今鏡 第三「すべらぎの下」 第24章
をとめの姿
後白河院の第一皇子、二条天皇の即位。内宴は二年続いたが、信西の死とともに絶えた。姝子内親王(高松院)が中宮に立つが、その年の十二月、平治の乱が起こり、信西は殺され、乱を起こした藤原信頼も滅びた。
- 1のみかどとのみかどとのみかどと申申もうすすすははは、、、此此こののの院院いんののの一一いちののの御子御子みこにおはしましきにおはしましきにおわしましき。。。此此このをさなくおはしますのをさなくおはしますのおさなくおわしますののの御御おんおやにおはしますおやにおはしますおやにおわします。。。ののの御母御母おおんはは右大臣右大臣うだいじん有有あり仁仁ひとのおとゞののおとゞののおとどの御御おんむすめむすめむすめ、、、誠誠まことののの御親御親おおんおやははは、、、ののの大納言大納言だいなごんにおはすにおはすにおわす。。。
- 2このみかどこのみかどこのみかど、、、東宮東宮とうぐうにたゝせにたゝせにたたせ給給たまひてひていて、、、保保ほう元元げん三年三年さんねん八月八月はちがつ十一日十一日じゅういちにち、、、位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たまひきひきいき。。。御年御年おおんとし十六十六じゅうろくとぞとぞとぞ、、、うけうけうけ給給たまはははりしりしりし。。。十二月十二月じゅうにがつ廿日廿日はつか御御おん卽卽つ位位くらいありてありてありて、、、年年としもかへりにしかばもかへりにしかばもかえりにしかば、、、正月正月しょうがつ三日三日みか、、、朝覲朝覲ちょうきんのみゆきとてのみゆきとてのみゆきとて、、、院院いんへへへ行幸行幸ぎょうこうせさせたまふせさせたまふせさせたまう。。。
- 3二十二十にじゅう一日一日ついたち、、、ことしもことしもことしも內宴內宴ないえんありてありてありて、、、上達部七人上達部七人かんだちめしちにん、、、四位四位しい五位五位ごい十一十一じゅういち人人ひと、、、ふみふみふみ作作つくりてまゐるとりてまゐるとりてまいると聞聞きこえこえこえ侍侍はべりきりきりき。。。序序じょはははののの式部式部しきぶ大輔大輔たいふぞかゝるゝとぞかゝるゝとぞかかるると、、、うけたまはりしうけたまはりしうけたまわりし。。。
- 4題題だいはははノノノ下下したニニニ歌舞歌舞かぶををを催催もよおすとかやすとかやすとかや。。。法性寺法性寺ほっしょうじのおとゞのおとゞのおとど奉奉たてまつりたまへりとぞりたまへりとぞりたまえりとぞ聞聞きこえこえこえ侍侍はべりしりしりし。。。舞姫舞姫まいひめことしことしことしははは、、、うるはしきうるはしきうるわしき女女おんな舞舞まいにてにてにて、、、日日ひごろよりごろよりごろより習習ならはされけるとぞはされけるとぞわされけるとぞ聞聞きこえこえこえ侍侍はべりしりしりし。。。
- 5通憲通憲みちのりののの大德大德だいとこ、、、樂樂がくののの道道みちをををさへさへさへ好好このみみみ知知しりてりてりて、、、さもありぬべきさもありぬべきさもありぬべき女女おんなどもどもども習習ならはしつゝはしつゝわしつつ、、、神神かみののの社社やしろなどにもなどにもなどにも參參まいりてりてりて舞舞まひあへりとひあへりといあえりと聞聞きききき侍侍はべりしにりしにりしに、、、ゆかしくゆかしくゆかしく見見みばやとばやとばやと思思おもひひい侍侍はべりしかどりしかどりしかど、、、老老おいのくちをしきいのくちをしきいのくちおしき事事ことははは、、、心心こころにもえまかせにもえまかせにもえまかせ侍侍はべらでらでらで、、、さるさるさる所所ところどもにえまゐりあどもにえまゐりあどもにえまいりあはははででで、、、見侍見侍みわべらざりきらざりきらざりき。。。
