなくなむなくなむ、、、おはしましけるおはしましけるおわしましける。。。
- 18臨時臨時りんじののの祭祭まつりののの四位四位しいのののににに、、、ときこゆるときこゆるときこゆる人人ひと、、、催催もよおしいだされてしいだされてしいだされて、、、參參まいられたりけるにられたりけるにられたりけるに、、、先帝先帝せんだいののの御時御時おおんときははは雲雲くもののの上人上人うえびとなりけれどなりけれどなりけれど、、、このこのこの世世よにににははは、、、まだまだまだ殿上殿上てんじょうもせねばもせねばもせねば、、、たちやすらひてたちやすらひてたちやすらいて、、、北北きたののの陣陣じんののの方方かたにめぐりてにめぐりてにめぐりて、、、后后きさきののの宮宮みやのおはしますのおはしますのおわします、、、御御おんたちのたちのたちの町町まちなどなどなど見見みるにるにるに、、、またまたまた殿上殿上てんじょうのかたざまへのかたざまへのかたざまえ參參まいりてりてりて、、、遙遙はるかにかにかに見見みわたしなどしけるにもわたしなどしけるにもわたしなどしけるにも、、、昔昔むかしにかはりたるにかはりたるにかわりたる事事こともなくもなくもなく、、、馴馴なれならひたりしれならひたりしれならいたりし人人ひとどものどものどもの見見みえければえければえければ、、、后后きさきののの御方御方おおんかたののの人人ひとににに、、、物物ものなどなどなど申申もうしけるついでにしけるついでにしけるついでに、、、檜扇檜扇ひおうぎののの、、、片片かたつまつまつまををを折折おりてかきつけてりてかきつけてりてかきつけて、、、ごたちのごたちのごたちの中中なかににに申申もうしいれさせけるしいれさせけるしいれさせける。。。
- 19むかしむかしむかし見見みしししのかけはしかはらねどのかけはしかはらねどのかけわしかわらねど我我わががが身一身一みひとつのとだえつのとだえつのとだえ也也なりけりけりけり」」」
- 20いとやさしくいとやさしくいとやさしく侍侍はべるるる事事ことときこえときこえときこえ侍侍はべりきりきりき。。。
現代語訳
その帝(二条)の御母が、お産みになってお亡くなりになってから、鳥羽の女院(美福門院)が養育なさって、幼くていらした時は仁和寺にいらっしゃって、五の宮(覚性法親王)の御弟子として、倶舎の頌などを賢くお読みになり、軸ごとに読み尽くされて、その意味を説き明かした書物まで伝え受けられて、智慧が深くていらっしゃいました。院(後白河)が位におつきになったので、今上の第一皇子でいらっしゃる上に、美福門院の御養子として、近衛天皇の御代わりともお思いになって、この宮に位をも譲らせようとお計らいになったので、都へ帰り出られて、東宮の位、帝の位などをお伝えになりました。末世の賢王でいらっしゃると承りました。お心ばえも深くていらして、揺るがしがたくていらっしゃいました。二十三歳でいらした御年に、御病気が重くて、若宮(六条)に位をお譲りになって、いくらも生きていらっしゃいませんでした。よい人は時世にも恵まれず、長くも生きていらっしゃらなかったのでしょうか。末世はまことに残念で、帝の位は限りのあることだけれども、あまりにも早く世を受け取っていらしたからでしょうか。また太上天皇が朝政に臨まれるのは常のことなのに、(院とは)お心も合わず、世の乱れを直される時とはいいながら、度が過ぎていたのでしょうか。よくいらした帝だということで、世も惜しみ申し上げていると聞きます。二条院と申し上げるそうです。古い后の御名(二条院章子内親王)だけれども、男と女で違っていらっしゃるので、混同されることはないでしょう。けれども同じ御名で、それほど古い時代の方でもないのに。
この帝の御母は大納言経実の御娘で、その御母は東宮大夫公実の御娘です。その大納言の次女は花園右大臣(有仁)の北の方なので、姉の姫君を養女にして、院(後白河)が今宮と申し上げていらした時に差し上げられたのです。この帝をお産みになってお亡くなりになりました。后の位を追贈されて、贈皇太后宮懿子と申し上げるのでしょう。御父の按察大納言(経実)も太政大臣・正一位を追贈されたと承っています。そんなこともあろうとは知らずに亡くなられたけれども、尊い位を加えられたのです。御子孫の盛りなのでしょう。はかなく消えてしまわれた露の御命も、后の位を追贈されたので、生きて后になられた方も昔語りになってしまえば、残る御名は同じことでしょう。あの(位を)譲られていらした帝は、新院と申し上げて、まだ幼くて太上天皇でいらっしゃるのです。二条院の御子は二人いらっしゃるうち、第二皇子でいらっしゃるのでしょう。御母はそれぞれ別と申しました。この帝の御母は徳大寺左大臣(実能)の御娘と申すようでしたが、正式の女御などとして入内なさったのではなく、ひそかにわずかに参られた方なのでしょう。ですから、確かにはお聞きしておりません。帝が探し出されて後、中宮(育子)が養育なさって、母后でいらっしゃるのです。永万元年六月二十五日に位におつきになります。御年二歳。世を保たれたのは三年でいらっしゃったでしょうか。一院(後白河)がお考えになっていたことで、東宮に位をお譲りになって、まだ幼くていらっしゃるのに、太上天皇と申し上げるのも、まことに尊いことです。御年二歳で位におつきになることは、これが初めてでいらっしゃるでしょう。近衛天皇が三歳で初めて即位なさったと申したのも、初めてのことと承りました。多くは五歳などで即位なさいます。唐の国には一歳の例もあったとか聞きました。
