今鏡 第三「すべらぎの下」 第23章
内宴
後白河天皇は百年あまり絶えていた内宴や相撲の節会を復興した。それを支えたのは、学識豊かな少納言藤原通憲(信西)で、その妻紀伊二位は天皇の乳母として重んじられた。天皇は在位三年で譲位し、上皇として千手観音堂(蓮華王院)を建て、熊野詣でを重ねた。
- 1かくてかくてかくて年年としもかはりぬればもかはりぬればもかわりぬれば、、、朝覲朝覲ちょうきんののの行幸行幸ぎょうこう、、、美福門院美福門院びふくもんいんにせさせにせさせにせさせ給給たまふふう。。。誠誠まことののの御子御子みこにおはしまさねどもにおはしまさねどもにおわしまさねども、、、近衞近衞こんえのみかどおはしまさぬのみかどおはしまさぬのみかどおわしまさぬ世世よにもにもにも、、、國母國母こくもになぞらへられておはしますになぞらへられておはしますになぞらえられておわします。。。
- 2いとかしこきいとかしこきいとかしこき御榮御榮おおんさかえなりえなりえなり。。。又又また東宮東宮とうぐう行啓行啓ぎょうけいありてありてありて、、、姫宮姫宮ひめみやののの御母御母おおんははとてとてとて、、、拜拜はいししし奉奉たてまつりりり給給たまふふう。。。このこのこの姫宮姫宮ひめみやととと申申もうすすすははは、、、八條八條はちじょうノノノ院院いんととと申申もうすなるべしすなるべしすなるべし。。。おこなはせおこなはせおこなわせ給給たまふふう。。。
- 3もゝとせあまりもゝとせあまりももとせあまり絕絕たえたるえたるえたる事事ことををを行行おこなはせはせわせ給給たまふふう、、、よにめでたしよにめでたしよにめでたし。。。題題だいはははとかやぞきこえとかやぞきこえとかやぞきこえ侍侍はべりしりしりし。。。關白殿關白殿かんぱくどのなどなどなど、、、上達部七人上達部七人かんだちめしちにん、、、詩詩しつくりてつくりてつくりて參參まいりりり給給たまへりへりえり。。。
- 4靑色靑色あおいろののの衣衣ころも、、、春春はるののの御御おんあそびにあひてあそびにあひてあそびにあいて、、、珍珍めずらかなるらかなるらかなる色色いろなるべしなるべしなるべし。。。舞姫十人舞姫十人まいひめじゅうにん、、、にてにてにて、、、袖袖そでふるふるふる氣色氣色けしき、、、からのからのからの女女おんなををを見見みるこゝちなりるこゝちなりるここちなり。。。ことしことしことしはははにににはははかにてかにてかにて、、、誠誠まことののの女女おんなはははかなかなかなはははねばねばねば、、、童童わらわをぞをぞをぞ、、、仁和寺仁和寺にんなじののの法法ほう親王親王しんのう奉奉たてまつりりり給給たまひけるひけるいける。。。
- 5ふみふみふみをばをばをば仁壽殿仁壽殿じじゅうでんにてぞにてぞにてぞ講講こうぜられけるぜられけるぜられける。。。といひてといひてといいて、、、吹吹ふきたえたるきたえたるきたえたる笛笛ふえ、、、此此このたびのたびのたび始始はじめてめてめて吹吹ふきいだしたりときいだしたりときいだしたりと、、、うけうけうけ給給たまはははりしこそりしこそりしこそ、、、いとめづらしきいとめづらしきいとめずらしき事事ことなれなれなれ。。。
- 6七月七月しちがつ節行節行せちおこなはせはせわせ給給たまふふう。。。これもこれもこれも久久ひさしくしくしく絕絕たえてえてえて、、、年年としごろごろごろ行行おこなはれぬはれぬわれぬ事事ことなりなりなり。。。十七十七じゅうしち番番ばんなんなんなん有有ありけるりけるりける。。。ふるきふるきふるき事事ことどものどものどもの、、、あらまほしきあらまほしきあらまほしきををを、、、かくかくかく行行おこなはせはせわせ給給たまふふう。。。