- 6此此こののの御中御中おおんなかにににははは、、、定定さだめてめてめて御覽御覽ごらんぜさせぜさせぜさせ給給たまひけんかしひけんかしいけんかし。。。かのかのかの入道事入道事にゅうどうことにあひにあひにあい、、、世世よにあさましきにあさましきにあさましき事事ことどもどもども出出いでまうできてぞでまうできてぞでもうできてぞ、、、內宴內宴ないえんもたゞもたゞもただ二年二年にねんばかりにてばかりにてばかりにて、、、行行おこなはれぬはれぬわれぬ事事ことになりてになりてになりて侍侍はべるにこそるにこそるにこそ。。。
- 7其其そののの事事ことののの科科とがにやにやにや侍侍はべらんらんらん。。。猶猶なおもあらまほしきもあらまほしきもあらまほしき事事ことなれどなれどなれど且且かつははは仕立仕立したつるつるつる人人ひともかたくもかたくもかたく、、、久久ひさしくしくしく絕絕たえたるえたるえたる事事ことををを行行おこなはれてはれてわれて、、、世世よのさわぎものさわぎものさわぎも出出いできにしかばできにしかばできにしかば、、、時時ときにににおはぬおはぬおわぬ事事こととてとてとて侍侍はべらぬにやらぬにやらぬにや。。。
- 8春春はるのののはじめにはじめにはじめに詩詩し作作つくりてりてりて、、、上達部上達部かんだちめよりよりより下下しもざまざまざま迄迄まで、、、たてまつるたてまつるたてまつる事事こと、、、かしこきかしこきかしこき御時御時おおんとき、、、もももはらあるべきはらあるべきはらあるべき事事ことなりなりなり。。。さるさるさる事事こともももはべらばはべらばはべらば、、、猶猶なおいみじかるべしいみじかるべしいみじかるべし。。。
- 9二月廿四日二月廿四日にがつにじゅうよっか、、、きさききさききさき立立たちちち給給たまひきひきいき。。。鳥羽院鳥羽院とばいんののの姫宮姫宮ひめみやにてにてにて、、、、、、東宮東宮とうぐうののの御時御時おおんときよりよりより女御女御にょうごにおはしましゝにおはしましゝにおわしましし、、、中宮中宮ちゅうぐうににに立立たちちち給給たまひてひていて、、、中宮中宮ちゅうぐうははは院院いんのきさきのきさきのきさき、、、公能公能きんよし右大臣右大臣うだいじんののの御御おんむすめむすめむすめ、、、皇后宮皇后宮こうごうぐうにあがりにあがりにあがり給給たまふふう。。。
- 10ことしぞことしぞことしぞ大嘗會大嘗會だいじょうえときこえときこえときこえ侍侍はべるるる。。。御御おんかた〴〵かた〴〵かたがた候候そうらひあはせひあはせいあわせ給給たまへりしもへりしもえりしも、、、皆皆みなまかりいでさせまかりいでさせまかりいでさせ給給たまひにきひにきいにき。。。此此こののの御時御時おおんときははは、、、いまだいまだいまだ御御おんかた〴〵もかた〴〵もかたがたも、、、おはしまさぬおはしまさぬおわしまさぬ程程ほどなればなればなれば、、、上上うえははは淸涼殿淸涼殿せいりょうでんばかりにばかりにばかりに、、、常常つねのやうにおはしましてのやうにおはしましてのようにおわしまして、、、藤壺藤壺ふじつぼにににははは、、、中宮中宮ちゅうぐうぞおはしましけるぞおはしましけるぞおわしましける。。。
- 11殿殿どのののの御御おんとのゐとのゐとのい所所ところははは、、、猶宣耀殿猶宣耀殿なおせんようでんなりなりなり。。。