この帝の御母(准母)は、今の中宮育子と申して、法性寺入道前太政大臣(忠通)の御娘でいらっしゃいます。前上野守源顕俊の娘を母とするそうです。帝の本当の御母のことは、先に申しました。この中宮は、二条天皇がいらっしゃらなくなっても、今の国母として、なお内裏にいらっしゃるので、昔と変わることなくいらっしゃいました。臨時の祭の四位の陪従に、清輔と申す人が召し出されて参ったところ、先帝の御時は殿上人だったけれども、この御代にはまだ昇殿もしていないので、ためらって、北の陣の方に回って、后の宮のいらっしゃる、女房たちの局町などを見ると、また殿上の方へ参って、遠くから見わたしなどしたにつけても、昔と変わったこともなく、慣れ親しんだ人たちが見えたので、后の御方の人に何か申したついでに、檜扇の片端を折って書きつけて、女房たちの中に差し入れさせた歌、
むかし見し雲のかけはしかはらねど我が身一つのとだえ也けり
たいそう優雅なことと聞きました。
意訳
二条天皇は、母懿子を生後まもなく失い、美福門院に養われ、仁和寺の覚性法親王のもとで仏典を学んだ。美福門院の養子として東宮となり、即位した。語り手は「末の世の賢王」とたたえ、父後白河院と対立しながら親政を志したことを、「御心にもかなはせ給はず」と遠回しに記している。
二条天皇は永万元年(1165)、二十三歳で病のため、二歳の皇子(六条天皇)に譲位し、まもなく崩じた。母懿子に后の位が追贈されたことについて、語り手は、生きて后になった人も死後は昔語りになるのだから、残る名は同じだと慰めている。章題の「花園のにほひ」は、母方の花園左大臣有仁の家にちなむ。
最後に、二条天皇の中宮育子のもとを訪れた藤原清輔の歌が引かれる。先帝の時には殿上人だったのに、新帝のもとでは昇殿を許されていない我が身の不遇を、「雲のかけはし」の途絶えにたとえて詠んだ優雅な歌である。
語釈・文法注
- 五の宮
- 覚性法親王。鳥羽院の第五皇子で仁和寺の門跡。
- 倶舍ノ頌
- 『倶舎論』の偈頌。仏教の基礎教学。
- 末の世の賢王
- 末世にすぐれた天皇。二条天皇は政治に熱心で、後白河院の院政に対抗して親政を行った。
- 二條ノ院
- 二条天皇の院号。後冷泉天皇の中宮章子内親王も二条院と呼ばれた(第3章)。
- 東宮大夫公實
- 藤原公実。第14章参照。
- 花園の右のおとゞ
- 源有仁。
- 懿子
- 藤原懿子。二条天皇の母。
- 新院
- 六条院。二条天皇の第二皇子。母は伊岐致遠の娘(徳大寺実能の娘とする説もある)。
- 中宮育子
- 藤原育子(1146〜1173)。忠通の娘(実は藤原実能の娘とも)。二条天皇の中宮で、六条天皇の准母。
- 淸輔
- 藤原清輔(1104〜1177)。歌人・歌学者。顕輔の子。『袋草紙』の著者。
- 陪從
- 神楽の楽人。臨時の祭で地下の楽人を務める。
- 局町
- 女房の局(部屋)が並ぶ所。
- 雲のかけはし
- 宮中の階段。昇殿の道のたとえ。
文法
- ぢく〳〵
- 軸ごとに。一巻ずつ。
- 混はせ給ふまじきなるべし
- 「まがふ」に尊敬の「せ給ふ」。混同されることはないであろう。
- なさけ多く
- ここでは「いとやさしく」。
和歌
むかし見し雲のかけはしかはらねど我が身一つのとだえ也けり
- 詠者
- 藤原清輔
- 状況
- 先帝二条天皇の時は殿上人だったが、六条天皇の御代にはまだ昇殿を許されていない身で、臨時の祭に陪従として参り、中宮育子の女房に贈った歌。
修辞
- 見立て
- 「雲のかけはし」に、宮中の階段(昇殿)をたとえる。
- 対比
- 昔と変わらない宮中と、自分だけが途絶えた身とを対比する。
解説
六条天皇は二歳で即位し、五歳で叔父の高倉天皇に譲位した。今鏡成立時には、まだ幼い上皇(新院)であった。語り手が「今の世の事は憚り多かる」と言いながら語るのは、現に生きている人々のことだからである。
藤原清輔の歌は『新古今和歌集』にも採られている。今鏡は、華やかな宮廷の陰に不遇をかこつ歌人の姿も書き留めている。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、126〜130頁(コマ78–80)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日