- 7ありがたきありがたきありがたき事事ことなりなりなり。。。且且かつははは君君きみののの御御おんすぐせもかしこくおはしますすぐせもかしこくおはしますすぐせもかしこくおわします上上うえににに、、、通憲通憲みちのりといひしといひしといいし人人ひと、、、後後のちははは法師法師ほうしになりたりしがになりたりしがになりたりしが、、、鳥羽鳥羽とばノノノ院院いんにもにもにも朝夕朝夕あさゆう仕仕つこうまつりうまつりうまつり、、、このこのこの御時御時おおんときにににははは、、、ひとへにひとへにひとえに世世よののの中中なかをををとりおこなひてとりおこなひてとりおこないて、、、古古ふるきあときあときあとをもをもをも起起おこししし、、、新新あたらしきしきしき政事政事まつりごとをもをもをも速速すみやかににに計計はからひらひらい行行おこなひけるとぞきゝひけるとぞきゝいけるとぞきき侍侍はべるるる。。。
- 8此此このみかどのみかどのみかど、、、御御おんめのとめのとめのとははは修理修理すりのかみのかみのかみ基隆基隆もとたかのむすめのむすめのむすめ、、、大藏卿大藏卿おおくらきょう師隆師隆もろたかのむすめなどのむすめなどのむすめなど、、、二三人二三人にさんにんおはしけれどおはしけれどおわしけれど、、、あるあるあるはははまかりまかりまかり出出いででで、、、あるあるあるはははかくれなどしてかくれなどしてかくれなどして、、、ののの御御おんとてとてとて、、、御乳御乳おおんちののの人人ひとととと聞聞きこえしがをとこにてこえしがをとこにてこえしがおとこにて、、、かのかのかの少納言少納言しょうなごん通憲通憲みちのりののの子子こあまたあまたあまた生生うみなどしてみなどしてみなどして、、、今今いまははは御御おんめのとにてめのとにてめのとにて、、、ののの使使つかいなどなどなど、、、せられければせられければせられければ、、、並並ならぶぶぶ人人ひともなきにこそもなきにこそもなきにこそ。。。
- 9すべらぎのすべらぎのすべらぎの千代千代ちよのみかげにかくれずのみかげにかくれずのみかげにかくれずはははけふけふきょう住吉住吉すみのえののの松松まつををを見見みましやましやましや
- 10などよまれなどよまれなどよまれはべりけるとはべりけるとはべりけると聞聞きこえこえこえ侍侍はべりしりしりし。。。誠誠まことにににかひ〴〵しきかひ〴〵しきかいがいしき人人ひとにおはすべしにおはすべしにおわすべし。。。かのかのかの少納言少納言しょうなごん、、、からのからのからの文文ふみをもをもをも博博はかくくく學學まなびびび、、、やまとやまとやまと心心こころもかしこかりけるにやもかしこかりけるにやもかしこかりけるにや。。。
- 11などいふなどいふなどいう事事ことをををさへさへさへ習習ならひてひていて、、、才才さいあるあるある人人ひとになんになんになん侍侍はべりけるりけるりける。。。よはひさまでよはひさまでよわいさまで古古ふるききき人人ひとにてもにてもにても侍侍はべらざりしにらざりしにらざりしに、、、今今いまののの世世よにもにもにも、、、いかにめでたくいかにめでたくいかにめでたく侍侍はべらましらましらまし。。。
- 12御御おんめのとめのとめのとははは、、、代々代々よよもなきにもなきにもなきにはははあらぬあらぬあらぬををを、、、近衞近衞こんえのすけなどのすけなどのすけなど、、、かりそめにもあらでかりそめにもあらでかりそめにもあらで、、、四位四位しいののの少將少將しょうしょう中將中將ちゅうじょうなるになるになるに、、、さま〴〵のさま〴〵のさまざまの國國くにののの司司つかさなどかけてなどかけてなどかけて、、、あまりにあまりにあまりに侍侍はべりけるにやりけるにやりけるにや。。。
- 13羽羽はあるものあるものあるものははは前前さきののの足足あしなくなくなく、、、角角つのあるあるある物物ものははは、、、かみのかみのかみの齒齒はなきなきなき事事ことにてにてにて侍侍はべるるるををを、、、さしてさしてさして道道みちののの人人ひとならぬならぬならぬ、、、天文天文てんもんなどのおそれあるなどのおそれあるなどのおそれある事事ことにやにやにや。。。よろづめでたくよろづめでたくよろずめでたく侍侍はべりしにりしにりしに、、、惜惜おしくもしくもしくも侍侍はべるかなるかなるかな。。。
