今鏡 第三「すべらぎの下」 第25章
ひなの別れ
平治の乱後、二条天皇の母方の藤原経宗・乳母子の藤原惟方が権勢をふるったが、後白河院の怒りにふれて流された。保元以来、多くの人々が次々と流罪となった。配所の惟方が都へ送った歌や、下野に流された藤原成範の歌が引かれる。
- 1彼彼かののの通憲通憲みちのりののの大德大德だいとこのゆかりのゆかりのゆかり、、、浦々浦々うろうらににに流流ながされたるされたるされたる、、、みなみなみな召召めしかへしてしかへしてしかえして、、、世皆靜世皆靜よみなしずまりたればまりたればまりたれば、、、內內うちののの御御おん政事政事まつりごとのまゝなりしにのまゝなりしにのままなりしに、、、みかどのみかどのみかどの御母御母おおんはは方方かた、、、又又また御御おんめのとなどいひてめのとなどいひてめのとなどいいて、、、大納言大納言だいなごん、、、別當別當べっとうなどいふなどいふなどいう人人ひとふたりふたりふたり、、、世世よををを靡靡なびかせりしかせりしかせりしほどにほどにほどに、、、院院いんののの御御おんためためため、、、御心御心みこころにたがひてにたがひてにたがいて、、、あまりのあまりのあまりの事事ことどもやありけんどもやありけんどもやありけん。。。
- 2二人二人ふたりながらながらながら內內うちににに候候そうらひけるひけるいける夜夜よ、、、あさましきあさましきあさましき事事ことどもありてどもありてどもありて、、、おびたゝしきさまにおびたゝしきさまにおびたたしきさまに聞聞きこえけるこえけるこえけるををを、、、法性寺法性寺ほっしょうじのおほきのおほきのおおき大臣大臣おとどののの、、、せちにせちにせちに申申もうしやはらげしやはらげしやわらげ給給たまひてひていて、、、おの〳〵おの〳〵おのおの流流ながされにきされにきされにき。。。
- 3此此こののの頃頃ごろははは召召めししし返返かえされてされてされて、、、大臣大臣おとどののの大將大將だいしょうまでなりまでなりまでなり給給たまへるとこそへるとこそえるとこそ、、、うけたまはれうけたまはれうけたまわれ。。。さまでさまでさまで過過あやまたずおはしけるにやたずおはしけるにやたずおわしけるにや。。。宰相宰相さいしょうははは憂憂うきめきめきめ見見みたりとてたりとてたりとて、、、かしらおろされにけりかしらおろされにけりかしらおろされにけり。。。
- 4それもそれもそれも歸歸かえりのぼりてりのぼりてりのぼりて、、、おはするとかやおはするとかやおわするとかや。。。鳥羽鳥羽とばノノノ院院いんうせさせうせさせうせさせ給給たまひしひしいしほどにほどにほどに、、、世世よののの亂亂みだれいできてよりれいできてよりれいできてより、、、かた〴〵かた〴〵かたがた流流ながされされされ給給たまひしひしいし人人ひと、、、たび〳〵にたび〳〵にたびたびに其其そののの數數かずおはしきおはしきおわしき。。。
- 5初初はじめのたびめのたびめのたび、、、讃岐讃岐さぬきノノノ院院いんののの御御おんゆかりゆかりゆかり、、、ほいどのがたなどほいどのがたなどほいどのがたなど、、、廿四五人廿四五人にじゅうしごにんばかりやおはしけむばかりやおはしけむばかりやおわしけむ。。。四年四年よねんばかりありてばかりありてばかりありて、、、かのかのかの衞門督衞門督えもんのかみとかやとかやとかや聞聞きこえしこえしこえし人人ひとののの亂亂みだれにれにれに、、、少納言少納言しょうなごんののの大德大德だいとこののの子子こどもどもども八九人八九人はちくにんばかりばかりばかり浦々浦々うらうらへへへときこえときこえときこえ侍侍はべりきりきりき。。。
- 6事事ことなほりしかばなほりしかばなおりしかば、、、そのそのその人々人々ひとびとははは召召めししし返返かえしてしてして、、、又又またののの年年としののの春春はる、、、ののの源中納言源中納言げんちゅうなごんとかやとかやとかや、、、衞門衞門えもんノノノ督督かみににに同同おなじじじ心心こころなるとてなるとてなるとて、、、あづまのあづまのあずまの方方かたへへへおはすとおはすとおわすと聞聞きききき侍侍はべりきりきりき。。。