いづくもいづくもいずくも廣廣ひろらかにてらかにてらかにて、、、いとめでたくいとめでたくいとめでたく聞聞きこえこえこえ侍侍はべりしにりしにりしに、、、そのそのその年年としのしはすにのしはすにのしわすに、、、あさましきあさましきあさましきれれれ、、、都都みやこののの內內うちににに出出いできにしかばできにしかばできにしかば、、、世世よもかはりたるやうにてもかはりたるやうにてもかわりたるようにて、、、少納言少納言しょうなごんののの大德大德だいとこもももはははかなくなりかなくなりかなくなり、、、めでたくめでたくめでたく聞聞きこえしこえしこえし上達部上達部かんだちめ、、、近衞近衞こんえのすけなどきこえしのすけなどきこえしのすけなどきこえし子子こどもどもども、、、あるあるあるははは流流ながされされされ、、、あるあるあるははは法師法師ほうしになりなどしてになりなどしてになりなどして、、、いとあさましきいとあさましきいとあさましき頃頃ころなりなりなり。。。
- 12ののの右衞門右衞門うえもんノノノ督督かみととと申申もうしゝしゝししははは、、、かのかのかの大德大德だいとこががが中中なかあしくてあしくてあしくて、、、かゝるあさましさかゝるあさましさかかるあさましさををを、、、しいだせるしいだせるしいだせる也也なりけりけりけり。。。御御おんおぼえのおぼえのおぼえの人人ひとにてにてにて、、、いかなるつかさもならんといかなるつかさもならんといかなるつかさもならんと思思おもふにふにうに、、、入道入道にゅうどう諫諫いさむるむるむるをををいぶせくいぶせくいぶせく思思おもひてひていて、、、軍軍いくさををを起起おこしたりけるしたりけるしたりけるををを、、、大大だいとこさとりてとこさとりてとこさとりて、、、行行ゆくへくへくえ知知しらずなりにけるにらずなりにけるにらずなりにけるに、、、彼彼か、、、そのそのその報報むくいにいにいに、、、思思おもはぬかばねになむなりにけるはぬかばねになむなりにけるわぬかばねになむなりにける。。。いとあさましともいとあさましともいとあさましとも、、、詞詞ことばももも及及およばぬばぬばぬ事事ことなるべしなるべしなるべし。。。
現代語訳
二条天皇と申すのは、この院(後白河)の第一皇子でいらっしゃいました。この幼くていらっしゃる新院(六条)の御父でいらっしゃいます。その御母は右大臣有仁公の御娘(養女)で、本当の御父は経実の大納言でいらっしゃいます。この帝は東宮にお立ちになって、保元三年八月十一日に位におつきになりました。御年十六と承りました。十二月二十日に御即位の儀があって、年も改まったので、正月三日、朝覲の行幸として院へ行幸なさいます。二十一日には、今年も内宴があって、公卿七人、四位・五位十一人が詩を作って参ると聞きました。序は永範の式部大輔がお書きになると承りました。題は「花の下に歌舞を催す」とか。法性寺の大臣(忠通)が出されたと聞きました。舞姫は今年は本格的な女舞で、ふだんから習わせていたと聞きました。通憲の大徳は音楽の道までも好んで心得ていて、ふさわしい女たちに習わせては、神社などにも参って舞わせたと聞いておりましたので、見たいものだと思っておりましたが、老いの残念なことには思うにまかせず、そういう所にも参り合わせることができずに、見ませんでした。この中には、きっとご覧になった方もいらっしゃるでしょう。あの入道が事件にあい、世にあきれるようなことが起こってからは、内宴もわずか二年ほどで、行われないことになってしまったのです。そのことのとがでしょうか。やはりあってほしい行事なのですが、一つには準備する人もいなくて、長く絶えていたことを行われて、世の騒ぎも起こったので、時世に合わないこととして、行われないのでしょうか。春の初めに詩を作って、公卿から下の者まで奉ることは、聖代にはぜひあるべきことです。そういうことがあれば、やはりすばらしいことでしょう。