- 14かくてかくてかくて保保ほう元元げん三年三年さんねん八月八月はちがつ十六日十六日じゅうろくにちくらゐくらゐくらい東宮東宮とうぐうにゆづりにゆづりにゆずり申申もうさせさせさせ給給たまふふう。。。位位くらいにおはしますにおはしますにおわします事事こと三年三年さんねんなりきなりきなりき。。。おりゐのみかどにておりゐのみかどにておりいのみかどにて、、、御心御心みこころのまゝにのまゝにのままに世世よをををまつりごたんとまつりごたんとまつりごたんと、、、おもほしめすなるべしおもほしめすなるべしおもおしめすなるべし。。。
- 15さき〴〵のみかどさき〴〵のみかどさきざきのみかど位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たまひひい院院いんなどなどなど申申もうせどもせどもせども、、、わがまゝにせさせわがまゝにせさせわがままにせさせ給給たまふふう事事ことははは有有ありがたきにりがたきにりがたきに、、、並並ならぶぶぶ人人ひともおはしまさずもおはしまさずもおわしまさず。。。八卷八卷やまきのみのりのみのりのみのりをををうかべさせうかべさせうかべさせ給給たまひてひていて、、、さま〴〵さま〴〵さまざま勤勤つとめめめ行行おこなはせはせわせ給給たまふなればふなればうなれば、、、昔昔むかしののの契契ちぎりにおはしますなるべしりにおはしますなるべしりにおわしますなるべし。。。
- 16ののの千手千手せんじゅ觀音觀音かんのんののの御堂御堂みどうたてさせたてさせたてさせ給給たまひてひていて、、、などなどなど、、、いきていきていきてはははたらかすといふばかりこそたらかすといふばかりこそたらかすというばかりこそははは侍侍はべるなれるなれるなれ。。。鳥羽鳥羽とばノノノ院院いんののの千體千體せんたいののの觀音觀音かんのんだにこそだにこそだにこそ、、、ありがたくありがたくありがたく聞聞きこえこえこえ侍侍はべりしにりしにりしに、、、千手千手せんじゅののの御堂御堂みどうこそこそこそ、、、おぼろげのおぼろげのおぼろげの事事ことともともとも聞聞きこえこえこえ侍侍はべらねらねらね。。。
- 17をををさへさへさへうつしてうつしてうつして、、、都都みやこにつくらせにつくらせにつくらせ給給たまへらんこそへらんこそえらんこそ。。。遠遠とおくくく參參まいらぬらぬらぬ人人ひとのためものためものためも、、、いかにめづらしくいかにめづらしくいかにめずらしく侍侍はべらんらんらん。。。比叡比叡ひえなどにもなどにもなどにも、、、いはひすゑたてまつらせいはひすゑたてまつらせいわいすえたてまつらせ給給たまへらんへらんえらん神神かみ、、、佛佛ほとけののの御事御事おおんこと、、、かた〴〵かた〴〵かたがた興興おこしたてまつらせしたてまつらせしたてまつらせ給給たまへるへるえる、、、かしこきかしこきかしこき御志御志おおんこころざしなるべしなるべしなるべし。。。
- 18みくまみくまみくま野野のまうでまうでもうで、、、年每年每としごとにせさせにせさせにせさせ給給たまひひい、、、ひえのひえのひえの山山やま、、、高野高野こうやなどきこえなどきこえなどきこえ侍侍はべりりり。。。然然しかるべきるべきるべき御御おんちぎりなるべしちぎりなるべしちぎりなるべし。。。今今いまははは御御おんぐしおろしてぐしおろしてぐしおろして、、、法皇法皇ほうおうととと申申もうすなればすなればすなれば、、、いかばかりいかばかりいかばかり尊尊とうとくおはしますらんくおはしますらんくおわしますらん。。。
- 19御子御子みこたちもたちもたちも、、、おのおのおのおのおのおの道道みちにとりてにとりてにとりて、、、ざえおはしますざえおはしますざえおわします事事こと、、、きこえさせきこえさせきこえさせ給給たまへるこそへるこそえるこそ、、、誰誰たれもれもれも知知しらせらせらせ給給たまへることなればへることなればえることなれば、、、何何なにとかとかとかははは、、、さのみさのみさのみ申申もうししし侍侍はべるべきなるべきなるべきな。。。されどもされどもされども事事ことのつゞきのつゞきのつづきををを申申もうししし侍侍はべりつるなりりつるなりりつるなり。。。