- 7しかしかしか有有ありしりしりし程程ほどににに、、、そのそのその頃頃ころかのかのかの大納言大納言だいなごん、、、宰相宰相さいしょうとととふたりふたりふたり、、、阿波國長門阿波國長門あわのくにながとののの方方かたなどにおはしきなどにおはしきなどにおわしき。。。
- 8そのそのその年年としののの六月六月ろくがつにやありけんにやありけんにやありけん。。。、、、そのそのその子子こ光宗光宗みつむねなどいひしなどいひしなどいいし源氏源氏げんじののの武者武者むしゃなりしなりしなりし人人ひと、、、筑紫筑紫つくしへつかはしてへつかはしてへつかわして、、、はてはてはてはははいかになりにけるとかやいかになりにけるとかやいかになりにけるとかや。。。
- 9そのそのその人人ひとののの女女おんなとかやとかやとかや、、、いもいもいもうとゝかやなるうとゝかやなるうととかやなる人人ひとののの、、、鳥羽鳥羽とばノノノ院院いんにときめくにときめくにときめく人人ひとにてにてにて、、、いとほしみのいとほしみのいとおしみの餘餘あまりにやりにやりにや。。。二條二條にじょうノノノ院院いん、、、東宮東宮とうぐうとておはしましゝとておはしましゝとておわしましし御御おんめのとにてめのとにてめのとにて、、、位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たまひにしかばひにしかばいにしかば、、、內侍內侍ないしのすけなどのすけなどのすけなど聞聞きこえきこえきこえき。。。
- 10そのゆかりにてそのゆかりにてそのゆかりにて、、、時時ときにあへりしににあへりしににあえりしに、、、內內うちののの御方御方おおんかたどものどものどもの、、、かくかくかく事事ことにあへりしかばにやにあへりしかばにやにあえりしかばにや。。。又又また源氏源氏げんじどものどものどもの、、、然然しかるべくるべくるべく失失うせんとてにやありけんせんとてにやありけんせんとてにやありけん。。。
- 11又又またさばかりのさばかりのさばかりの少納言少納言しょうなごん埋埋うずまれたるまれたるまれたる、、、索索もとめいでたるにやよりけんめいでたるにやよりけんめいでたるにやよりけん。。。かくぞかくぞかくぞ成成なりにしりにしりにし。。。かやうにてかやうにてかようにて、、、今今いまははは何事何事なにごとかかかはははとおぼえしにとおぼえしにとおぼえしに、、、かくおはしますべかりけるかくおはしますべかりけるかくおわしますべかりけるををを、、、そのそのその折折おりももも又又またいかゞうたがはせいかゞうたがはせいかごうたがわせ給給たまひけんひけんいけん。。。
- 12皇子皇子みこののの御方人御方人おおんかたうどとおぼしきとおぼしきとおぼしき人人ひと、、、つかさのきなどしてつかさのきなどしてつかさのきなどして、、、又又また流流ながさせさせさせ給給たまへりきへりきえりき。。。大大おおかたかたかた六六ろく七年七年しちねんのののほどにほどにほどに、、、三十餘人三十餘人さんじゅうよにんちり〴〵におはせしちり〴〵におはせしちりじりにおわせし、、、あさましくあさましくあさましく侍侍はべりきりきりき。。。
- 13輕輕かろきにしたがひてきにしたがひてきにしたがいて、、、やう〳〵やう〳〵ようよう召召めしかへされしにしかへされしにしかえされしに、、、惟方惟方これかたいつとなくおはせしかばいつとなくおはせしかばいつとなくおわせしかば、、、かしこよりかしこよりかしこより都都みやこへへへ、、、女房女房にょうぼうにつけてときこえしにつけてときこえしにつけてときこえし、、、
- 14このせにもこのせにもこのせにも沈沈しずむときけばむときけばむときけば涙涙なみだ川川がわ流流ながれしよりもぬるゝれしよりもぬるゝれしよりもぬるる袖袖そでかなかなかな