二月二十四日に后がお立ちになりました。鳥羽院の姫宮で高松院が、東宮の御時から女御でいらっしゃいましたが、中宮にお立ちになって、もとの中宮は院(後白河)の后で公能右大臣の御娘(忻子)でしたが、皇后宮にお上りになります。この年に大嘗会があると聞きました。(後白河院の)お方々でお仕えしていた方々も、皆退出なさいました。この御時はまだお方々もいらっしゃらない時なので、帝は清涼殿だけにいつものようにいらっしゃって、藤壺には中宮がいらっしゃいました。殿(忠通)の御宿直所は、やはり宣耀殿です。どこも広々として、たいそうめでたく聞こえましたのに、その年の十二月に、あきれるような乱れが都の中に起こったので、世も変わってしまったようで、少納言の大徳(信西)も亡くなり、めでたく聞こえた公卿や近衛の次将などと聞こえた子どもたちも、ある者は流され、ある者は法師になりなどして、まことにあきれるころでした。信頼の右衛門督と申した人は、あの大徳と仲が悪くて、このようなあきれたことを起こしたのでした。(院の)ご寵愛の人で、どんな官職にもなろうと思っていたのに、入道が諫めるのを不快に思って兵を起こしたのを、大徳は察知して行方知れずになったのですが(ついに殺され)、あの右衛門督(信頼)も、その報いで、思いもかけない屍となってしまいました。まことにあきれたとも、言葉も及ばないことでありましょう。
意訳
二条天皇は後白河院の第一皇子で、母は源有仁の養女懿子(実は藤原経実の娘)。美福門院に養われ、仁和寺で育った(第26章)。保元三年(1158)に十六歳で即位した。
翌年正月の内宴は、信西が日ごろから舞姫に稽古をさせていた本格的な女舞で行われた。語り手が「ゆかしく見ばや」と思いながら、老いのために見に行けなかったと語る一節は、語り手の老女の存在を思い出させる。内宴は信西の死によって二年で絶え、語り手はその再興を願っている。章題の「をとめの姿」は舞姫の姿による。
平治元年(1159)十二月、後白河院の寵臣藤原信頼が源義朝と結んで挙兵し、信西を殺した(平治の乱)。しかし平清盛に敗れ、信頼も斬られた。語り手は乱の経過には立ち入らず、信頼と信西の確執、二人の非業の死を「詞も及ばぬ事」と短く記している。
語釈・文法注
- 二條のみかど
- 第七十八代二条天皇(1143〜1165)。名は守仁。
- 新院
- 六条院(1164〜1176)。二条天皇の皇子で、二歳で即位し、五歳で譲位した。今鏡成立時には幼い上皇だった。
- 其の御母
- 藤原懿子(1116〜1143)。藤原経実の娘で、源有仁の養女。二条天皇を産んで亡くなった。
- 經實の大納言
- 藤原経実(1068〜1131)。
- 永範
- 藤原永範(1102〜1180)。文章博士。
- 花ノ下ニ歌舞を催す
- 内宴の詩題。
- 高松院
- 姝子内親王。第21章参照。
- もとの中宮
- 藤原忻子。後白河天皇の中宮。
- あさましき亂れ
- 平治の乱(1159)。
- 信賴の右衞門ノ督
- 藤原信頼(1133〜1159)。後白河院の寵臣。平治の乱を起こし、敗れて斬られた。
- みかきもり
- 御垣守。宮中を守る衛士。ここでは右衛門督信頼をさす。
文法
- 時におはぬ事
- 「時にあはぬ事」の誤植か。時世に合わないこと。
- 御覽ぜさせ給ひけんかし
- 「かし」は念を押す終助詞。きっとご覧になったことでしょうよ。
- ゆかしく見ばや
- 「ばや」は願望。見たいものだ。
解説
二条天皇は父後白河院と対立し、親政を志した天皇として知られる。今鏡は次章以降でその賢明さをたたえるが、この章ではまず、即位直後の内宴と平治の乱を語る。
「老いのくちをしき事は、心にもえまかせ侍らで」という語り手の言葉は、百五十歳を超える老女という設定を、ふと思い出させる巧みな一節である。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、119〜121頁(コマ74–75)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日