現代語訳
こうして年も改まったので、朝覲の行幸を美福門院になさいます。本当の御子ではいらっしゃらないけれども、近衛天皇のいらっしゃらない世でも、国母になぞらえられていらっしゃいます。まことに尊いお栄えです。また東宮の行啓があって、姫宮の御母として拝礼なさいます。この姫宮と申すのは、八条院と申し上げる方でしょう。二十日に内宴を行われます。百年あまり絶えていたことを行われるのは、まことにめでたいことです。題は「春は聖化の中に生ず」とか聞きました。関白殿など公卿七人が詩を作って参られました。青色の袍は、春のお遊びにふさわしく、珍しい色であったでしょう。舞姫十人が綾綺殿で袖をひるがえす様子は、唐の女を見るような心地です。今年は急なことで、本当の女は間に合わなかったので、童を仁和寺の法親王(覚性)が差し出されました。詩は仁寿殿で披講されました。尺八といって、吹き絶えていた笛を、このたび初めて吹き出したと承ったのは、たいそう珍しいことです。七月には相撲の節会を行われます。これも長く絶えて、何年も行われなかったことです。十七番あったそうです。古い行事で、あってほしいものを、こうして行われるのは、めったにないことです。一つには、君のご宿運もすぐれていらっしゃる上に、少納言通憲という人で、後に法師になった人が、鳥羽院にも朝夕お仕えし、この御時にはもっぱら世の中を取り仕切って、古い伝統をも起こし、新しい政治をも速やかに計らい行ったと聞いております。
この帝の御乳母は、修理大夫基隆の娘、大蔵卿師隆の娘など二、三人いらっしゃったけれども、ある者は退出し、ある者は亡くなりなどして、紀伊の御といって、御乳の人と申した人が、あの少納言通憲を夫として、子を大勢産みなどして、今は御乳母として、八十島の使なども務められたので、並ぶ人もないのです。
すべらぎの千代のみかげにかくれずはけふ住吉の松を見ましや
などとお詠みになったと聞きました。まことに甲斐甲斐しい方でいらっしゃるのでしょう。あの少納言は、漢籍も広く学び、日本の実務の才もすぐれていたのでしょうか。天文などということまで習って、才能のある人でした。年齢もそれほど年寄りではなかったので、今の世にもいたら、どんなにかすばらしいことでしたでしょう。御乳母は代々いないわけではないけれども、(その子どもが)近衛の次将なども、ほんの一時ではなく、四位の少将・中将になる上に、さまざまの国司なども兼ねて、度が過ぎたのでしょうか。羽のあるものは前足がなく、角のあるものは上の歯がないというもので(すべてを兼ね備えることはできない)、それほどの専門家でもないのに、天文などの恐れ多いことに手を出したからでしょうか。何事もすばらしかったのに、惜しいことでございます。
こうして保元三年八月十六日(史実では十一日)、位を東宮にお譲りになります。位にいらっしゃったのは三年でした。退位した帝として、お心のままに世を治めようとお思いになるのでしょう。これまでの帝も位につかれ、院などと申し上げても、わがままにおできになることはめったにないのに、(この院は)並ぶ人もいらっしゃいません。法華経八巻をそらんじられて、さまざまに勤行をなさるので、前世からのご宿縁でいらっしゃるのでしょう。千体の千手観音の御堂を建てさせて、天竜八部衆なども、生きて動いているかと思うほどだそうです。鳥羽院の千体の観音でさえめったにないことと聞いておりましたのに、千手の御堂は並一通りのことではありません。熊野までも都に移してお造りになったのは、遠くまで参れない人のためにも、どんなに珍しいことでしょう。比叡などにも祀り据えられた神や仏のことを、いろいろとお興しになったのも、尊いお志でありましょう。熊野詣でを毎年なさり、比叡山・高野などにもと聞いております。しかるべきご宿縁でありましょう。今は出家して法皇と申し上げるので、どれほど尊くていらっしゃることでしょう。御子たちもそれぞれの道で才能がおありになることは、どなたもご存じのことですから、何もそうまで申し上げることもありますまい。けれども話の続きを申し上げたのです。