- 15とぞよまれとぞよまれとぞよまれ侍侍はべりけるりけるりける。。。此此こののの兄兄このかみににに、、、大納言大納言だいなごんときこえときこえときこえ給給たまひしひしいし、、、四十四十よそじ餘餘あまりにてかしらおろしてりにてかしらおろしてりにてかしらおろして、、、桂桂かつらののの里里さとにこそにこそにこそ籠籠こもりゐりゐりい給給たまふなれふなれうなれ。。。それそれそれはははかやうのかやうのかようの事事ことににに、、、かゝりかゝりかかり給給たまふふう事事ことなくなくなく、、、何事何事なにごともよきもよきもよき人人ひとときゝたてまつりしときゝたてまつりしとききたてまつりし、、、いとあはれにありがたきいとあはれにありがたきいとあわれにありがたき御心御心みこころなるべしなるべしなるべし。。。
- 16又又また左兵衞左兵衞さひょうえノノノ督督かみときこえしときこえしときこえし、、、紀紀きののの二位二位にいのののはらにてはらにてはらにて、、、そのそのその折折おりははは、、、播磨播磨はりまののの中將中將ちゅうじょう、、、弟弟おとうとののの美濃美濃みのののの少將少將しょうしょうなどきこえしなどきこえしなどきこえし、、、衞門衞門えもんノノノ督督かみのみだれにのみだれにのみだれに、、、ちり〴〵におはせしちり〴〵におはせしちりじりにおわせし時時とき、、、中將中將ちゅうじょう下野下野しもつけへへへおはしておはしておわして、、、かしこにてよみかしこにてよみかしこにてよみ給給たまひけるひけるいける、、、
- 17わがためにありけるものわがためにありけるものわがためにありけるものををを下野下野しもつけやややののの八島八島やしまにたえぬにたえぬにたえぬ思思おもひひいははは
- 18とかやとかやとかや。。。ひがひがひが事事ことどもやどもやどもや侍侍はべらんらんらん。。。
現代語訳
あの通憲の大徳の縁者で、あちこちの浦々に流されていた人々を皆呼び戻して、世の中が皆静まったので、帝(二条)の御政治のままであったところ、帝の御母方や御乳母などといって、大納言経宗と検非違使別当惟方などという人二人が、世をなびかせていたうちに、院(後白河)の御ためには、そのお心にそむいて、度の過ぎたことなどがあったのでしょうか、二人とも内裏にお仕えしていた夜、あきれるようなことがあって、たいそうな有様に聞こえましたが、法性寺の太政大臣(忠通)が切にとりなしなさって、それぞれ流されました。このごろは召し返されて、(経宗は)大臣・大将にまでおなりになったと承っています。それほど罪深くはいらっしゃらなかったのでしょうか。宰相(惟方)はつらい目を見たといって出家されました。それも都に帰り上っていらっしゃるとか。鳥羽院がお亡くなりになったころに世の乱れが起こってから、あちこちに流された人は、たびたびでその数も多くいらっしゃいました。初めの時は、讃岐院の御縁者や大殿方(頼長の一族)など、二十四、五人ほどいらっしゃったでしょうか。四年ほどして、あの衛門督(信頼)とか申した人の乱で、少納言の大徳の子ども八、九人ほどが浦々へと聞きました。事が収まったので、その人々は呼び戻して、翌年の春、源中納言師仲とか申した人が、衛門督と同じ心だったということで、東国へいらっしゃると聞きました。そうしているうちに、そのころ、あの大納言(経宗)と宰相(惟方)の二人が、阿波国・長門国の方などにいらっしゃいました。
その年の六月でしたでしょうか、出雲守光保、その子光宗などという源氏の武者だった人を筑紫へ遣わして、最後にはどうなったのでしょうか。その人の娘とか妹とかいう人が、鳥羽院の寵愛を受けた人で、かわいがられたあまりにでしょうか、二条院が東宮でいらした時の御乳母として、位におつきになったので、典侍などと申しました。その縁で時めいていたのに、内裏方の人々(経宗・惟方)がこのような目にあったからでしょうか。また源氏たちが、そうなるべくして滅びる運命だったのでしょうか。また、あれほどの少納言(信西)が埋められていたのを掘り出したことによるのでしょうか、このようになってしまいました。こうして、今はもう何事もあるまいと思っていたのに、このように(世が)治まるはずであったのを、その折もまた、どのようにお疑いになったのでしょうか、皇子の御味方と思われる人を、官職を解いたりして、また流させなさいました。だいたい六、七年の間に、三十余人が散り散りに(配所に)いらっしゃったのは、あきれることでした。罪の軽い順に、だんだんと召し返されましたが、惟方はいつまでともなくいらっしゃったので、配所から都へ、女房に託してと聞いた歌、
このせにも沈むときけば涙川流れしよりもぬるゝ袖かな
と詠まれました。この人の兄で、大納言光頼と申し上げた方は、四十余りで出家して、桂の里に籠もっていらっしゃるそうです。この方はこのような事件にかかわることもなく、何事もよい人だとお聞きしておりましたが、まことにしみじみとして、めったにないお心でありましょう。また左兵衛督成範と申し上げた方は、紀伊二位の腹で、その時は播磨中将、弟の美濃少将(脩範)などと申しましたが、衛門督の乱で散り散りになっていらした時、中将は下野へいらして、そこでお詠みになった歌、
わがためにありけるものを下野や室の八島にたえぬ思ひは
とか。思い違いもありましょうか。
意訳
平治の乱後、二条天皇の親政を支えた藤原経宗(天皇の母方の叔父)と藤原惟方(乳母子)は、後白河院と対立した。永暦元年(1160)、院の命で二人は捕らえられ、流罪となった。語り手は「院の御ため、御心にたがひて、あまりの事どもやありけん」と、院の側に立った言い方をしている。
保元の乱から永暦年間まで、崇徳院方、信西の子ら、源師仲、経宗・惟方、源光保・光宗、さらに皇子(憲仁親王、のちの高倉天皇)の立太子をめぐる人々と、六、七年の間に三十余人が流された。語り手は「あさましく侍りき」とその混乱を嘆く。章題の「ひなの別れ」は、流人たちが都を離れて鄙(田舎)に別れていくことによる。
配所の惟方の「涙川」の歌、乱にかかわらず出家した兄光頼の潔さ、下野に流された信西の子成範の「室の八島」の歌と、流人たちの姿が歌とともに描かれる。
語釈・文法注
- 大納言經宗
- 藤原経宗(1119〜1189)。二条天皇の母懿子の弟。のちに左大臣。
- 別當惟方
- 藤原惟方(1125〜?)。二条天皇の乳母の子。検非違使別当。
- おほいどのがた
- 藤原頼長の一族。保元の乱で頼長は敗死し、子らは流された。
- 出雲守光保
- 源光保。美濃源氏。娘(または妹)が鳥羽院に寵愛され、二条天皇の乳母となった。永暦元年に謀反の疑いで薩摩に流され、殺された。
- 師仲の源中納言
- 源師仲。平治の乱で信頼に加担したとして下野に流された。
- 大納言光賴
- 藤原光頼(1124〜1173)。惟方の兄。平治の乱では中立を守り、乱後に出家した。
- 左兵衞ノ督成範
- 藤原成範(1135〜1187)。信西と紀伊二位の子。平治の乱で下野に流された。桜町中納言。
- 室の八島
- 下野国の歌枕。今の栃木県栃木市の大神神社。いつも煙が立つとされ、「思ひ(火)」を詠む。
文法
- さまで過たずおはしけるにや
- それほど過ちがなかったのであろうか。
- ひが事どもや侍らん
- 思い違いもございましょうか。語り手が自分の記憶の不確かさを断る言葉。
和歌
このせにも沈むときけば涙川流れしよりもぬるゝ袖かな
- 詠者
- 藤原惟方
- 状況
- 配所から都の女房に託して送った歌。
修辞
- 掛詞
- 「せ」に川の「瀬」と「機会」、「流れ」に川の流れと流罪をかける。
- 縁語
- 「瀬」「沈む」「涙川」「流れ」「ぬるる」。
わがためにありけるものを下野や室の八島にたえぬ思ひは
- 詠者
- 藤原成範
- 状況
- 平治の乱で下野に流されたとき、その地で詠んだ歌。
修辞
- 掛詞
- 「思ひ」の「ひ」に「火」をかけ、室の八島の絶えない煙と、絶えない嘆きを重ねる。
- 歌枕
- 室の八島。
解説
今鏡は、保元・平治の乱やその後の政争を詳しく語らないが、流人たちの名を列挙し、彼らの歌を書き留めることで、時代の混乱を間接的に伝えている。「ひが事どもや侍らん」と記憶の不確かさを断るのも、語り手の慎重な姿勢の表れである。
藤原成範は流罪から許されて帰京したのち、中納言に至った。桜を愛し、桜町中納言と呼ばれた。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、122〜125頁(コマ76–77)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日