意訳
保元三年(1158)正月、百年以上途絶えていた内宴が復活し、同年七月には相撲の節会も再興された。章題の「内宴」はここによる。こうした古儀の復興を主導したのが信西(藤原通憲)で、語り手は「からの文をも博く学び、やまと心もかしこかりける」とその学識と実務の才を高く評価している。
一方で語り手は、信西の子たちが近衛次将や国司を兼ねて栄えすぎたこと、専門外の天文にまで手を出したことに、のちの破滅の原因を見ている。「羽あるものは前の足なく、角ある物は上の歯なき」という言葉は、一人がすべてを兼ね備えることはできない、という戒めである。
後白河天皇は在位三年で二条天皇に譲位し、上皇として院政を開始した。蓮華王院(三十三間堂)の千体千手観音や、新熊野社の勧請、たび重なる熊野詣でなど、深い信仰心がたたえられる。
語釈・文法注
- 內宴
- 正月二十日ごろ、仁寿殿で天皇が近臣を集めて詩を作らせ、舞姫の舞を見る宴。長元七年(1034)以来途絶えていた。
- 春生聖化中
- 「春は聖化(天子の徳化)の中に生ず」。
- 綾綺殿
- 内裏の殿舎の一つ。仁寿殿の東。
- 尺八
- 古代の尺八。雅楽で用いられたが、平安中期以降すたれていた。
- すまうの節
- 相撲節会。七月に諸国から集めた相撲人の取組を天皇が見る行事。
- 少納言通憲
- 藤原通憲(1106〜1160)。出家して信西。後白河天皇の乳母の夫として保元の乱後の政治を主導した。平治の乱で殺された。
- 紀の御
- 藤原朝子(?〜1166)。後白河天皇の乳母。信西の妻。紀伊二位と呼ばれた。
- 八十島の使
- 天皇即位の翌年、摂津の難波で大八洲の霊を祀る八十島祭に遣わされる使。天皇の乳母が務めた。
- 天文
- 天文道。天体の運行から吉凶を占う学問。陰陽寮の専門家の領域。
- 千體の千手觀音の御堂
- 蓮華王院(三十三間堂)。長寛二年(1164)に平清盛の協力で建立された。
- 天龍八部衆
- 仏法を守護する八種の神々。天・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽。
- 熊野をさへうつして
- 新熊野社。後白河院が紀伊の熊野三山を京の東山に勧請した。
文法
- 見ましや
- 反実仮想「ずは…まし」。御威光に隠れなかったら、今日住吉の松を見ることがあっただろうか。
- 侍らまし
- 反実仮想。今の世にいたら、どんなにすばらしかっただろうに。
- 申し侍るべきな
- 「な」は詠嘆の終助詞。
和歌
すべらぎの千代のみかげにかくれずはけふ住吉の松を見ましや
- 詠者
- 紀伊二位(藤原朝子)
- 状況
- 後白河天皇の乳母として八十島の使を務め、住吉の松を見たときの歌。
修辞
- 反実仮想
- 「ずは…ましや」。天皇の御威光の陰に身を置かなかったら、今日住吉の松を見ることはなかっただろう。
- 縁語
- 「千代」「松」は長寿の縁語。
解説
信西は保元の乱後、後白河天皇の側近として大内裏の再建、記録所の設置、内宴・相撲節会の復興などを次々に実現した。今鏡が信西を高く評価するのは、王朝の古儀を愛する語り手の価値観とよく合っている。
信西は平治元年(1159)、藤原信頼・源義朝らの挙兵(平治の乱)によって殺された。語り手は次の章でその最期に触れ、「いとあさましとも詞も及ばぬ事」と嘆いている。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、114〜118頁(コマ72–74)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日